Cyber Japanesque  和のお勧め小説達

★★★★★  眠れる美女  川端康成 新潮文庫

"究極の静謐なエロスの傑作"

 失礼ながら川端康成という作家を"伊豆の踊り子"イメージで全然食指が動いていなかったのだが、この「眠れる美女」はさすがノーベル賞作家がエロスを描くとこうなる・・・という、ある意味では歪んだエロスの作品。凄い! 読み終わり私は思わず上手さにうめいてしまい、五つ★ではなく、六つ★にさえ値すると感じた。この、エロ オヤジは凄いぜ・・・・。

 「たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」・・・眠らされ横たわっている若い女に、一晩添い寝をできる宿を老人は訪ねる。ある女と添い寝をした時には、自分の若い頃の彼女との事を想い出す。別の女と添い寝をした時には、自分の嫁がせた娘を事を、大和の古寺の寒牡丹の花とともに思い出す。そして、また別の女と添い寝をした時には、自分の母のことを思い出す。色々な思いではよぎるが、横で眠る若い女性たちは、全裸で白い肌を見せ、甘い香りを漂わせながらも、たまに寝言を言うだけで、老人とは何の交わりは無い。そうしていつしか老人は、自分も女たちが眠らされるのに用いている薬を飲みたいと思い、そんな時にある一人の女の息が止まっていた・・・・・。

 何の会話も泣く、横たわる女性の身体や仕草の丹念な描写が淡々と続く。そして、耽美小説風から、最後はミステリーにも、ホラーにも受け取れるような味わい深い終わり方。色々と人生を重ね、遊びつくした男性の、最後にたどり着いたエロスの極致。解説は、三島由紀夫。 

 是非、冬の夜に、暖炉ででも暖を取り、ゆらゆらと揺れる炎や、チェロの味わい深い音をBGMに、人生とエロスの交わる世界をお楽しみ下さいな。


 

★★★★☆ 「草之丞の話」  KUSANOJYO.JPG - 5,536BYTES江國 香織(著), 飯野 和好 (画) 

"少し哀しい、大人の恋のおはなし"

 鎌倉の図書館で、本を物色していると、なぜか目に留まる。小紋の色白な女と、目元が引き締まった男。名前も「草之丞」なんざぁ、いいね。立ち読みをする。

 "おいたわしゅう、ございます"。こんな言葉に惚れた草之丞。幽霊の彼は女優と子供をもうける。そして、その子供が見た、母親と侍の幽霊である父親との切ないラブストーリー。その古風な感覚と、クリスマスに紅いセーターを贈って、ダンスを踊る モダンな感覚を、両方とも登場させ、現代の街の中を侍を歩かせても違和感を感じさせない語り口は見事。

 読みながら、侍は新之助で、女優は若尾文子さん、というような配役を思い浮かべていました。心温まる話で、お勧めですぜぃ!


 

★★★☆☆ 「愛の領分」    藤田 宜永

"不倫でもないのに、秘密の匂いがする・・・"

久しぶりに何か"恋の物語"が無性に読みたくなり本屋へ。そういえば、小池真理子の旦那の本って読んだことが無かった。ということで、直木賞受賞作を求めた。

諦観の元に仕立て屋を営む淳蔵。その淳蔵の昔の遊び仲間 昌平。淳蔵は兄貴分である昌平の妻、美保子と実は深い関係を持ち、駆け落ちを企てたことがある。しかし最後の最後に美保子は現れなく、傷心を抱き、いつしか諦観のスタンスを淳蔵は確立する。その彼が、心を溶かされたのは、植物画家の佳代。しかし、同時に病気に倒れた美保子も、淳蔵に心を寄せるのであった・・・。

 ということで物語りは続いていくのだが、飽きさせないストーリー展開と美しい文章は良いのであるが、どちらも突出している素晴らしさまでは及ばない。着物に関しては、含蓄ありそうな言葉が幾つかある。

「控えめに光沢を放っているが、薄暗い和室に映えた。病に蝕まれ、生気を失った女にも着物はやさしい。これが洋服だったらこうはいかないだろう。地味にすれば、身体に巣くった暗い部分がそのままの形となって表れるだろうし、派手にすれば、病魔がすけて見えて痛々しい。身体の線を隠してしまう着物は、隠然と自己主張をしている病の有様をも曖昧にしてくれる。」

「美保子とお前は生きている世界が違う。・・・職業や年収のことを言っているんじゃない。着物に似合わない帯がある。帯に似合わない着物がある。お前と美保子は、ちぐはぐな帯と着物だった。そんな二人を結びつけてしまったのは、俺だけど、やっぱり愛にも領分があるって思うんだ

 まあでも、いろいろと人間像が年月を経て絡まりあい、その人々の中で心と行動が波紋のように関係性を作り、そしてそれを透徹した目でクールに味わう淳蔵のスタンスも共感できる。読者も恋をクールにクールに味えれば、ちょっとおいしい果物のような小説かもしれない。


★★★★☆ 「いよよ華やぐ」 瀬戸内寂聴 新潮文庫

 文庫本の帯に「性の修羅と化した女達の世界。」なぞとコピーがあるが、私がこの上下巻を読み終えて感じたのは、"けなげに懸命に生きてきたはずの人生を気負い無く受け入れる事の強さ"というようなもの。読み終えた時に、ジョン・レノンの"イマジン"と、ピンクフロイドの曲名は忘れたがアルバム"アニマルズ"に収録されているギターの淡々とした曲がなぜか思い浮かんだ。源氏物語が話の上では、光源氏という一人の人物を中心として描かれているのに対して、寂聴さんは91歳の阿紗女、84歳のゆき、72歳の珠子、阿紗女の娘の薫という4人の妙齢の女性軍ではあるが、それぞれ特徴ある恋を描いている。平成の女版源氏物語というところであろうか。でも彼女達は、恋なり恋のお世話であったりと自分の選択で現役で実行しているし、過去の不倫なり身篭ったことなり様々のことをきちんと受け入れている
 出てくる男は、なぜか 身篭った女と妻との格闘で癌に侵されたり、元の妻が怪我をしたとたんに心配になり舞い戻ろうとしたり、戦争時の軍功はあるが病気で不遇の人生を送ったりと、なぜであろう彼女たちの元気さに圧倒されるか、優しさに甘えるか。何かを背負って、呪縛となってしまっている。家庭、仕事、中途半端な火遊び・・・。そういう意味では、光源氏は甘えてみたり、育ててみたりとふらふらしているが、自分の主導権は離さなかったのが偉いか!?
 とはいえ、寂聴さんの文章の上手さもあり、その上で劇的な物語が静かに展開し、読み応え有り。鈴木真砂女さんという俳人にして料理屋の女将をモデルにしているらしいが、是非このような女将さんのいる小料理屋にて、落ち着きたいもの。そして、女性に負けぬよう、思い出に残る恋をせねば・・・!?

