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  石 川 橋
  (いしかわばし)     架橋河川:石川    《 主要地方道 府道12号・堺大和高田線 》
 大阪府藤井寺市国府
(こう)丁目 (橋の中央部から東は柏原市石川町)
 近鉄南大阪線・土師ノ里
(はじのさと)駅より南東へ約630m 徒歩約10(石川橋西詰まで)
 近鉄南大阪線及び道明寺線・道明寺
(どうみょうじ)駅より北へ320m 徒歩約(石川橋西詰まで)
   土師ノ里駅−石川橋間の府道12号沿いにコインP有り 道明寺駅前にもコインP有り
(台数少)
 長さ《
145.2m 》  幅員《 16(概測 含歩道) 》  橋脚《 4基 》  径間数《 5 》
 竣工
1955(昭和30)年3月   架橋 1873(明治6)年    管理 大阪府富田林土木事務所
@ 藤井寺市と柏原市の境に架かる石川橋(西より)
@ 藤井寺市と柏原市の境に架かる石川橋(西より)      2016(平成28)年12月
       左側車線の部分は、新しい橋脚と橋桁が北側に増設されている。右側の歩道も梁部に鉄鋼梁を
      増設して設置された。                       合成パノラマ
A 上流側から見た石川橋(南より)
A 上流側から見た石川橋(南より)                    2022(令和4)年4月
    春の石川河川敷にはセイヨウカラシナが繁茂し、菜の花でにぎわう。後方は生駒山地
   南部の山々。手前側河川敷に見える細い直線道路は、府道802号
八尾河内長野自転車道
   線(南河内サイクルライン)。
長尾街道が越える橋                                 アイコン・指さしマーク「藤井寺市の交通マップ」
 石川橋は文字通り「石川」に架かる橋ですが、まるで石川の橋を代表しているような名前です。石川に架かる橋の中では最も下流に在る
橋です。石川は、石川橋の北方
、約900m下流のところで大和川に合流します。石川は、北東側に隣接する柏原市との東の境界になってお
り、石川橋も中央が境界となっています。現在藤井寺市内には大和川・石川に架かる橋が6ヵ所
(高速道路を除く)ありますがその中でも
石川橋は早い時期の明治6年に架橋されています。                      アイコン・指さしマーク「石川−藤井寺市の川と池」
 大阪府の中央部よりやや南側で、奈良県に通じている東西向きの幹線道路として利用の多いのが、主要地方道の府道
12号・堺大和高田線
です。この府道が石川を越える場所が「石川橋」です。堺市から東へほぼまっすぐ通り、藤井寺市を東西に通り抜けて柏原市に入り、そう
して奈良県に入って行きます。堺大和高田線は、奈良県内でも「県道
12号」に制定されています。
 この府道堺大和高田線は、堺−当麻
(現葛城市)をつなぐ「長尾街道」のバイパス道路として造られました。それまで、長尾街道の大阪府
内部分は「国分
(こくぶ現柏原市)堺線」として府道に制定されていて、東西幹線として利用されていました。その長尾街道が現在の石川橋付
近を渡河していました。もっとも、明治の世になるまでは橋は無く、普通は渡し船が利用されたものと思われます。長尾街道の基だったと
言われる古代の官道「大津道」は、もっと北の方で東に直進していたそうなので、古代に石川を渡河していたのはもっと北の位置であった
と推定されます。そして、石川を渡った所で北から南下して来る東高野街道と交わっていたようです。 アイコン・指さしマーク「藤井寺市の昔の街道」
 現在の石川橋は府道堺大和高田線の開通に備えて1955年(昭和30年)3月にできていますが、堺大和高田線の藤井寺市域での全通は1958(昭
和33)年10月です。写真@が石川橋を西から見た最近の様子ですが、1955年の完成当初よりは幅員がかなり広くなってい
