Cyber Japanesque 1999年5月〜1999年7月日記帳


99/7/27

 25日の日曜日に国立劇場 大劇場における坂東流「扇の会」に3歳の息子と行って来た。

 まず、今お稽古をしている「藤娘」。日本舞踊の代表作にもかかわらず、本物を見るのは初めて。真っ暗な舞台から、一転 舞台一杯の紫の大きい藤のセットと、赤と紫の艶やかな衣装に、場内よりどよめき。私もはっと息をのんだ。この世のものとは思えぬ美しさである。踊り自身は、音のテンポが少々遅かったこともあるだろうが、少々全体的に間延びした印象。また、表情も少々能面みたいか。しかし、衣装は途中引き抜きで桃色の着物に変わる場面もあり、舞台効果の美しさでは圧倒的であった。

 「旅情ところどころ」こういう小気味良い踊りは、坂東の人は上手いと思う。踊っているほうも表情豊かで、テンポの乗りよく、見ているほうも楽しかった。

 「連獅子」親子で獅子面を持って踊る前半は踊ったことがあるが、通して生を見たのは初めて。二匹の蝶が舞い踊る中半、そして、長い髪を振りまわす後半と、見せ場が多い。この演目は2階席より見ていたのだが、後半の花道の白獅子と舞台の台上の赤獅子のポジションもすばらしい。腰で髪を動かすと言い、年をとりすぎると踊るのが難しいという話なので、私もあと10年くらいのうちにトライしたいものである。

 上手い人達が踊ると、それぞれ個性があり、観ているだけでもわくわくするものである。


99/7/20

 ところで「癒し」ブームのようだが、先日土曜日の夜のTV TBS「ブロードキャスター」で、関東、関西の癒しに対する反応の違いを特集していて、おもしろかった。まず、癒しブームに関して、1.「たれパンダ」が非常にブームであること、2.東京の茶髪女子高生のインタビューで、たれパンダへのラブコールと、親からの髪の毛の色や帰宅時間に関する注意でストレスがたまり、癒しが必要なこと、3.たれパンダは、中年の男性にも人気でファンクラブも存在すること、を各種インタビューを交え報告していた。コメンテーターは2の女子高生に対して、その程度の親からの指示でストレスが貯まることに関し、それは癒しではなく、単なる「逃避」であると断じていた。私も同意見であるが、おもしろかったのは、大阪の人々の反応である。曰く、「なぜたれパンダに中年のサラリーマンまでが熱をあげるのか、理解不能である」「たれパンダを抱いても、お金が儲かるわけではない」「関西の癒しは、笑いである!」。

 癒しというのは、本来何かの目標に向かって全身全霊で兆戦した者、人生を一定レベル極めた者が、エネルギーの開放やリラクゼーションを行うことだと思う。どうも日本人から、リスクをとること、競争することに対して、社会全体で逃避しているように感じる。でも、リスクテイク競争は、戦国時代、江戸の商人、明治時代等、あたり前であったろうし、これからのグローバル競争でも必要であろう。志高く凛と胸を張って、生きていきたいものである。


99/7/17

 7/11夜のTV「あるある大辞典」の特集が、遺伝に関してであった。メンデルの法則にはじまり、DNA等いろいろ提供していた情報の中で、「遺伝率」というものさしが提示されていた。これは、一卵性双生児と二卵性双生児の比較から算出した数値のようであるが、身長の遺伝率は90%近く、耳垢の遺伝率は90%以上、体重の遺伝率は50%程度、神経質さとリーダーシップの遺伝率は50%、等々根拠ある数値が具体的にグラフになっていた。普段われわれが何気なく使う「遺伝」「先祖から受け継ぐもの」「現代の若者は・・・(きっと親の世代のカルチャーやルールと違うことを言う言葉だろう)」などのあいまいな言葉が、そのカテゴリー後とに数値化されているのに感心。