年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐ命なりけり  (岡本かの子)



★★★☆☆ 「夫婦公論」  藤田よし永小池真理子 集英社文庫

 初の直木賞夫婦の二人。後から受賞した旦那の祝福に、小池さんが軽井沢から駆け付けたとのこと。二人で写る新聞のカラー写真がうれしそうで微笑ましく素敵であった。

 この本はそんな二人の掛け合いエッセイ集。大人の恋を書きつづける二人ではあるが、このエッセイ集を読むと、随分とザックバランで、結構世の中の夫婦は安心すると思う。

 "口説き文句"という章にて。国際電話で「ボクがいなくて、少しは寂しい思いをしてくれてますか」と付き合い始める前に言われたのに対して、「ギエー、もしあの時、私が彼に何の興味も持っていなかったとしたら、あの一言で二度と会いたくないと思っただろう」と奥さんは記す。

 旦那はそれに対して、「カミさんは調子に乗って私の口説き文句を披露していましたが、本当に何をいったのか、私自身まったく記憶にございません。・・・しかし、あの言葉を口説き文句と思ったところを見ると、案外カミさんがはなっから私に惚れていたってことかもしれませんね」と斬り返す。うまい、掛け合い。

 また別の"ロマンティック"という章では、藤田さんは、高倉健と倍賞千恵子を登場させる。一杯呑み屋で、倍賞が「明日は雪かもね」とつぶやくと、高倉は生返事でぐっと日本酒をあおる。そして、唐突に擦り切れた革ジャンのポケットからリボンで結ばれた包みを取り出す。「千恵ちゃん、これ」「何よ、それ」「明日誕生日だろう」。こういうシーンが、夜景の見えるバーよりも、ずっとロマンティックだと書いている。健さんワールドですなぁ。

 そして以前奥様の小池さんが、こんなことを新聞に書いていたのを思い出した。理想の歳の取り方について。月に一度、彼は日本橋で買ったお鮨の折包みを下げて、鎌倉へやって来る。そして、彼女とちゃぶ台で向かい合いながら、静かに過ごす。別れ際に「今年は庭の柿は、たくさん取れるだろうか」とぼそりと言い、彼は夕方東京へ帰っていく・・・。確かこのように過ごしたいというエッセイだった。イイねぇ、素敵な女性とこんな付き合い方をするのも。官能的な小説の多い小池さんが、こういうワビ・サビめいた関係を理想の姿とするとは、意外であったが。

 きちんと節度ある距離を保ち、しかし相手をおもんぱかる。相手の少しの動きや語りに、こちらの感情や精神も波打つ。相手の首の傾げ方や、指先なんかを眺めながら、たまに瞳を覗き込んでみる。着物や浴衣姿であれば、布が形成する陰影もあり、なお良し。やはり和風の関係というのに、恋愛巧者達も行きつくのであろうか・・・。私もあせらずに、時を重ねて、小池&藤田夫妻のような境地へも、一歩一歩近づくとしようか。素敵な夫婦に乾杯!


★★★★☆ 「contemporary Remix"万葉集" 恋ノウタ せつなくて」 角川文庫 705円

 こういう切り口があったか!と唸らせる気のきいた一冊。

Scene1:

 裸で抱き合いKissをするカップルの白黒写真。

 "昼も夜もいつも 僕は君を想うから 君は夢を見るだろう "

 そして満足そうに微笑む彼女のバストショットがカラーにて色鮮やかに提示され、

 "昼も夜の君を想う 僕の夢をきっと"

 「夜昼と いふ別(わき)知らに わが恋ふる こころはけだし 夢に見えきや」 大伴家持 

Scene2:

 丸い鏡に映る髪の長い女性。二枚目はベッドの白いシーツの上ですましたポートレート。

  最後の一枚は、いたずらっぽく小悪魔的に笑いかける彼女。

 "胸の奥でずっと 愛しつづけてきた君の 背中のホックをいま 僕は外そうとしている"

 「真薦(まこも)刈る 大野川原の 水隠り(みごもり)に 恋ひ来し妹(いも)が 紐解く我は

等々 「万葉集ってクラシックじゃなくて、ポップスだったんだ」とのコンセプトの下、万葉集を思いっきり意訳し、そして女性フォトグラファーの写真を配している。写真も、モノクロームとカラー、そしてシンプルな白紙のページと、上手くリズムを作り出している。章立ても「Every breah you take」「You can't hurry love」と、ポップスのタイトルを配している。うーん、確かにおしゃれで、ひねってあり、気が利いている。銀色夏生ライクか。でも、無味乾燥な古典の教科書を読むよりは、ずっとビビッドで面白い。こんな教科書があっても良いゾ。


★★★★☆ 「雪国」 川端康成 新潮文庫

"国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れ込んだ。"

に始まり、そして終わりは

"「どいて、どいて頂戴」駒子の叫びが島村に聞こえた。「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」 そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。"

 この小説の事を評しようとするが、非常に難しい。難しい。

 なぜ難しいと感じるのか、少し分析してみる。

 小説の大部分が、紡ぎ出された丁寧な美しい言葉によるシーンの連続である。それも、男のモノローグが淡々と続く。たとえて言うのならば、バッハの無伴奏チェロ組曲をバックに、東京物語のような長回しの映像が続くようなイメージの小説か。バッハと小津よりも、もう少し艶っぽいか。でもその色気の匂う部分も、男が駒子を"美しい徒労"と評することで、男は自分に切なくなるほどつくして、時にはあたってくる素直で無邪気な女 駒子を、透明な眼で突き放している。ストーリー無く、淡々と語られる、男と女の微妙な間。

 そうですね。川端は何を書きたかったのか、主題を問うてはいけないのでしょう。虚無感と、失われて行く日本の美、そして人を愛する透明な心。そんなものを培養抽出して、物語として描き残したかったのかもしれない。

 最後の最後に、淡々と進んだ物語が、雪の中の繭倉が火の手をあげ燃え上がり、葉子が二階より落ちてくるシーンが緊迫感を呼ぶ。映像として火事のシーンが瞼に浮かぶ。音量とスピードを増し、その中でも男のクールな視線で、突如物語は終わる。男と女がどうするか、未来は読者に委ねられる。

 先日見た映画の相米監督の"風花"という映画も、この雪国の様に美しいシーンを、人の本能を引出しつつ、客観性を持ちながら撮りたかったのかもしれない。でも、舞台(緑の残る北海道 vs. 雪に閉ざされる北陸)と道具(ピンサロ、煙草、酒 vs. 温泉、芸者、キモノ)によって、この雪国の方が圧倒的に完成度が高い。

 ちなみに、この川端の美しい表現は、どのように英訳されているのかが、興味が沸く。芥川賞と異なり、ノーベル賞はある作家の作品全体の評価であろうが、"さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった"などという文章は、論理的な英語に翻訳し得るのか。

 この小説は、本当に身体と精神の力を抜き自然体で対峙し、素直に心に染み入るように読むのがコツであろう。白い雪の世界とくっきりと際立つ女の感情を映像として、頭の中でイメージ化をしながら、食(は)んでいくのが重要。映像詩の世界。

