第1次世界大戦後、国際連盟が発足して大国の秘密会議による平和ではなく、オープンな問題解決が指向されたが、アメリカは加盟しなかった。また、ワシントン会議により、アジア・太平洋地域に関する国際秩序を規定した3つの条約が締結された。
図表2.16(再掲) 大正デモクラシーの時代
ヴェルサイユ条約の一部として国際連盟規約が採択され、1920(大正9)年1月10日、国際連盟が発足、これまでのように国際紛争を大国間の秘密会議で解決するのではなく、中小国も参加して国際法に基づいて解決しようとした。42か国が加盟し、日本はイギリス、フランス、イタリアと並んで常任理事国となったが、設立を提案したアメリカは議会の反対で加盟せず、ソ連も1934年まで加盟しなかった。アメリカの不参加理由は、モンロー主義など複数の理由があったが、日本人の移民や帰化における人種差別撤廃要求を嫌ったことも理由の一つであった。
アメリカでは1920年に行われた大統領選挙で、国際連盟への加入を拒否した共和党のハーディングが当選した。折しも、日英同盟の継続問題、海軍軍縮問題、中国問題など、パリ講和会議で議論されなかったり、未解決だった問題に対応を迫られたハーディング大統領は、1921年春、関係国にそれらを討議するための国際会議の開催を呼びかけた。その結果、1921年11月から翌22年2月までワシントン会議が開催され、3つの条約――太平洋の現状維持と日英同盟の廃止に関する4カ国条約、海軍軍縮に関する5カ国条約、中国の門戸開放に関する9カ国条約――が締結された。これらの条約により規定された第1次世界大戦後のアジア太平洋地域における国際関係を「ワシントン体制」と呼ぶ。
日本は全権として海軍大将・加藤友三郎、貴族院議長・徳川家達、駐米大使・幣原喜重郎が参加した。原敬首相は、ワシントン会議を米英との協調を取り戻して国際関係を再構築するチャンスとみていたが、会議開催ほぼ1週間前の1921年11月4日、東京駅において暴漢に襲われ、暗殺された。
日本、アメリカ、イギリス、フランスの4カ国の間で、太平洋の島嶼にある各国の領地・属地に関し、相互の権利を尊重することが決められ、日英同盟は廃止された。最初に提示されたイギリス案は日英同盟に米国を加えた3国協商案だったが、この提案を受けた幣原喜重郎は、軍事同盟を視野に入れたこの案ではアメリが承諾しないだろうと考え、軍事色を取り払って3国により協議するという案を提示した。アメリカはこの案にフランスを加えて4か国で条約は締結され、日英同盟は廃止された。
日英同盟廃止については、{ノスタルジックな思いとともにしばしば回顧される。}(熊本「幣原喜重郎」,P83) という指摘があり、そのとおりの声も聞こえてくる。{ 大東亜戦争に至るまでの孤立と苦難の20年間を思ふと日英同盟消滅せざりしかば、の感を深くせざるをえない。}(中村粲「大東亜戦争への道」,P181)
当時の3大海軍大国はアメリカ、イギリス、日本である。アメリカは大戦中から世界最強の海軍を建設する計画をたてており、それに対抗して日本はいわゆる八八艦隊(戦艦8、巡洋戦艦8)の計画をたて、イギリスも建艦競争に乗り出していた。だが建艦競争は各国の財政に大きな負担をかける。アメリカは議会からの圧力もあり、軍縮の為の会議を関係国に提案し各国もそれに応じた。
海軍軍縮に関する会議は、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの5カ国で行われ、主力艦の総トン数比率を米・英5、日3、仏・伊1.67とすることが決定された。日本は対米比7割を主張したが、6割で決着した。海軍も6割やむなしで、この結論を受け容れた。全権の海軍大将加藤友三郎が、日米関係全体を考慮するなど、開明的な考えの持主だったことも影響しているようだ。
上記5カ国に、オランダ、ポルトガル、ベルギー、中国が加わった9カ国で締結され、中国の主権・独立・領土保全の尊重をうたい、門戸開放、機会均等の原則が確認された。日本の満蒙権益について否定はされなかったが、その拡大は難しい状況になった。また、米・英立会いのもとで中国との直接交渉が行われ、山東省の旧ドイツ利権の大半は返還されることになり、21カ条要求の一部も破棄された。また、シベリアからの完全撤兵も決定した。さらに、中国における日本の特殊利益を認めた石井・ランシング協定(2.6.3項(8))も破棄された。
これで、中国問題は一段落するかに見えたが、北京政府の統治能力が低下している一方で、中国のナショナリズムはワシントン体制を不平等条約体制の継続とみなして反発を強めていった。中国が共産党勢力の拡大の影響も受けて利権回収を開始すると、ワシントン体制は大きく動揺することになる。
第1次世界大戦後、国際環境は大きく変わった。アメリカが超大国としてその影響力を伸ばす一方でロシア帝国は崩壊してソ連が成立し、社会主義・革命がその周辺諸地域や新興国に伝播した。また、中国が国際舞台に登場し、それにアメリカが民族自決などの名目のもと関与を強めた。
このような変化とともに、国際的な組織や規範、ルールが変化してきた。
・国際連盟が設置され、様々な分野で国際協力の活動が行われるようになった結果、大国だけでなく、中小国も発言権をもち、影響力を行使することができるようになった。
・民族自決や内政不干渉が共通価値観となって、帝国主義が批判され、大国の論理や関係性だけでは世界を動かしにくくなった。
・平和が希求され、軍事行動や軍備に制限をかけるだけでなく、戦争そのものを違法化する流れも出てきた。
こうした変化に対して、日本人には次のような不満があった。
・近衞文麿は民主主義や人道において大事なのは平等であり、国際的には各国平等の生存権であると主張した。それは後発の帝国には領土などを拡張する権利がある、ということだった。先に発展した強い国が植民地を獲得して利益を独占し、後発国はもう打ち止めだ、という状態は機会均等の原則に反し、各国民の平等な生存権を脅かし、正義人道に反する、と主張した。
・日本人には、白人・欧米人から差別されている、と意識があった。いわゆる「黄禍論」は日清・日露戦争のころから伝わってきていたし、アメリカでは日本人移民が差別・排斥されており、1924年には「排日移民法」が成立して、日本からの移民が禁止された。日本人は世界で不当な扱いを受けているのではないかという国際社会に対する不信感が鬱積していった。
こうした日本人の不満を前向きにとらえたのが、石橋湛山と孫文であった。
石橋湛山は、「大日本主義の幻想」(「東洋経済新報」1921/7/30-8/13)を繰り返し主張した。「大日本主義=日本本土以外に領土もしくは勢力範囲を拡張せんとする政策」は、経済上・軍事上、価値がないとし、朝鮮・台湾・中国の人々は、日本人が白人の真似をし、自分たちを圧迫することに憤慨している、と言う。
この石橋の批判には、孫文と共通するものがある。孫文は1924年11月に神戸で講演し、ヨーロッパの「覇道文化」とアジアの「王道文化」を対比し、日本は西洋の覇道の「番犬」となるか、東洋の王道の「干城」※1となるか、と問うた。
※1干城(かんじょう) 国家を防ぎ守る武人
結局、日本人は石橋湛山や孫文の理想論的な選択肢は選ばずに、大国意識を抱えながら国際社会に反発する感情をそのままぶつけていくことになった。
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