| ◆◆◆ 長 尾 街 道 ◆◆◆ | ||
| 古代の官道がもとに 現在の藤井寺市域には、古代からの重要な 街道が2本通っていました。市の中央部を東 西に通り抜けるのが長尾街道です。 長尾街道は旧国府(こう)村内で東高野街道と 交叉しています。旧国府村はその名の通り、 古代律令時代に河内国府が置かれていた場所 だと推定されている地域です。 長尾街道は古代の官道で、堺からまっすぐ 東に延びていた大津道(おおつみち)がもとになって いると言われています。大津道は難波(なにわ)と 大和の都を結ぶ官道として、飛鳥時代に国家 によって造られました。その当初のルートに ついては諸説あって、未だに確定できていま せん。今のところは、“謎の官道”と言った ところでしょうか。 図@で示している道筋が一般によく紹介さ れている長尾街道のルートです。この道筋は 市野山古墳の北側で河内国府のそばを通り、 さらにもう少し西では拝志(はやし)廃寺のそばも 通るものです。しかし、これだと寺院等の北 側つまり裏側を通ることになるので、もう2 |
@ 藤井寺市域と長尾街道・東高野街道・竹内街道の様子 | |
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| ※ ○の地名は旧村名で、現在も地区名として存在する。他の街道との交叉地点であった。 ※ 市町村名及び境界はすべて現在のもの。 |
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| 町ほど南の市野山古墳の外堤付近を通る道筋ではなかったかと推測する説もあります。いずれにしても、大津道は東に進んで大和川を渡り、 大和川の東岸で南下してきた東高野街道とつながった考えられています。さらに、大和川の北側に沿って北東に進む竜田道(たつたみち)にも接 続し、平城京(現奈良市)へもつながっていました。 |
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| A 現在の長尾街道と府道12号堺大和高田線 〔GoogleEarth 2023(令和5)年5月10日〕より 文字入れ等一部加工 |
| 写真Aに緑の透明線で示したのが、現在の藤井寺市域を通る長尾街道のルートです。羽曳野市域から藤井寺市内に入ってしばらく進むと 直角に南に折れて行きます。この部分は古くには古市街道または大坂道と呼ばれていた街道と重なっています。この通りは南の方で近鉄線 を横切りますが、踏切の南北には商店街が続いています。府道12号堺大和高田線を越えて南下すると商店街の途中で向きを変え、再び東へ まっすぐ進みます。市役所の南側を通り、府道186号大阪羽曳野線を越えると藤井寺中学校の前を進んで行きます。やがて西名阪自動車道 の高架下に至りますが、ここで長尾街道は一旦途切れます。西名阪自動車道の藤井寺インターチェンジが造られた時、長尾街道の一部分が 取り込まれてしまいました。なお、2度交叉した府道12号堺大和高田線は、長尾街道のバイパス線として建設された路線で、堺市から奈良 県へと府県をまたいで続いており、古代の長尾街道と同様に重要な役割を担っています。 インターチェンジの東側から第三中学校と市立図書館の南側に接して進むと、今度は国道170号(大阪外環状線)によって再び途切れます。 国道は中央分離帯もありこの部分では横断はできません。国道の東側から石川の堤防下までは、昔の街道を思わせるような道が続いていま すが、一部では幅員が狭いために一方通行になっている場所もあります。国府台地の東端付近では東高野街道と交叉します。古代からの主 要街道どうしの交差点ですが、この地域が古くからの交通の要衝であったことを示しています。この藤井寺市域の長尾街道の道筋は、石川 の西岸堤防に沿って通る近鉄・道明寺線に到達した所で終了します。写真と共にもう少し詳しく様子を見てみましょう。 変わってきたルート 国衙(こくが)(国府の施設)の重要度が低下して衰退していく中世以後、大津道は藤井寺市域内で南側へ折れて南方に位置がずれたルートに変 わっていきます。堺からほぼ一直線に東進してきた街道は、現在の小山1丁目、藤井寺小学校の入り口の北方で南に折れ、400mほど南下 します。現在では、府道12号・堺大和高田線を横切り、藤井寺駅前北商店街に入って行き、再度東に折れて進みます。藤井寺市役所の南を 通り(BC)、西名阪自動車道藤井寺インターチェンジの入口付近で再び府道12号と交叉します。やがて市立図書館の南側、道明寺小学校 の北側(D)を通って国道旧170号に達すると、市野山古墳の後円部周濠の縁を通って(E)石川の方へと向かいます(FG)。 市野山古墳の南側を通る街道は、本来の古墳後円部内堤の上を横切って通っており、このことからも、このルートの発生が陵墓の管理体 制が崩れていく中世以降であることを示唆しています。また、ルートが南方に変化した背景として、中世以降、葛井寺や道明寺への庶民信 仰が盛んとなってきたことが指摘されています。より近くて行きやすいルートが自然に生まれていったと考えられます。 |