 あとは、あなただったら、この映像にどんなBGMをつけるのであろうか?私はバッハかなと思ったが、あなたの心の中にどんな曲が流れたか、是非教えて欲しい。


★★★★☆ 「古都」 川端康成 新潮文庫

 いままで"伊豆の踊子"のイメージが強く、特に読む気も起きなかったが、川端が三島の仲人であったと知ってから、なんとなく気になる存在であった。

 透明な美しさ。文章の書き手が酔うことなく、丁寧な描写を積上げ、しかし人物と物語には美しい関係を構造的に持っている。三島も計算されつくされた道化者であったが、川端は計算しつくしたクールな語り部なのかもしれない。

 "古都"という物語は、京都の町屋の少しずつさびれていく呉服屋が舞台。そこの娘の千重子には、実は双子の片割れである苗子が、京の北山杉の里に住んでいた。そんな二人が祇園祭の夜に、糸に手繰られたように会う。そして、二人は少しずつ距離を縮めて行く。最初は千重子に憧れた帯の織屋の秀雄が、最後には苗子にプロポーズをするが、その結果は描かれずに物語は終わる。

 そんな双子の姉妹の話を縦糸にし、そして、千重子の父親の太吉郎の話しと、京の祗園祭の様子を横糸にして小説は織りあがる。この太吉郎も、呉服を売ることよりキモノをデザインすることが好きで、尼寺に居候し隠遁生活をしており、がちがちの真面目で地味な人間かと思っていると、ちゃんとお茶屋遊びもこなすのである。うーむ、艶の有る隠遁者め(笑)。

 以前、急にキスをしてきたお客の舌を噛んだことのある芸者を、娘の父の太吉郎がからかう。

「今でも、噛むか」

「よう、おぼえといやすな。かましまへんさかい、舌を出しとおみやす」 

「こわいわ」

「ほんまに、かましまへん」

 太吉郎は舌を出してみた。あたたかく、やわらかい中にすわれた。  

「あんた、堕落したな」

「これ、堕落どすか・・・」

という訳で、想像力を駆使し、文章と情景を味わいながら読める大人のファンタジー"古都"は、なかなかおもしろし。


★☆☆☆☆ 「風花」 鳴海 章  講談社文庫 (すみません、素敵な写真なもので無断転載です)

 本屋にて、表紙に何か感じるものがあり惹かれて、買いました。薄いピンクの小泉今日子と、薄いブルーの額に絆創膏を張る浅野忠信と、手書きで書かれた" 風 花 "という荒木経惟風文字が印象的。「喪失と再生の物語」「帰る場所のない男と女と」というコピーに、私の疲れた心がとどめをさされ(笑)思わず買っていました。

 外資系企業から解雇された男が、風俗店で泥酔時に女約束をした北海道行きの約束を果たし、レンタカーに乗って襟裳岬から宗谷岬まで一緒に回る。そのうちに夫々の過去を自然に受け入れ始め、女が母親に預けていた子を二人で迎えに行く。ストーリーはこういう流れ。

 そうだな、以前バブルがはじけた時に多くの人々が感じた様な、喪失感と自暴自棄になった時のありさまの描写だろうか。そして、ピンクサロンの女。北海道に渡るまでの舞台設定が、時代とミスマッチ。残念だ。

 北海道に渡ってからは、著者が北海道の帯広出身のせいか、意外と共感できる。感受性豊かだった大学時代に、北海道をナナハンで一周した時の自分の記憶とダブったせいもあるだろう。北海道の自然と、そこの中に反発しながら融け込んで行く人を描くと、すべて倉本聡の様にどこか人の根元的な叙情的な琴線に触れる物語となるものかもしれない。まだ日本の人に通用するか、北海道マジック!?

我、あえて、台風の中を闊歩せん

離婚は別れたくてするんじゃないな。結婚生活を続けられないから、そこで止めにする。それだけの事だ

どうしても逃がしたくないと思えば迎合する。だけど、迎合したときには自分のことも相手のことも考えられなくなる

 文庫本の表紙は秀逸である。匂いのある表紙というところか。一見の価値あり。だから、相米慎二監督の映画も素晴らしいかもしれない。どうぞ、私の小説の評価にこだわらず、映画に関心の有る方は、ご覧下さいな。


★★★★☆ 「近代能楽集」 三島由紀夫 新潮文庫

 蜷川が最近手がけている事もあり、普段殆ど戯曲は読まないのだが、サド公爵夫人に引き続き、近代能楽集を手に取る。

 なるほど、上手い、エスプリが効いている、複雑な味わいのコニャックの様な作品か。能は私は詳しくないが、歌舞伎のあらすじ解説を読むよりは、作品の意図が心にすうっと入ってくる。もちろん、そこには三島の編曲が効いているのだろうが。

"道成寺":大鐘を古道具の巨大な人が生活できる衣装箪笥に見たてるところが、まず意表を突く。タンスの競りに乱入する狂気の娘。その中で、彼女の恋人が、年上の夫人の旦那に嫉妬のあまり射殺された事を明かす。形見の箪笥を寄越さぬと、硫酸を浴びると中に閉じこもる暴挙。タンスの中の鏡の中の迷宮で、ふと"自然と和解"したと悟り、過去を振り捨て新しい男性のもとへ無邪気だがプライド高く走り去る。

 「柩(ひつぎ)のようなこの部屋の中で、あの人は殺される前から、好き好んでこの柩の中で暮らしたんだわ。快楽と死の部屋、女の香水の残り香と自分の体の匂いにつつまれて・・・あの人は梔子(くちなし)の匂いがしたわ。

 いやあ、読みながら玉三郎の道成寺、しかも梵鐘の上でキッと睨みを効かせる顔を思い出しましたね。彼氏はなぜか草刈正雄が頭に浮かんだ。昔見た角川映画「汚れた英雄」の頃の彼の姿だが。物語の最後に、散々硫酸を浴びると心配させておいて、その絶頂で突如方向転換する娘の姿が、妙に現代的でした。昔の怨念に生きるとうよりも、現代は嫉妬に狂い悲劇のヒロインを十分楽しむスタンスということか。怨念よりも、こちらのクールさの方が、妙に肌寒い恐ろしさだったりして。

"卒塔婆小町":単に恋人たちというカップルという外面的な形態と、本当に美と愛に魅せられることの難しさと残酷さを描いている。"劇"という観点からは、この小作品がよくできていると思う。「ちゅうちゅうたこかいな。・・・ちゅうちゅうたこかいな」と始まり、そして終わる、時間の輪廻の感覚。美と残酷さに若者が命を奪われても、何事も無く世界と時間は進み、そして何度もその悲劇は今後も続く。

"葵の上":源氏物語の葵の上と、六条の御息所の怨念も、現代風に描くとこうなるのか。ヨットの上で大人のプライドと余裕に、時折見せる清純な少女の様な仕草も合わせて、光を誘惑していく六条。源氏物語では、光源氏は最後は六条の御息所を憎んでいくが、この物語では光は果たしてどちらに最後は惹かれたのか。もしかすると、六条の方かもしれないなぁ。

 全編 古典を素材にしていながらも、三島の腕が冴え渡る小品集。今までの歌舞伎や物語を読んできた頭に、新たな想像力を呼び覚ます、優れた作品。読後に残る、ふくよかな余韻が良い。