 今週のある日、クライアントとの打合せ後に都心を探検し歩き回っていると、ラフォーレ六本木の建物の前に、まか不思議な"TERRACE HOUSE"というCafeを見つけた。店内は土の素焼きを用いてアレンジされ、旧吉田茂邸に付けられていた瓦などアンティークな置物も置いてあり、和風の不思議な居心地良い空間であった。そこの女性のオーナーが、3人お子さんがいて、長男は30を超えているそうなのだが(だから年齢は60歳前後であろうか)、非常に美しい気高い方であった。彼女は、お茶・お花などは身だしなみとして当たり前で、他に合気道なんかも師範レベルまでたしなんでいるのだそうだ。彼女と、一杯の冷えたビールをさかなに、2時間ほど話をしたのだが、「日本人のDNAには、西欧のものよりも、和のものが心地良いように、情報が刻まれている」という話題が主であった。彼女に、とした気骨ある内なるエネルギーを感じた。

 どんどん流行に流され根無し草化する日本の若者文化や、それを仕掛けている日本の大人もメジャーになっているが、一方で「癒し」や「浴衣」がブームになっている。これらがブームで終わるか、根付くかは定かではないが、DNAに刻まれた過去からの情報の蓄積が日本人独特の部分を有していること、そしてそれが感性や行動にインパクトを与えている事は、科学的にも間違いなさそうである。まだまだこの部分を、追求・考察していきたいものである。


99/7/11

 金曜日の夜にクライアントとの打合せが19:30に終わったので、20:19から歌舞伎座の一幕見席で猿之助を観た。観覧料が700円なのだが、これが意外なほど楽しいのである。歌舞伎は年に3、4回観るのであるが、いつも一階か二階でみていた。三階の一番後ろに立って見る「一幕見席」は、今回が初めてである。

 20:10に歌舞伎座の前につき、15m位の列の一番後ろに並ぶ。半分くらいは、外国人である。20:12頃、入場が始まり、消費税込みで700円を払い、急な階段を3階へかけあがる。3階へ着くと、既にガヤガヤと皆下の方に見える舞台を、期待を持って見下ろしている。この雑然としたガヤガヤ度は、いかにも田舎の芝居小屋の様である。最後尾だけ非常に白人比率が高く、英語混じりなのが、また怪しげで楽しい。いよいよ猿之助「伊達の十役」の三幕目が始まる。少々声は聞きずらく、またオペラグラスを持ってこなかったのは悔やまれるが、歌舞伎は歌舞伎である。猿之助の登場と共にかかる、大向こうが心地良い。何度か巧妙な早替わりがあるが、隣のアメリカ人は替わっている事がわかっていないので、小声で教えてあげる。彼らも驚き、さらに食い入るように見つめる。小気味良いテンポで、詮議の祈願から、詮議、大立ち回り、悪者が無事やっつけられて勧善懲悪の幕切れまで、一騎に進み、ほぼ1時間。まわりの興奮と共に、S席の1/20以下の値段のせいもあるが、リラックスして楽しく見ることができた。

 ちなみに、隣のアメリカ人のおばさん2人が言っていたのは、まずBeautiful!を3回くらい連発、そして黒子について興味深げに何をしているか質問、早替わりと大立ち回りを明るく楽しみ、台詞を今の日本人も6割くらいしか理解できないことを聞いて安心、という所か。私もついついBravo!という大向こうを掛けたくなりはするが、新たな夜の楽しみを発見して、大満足であった。


99/7/4

 元祖恵比寿ラーメンについて書き忘れたのだが、あそこのチャーシューの旨味は非常に高いレベルにあります。一口ほおばった際に口の中に広がる、丁寧に染み込んだ肉汁のおいしさ・香ばしさは、えもいわれぬ瞬間です。

 ついでに書くが、ラーメンというのも不思議な食べ物で、海外に滞在している際に、一番食べたくなる日本の食べ物のような気がする。以前、イギリスに数ヶ月滞在した際に、3週間目で、あっさりとしてこくに欠ける英国料理に飽きてしまい、ついにインド料理で辛く上手いカバブ−を食べたときに感激をした記憶がある。(旧英国領だった理由から、おいしいものの少ないと言われる英国内で食べられる唯一の、塩気と旨味ある料理だと思う。)同じように、麺とチャーシューの味が恋しくなるのである。

