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6.カセットビジョン(本体編)
高価なコネクタ
寺町:さて、ここからはいよいよ原様が参加されたカセットビジョンのお話をうかがいたいと思います。
原:あまりよく憶えていない(笑)。
寺町:まず、テレビゲームのような大きな商品が企画される場合、どういった流れのお話が、開発側には来たわけでしょう?例えば、部長さんが誰かが、テレビゲームやるぞーと声をかけて召集があるとか。
原:誰発で来る・・・というか、開発で決めたんです。上からやれ、という形じゃなくて、下からですよね?
堀江:そうだねえ。
原:当時は特に。僕が入った当時、すでにテレビテニスとか、野球とか、ブロックでしたっけ?そこらへんのベースがもうあって、その開発の延長線上でもう開発がスタートしていましたんで、じゃあ次何?って感じでしたよね。毎年毎年出していくという定番ラインになっていましたから。
寺町:定番ラインですか。
堀江:なんとなく、もう、暗黙のうちにやるんだよね(笑)
原:ようするに、今でもそうなんですけれど、デビューしてよければ、続くものであれば、当然続いて、そのままラインとして定着させるというのが基本ですからね。それにテレビゲームというのもきちんとはまっていたと。それで、僕が入った当時に、それがもうできていたと。
寺町:はい。
原:それで、あと、このカセットビジョンで、うちとしては初めてカセット式になったんですよね。そこくらいですかね、テレビゲームの展開がちょっと変わったのは。それとその後にスーパーカセットビジョンってのが出ますけれど、それはその第二世代機という形になって。単体のテレビゲームからカセット式にしたのは、うちにとってひとつの転機になりましたね。
ただ、そのベースは、寺町さんもご存知の通り、うちが最初じゃなくて、海外のものとか他社のものとかあるんですけれど、本格的にやったのがうちが最初だったのかもしれないですね。他は全部続かなかったですからね。
寺町:流れが・・・、エポック社さんだけですね。システム10からアタリをはさんで。
原:他は結構、単発でやってたかと思うんですよね。
寺町:じゃあ、カセットビジョンは、まず御社のテレビゲームが売れているという流れがあり、海外の流れもあり、じゃあそろそろと?
原:日本でもそろそろカセット式がいけるんじゃないの?と。それで当然つくるんであれば、その当時のやつはカセット式といっても値段が高い・・・
寺町:ええ、そうなんですよ。
原:やるんであれば、当然低価格でできないか?というコンセプトでやったんですよね。
寺町:価格はかなりキラーだったと思うんですよ。12,000円+1,500円のアダプターという。
原:ぼくはその当時、カセットビジョンのコスト管理を担当したんですよね。かなり値段苦労しましたよ。
寺町:へえ。
原:ふつうは電子部品とか、こっち(研究室)の方に頼むんですけれど、例えばカセットをつなぐコネクタってのがあって、コネクタひとつで何百円とするんですよ。
寺町:ほお!
原:それを部品メーカーさんを呼んでね、何度も何度もネゴして(ネゴシエーション:交渉)。数社あたって、コネクターのコストダウンに苦労した記憶がありますね。耐久性とかも考えなきゃいけないし。材質も何にするかってやっていました。最終的に・・・半分以下になったのかな?それはいろんな手を使いながら、このコードをこうだとかやって。
寺町:カセットビジョンって分解したら、割と何も入っていませんよね。でかいコントローラーみたいな。だからそんなにコストは高くないんじゃないかとおもっていたんですけれど。
原:いやいや全然。ひとつひとつの部品、全部洗い出しましたもん。かなり苦労しましたね。開けられたらご存知かと思いますが、配線とかソバみたいにグチャグチャ入っているでしょう?あそこのところをもうちょっと整理すれば安くはなったんでしょうけれど。あの当時、フラットケーブルとかは・・・あったんでしょうかね?
堀江:うーん、ないだろうねえ
原:今やればもっとすっかりかんたんに。ようするに基盤自体をチップにしたり。本体の中って何が入っていたんでしたっけ?(堀江:モジュレータと電源とボリュームと・・・)脳ミソはカセットですよね。
寺町:こちらのパンフにスペックが載っています。
原:ボリュームも、これ4つ使ってましたし。コネクターがね、確かすごく高かったと思うんですよ。
堀江:コネクターがね。
原:放熱板なんか、すげえのつけてましたよね。やけにでかい・・・最初は僕、電子関係のほうはあまり詳しくないから、なんですかこれ?はと(笑)。アルミのこんなでかい。どこにも繋がっていないような気がするんですけれどどうしてですかって。(笑)
堀江:ヒートシンク率は高いよね。(※ヒートシンクがついている確率が高い)
原:熱をそっから逃がすってことで、できるだけ表面積を大きくするために、串状になっていたり、そういうやつをガーンってくっつけているんですよ。
寺町:電磁波対策と?
原:電磁波じゃないんです。そっちのやつなんですね(笑)。
ものすごくハードな開発
寺町:カセットビジョン本体の開発期間はどれくらいだったんでしょう?
原:あの当時は大体1年くらいかけてつくるっているパターンだったんですね。
堀江:1年に1個だったね。これはいつだったっけ?
寺町:'81年の6月か8月か。80年12月にはテレビベーダーが出ていまして・・・
・・・しばしあいだがあき、・・・
堀江:1年弱くらいだろうね。
寺町:当初は、テレビカセットビジョンだとか、いろんな名称が生まれていたようです。
原:そうですね。それはネーム決定までいろいろあったと思うんです。
寺町:それと、これは以前に堀江様にもうかがったんですが、開発開始から発売まで1年弱ですか、開発機がたった1台しかないのに、どうやってそんな2本もの新作が出せたんでしょう?
原:開発機が1台・・・1台でしたっけ?(堀江:うん、1個だね)ビッグスポーツ12も出たんでしょ?とにかくすっごくハードだったんですよ。本体やりながら・・・ちょっと仕様書書いてデバッグやってってぐちゃぐちゃでしたね。
寺町:うはは(笑)
堀江:そうだよね。社内でプロトタイプでデバッグできないものね。ESでのデバッグ。
原:あ、向こう行ってやってたやつですか?向こうずーっと行って、しばらく向こうに出社する時もあった気がする。ソフトハウス・・・ソフトハウスっていうのかな。(堀江:NECだね)あ、NECですね。でやってましたね。
寺町:でもやっぱり短期間で作られたものなのか、それともカセットビジョン以外の単体マシンとして開発されていたものなのか?
原:それはないです。これをやるってことで、新作と移植作でとにかく間に合わせようという形になったと思いますね。だからすっごいハードで、短期間でワーっと作ったんだと思います。
寺町:その割には完成度の高い2本なんですよね。
原:この頃は情熱が(笑)。かなり夢中になってつくりましたよ。このパターンだって、毎日描いていましたからね。この頃はやはりこのくらいのドットパターンですから、全部自分でデザインもできるんですよ。全部自分で画面構成やってましたから。そうすると、暇なときはぜーんぶ、あの方眼紙みたいなものに鉛筆で描いていましたよね。
古畑:そういう中から)名作(カセットビジョン・木こりの与作のへびができてきているわけですよね。
原:へびだって、これいろいろ考えているんだよ。(笑)