 *なぜか、グルーブ感はあるが空疎な、スガシカオを聴きながら・・・


★★★★★ 百日紅(さるすべり)」  杉浦日向子 ちくま文庫

 いやあ、やっと下巻を手に入れ読み終えました。 嘆息的なすばらしさ。仄かな色香の漂う、乾いているようで温かさと味わい深い、江戸の世界。世の中を知り尽くしている癖に、さらなる好奇心を抑えきれない北斎先生が、しきるなか物語は進む。

 そして、姉御肌だが物憂げでもある娘 お栄さんと、弟子のオンナたらしの善次郎。そんな三角関係が、美日常に微妙なハーモニーを醸し出し、さらにまろやかな味わいと物語がなる。ちなみに、解説の夢枕獏氏は、北斎:中村吉衛門、お栄:坂東玉三郎、善次郎:中村勘九郎 が良いと記している。うーん、善さんは勘九郎さんが適任として、北斎は富十郎さんあたりも良いかも。お栄は、玉三郎さんでは色っぽく妖しすぎるので、もっとさばさばした女形が良い。誰だろう・・・?誰か教えてください。

 北斎の別れた妻:「ねえお栄 赤いものを少しはおつけな。袖口や裾回しやに赤いものをつけてごらん。」

 お栄       :「この顔で赤いものをつけたら、がついたようにみえるよ」

 妻         :「そうじゃないよ。女はね赤いものをつけると優しくなるものだよ・・・」

 杉浦さんは、もう漫画は描いていないそうなのだが、これは至宝を失ったも 同然である。変化自在の画風を是非奮って欲しいもの。

 皆様、まず、この百日紅をお読みくださいな。ちくま文庫も地味ながらやるなぁ!


★★★☆☆ 「サド公爵夫人 ・ わが友ヒットラー」 三島由紀夫 新潮文庫

 この本は、本文よりも三島自身が記した「自作解題」が誠に面白し。初めて作家というものが、いや三島がと言うべきか、非常にロジカルに作品を組みたてて行く過程が、明かされるのだ。それはまるで、建築家とモニュメントの如くである。

 サド公爵夫人では、夫人が夫が獄中に有るときには操を守り献身的に尽くすのに、彼が自由の身になると彼をあっさりと袖にしてしまう謎に迫る。それをサド自身は登場せず、女性だけで、そしてセリフだけで組みたてて行くのだ。バクッとアイディアを鷲づかみにした後、言葉を紡ぐ事により徐々に輪郭を明らかにしていく精緻な作業がすばらしい。読んでいるうちに情景を想像し、ゾクゾクさせてくれる部分がある。

 今度は対象がヒットラーである。全体主義確立の為に中道という演出をするために、極右と極左を同時に切り捨て入るという大胆なヒットラーの策 レーム事件の一夜を書いたもの。これを解説で三島は、日本の二・二六事件や西郷隆盛&大久保利通の関係と対比させている。二・二六事件と言えば、三島の傑作「憂国」を思い出すぞ。

 サド公爵夫人:女ばかり、フランス・ロココ、18世紀の傑物サド vs ヒットラー:男ばかり、ドイツ・ロココ、20世紀の怪物ヒットラー

 この関係を意識して、かつ 能のような単純簡素な構造を愛して目指したという。

「もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで、人間の最奥の秘密、至上の神殿の扉に触れる事ができずに、サド公爵夫人は自ら悲劇を拒み、レームは悲劇の死のうちに埋没する。それが人間の宿命なのだ。 私が劇の本質と考えるもの、これ以外にはない。」

 クールな眼で人間の宿命を解体&再構築をすると、人生を見きってしまうのだろか。そして、凡人である私は、至上の神殿の扉を遥かかなたに見ながら、誠実さと羞恥と野心のカオスを内に秘めたまま、荒波をあがくのであろうか。死を選択しなくとも、ドッグイヤーのスピードの中でなら、絶対の美と官能を、自分の中に見つけることはできないであろうか。

 とフジ子・ヘミングのピアノをBGMに肩に少々力の入ったところで、次回は和風の題材を料理した「近代能楽集」に関して、レポートする。


★★★☆☆ 「写真集 三島由起夫 '25〜'75」 新潮文庫

 今月は、新潮文庫から怒涛の三島三冊!

 写真と言えば、箱根の富士屋ホテルを訪れていた時に、ホテル内に飾ってあった有名人の写真を見て、初めて三島が結婚していることを知った。それは、意志の強そうな夫人ではあるが、ごく普通の夫婦であった事に、強い印象がある。決してエキセントリックでは無かった。ああ、三島も結婚したんだなあ、と不思議な感慨を覚えた。後で調べてみると、川端康成が仲人をしている。

 今回の数々の彼の生立ちの写真達を見て、なぜかフツフツと沸いてきたのは、'時代の先を慄然と走る事に関して、彼に負けてはいられない'ということ。そう、文学で走る事から、剣道・空手・居合などの武道にて自分を律することでバランスを保っていた彼。終戦から全共闘から文学の無力さを受け入れるまで、走りつづけた彼。どっか、肩肘の張りがみえ、無理が感じられる彼。

 そんな彼に対して、インターネットだITだ、日本には希望が無いという処まで追い込まれているけれども、その中で創造し勝ち残らなければいけない私達。日本の状況は、政治・教育そして競争原理の無さという点で末期的。そんな中で、個を合理的に主張しようとし、ノーベル賞を逃した事を悔しがり、それでも自分を鍛えつづけ独自の世界を築こうとした彼を見ると、私達も真摯に創造しなくてはいけないと感じたのだと思う。

 ポジティブな反骨精神。そして、創造的なアウトロー。俺も駆け抜けるぜぃ。

 (後半にある、昭和43年の盾の会征服姿の宇宙戦艦大和に出てきそうな三島は、少々恥ずかしいか・・・)


★★★☆☆ わたしの源氏物語」 瀬戸内寂聴 集英社文庫

 前回の女人源氏物語には厳しい評をしてしまったが、今回の「私の源氏物語」は、源氏物語の概略がわかると共に、瀬戸内さん自信の女としての年輪を踏まえた時折クールでもある素直な感想が、読み応え有り。私も、各女性と光源氏のなれ初め、関係、そして源氏が夢中になっていく背景がだいたい頭に入りました。ただし、この本は光源氏を対象にしているので、きっと源氏の子供達が活躍する、いわゆる第三部〜宇治十帖部分は、対象外だと思います。

 気付きを幾つか。

・光源氏がドンファンでも、女性読者が彼を許すのは、桐壺に生き写しの藤壺への少々マザコンを含んだ恋心があるからである。女性はストーリーに基づく言い訳を求める!?