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| B 市役所南側に向かう (南西より) 2013年6月 正面後方が市庁舎 A |
C 市役所の南側を東へ向かう(西より) 直進すると府道12号・藤井寺I.Cと交叉し、市 立図書館前に出る。 2013(平成25)年6月 A |
D 道明寺小学校北側を進む(西より) 2018(平成30)年3月 この辺りの長尾街道は道明寺小学校敷地の北側に沿って 通っている。沢田・林両地区の境でもある。 C |
| 写真B〜Hは、長尾街道の藤井寺市内の何地点かを紹介するものです。何年も 前の撮影もあり、多少様子の変わっている所があるかも知れません。旧街道なの でもともとそんなに広くはない道ですが、特にEやGで見える道の様子は、昔か らの街道であることを実感させてくれます。これでも一応は普通車以下の通行が 可能な道路です。 Eでは、長尾街道が市野山古墳周濠の堤の上を通っている様子がよくわかりま す。本来はこんな場所に街道などは無かったはずなので、いつ頃なぜここを街道 が通ることになったのか、興味が持たれるところです。 Gで写真下部の手前に一部が写っている横向きの道が東高野街道です。昔にあ っては主要な2本の街道が交叉する地点で、道行く人にとっては重要なポイント だったはずですが、その割には建てられた道標は小さく目立ちません。「右道明 寺」の文字は長尾街道を西から進んで来た人への案内です。写真下のA〜Fは、 下の「昔の街道」地図に表示した撮影地点を示しています。 |
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| E 市野山古墳後円部の縁を進む(西より) 街道の左側がすぐに落ち込んでいて、空堀となっている ことがわかる。街道は、本来は周濠の堤の上だった所を通 っている。 2011(平成23)年6月 D |
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| F 旧国府村地区の集落内を東へ進む(西より) E 家屋のたたずまいに、古い街道筋の名残が感じられる。この 先の交差点で東高野街道と交叉する。 2011(平成23)年2月 |
G 東高野街道との交叉点(西より) 2011(平成23)年4月 中央石垣の上部に府道12号が通っている。ここから石川の 方へ下って行く。国府台地の東端部分の場所である。 F |
H交叉点の道標 「右 道明寺」 2011年2月 F |
| I 藤井寺市域周辺の昔の街道 | ||||
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| かつては府道に指定 現在は旧街道として知られる長尾街道ですが、かつてはれっきとした 大阪府道に指定されていました。バイパスとして現在の府道12号・堺大 和高田線が開通するまでは、堺市の中心部と大阪府東南部の柏原地域を 結ぶ主要道路だったのです。当時は「府道国分(こくぶ)堺線」と呼ばれてお り、府県をまたいだ「主要地方道堺大和高田線」という路線名が認定され たのは1954(昭和29)年6月のことで、現在の堺大和高田線のルートです。 写真Jは、『藤井寺市史 第2巻 通史編3 近現代』の口絵写真として 掲載されているものです。写真キャプションでは「道明寺遠望−府道堺 大和高田線−(昭和26年)」となっていますが、この時点ではまだ「堺大 和高田線」の路線名はできていません。府道とは言っても、当時は多く が未舗装でした。国道でさえ未舗装が多かった時代です。 この写真の撮影位置は、現在の堺大和高田線と長尾街道が交差する藤 |
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| J 府道だった長尾街道(西より) 1951(昭和26)年 B 『藤井寺市史 第2巻 通史編3 近現代』(藤井寺市 1998年)より 文字入れ等一部加工 |
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| 井寺I.C前付近ではないかと推測されます。地図中のB地点です。写真J左下に見える道路部分は、後に堺大和高田線となるバイパス道 路の東端部分だと思われます。長尾街道に対して少し斜めに合流していることから推察できます。このバイパス道路部分は、1946(昭和21) 年に駐留米軍が垂直撮影した写真に写っているので、戦前ないしは戦時中にはできていたものと推定されます。 余談ですが、写真左側に見える伴林氏神社(ともはやしのうじのじんじゃ)の鳥居は、現在は社殿の正面南側に立っている石鳥居です。写真の当時は、 社殿の100mほど西方に西を向いて建てられていました。撮影位置を推定する手掛かりの一つとして役立ちました。撮影位置と伴林氏神社の 位置関係は下の写真Kでわかります。 |
