あれから数十年。そのトミー転じてタカラトミーが、少子化の影響とはいえ、大人のためのおもちゃ作りに精を出しているというのはなんだか複雑な思いだ。 iフォンや車、パチスロや家族旅行と、遊びに不自由しない大人は、心のすきまを埋めるためおもちゃへ助けを求めるようになるんだろうか。
ともあれ、玩具業界は現実的にそんなことを言っていられない。タカラトミーのスタッフは一丸となって人の心の豊かなを目指す。「そんなバナナ」のようにノリを重視するのも結構だが、願わくならばすきまよりは文化ってとこを狙っていただきたいのだ。
トミーの創業者、富山栄市郎氏は生前、世界中の社員にこう説いていたという。
「明日を担う子どもたちの健やかな成長を願い、みんなに愛される、独創性に富んだ、品質のよいおもちゃをつくり、より豊かな子ども文化の創造をめざそう」
幼少期の多感な時代、僕はファミコンではなく電子ゲームで育ってきた。当時の電子ゲームはDSやPSPほど卓越した能力も遊びのバリエーションもなかった。大人は100円を入れてアーケードゲームを優雅に遊べた。けど僕ら子どもはそのミニチュア版の”ハンディ”ゲームしか遊べなかった。金も時間もなかったんで、安いインスタントラーメンしか食べられなかったんである。けど、子どもはそんなインスタントラーメンの味が大好きだったりするんだよね。
僕らは電子ゲームを楽しみながら、その立場の弱さを無意識に重ねていたのかもしれない(電子ゲームのサイトが少ない理由は、そんな昔を忘れたいというエクスキューズなのかもしれない?)
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ここに紹介したトミーの電子ゲーム、つまり僕が好きだった電子ゲームたちには、ある一点において大人のフィールドを揺るがす部分が必ず存在していた。 腕時計以上に価値のあるモンスターヒーロー、カラー液晶より美しくアーケードゲームに肉薄するMr.DO、ステレオグラスの中でゲームができるおもちゃ。構築美の極地を見せられたスクランブル。ミサイル遊撃作戦のモダニズム建築(東京カテドラルの聖マリア大聖堂の正面にそっくり!)を思わせるデザイン。
大人たちがそれを知ったら、目を白黒させたに違いない。どんなもんだい、心もとない僕たちにだってこんなすごいところだってあるんだぞ。僕が感じたのは、そんな一瞬の可能性だったように思える。
だけど、結局その反撃はたった一瞬だけだ。僕たち子どもは結局大人にはかなわず、日常の流れの中に押し戻されていった。そういうものだったのだろう。そういうものだったのだ。
僕らが電子ゲームからもらったものって?しょせんはファミコン以前という挫折感なんだろうか?
子どもの頃、電子ゲームと育ってきたあなたには一度考えてみてほしい。あなたの気持ちはあなた自身にまかせたいと思う。
僕? 僕の手の中には3-Dステレオゲーム「ドッグファイト」という集大成がある。
濱野氏をはじめ、当時の開発チームは、今、こう言いたんじゃないだろうか。
「やるべきはすべてやった。伝えるべきこともすべて伝えたよ。寺町君」。
はい。
次は僕の番ですよね。
僕は”未完成”というテーマのバトンを受け取ったんですね。
自信は無いけどやってみます。
玩具クリエイターでない僕は、電子ゲームとは違う分野で、3-Dステレオゲームの先を追い求めていこうと思います。