・当時の貴族階級の男女関係は、1.(顔を見て見初めるのではなく)噂を聞いて男からまず相聞歌(そうもんか)を贈り、2.その返事が女性から来て、手紙のやり取りが始まり、3.やがて気の利いた女房のはからいで逢瀬の機会が作られる、というプロセスを踏むとのこと。これは、例えばインターネットを介して、メールのやり取りがはじまり・・・というようなユー・ガッタ・メイルの現代の世界と同じではないか、と感じますねえ。

・父:光源氏と子:夕霧のこの対象的な性格。そして、堅物の夕霧が、友人 柏木の未亡人に盲目の恋心をいだき突っ走る、真面目な人の豹変の危うさ。

・源氏の周りの女性が次々に出家していくことの意味合いは如何に!? 出家前の源氏の被保護者の弱い立場から、出家後の源氏を見下ろす精神的優位性の確立という、主客逆転のおもしろさ。(そして、瀬戸内晴美さんが出家をした意図は?)

 もちろん個々の女性たちのキャラクターの違いのおもしろさと、ストーリーの味わいについては、端緒は今回つかめた気がするが、女性たちについて具体的に記すのは、谷崎源氏を読んだ後にしましょう。

 という訳で、源氏物語という富士山の如く高い頂きに対して、着実に二号目に到達したかなあ、というような感じにさせる、コンパクトにまとまった良い本でした。私の様な、源氏ビギナーにお勧め


 

★☆☆☆☆ 「女人源氏物語」 瀬戸内寂聴 集英社文庫

 前提:私は高校の古文でちょっと読んだのみで、源氏物語に関しては今回の本が始めてです。本当は、原文をあたってみるのが良いのだろうが、源氏物語を勧められた事もあり、また最近 瀬戸内さんは老いてますます元気で雑誌等に出ていることもあり、この本のまず第一巻を手に取りました。従って、私の感想は、瀬戸内さんの「女人源氏物語」に対してであり、源氏物語そのものに対してははずしているかもしれません。

 なんだ、光源氏というのは、単にバランス感少々欠けた、プレイボーイではないか。うーん、確かに桐壺が亡くなり、マザーコンプレックスを負っているのに加え、天性の美少年&権力の後ろ盾&裕福な資産家という、これでは女性にもてて当たり前である。

 「女は素直で、心ばえのやわらかなのがいいのですよ

 「人目を忍ぶ恋路というのは、公然と許された仲よりも情愛もこまやかになると、昔の人も言っています。わたしと同じようにあなたも想ってくださいよ

 うーん、素直に言いたい事を言いますね。それに、このころの男性が夜に女性の所に通って行くし、男女間の通信手段は短い歌に託すという、女性からすると非常に限られた情報量の中で相手を選ばなくてはいけないという所が、ゲームとして見ると面白いかもしれない。ゲーム理論の良いケーススタディになったりして。

 ということで、ストーリーの骨格としては、歪んだ恋である藤壺との関係や、正妻であるのに源氏の気まぐれに翻弄され非業の死をとげる葵の上、そして弄ばれる格好の六条の御息所などが興味深いが、もっと深く細やかに描いてもらいたい。

 結論:源氏物語の人間関係のポジショニングを手っ取り早く理解するのには良いが、小説としては×。


★★★★☆ 「バガボンド」 井上雄彦 講談社 

勢いのある物語り。私は、まだ四巻まで読んだ所。ただいま酩酊中。吉川英治の宮本武蔵を、漫画により物語。

 一巻で人々を斬り捲った後に出身の村人どもに追いつめられ殺してくれと叫ぶ主人公に、沢庵和尚が諭すところが良い。「俺は斬りまくった。これこそ俺の人生。望みどおりだ、ワハァハハ、と言え!」と詰め寄るのだ。いや、確かに。一度きりの人生、何気ないところで人の人生に迷惑をかけているもの。そんな状況で、おめおめと自分勝手に振舞う事など許されない事もある。過去を自分の望みどおりと割りきって、再度生まれ変って人生も歩むのも大切な事! 考えさせてくれますよ。

 「闇を知らぬ者に、光りもまた無い」 沢庵和尚の言葉。

 その後、生まれ変って京都の吉岡道場に殴り込む主人公も、傍若無人で凄絶で良いぞ。

 現代版の"明日のジョー"か。 もう少し、続きを味わってみたいものだ。皆様も如何!? でも出だしは少々血の気が多すぎるか?


★☆☆☆☆ 「花腐し(はなくたし)」  松浦寿輝、 きれぎれ」 町田康 2000年芥川賞受賞作 

 最新の芥川賞受賞作を読むなんざぁ、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」以来ではないか。

 ハナクタシという語感の淫靡さと、花腐しというはっとさせる漢字の並びに惹かれて文芸春秋を買ってしまった。

 しかし、両作品とも暗い。とにかく どうしようもなく暗く、そして思想が無いのだ。片や妻に死に別れデザイン事務所がつぶれた中年が堕してゆく物語、もう一つはアグレッシブさの全く無いバブルぼけをした若者が単に人をうらやんで生きていく物語。両方とも私小説ではなかろうが、世の中から隔絶されて、かつあまり存在意義の無い人達の話に過ぎない。

 これを読む側としても、読み終わっても、(おり)が心の中に溜まるだけである。こんな小説が、プロの小説として評価されるのならば、小説なんて無価値だ。

 ちなみにちょっと面白かったのは、花腐しの中で廃アパートの中でマジックマッシュルームを栽培しコンピュータを操る怪しい男が、「万葉集は面白いぜ。俺、何日もぶっ通しでコンピュータを弄くってて、いい加減うんざりすると万葉集を読むのよ。何しろ新宿が、いた東京全体がただの野っぱらだった頃の色恋沙汰のはなしだからなあ。のどかなものよ。・・・・」とつぶやく場面。私のこのサイトで綴る感覚とも似ているかも。

 日本の閉塞感やバブルの後の脱力感、そしてアメリカやアジアに置いて行かれるあせりもわかるが、小説も凛とプライドを持ち、新しい考え方や感性、美しさの描写など、合理的に気合を入れて欲しいものである。そうでないと、ますます小説離れは進むぜぃ。


★★★★☆ 希望の国のエクソダス」 村上龍

「2002年秋、80万人の中学生が学校を捨てた」という、いささか時節を捉えた教育問題に関する扇情的なサブタイトルだが、実は静かな静かなポジティブな諦観と達観に満ちた物語だ。

 ついに日本を解体した上での、正しいテーゼの提示に至っている。それも、静かな静かな提示。 テクノロジーというものを当たり前の様に用い、ネットワークというものをインフラとして上手く用い、人の欲望が静かに充実を志向する様を上手く捕らえた上で、再構成してくれているのがうれしい。

 シリコンバレーを訪ね、意外にもケバケバしさや本能的な欲望の少ない街だと感じた事を思い出した。全てが合理的で、仕事に熱気はありますが、皆 自分のスタイルも大切にしている。そこには、金融の世界とは異なる、ITの静かさと合理性が存在しており、人の前頭葉も発達し、合理性の判断の中に、消費と競争への疲れというものがDNAに刷り込まれる(!?)と、この物語の最後の様なゆるやかな共生共同体に行くのかなとも思う。一つの理想ですね。という一方、欲望や好奇心も捨てきれない「私」という自分もいるのですが。この自分の中でのせめぎあいが、楽しいのかも。