 そして、味噌、醤油、塩、豚骨等のだしの種類や、麺の固さ、油の量まで様々あるが、日本各地の風土により、その地で一番おいしく感じられる組み合わせが発展しているのは興味深い。私は札幌出身なもので雪に覆われる寒くて楽しい冬には札幌のこってりとした味噌ラーメンが似合うし、「小ダブル野菜にんにく辛目」と呪文を唱えてお世話になったラーメン二郎のように貧乏学生にはうれしい店もある。もちろん寿司や天ぷらもあるが、これだけ、競争の厳しさ・価格のやすさ・種類の豊富さ、と3拍子そろった日本の食べ物は他には無いように思う。 またいつか、私のラーメン論をもう少し書きたいが、今回はこれにて終了。


99/6/30

 先日の金曜日に久しぶりに恵比寿の恵比寿ラーメンに行った。大学時代(15年位前!)に屋台の時から、一応店舗の形になりながら椅子が無くとも大盛況の時代を経て、年に数回訪れては食していた。醤油味の典型的な東京ラーメンで、最高 TV東京系の番組で、全国3位にもなったことがある店であった。髭を生やしたサーファー親父が店を離れてしまったと噂で聞いたので、確かめに行った。店の外見は変化は無かったが、店内は椅子もでき結構すいていた。ラーメンも表面上は、昔の恵比寿ラーメンと変りは無かったが、麺の固さの変化や、なんと言っても黙った親父が丁寧に丁寧に麺を最後に盛る手つきが無いのが残念であった。

 とある筋から、昔の親父が六本木で店を開いていると聞いたので、早速今日行ってみたのである。元祖 恵比寿ラーメンという、六本木交差点からすぐの所である。入り口に親父さんの似顔絵が書いてあったり少々ミーハ−にはなっているが、また店内に椅子を置きビールも飲めると少々こだわり度は薄れたが、ラーメンは昔変らぬピュア−だがほんの少しだけひねりの効いた華のある味である。明日も仕事があるので、一番おいしいにんにくチャーシューが頼めなかったのは残念であった。なお、にんにくは昔はぶつ切り状態だったが、今は摩り下ろしてしまうらしい。でも、翌日一日臭っても良いのならば、にんにくチャーシューが絶対のお勧めである。店内は随分とすいていたのであるが、是非お勧めであるので、機会があれば行ってみると良い。お酒の後の一杯としても、感動ものであると思う。がんばれ、寡黙なサーファー親父!


99/6/24

 初めて日本舞踊において、自流(坂東流)以外の流派(今日は花柳流)の踊りの会を観た。国立劇場 小劇場の花柳小富の会である、新しい発見があり、感動であった。「群舞による美しい女性の踊り」という観点では、振付も細やかでおもしろく、衣装も艶やかであり、こういう理屈抜きのハッとさせる美しさという意味では、すばらしかった。Bravo!

 クライアントとの打合せを2つこなし、40分遅れで、「娘道成寺」の途中で入場。本日の主役である花柳小富さんの踊り。病気の後とのことで、膝が痛そう。道成寺なのだが、鐘が出てこなかったのが残念。

 一番良かったのが、「俄獅子(にわかじし)」。5人の芸者が次々に舞い踊り、最後に獅子頭を持って終わり、という美しく興がある作品。演技者も脂がのっている人達だったし、着物が黒基調に真紅の襦袢(?)を片腕出して、小気味良く踊るさまは美しく気持ち良かった。順次踊る際に比較すると、踊りの切れが良い人、まろやかな人など違いがわかり参考になった。

 最後に「二十五里」という、これも花柳小富さんが、粋に男の旅行者を演じるもの。踊りは、こういう重鎮の年を召されたなりのかわいらしさが表れてはいるが、少々小さくきれいにまとまっている気がした。昨年、坂東三津五郎と八十助の「寒山拾とく」を観た際に感じた自由奔放さがあるともっとすばらしいと感じた。踊りでも、守・破・離の3段階があるのかもしれない。今回の踊りは守の完成形に近いのだろうし、三津五郎のそれは離の境地に達しているのだろう。別にどちらが良いというものでもないが。

 と、偉そうな事を言っているが、男役なら坂東流、女役なら花柳流、というのを強く感じました。一緒に観たのが知的で美しい女性3人だった故もあるが、非常に触発され楽しいひとときであった。