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| K 戦後2年目の長尾街道周辺の様子 〔1947(昭和22)年9月23日米軍撮影 国土地理院〕より 文字・記号入れ等一部加工 X〜Pの区間にバイパス道路ができており、長尾街道に接続している。ピンク色の区間が昭和30年代に開通した。 府道八尾富田林線→現・国道旧170号 府道八尾古市線→現・府道大阪羽曳野線 国分町→現・柏原市 高鷲村→現・羽曳野市 允恭(いんぎょう)天皇陵(市野山古墳) 仲津姫命(なかつひめのみこと)陵(仲津山古墳) 土師(はじ)神社→現・道明寺天満宮 |
| 写真Kは1947年の撮影ですが、道路状況は1946年と同じです。写真のX地点−小山交差点−P地点間の道路がバイパスとして造られれた 道路です。P地点が写真Jの撮影位置です。バイパス道路は長尾街道と交叉する町役場西側からP地点までの区間に造られていました。な ぜこの部分だけ先にバイパス道路が建設されたのかはよくわかりませんが、それに関する考察は別ページ「府道12号・堺大和高田線」で紹 介しています。 2説ある名前の由来 長尾街道は、現在の堺市堺区にある「方違(ほうちがい)神社」を起点として東に進むと、松原市・羽曳野市・藤井寺市・柏原市を通過して奈 良県に入り、葛城市當麻(たいま)町にある長尾神社に至る総延長約30kmの街道です。最古の官道と言われる竹内(たけのうち)街道と並んで、大阪 湾岸地域と大和を結ぶ重要な街道でした。 「長尾街道」の名称は新しく、明治25年以降から使われている(国土交通省大阪国道事務所)そうですが、名前の由来については大きく 二つの説があります。まずは、當麻町の「長尾神社」を起点と考えて、その起点の神社名が基になったとする説で、かなり以前から広まっ てきました。 今一つは、別の「長尾」の地名からとする説です。そもそも、主要部分が河内平野を東西に通る街道に、わざわざ大和の神社の名を付け るのは不自然だという考えでもあります。堺市内の長尾街道に沿った場所に、「北長尾町」「南長尾町」という地名があります。長尾街道 の名前はこの「長尾」から付けられたものではないかとする説です。さらに、この「長尾」の地名は、古代の難波(なにわ)の「住吉津(すみのえのつ)」 があった「大津の渟名倉(ぬなくら)の長峡(ながお)」に由来するというものです。 |
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| 現代になって―バイパス線の開通 時代が昭和に変わり、自動車輸送が産業発 達にとって重要さを増してくると、それにふ さわしい道路の数と質が求められました。東 高野街道のバイパス道路として現在の国道旧 170号が新設されたように、長尾街道にもバ イパス道路の新設が行われました。大阪湾岸 部と奈良県方面を結ぶ広い自動車道路が必要 だったのです。それが現在の府道12号・堺大 和高田線で、1959(昭和34)年5月に藤井寺市 域全区間の供用が開始されました。 堺大和高田線は柏原市に入るまでは、藤井 寺市内で2度交叉する以外はほぼ全線が長尾 街道に並行して造られており、重なるのは堺 市の方違神社近くの部分だけです。そのため |
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| L長尾街道と新設されたバイパス府道(北西より) 1958(昭和33)年1月18日 府道堺大和高田線は1958年10月に開通しているので、写真の時期は建設中である。 『日本の古墳』(末永雅雄著 朝日新聞社 1961年)「図版第62・允恭天皇陵」より 部分切り出しの上、文字入れ等一部加工。 |
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| 東高野街道や竹内街道に比べて、昔からの長尾街道の道筋は堺市から松原市・羽曳野市・藤井寺市まで、よくわかる形で存在し続けていま す。昔からある道標も街道の各所で見ることができます。 |
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| 長尾街道に残る道標 下の写真の道標は、現在は、藤井寺市役所の裏手となる南側を通る長尾街道の道路脇に在るものです。保存展示のためにこの場所に移設 され、説明碑も建てられています。この説明碑文があることで、小学生でも何と書いてあるのかがわかります。歴史的文化財として生かさ れており、良い取り組みだと思います。碑文にもありますが、この道標はこの展示場所から200mほど西の三叉路の地点に建てられていた ものです。上の「昔の街道」地図で表示したG地点です。道標に刻まれた案内地名を見ると、Mの正面を北、或いは北西に向けて三叉路の 南東角に建てられていたと思われます。300年余り前に建てられて、当時の人々もこれを見てお参りの旅をしていたと思うと、感慨深いも のがあります。道標の設置者(寄贈者)と思われる「片山浄恵」については、どんな人かわかりませんでした。 |
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| M 道標(正面) A | N 道標(左面) | O 道標(正面・右面) | P 道標の説明碑(いずれも市役所南側) A | |||
| M〜Pはいずれも2013(平成25)年6月 | ||||||