 1987年の「愛と幻想のファシズム」と取っ組み合いは似ている部分もあるが、片や独裁に、そして今回は究極の共同体へ。

 過去のスピード感と色彩感溢れる村上龍のファンには物足りないかもしれないが、芥川賞が暗い暗い閉塞感を爛(ただ)れた様に語るしか無い中、明確なベクトルを提示する龍は凄い! うーん、ノーベル文学賞を日本人で取れるとすると龍しかいない。

 *この本を読み終えた後に、エクソダスのサイトを開けると、風力発電の3枚の羽の回転するさまが、妙に心に染み、引っ掛かるのだ・・・


★★★★☆ 「羅生門 地獄変」 芥川龍之介 小学館文庫 新選クラシックス

 芥川を読むのは、実は中学・高校の教科書以来であるのだが、実は古典に題材を取ってはいるが、ゾクッとするほど素敵な表現や、精緻なストーリー展開に魅せられる。

 第一話の「羅生門」を読んでいると、いきなり羅生門の下でもんもんとしている下人が、「今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人のSentimentalismeに影響した。」と来るのである。いきなり、英語でセンチメンタリズムか。荒木のセンチメンタリズムとは趣を異にするが、切れ味が鋭い。

 小説としてお勧めは、「地獄変」と「ちゅう盗(とう)」。

 「地獄変」の大殿様と良秀の娘との関係。語り部は決して何もないと言うが、そこは人のことである。娘を御車に乗せて燃やしてしまうという狂気の沙汰を、発案したのは殿か良秀か?殿をそこまで追い込んだのは、真面目さと清楚さを上に被る娘の仕業か? 彼女を一心に救おうとした猿は、人間界に何を感じたのか? 是非とも、この灼熱の「地獄変」という屏風絵を見てみたいものである。炎はさぞエロティックなことであろうよ。

 「ちゅう盗」の方は、討ち入りの際に、取り囲まれ殺されそうなお爺さんに、なんとお婆さんが助けに分け入り、そして、お爺さんはそそくさと逃げる。お婆さんは最後まで「お爺さん」と呼びながら息絶える。そして、なんと戦の直後に子供を産んだ頭の弱い娘の子を、お爺さんは自分の子だと主張して、息絶える。幸せそうであったという。メビウスの輪の様な、輪廻転生

 という訳で、今読んでも十分にエキサイティングで知的・肉体的な物語で、お勧め。

 


★★★★☆ 「祇園に生きて 三宅小まめ 同朋舎

 まず何と言っても読み始めて良いのは、京言葉どすな。

 「あたし三宅こまめは、祇園に生を受けて今年で90歳になります。四季を通して、祇園がいちばんにぎやかなのは、やっぱり春どっしゃろなあ。」という書き出しから、「みなさんも、どうぞ元気で、おきばりやす」という終わりの言葉まで、たんたんと正直に語られるその喋り口調が(口調のイントネーションやリズムはもちろん頭の中で想像して発音するしかないのどっしゃろが)、もうたまりまへん。語られる言葉が、はんなりと耳に心地よく聞こえるのどす。

 えせ京都弁は止めて(苦笑)、この本は三宅小まめさんと森田繁子さんという、祇園に生まれて自然におちょぼから舞妓・芸妓になり、気丈だが自然体に生きている二人の半生記。ノンフィクションです。

 外の世界から祇園について興味本意で見てしまいがちな私達に、さらりと祇園の成り立ちから毎日の出来事から、そして顧客本意に立てばそれが当たり前の事だと教えてくれる。力が変に入っていない達観というのでしょうか。「祇園の女は、ようけ恋をするけど、恋に生きはしない。恋だけに全人生を賭けたりはせえへん。どこかしら筋が一本、通っているのや。それが祇園の伝統なんや。」とさらっと言えるところが凄いですね。小説「さゆり」の苛めの部分も、そんなに辛いことないよ、町自体が家族だと言いきるし。

 1.「女紅場(にょこば)」という、舞妓になるための学校があり、小さい頃から舞・三味線・裁縫を習い、特に舞は一生訓練する

 2.おちょぼ→舞妓→芸妓→妹分の舞妓を持つ→一生芸妓・経営者など自分の道を選択

 3.舞妓にはお金のことは生活の匂いが出るので考えさせない、お茶屋はお客への心遣いに専念するために仕出しをとる等

 お客様に良い時間、一流の時間を持ってもらうために、きちんとそれなりの準備の時間と手間をかけてありますね。これはこれで良く出来ているシステム(=仕組み)だと思います。この仕組みの上だからこそ、お客様は凝縮された時間を持てるのでしょう。でも、忙しい間を縫い、こんな時間をさらりと遊べるのも、(すい)というのでしょう。

 このような、世界に通ずる空間を大切にすべきですね。もちろん私も行けるくらいの格になりたいものです。そういう楽しい切磋琢磨も良いものでしょう。ふふっ。


★★★★★ 「イン ザ・ミソスープ」 村上龍 幻冬舎文庫

 五つ星をつけましたが、スプラッター系の表現がからっきし駄目な人に対しては、★☆☆☆☆なので、ご了解下さい。中頃のお見合いパブで6人の男女を惨殺する下りの表現は、かなり視覚的で耐え難いかもしれない。主人公の性風俗ガイドと客となったアメリカ人の殺人鬼が繰り広げる年末の数日間の物語。

 村上龍は昔から好きなのだけれども、この小説は完成度が高く秀逸。彼の小説って、たまに最後の部分で破綻をきたしていたりするのだけれども、この小説は、前半の徐々に緊迫感を高める序曲、中間の殺戮シーン、後半の哲学的な話しと、緊張感とテーマが一貫しておりすばらしい。物事をきちんと客観化して、描写というスパイスを選択してまぶせる、クレバーな作家である。ここ暫くの日本人で、最も優れた"現代"の小説家だと思う。

 印象的な幾つかのフレーズを取り出してみる。

 「俺はコギャルがシャネルやプラダを欲しがるのが何となく理解できる。ブランド品に限らず本物は、持っていて悲しくなる事はない。ブランド品でない本物を見つけるのは難しいし、面倒で、センスを磨く訓練も必要だ。」・・・日本のブランド志向について、鋭く切り込んでいますね。訓練とか、努力とか、競争とかが欠如した、そしてそれでも生きていける(餓死する事は無い)社会システムですものね。

 「この国では誰もについて考えていないのだ。この国には辛い事がないのだろうか、神にすがる以外どうしようもないような苦しいことが無いのだろうか。」日本は、海外から全土的に征服・蹂躙されたことが無いから、心底神にすがることが無かったのだろうと、アメリカ人は言う。そして、その後がユニークなのだが、除夜の鐘を聞きたいと言う。あんなに美しいく、心を清めるものは無いと聞いたという。煩悩 BONNOU、そして惑う MADOU というものを全ての人が持っているという前提に立つところが、すばらしいと感激する。BONNOU ,BONNOU, BONNOU と口の中で反芻し、殺人鬼が感嘆するのだ。

 確かに、煩悩って悪い心や事だけれども、全人格を否定するようなネガティブさは持っていないような気がする。過去を全否定するのではなくて、過去は過去として、ベクトルを修正すれば、自分の存在を認めてくれるという考え方に立脚しているのかな。これを肯定的に見れば、他文化と比較をすれば、癒しになり得るのかな。うーん、新たな視点を提示された。

