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1.研究室と電子チーム
原 洋(はらひろし)氏は1979年入社。以前このコーナーに登場いただいた堀江 正幸氏の2年後輩にあたる。当時は主に電子ゲーム、テレビゲームの仕様設計などを担当されており、現在はゲーム・トイ事業部の次長としてTV体感ゲームシリーズやテレビパソコンシリーズなどのマネジメントをされている。今回のインタビューでは、広報宣伝室の望月次長、そして前回に引き続き、現在OA推進室でシステムを担当されておられる堀江次長に立ち会っていただいた。
左より、望月氏、原氏、堀江氏
(※以下、敬称略)
寺町:原様のご志望は、最初から開発部だったんですか?
原:えっと、受けたときは、なんにも考えていません。で、面接で動機を尋ねられますよね。そうするとなんだか雰囲気的に「開発です」って言った憶えがありますね。
寺町:あらら(笑)
原:それで、その当時の担当の部長ですかね、その方に「最初から開発はムリだよ。最初はみんな営業行くんだ」って言われました。
寺町:そうらしいですね。
堀江:でもこの辺(1980年頃)あたりから入っちゃったよね。
原:最初に入ったのは、開発部のラジコンチームです。
寺町:エポック社には、盤ゲームもあったし、いろいろ分かれていたと思うんですが。
原:そうですね。あの頃は開発部はひとつで、その中でチーム分けされていたんですよ。電子ゲームをつくるチームと、例えば、盤ゲームをつくるチームとか。あの頃は盤ゲーム全盛期だったんで、盤ゲームだけでひとつのチームだったんですよね。それとか、あと、うちで言えばデルタックスですとか、プレイドゥーとかそういうトイ関係をやっているチームですとか、あとは野球盤とかそういうアクションゲームをやっているチームでですとかいろいろ分かれていたんです。
で、僕が入る前頃くらいから、電子ゲームをエポック社は大分やっていたみたいで、そういう部分もあって、開発とは別枠の研究室というものがあって、そこに・・・何名くらいいたんですかね?
堀江:3名、4名くらい。
原:最初は3人で、その後、井上が入って。
寺町:そのチームで、テレビゲームも電子ゲームもまかなわれていたんですか?
堀江:っていうか、そこは中の(回路の)設計をやってたんだよね。で、こっち(原様側)は、なんて言うか・・・仕様。
原:基本的にあの当時は、テレビゲームも電子ゲームもそうなんですけど、ハードってのは設計、特に電子関係の設計ですよね、どういうチップ使って、どういう基盤で設計してっていうのは僕らはわかんないものですから全部そっちにまかせていました。
ようするに何をしたいかっていう遊びの内容。例えば”こういうゲーム内容です”とか、あるいは本体の形とかプランの設計とか、そういうのはソフトという開発担当がやっていて、それと研究室のメンバーとペアで大体やっていたんです。
カセットビジョン開発期(1981年頃)の社内のスナップ。
左が堀江氏、右が原氏(わ、若い!!^^)。
右手奥の方(かた)にかぶる2段の機材は、下がおそらくシンクロスコープ(オシロ)で、上がブリッジとかいう、抵抗値やコンデンサーの容量を
正確に測るものではないかとのこと(堀江正幸氏提供)
寺町:原様はソフト開発に。
原:ソフト開発というか、その・・・電子チームですね。電子チームというのは、基本的にそういう遊びの内容ですとかプランの設計とかそういう部隊ですね。
一番最初はそことはまた別枠のラジコンチームってのがありまして、そこに1年・・・もいなかったかなあ、半年ちょいくらいそっちの方にいて、途中から電子チームの方が忙しくなって、電子チームの方に二人くらい、僕と一緒にラジコンやってた奴がそっちに移って・・・という形になりますね。
Hint de Pint
整理してみると次のようになります。
・原氏は、開発部にいくつもあるチームのひとつ、「電子チーム」に所属されていた。
・堀江氏はこの頃、エレクトロニクス系製品を設計する「研究室」におられた。