99/6/21

 昨日 日曜の夜NHK教育で、猿之助と台北の京劇台北新舞台京劇団を率いているコウシンポ氏(確かこのようなお名前であった)の対談を見た。京劇を舞台でもTVでもきちんと観たことはないのだが、部分的な公演の様子を見てみると、完全に舞台美術がシンプルな東洋オペラという感じであった。コウシンポ氏の言葉でおもしろかったのは、京劇というのは舞台の背景が無い故に、演技や踊りでどんな場面かまでも表現しなくてはいけない、という言葉である。

 日本舞踊でも、藤娘の様に大きい舞台がしつらえてある演目は良いが、素踊りになると手と身体の動きだけで、海から風から桜までを表現しなくてはいけない。きちんと約束事が演技者も観客もわかっていれば自然にシーンが理解でき演技の内容に集中できるのであろうが、たまにしか観ない現代人にとっては全てが抽象的な動作に見えてしまい、演技の中身を吟味・味わうところまで行かないのではないか。なかなか表現する側としては、難しいところであると思う。

 京劇界と共に、経済界の重鎮でもあるというコウシンポ氏が寂しそうに言っていたのは、演技を考え実行している時はストレスの発散にもなり楽しいが、若い世代に京劇が疎遠になっているということである。それに対して猿之助は、現代にマッチしたスピード感の大切さを述べていた。翻って、歌舞伎はまだ人気が多少上向いている面はあるが、日本舞踊に関してはジリ貧であるように当事者として思える。流派が乱立するのも良いが、顧客に対するアプローチや、教え方に対するメソドロジーも戦略的に作戦をたて実行しないと、いつか単なる保存文化になる危険を孕んでいるように思える。20〜40代にも習う人を拡大すべく、合理的な対応をしてみるのも必要だと考えるのだが・・・。


99/6/18

 最近とある理由から住宅の購入を考え始め、何冊の住宅や建築に関する本を読んでいる。普段は存在の理由などを考える事は少ないが、有名な建造物は夫々建築家が様々なコンセプトを提示していたことがわかり面白い。日本の建築物を考えたときに、もちろん奈良、京都、東京などの校倉作り、数奇屋作りなどが思い浮かべられるが、ここ数年で強いインパクトを受けた建物として、新しいJR京都駅がある。

 原広司氏の作品だが、まさに映画「トータル・リコール」で主演のシュワルツネガーが最後に突き破ったの火星基地そっくりであり、中央コンコース上のオープンな喫茶店で下界を見ながらお茶をしていると自分も空中浮遊をしてみたい誘惑にかられる、圧倒的な建物である。まさに清水の舞台から飛び降りたくなる心地を抱かせる。京都の開都1200年記念として構築費800億円のコンペでデザインが選ばれ、原氏は、京都の盆地としての特性や、通過ではなく滞留する空間として巨大階段を表現したそうである。もちろん、あの建物が古都京都にふさわしいものかどうかは議論を呼ぶところであるが、あそこまで未来的であるとタイムマシーンの入り口の様で、気持ち良い。これも未来的な新幹線の500系で乗り付ければ最高である。今までに2度訪れたが、また入り口の京都駅と、そして幾多の古い寺社で、涼しげな時間を過ごしたいものである。私は、新しい京都駅が好きである。


99/6/10

 久しぶりに、喧騒の中 六本木WAVEに行ってCDを試聴。坂本龍一のリゲインのテーマ、ニュース23のテーマ、そして汽車屋のテーマからなるうらBTTBの美しさに打ちのめされる。疲れた頭と心と身体に、彼のピアノソロが麻薬の様に心地よいトリップをもたらす。彼の戦メリ以来の美しいメロディーラインって、微かな東洋っぽい旋律が、デジャブの様に心の奥底の琴線に触れるんだよね。六本木の街中で、しばし入り込んでしまいました。彼のメロディーって、西欧の人にはどう聞こえるのだろう?