 ということで、同じ村上龍の「ストレイト・ストーリー」を今度読んでみたくなりました。全く異なる雰囲気の内容を期待。さすだ引出しの多い"小説家"であろう。


★★★★☆ 「欲望」 小池真理子 新潮文庫

 新潮文庫の最新刊であるが、非常に直接的なタイトルですね。帯にも「愛した男が性的不能だったら・・・」と意味深なことが書いてありますし。本屋で立ち読みをして驚いたのだけれども、この作品は非常に三島由起夫の小説や彼への想いが、横糸の様に物語に織り込まれているのだ。「禁色」の女性を愛せない美青年 南悠一の代わりに、交通事故で性的不能になり女性を愛せないこれも美青年 正巳。そして、三島由起夫そっくりの洋館を建てる、檜俊輔ならぬ精神科医 袴田。小説の中で、「仮面の告白」や「豊饒の海」が記号的に使われる。これほど三島に傾倒していて、引用されながら、きちんとストーリーがあたかも自然であり、ドラマが織り成され十分読み応えのあるものとなっているのは素晴らしい。三島ほどの硬質な切れはないが、逆にもう少し柔らかいオブラートで包まれているが、本質は似た部分があると思う。

 柔らかいというか、上質の映画を見ているようなおもしろさもある。淡々と美しい者達が主人公の女性のもとを去り、最後に袴田の枕もとで三島の「天人五衰」を読もうとした時、楓の葉が本の間から落ち、フラッシュバックの様に過去が甦るところなんか、私の脳裏にも物語りが過(よ)ぎりましたよ。(と言っても、読んでいない人にとっては、意味不明でしょうが・・・苦笑)

 神の病を治療する立場の医師であるからこそ、精神には重きを置かないで、外面的なのみを追求し平衡を保とうとすること。外面的な美を持つものは、別に美と言うものに飽き、いつしか翻弄されてしまうこと。そして、本当の官能というものは、精神性に加え、最後の一線を越えないからこそ、さらに豊かに深く深くなり得ること。

 この本は、日本酒と共にというより、ボルドーあたりのフルボディの上質赤ワインを飲みながら、たまに夜桜の妖しい美しさでも横目で見つつ読むと、豊かな時間が過ごせる事を保証します。そして、あなたの心の中にも、遠い春の思い出が次々に姿をあらわす事でしょう。


 

★★★☆☆ ぼっけえ、きょうてえ」 岩井志麻子  角川書店

 日本ホラー小説大賞の受賞作だが、私にとっては、'ホラー'というなんか西欧風の怖がらせるために人工的な仕掛けを一杯積めこんだイメージよりも、怪談ではあるが正統派の短編物語だと感じた。

 まずカバーの「横櫛」という、緋色の襦袢の上にはらりとキモノを羽織る、青白い顔で謎の微笑を浮かべる遊女の絵が、眼を捕らえて離さない。なぜか一回見ると脳裏に残る不思議な絵である。

 ページを繰ると、まず表題作の「ぼっけえ、きょうてえ(恐てえ)」(とても怖い、という意味らしい)。この短編が一番評価が高いが、私にとってはその後の短編でも出てくる「きょうてえ」の怖さを刷り込むのみは良かったが、少々楳図かずお(だったと思う)のマンガが頭に浮かんできて、今一つ没頭できなかった。

 二編目「密告函」のじわりと背筋が寒くなる、貞淑な妻の恨みの行動、三編目「あまぞわい」の都会から田舎に来た女が浮気に痰を発した殺人で、共犯者と一緒に狂気の世界に入っていく様、ひたひと迫る怖さを堪能できます。四編目の「依って件の如し」なんかは、またストーリーも、良くひねってあり、映画でいう良くできた脚本だと思います。全編とも、独特の語りに慣れてくると、まざまざと描かれている情景が瞼に浮かんでくる上手い描写です。

 「のう、キン坊よ。女いうもんは、どねぇなろくでなしの男でも、いったん添うたら恋しゅうて恋しゅうてかなわんのじゃて。女は惚れた男のためなら何でもするもんじゃ。身を捨てても尽くすし、死んだ後も慕うて泣き続ける。可愛いもんじゃろ。」「なんぼきれいでもお上品でも男はすぐ女に飽きるもんじゃ。」

 男と女、親と子、この絆が深ければ深いほど得られるものも豊かだが、一歩ねじが狂った時には、深い深い恐怖が待っている。でも、それを覗きたくなるのも、人の性(さが)かもしれない。全てがコンビニエントに向かい現代に、敢えてお勧めの一冊。


★★★☆☆ 太陽の季節 石原慎太郎 新潮文庫

 これも、新潮文庫「あぶない恋フェア」の一作品。久々に高校の頃に自分が持っていた、行き場を見つけられない暴力的な若さに、想いを馳せてしまった。自分の心と経験の中に潜んでいるものを、切れ味の良い刃物で切り裂き、ハッとさせるような作品集。1955年というから、今から45年程も前の作品だが、輝いている。

 代表作としては、やはり一作目の「太陽の季節」か。エネルギーを発散する場として拳闘(ボクシング)を選んだ竜哉が、街で知り合った英子と、対決の様に恋のジャブを交わした後、結局竜哉に傾いた英子が妊娠をし堕胎手術で死んで行くというストーリー。

 「部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起した陰茎を外から障子に突き立てた。障子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。

 その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた。彼は今、リングで感じるあのギラギラした、抵抗される人間の喜びを味わったのだ。

ラストシーン(英子の葬儀の後)

 「彼は黙って着替えると練習場に出て行った。シャドウを終え、パンチバッグを打ちながら竜哉はふと英子の言葉を思い出した。"なぜ貴方は、もっと素直に愛することが出来ないの"

 その瞬間、跳ね回るパンチングバッグの後ろに竜哉は英子の笑顔を見た。彼は夢中でそれを殴りつけた。」

 若さゆえの飢餓感、そしてハングリー精神に満ちている。そんな荒削りの精神とパワーが、きっと学校の卒業後は通常ビジネスに指し向けられるのだろう。石原慎太郎は、それを政治にぶつけ、今の都知事に至っているのか。「NOと言える日本」も印象的だったが、彼が最近出ている「首都移転反対!」という都の広告も主張と根拠(遷移には17兆円必用というもの)が明確でオーラ有り。

 もう一つ。この作品集の中で、「処刑の部屋」という徹底的に肉体的に復讐をされる血にまみれる男の物語のすぐ後に、「ヨットと少年」という湘南の静かな海の描写から始まる清楚な物語があるのだが、続けて読むと暴力から静けさの差異に、ジェットコースターに乗った後の様な不思議な心地よい落差を感じることができます。お勧め。