ます。この路線は東
西道路が少ない中で利用度が高く、橋の西詰め・東詰めの交差点もあって朝夕の混雑が多いため、後に拡幅増設工事が行われて現在の姿に
なっています。1984(昭和59)年、北側に新たに橋脚・橋桁を設置して東行き車線用の橋を設け、従来の2車線は西行き専用として右折レー
ンが設けられました。右折レーンは橋の東端にも設けられています。どちらの交差点も右折方向の堤防道路の利用が多く、堺大和高田線渋
滞の大きな原因ともなっていました。北側新橋の増設に先立って、南側には柵で仕切った専用歩道が設置されました。橋桁を拡幅するため
に橋脚上部に鉄鋼製の張り出し梁部を増設して歩道橋が架けられています。写真Cで、その橋脚や橋桁の様子を見ることができます。
 歩道の増設と北側新橋の増設を行った結果、石川橋全体の幅員がずいぶんと広くなりました。写真Bが現在の石川橋の様子ですが、両岸
の堺大和高田線よりもかなり広い幅であることがわかります。架橋直後の時期である下の写真Eと比べると、ほぼ2倍の幅
になっています。
B 真上から見た石川橋 C 橋脚が増設された石川橋(南西より)
B 真上から見た石川橋  〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より
  橋の幅員は、両岸に続く府道12号よりも広い。増設・拡幅された。
  一部加工
C 橋脚が増設された石川橋(南西より) 2011(平成23)年3月
       南側は鉄鋼製の梁を増設して歩道が設置された。
明治時代の石川橋
 1876年(明治9年)に河内国志紀郡国府村が作成した史料が『藤井寺市史 第9巻 史料編七』に掲載されています。「明治九年十一月 橋梁
井堰樋管堤防明細帳 河内国志紀郡国府村」という表書きで、その中に橋梁について次のような記載があります。
 『
奈良街道筋 一 石川架橋 木 渡八十六間・巾弐間・高弐間 壱ヶ所 官費民費ヲ以架之』となっています。長尾街道は明治の中頃
までは「奈良街道」や「大和街道」と呼ばれていました。記載内容は、『奈良街道筋には石川に架けられた橋あり。木製で、長さ
86(約
156m)
幅2間
(約3.6m)高さ2間のものが1カ所あり。官費と民費とでこの橋を架けた。』ということです。「○○橋」という名称は出ていま
せんが、これが史料の中では最初に見られる「石川橋」です。「官費」は国や府県が支出する費用で、「民費」は当時の町村財政をまかな
うために住民が負担した費用です。今日の住民税のようなものでしょうか。
 また、市史同編には、1879(明治12)年4月に河内国第一大区弐小区
(当時の堺県が制定した行政区分)が作成した「明治十弐年第四月 奈良
街道橋梁取調書 河内国第一大区弐小区」という史料があります。志紀郡国府村の総代による記載の中に、『
河内国第壱大区弐小区 志紀郡
国府村 奈良街道 一 板橋 長・八拾六間 巾・弐間 壱ヶ所 但片山村領境中央
』とあります。明治9年「橋梁井堰樋管堤防明細帳」
と同じ橋の規模が書かれていますが、「但片山村領境中央」は「但し、片山村領との境が中央にあ
り。」というもので、当時から橋の中央、
つまり川の真ん中が村の境界であったことがわかります。片山村は国府村の対岸の村で、後に合併して現在は柏原市域です。この史料でも
「○○橋」という名称はありませんが、数年後に製作された参謀本部「明治18年測量仮製地形図」では「石川橋」の名前が載っています。
 さらに、市史同編に載っている史料には「明治廿四年大阪府石川・錦部・八上・古市・安宿部・丹南・志紀郡役所統計書」があります。
1891(明治24)年の統計ですが、「第十二 橋梁」の表に『
石川橋 石川 志紀郡道明寺村大字国府 木造 延長四八〇尺 幅員一三尺八寸』と
あります。ここでは「石川橋」と明記されています。長さ
480
(80間 約145m)、幅13尺8(約4.2m)で、明治9年・12年の記録よりも短