 次に聴いた 坂本美雨の汽車屋のテーマの歌もこれがさらに良い。坂本の旋律に、大貫妙子のような透明な声が加わると、最初の音がとぶ高音部でもう坂本ワールドへ連れ去られる。

 う〜ん、汽車屋は、以前の日記でも要注意と書いたが、これでもかと、日本人の心根の痛いところを突いてくる。おそるべし!

 (浅田次郎の汽車屋の単行本で、最後の話(京都の映画館と惑える熟年夫婦のストーリー)は、なかなか趣があって良かったです)


99/6/6

 ここ2回の週末に鎌倉より江ノ電に乗り、小旅行を楽しんでいる。紫陽花が少しずつ色づいてきている。極楽寺駅のホーム、極楽寺駅でおり成就院へ(すごい名前の組み合わせですね。極楽寺駅の近くに、「極楽亭」という喫茶店兼骨董屋があるのも、一度入ってみたい気をそそられます)行き、成就院の上より由比ガ浜を眺め下ろすと紫陽花の列の先に海が見える。その風景をキャンバスに描いている人達がいる。

ゆったりとした時の流れ、やわらかい風、淡い色の花。

こんな古風な街姿と気持ちの良い風を、たくさん訪れているForeigner達に負けずに、日本人も今一度味わうべきであると思う。


99/6/4

 テレビでの高倉健主演の映画「汽車屋(ぽっぽや)」の宣伝における雪の美しいシーンに刺激され、新田次郎の原作を読んだ。旧来の日本の男、家庭よりも仕事一途で不器用な男、の典型の話。その男が、自分のSLからジーゼルへそして利用者減で廃線へ、そして場所は北海道の片田舎という、お定まりのパターンなのだが、久しぶりに読んだ通俗的な小説にて、これはこれでジーンと来てしまう。

「日本的」と一言でいっても、平安時代を中心とする宮廷文化、鎌倉〜江戸前半の武家文化、江戸後半の商人文化、そして、明治に入り、西欧追随文化、それの反作用である私小説文化、アウフヘーベンされた耽美文化、アメリカン文化、だいたいこのような各文化に分解されると思う。日本に生まれ日本に育った私でも、その場の環境と対象物により様々なアイデンティティが顔を出す。この様な各文化が、カオティックに渾然一体となっているのが、今の日本人であると思う。

私の場合は、長年札幌で育った為に、「」というものに過剰に反応してしまうのだが、この季節にこの「汽車屋」が話題となっているということは、一般の日本人もこの話が心の琴線に触れる要素を多分に含んでいるのであろう。ただし、このような愚直に仕事一筋というのは、一番救い様の無い美意識であるし、行き詰まりの経済をさらに悪化させるだけだと思うのだが・・・。この、切ない心地よさの感覚の基を、これから探ってみたい。


99/5/23

 SONYが世界で5000台、エンターテイメント・ペットロボットのAIBOを発売するという。動作のモードが3つあり、パフォーマンスモード、ゲームモードに加え、自律モードがあり、自己学習するらしい。確かにMACの熱帯魚飼育(名前を忘れた)や"たまごっち"に代表されるコンピュータ内での学習成長は今まであったし、それなりに人間が感情移入できるような、愛嬌・かわいさが実現できていた。AIBOがすごいと思ったのは、テレビのWBSでも2台のAIBOをキャスターの前で遊ばせていたが、3次元の動きで愛嬌やかわいさをそれなりに表現できていた点である。

 舞踊を習い始めて感じたのは、自分の身体でさえ、普段の動きとは異なる動作をコントロール(制御)するのは意外に難しいということである。それがゴルフや水泳等のスポーツであれば、訓練をすれば少しずつ複数個所の気をつけるべきポイントを、上手くコントロールできるようになっていく。ゴルフの場合ですら皆苦労しているのであるから、稼動個所や範囲が一本一本の指先にまで及ぶほど広く、曲や役柄により多様な動きを要求される舞踊は、自分の身体とはいえ、情けないくらい制御できないのである。確かに躍りの名手となるには、幼少の頃から始め熟年に達するまでかかるわけである。