★☆☆☆☆ 向田邦子 「思いでトランプ 新潮文庫

 新潮文庫の「あぶない恋フェア」の対象作品だったので読んだが、私にとってはつまらなかった。1980年の直木賞受賞作品らしいが、今という時代に合っていないし、生きるパワーに欠ける。日本の暗いじめじめした「小説」の結晶か。徐々に年老いてきて、ビジネスで闘いに負け、家族との間にも隙間風が吹く、でもそんな自分に寂しく酔っているような主人公の姿が思い浮かんでしまう。別に向田邦子好きの人にあれこれと言う気はさらさらないのだが、これが文庫のフェア対象作品だというところに、しかも他に読んできた対象作品が秀逸だったこともあり、選定されていることに選者のセンスを疑う。

 ただ自分にとって良かったのは、反面教師として、自分の和風・日本文化の好みの基準とポジションがより明確になったこと。確かに高校時代、貪るように小説を読み漁っていた頃には、(この「思いでトランプ」の解説を書いている)水上勉、高橋一三等のブラックホールの様にどうしようもない負のエネルギーを発している作品があった。太宰治もその一人か。でもそのような虚しさ、やるせなさは、単に生命力の弱い人達のマスターベーションに過ぎないのではないか。それらを私は好きでは無い。私の感性に合いそして他の人に紹介したい日本文化というのは、透徹した美匂い立つ官能それらを土台とした沸き出ずるパワー、そんなものの様な気がする。


★★★★☆ 三島由起夫 禁色(きんじき)」 新潮文庫

 これもあぶない恋フェアの作品。横浜から鎌倉に移り、通勤時間が延びたので、車内で小説を貪り読んでいる。それはさておき、読み終わって、孤高の強さと、美への飽くなき追求に感じ入り、そしてなぜかビスコンティの「ヴェニスに死す」で流れていたマーラーの交響曲第五番が頭の中で流れていた。三島を読んだのも20年振りだろうか。その当時は「金閣寺」を読んだが、少々自己満足的な部分が鼻についたような印象があったと記憶しているが、今回は彼の書く人の心の機微に納得し、惹きこまれた。硬質の良く練りこまれたストーリーと、何物にも屈しない強固な自身と孤独に溢れた文章。現代の作家だとスピード感とカリスマティックな強さが印象的な作家というと村上龍が好きだが、さすが世界の三島、モーリス・ベジャールが彼を題材に作品を作っただけのことはある。圧倒的に面白いのである。

 醜い老いた小説家・俊輔が、美貌の同性愛に走る若者・悠一を操り、過去に裏切られた女性に復讐していく前半。その復讐方法も、暗闇の中で突如若者が年寄りに身代ったり、夫と若者の愛の場を見せつけたりと、様々なひねりの効いた罠が仕掛けられている。そして後半は、子供の出産を縦軸に、様々な人達が愛・嫉妬・独占欲・美・官能・存在を横軸として織り成しながら、物語は進む。そして、ヴェニスに死すを思い出させる老人の静かな死。三島は、その死で終わらせず、もう一ひねり皮肉な結末を用意しているのだが・・・。

 村上龍はその溢れるスピード感故に、たまに物語りの最後が手抜きになってしまうことがあるのだが、さすがに三島は最後まで丁寧に練りこんでいる。そして、小説の中には、次の様な、意味深なアフォリズムに溢れている。

  「罪は欲望の調味料だよ

  「愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ」

  「・・・そうして、とは、いいかね、美とは到達できない此岸なのだ。・・・この世に有り、現前しており、確乎として手に触れることができる。われわれの官能が、それを味わいうるとういことが、美の前提条件だ。官能はかくて重要だ。それは美を確かめる。しかし、美に到達することは決してできない。なぜなら官能による感受が何よりも先に、それへの到達をさまたげるから。・・・美とは人間における自然、人間的条件の下におかれた自然なんだ。人間の中にあって最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も安眠できない・・・。」←ここの部分は、まだひよっこの私には十分理解できません(笑)。もっと美と官能について、人生経験と洞察を深めなくっちゃ!


★★★☆☆ 谷崎潤一郎 「 新潮文庫

 新潮文庫に「あぶない恋フェア」という紅の帯がついているのが目につき、谷崎を20年振り(!)位に読んでみた。「」は初めてである。この卍自身は、昭和3年〜5年にかけて連載された、谷崎40歳、そして彼が関西に移住して初期の作品らしい。作品内容自身は、夫のある少々我侭な奥様「園子」と、彼女を愛し愛されながらも他の男どもも翻弄する美女「光子」の物語。光子は結局他の人達からの愛と賞賛により自分の存を確認するナルシスト(でも女性って普通そうなのかな・・・?)であり、彼女は手練手管を用いて弄ぶのだ。最後に、その子の旦那との関係と心中実行という2つのあっという展開を経て、なるほど「卍」というタイトルが鮮やかに浮かび上がってくるストーリー。小説自身は、ねっとりといやらしく展開するが、この意味深で奇異な形を持つ「卍」というタイトルの勝利だと思う。

 私の興味を大きくそそったのは、その上方言葉である。私自身は上方言葉にはあまり馴染みが無く、昔 京都の大学受験をしたときに、まわりに河内弁(だと思われる)を喋る一団がいて、カルチャーショックとここでは暮らせないなという感想を持ってしまっていたので、どちらかというと悪い印象を持っていた。それでも、奈良あたりの女性が話す言葉には、例えば「おおきに」というイントネーションには、不思議なやすらぎを感じることはあったのだが・・・。解説文に谷崎の上方言葉に対する評価があり、それは東西に比較論となっており、非常におもしろく、なるほどと思った。長いけれども少々引用する。

 「・・・私は全体から言うと、東京人よりも大阪人の声(言葉)を美しく感じる。公平に見て、男は五分五分だとしても、女に関する限り、大坂の方に軍配を上げる。・・・私に云わせると、女の声の一番美しいのは大阪から播州あたりまでのようである。・・・東西の夫人の声の相違は、三味線の音色に例を取るのが一番いい。私は長唄の三味線のような冴えた音色の楽器が東京において発達したのは誠に偶然ではないと思う。東京の女の声は、良くも悪くも、あの長唄の三味線の音色であり、また実にあれとよく調和する。キレイと云えばキレイだけれども、幅が無く、厚みが無く、円みが無く、そして何よりも粘りが無い。だから会話も、明瞭で、文法的に正確であるが、余情が無く、含蓄が無い。大阪の方は、浄瑠璃ないしは地唄の三味線のようで、どんなに調子が甲高くなっても、その声の裏には必ず潤いがあり、つやがあり、あたたか味がある。・・・座談の相手には東京の女が面白く、寝物語には大阪の女が情がある、というのが私の持論であるが、つまり性的興味を離れて男に対するような気持ちで舌戦を闘わす時は、東京の女は大胆で、露骨で、皮肉や揚げ足取りを無遠慮に云うから張合いはあるけれども、「女」として見るときは、大阪の方が色気があり、魅惑的である。つまり私には東京の女は女の感じがしないのである。・・・たとえば、猥談などをしても、上方の女はそれを品良くほのめかして云う術を知っている。東京語だとどうしても露骨になるので、良家の奥さんなどめったにそんなことを口にしないが、こちらでは必ずしもそうでない。しろうとの人でも品を落とさずに上手に持って回る。それがしろうとだけに聞いていても変に色気がある」


 


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