くて幅の広い橋になっています。長さが
11mも短くなっているのは疑問ですが、堤防が補強されて一回り大きくなったことで、橋の部分は
短くなっていたのかも知れません。明治期以降、戦後に至るまでの石川橋のことを伝える史料は見当たりませんでした。
空中写真に見る石川橋の変化の様子
 戦後の石川橋の様子をたどると、日本社会の高度経済成長と自動車社会化の歩みとともに、石川橋もまた変化してきたことが見て取れま
す。写真Dは、敗戦から3年後の昭和23年9月に撮影されたものです。当時の駐留米軍が数年に渡って撮影してい
ました。当時は多くが農地
で田畑は黒っぽく写り、道路は未舗装で土だったので白っぽく写っています。長尾街道の道筋がはっきりとわかります。この街道は、既述
の通り府道国分堺線として利用度の高い道路でした。自動車道路としてより利用しやすくするために拡幅が望まれましたが、昔からの集落
の中を通る場所が多く、既存道路を全線に渡って拡幅することは困難でした。そこで、長尾街道に並行するバイパス道路の建設が計画され
ました。それが現在の「府道堺大和高田線」です。後に府道の番号表示制が導入され、現在「
12号」に制定されています。
 長尾街道や石川橋を見ると、現在の府道や石川橋よりもかなり細いものであったことがわかります。長尾街道は現在もほぼ昔のままで存
在しているので、昔の街道の規模を実感することができます。
 写真Eは、写真Dの
13年後の様子です。その間に府道堺大和高田線が開通し、石川橋も新しい橋に架け替えられました。その経過は既述
の通りです。赤線で示していますが、長尾街道は旧石川橋が無くなったことにより断ち切られたようになりました。新しい府道堺大和高田
線が、長尾街道の2倍ほどの幅であることもわかります。また、堤防道路も整備されている様子が見られます。石川橋東詰から南へ向かう
堤防道路が真っ直ぐな道路に改修されています。西詰めから南へ向かう藤井寺市域
(当時美陵町)側の堤防道路も改修されています。
D 戦後間もなくの頃 E 新しい石川橋
D 戦後間もなくの頃           文字入れ等一部加工
        〔米軍撮影 1948(昭和23)年9月1日 国土地理院
〕より
E 新しい石川橋   〔国土地理院 1961(昭和36)年5月30日〕より
                      文字入れ等一部加工
 架け替えられて広くなった石川橋でしたが、昭和40年代からは社会の急速な自動車利用の拡大により、府道堺大和高田線全体が段々と渋
滞気味になって行きました。既述の通り、石川橋の東西の両橋詰めでは右折車による渋滞がひどくなり、堺大和高田線の中でも大きなネッ
クとなっていました。これを解消すべく、石川橋の拡幅改修工事が行われました。石川橋の北側に新たに橋脚を建てて、東行き車線用の増
設を行うという工事が1984(昭和59)年に施工されました。写真Fは、ちょうどその時期に撮影されたもので、新しい橋脚が石川橋の北側に
沿って並んでいるのが見えます。この後橋桁が載せられて道路舗装が行われたと思いますが、完成した様子を翌年の1985(昭和60)年撮影の
写真Gで見ることができます。写真Eと比べると、橋の幅が広くなっていることが一目瞭然です。石川橋は、橋脚増設の前に歩道新設のた
めに、南側の梁部を拡張増設する工事も行っています。その結果、橋の全幅員は以前の倍ほどにも広がりました。
F 拡幅される石川橋 G 広くなった河内橋
F 拡幅される石川橋  〔国土地理院 1984(昭和59)年6月7日〕より
                      文字入れ等一部加工
G 広くなった石川橋  〔国土地理院 1985(昭和60)年10月8日〕より
                     文字入れ等一部加工

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