 躍りでも、実は速いテンポより遅いテンポ、真面目な表現より可笑しい表現の方が、難易度が高い。AIBOの制御は、前後手足+頭口尾の7箇所の様である。今後、どこまで制御の個所や表現内容を洗練させることができるか、期待したい。世紀末の世の中、自分を喜ばし、慈しみの感情を持たせてくれる対象には、きっとマーケットができると思う。パソコン1台の値段を考えれば、25万円という価格は決して高くはないであろう。

 (AIBOは、AI+ロボットと「愛慕」よりネーミングをしたのかと思ったが、「相棒」からとったらしい)


99/5/14

 民放TV「驚きもものき20世紀」で敬愛する歌舞伎俳優の市川 猿之助に関する特集をやっていた。ちょうど私の生まれた年に、祖父を無くしたため襲名披露でいきなり黒塚を躍り、孤軍奮闘で公演を続け、私が社会人となった年に義経千本桜で宙を舞ったそうである。私が歌舞伎を見始めたのは、彼の歌舞伎を観てスピードとパワー(日本語で言うと「かぶく」「けれん」という言葉か?)に圧倒されたおかげである。彼曰く、明治以降の歌舞伎へのアンチテーゼ、そして江戸歌舞伎への回帰として、現在のスーパーカブキのスタイルができてきたそう。

 彼の舞台は、宙乗りや早変りばかりクローズアップされるが、底辺に流れるのは生を受けた人としての理想とロマンの追求と、オーラと存在感のある演技力であると思う。理想とロマンの部分は、彼の祖父・父をはやく無くし、結婚生活も上手く行かない所からも来る、彼の強烈なアイデンティティーの様に思う。演技は、(正直言って若い女性役は買えないと思うが)義経千本桜の知盛の様な男の壮絶な生き様や、こってりとした嫌味のある悪婆などは、他の追求を許さないと思う。猿之助も59才だが、まだ理想を追って上昇し続けている。私も、創造性を少しでも発揮した生き方をしなくてはと、襟を正す。


99/5/8 

 天気が良い。3才の子供をつれて、木場の東京都現代美術館へ荒木経惟の「センチメンタルな写真、人生」展へ行く。1枚2m以上ある色鮮やかな花のカラーコピーが、まず出迎える。圧巻だったのは、第4室。まず、高さ15cm位の昔懐かしセルロイドのゴジラやトリケラトプスが部屋に20体程並べられる。壁には、大きな大きなカラーの人妻ヌードとモノクロの中年男性顔の写真の対比が不思議なリズムを作っている。他にも裸や都市の像が渾然一体となって提示される。イメージが触発される。すごい。しかし、その中でも、着物の存在感というものは独特のものがある。

 子供がぐずるのでゆっくりとは見れなかったが、500円で金曜日は21:00までやっているという、お勧めできる場所である。


99/5/5

 連休に横浜のMM21へ行ったのだが、展示してある帆を一杯に広げた日本丸のまわりに、多くの小型から大型のカメラを携えたカメラマンがいた。最近、デジタルカメラの普及と平行して、銀塩写真の方も若い女性から熟年の層までブームになりつつあると感じる。私も、35mmの一眼レフに43mmのレンズ一本で撮ることが好きであるが、アナログ写真の「撮る」という行為には、独特の質が存在するように感じる。

 今年の2月にNHKで荒木経惟の特集を見たのだが、彼は大柄なPENTAX67を軽やかに扱いながら、「シャッター音を含めたリズムが大切である」「2人の空間と時間の共有が大切である」と語っていた。彼の様にEroticな時間を女性と共有するわけではないが、アナログの儀式もまだまだ追求しようと思う。


99/4/30

 先日J-WAVEを聴いていたら、Misiaがゲストで出て、「R&Bとは?」という問いにこう語っていた。「R&Bとは、切ない歌のことである。切ないということは、決して悲しいということでは無い。うれしい時にも、切なさを感じるときはある。この切ないという感覚を大切にしたい。」という意味の事である。

 日本の行為全般がコンビニエントに向かう中で、熱い思いこみを抱くこと、それに従い行動すること、時には壁にぶつかること、等がカッコの悪いものになりつつあると感じる。案外R&Bに限らず、「切なさ」をたまには感じたり、味わったり、そこから表現することも、日本の良さの再発見につながるかもしれない。


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