原敬(はら たかし)は平民宰相として、大正デモクラシーを代表する人物とみられることが多いかもしれない。しかし、彼は普通選挙制を拒否し、自身の支持層であった地主層を優遇した政治家であった。
図表2.16(再掲) 大正デモクラシーの時代
原敬は1856(安政3)年2月9日、南部藩(現在の岩手県)に仕える武士の次男として生まれたが、家督は長男が継いだので彼は分家して平民となった。新聞記者を経て外務省に入り、1900年立憲政友会発足とともに加入、1914(大正3)年6月に総裁に就任している。
1918年9月21日、米騒動(2.6.4項(4))の責任をとって辞職した寺内正毅内閣の後任として、29日、原敬を首班とする内閣が成立した。首相推薦の任を担う元老の山県有朋は政党に強い警戒心を持っていたが、1917年4月の総選挙で政友会は山県・寺内の支援のもとで第1党の座を確保しており、原内閣を受け入れた。原はときに62歳、外相と陸海相を除く大臣すべてを政友会から出すという、初めての本格的政党内閣となった。
原内閣は積極財政を基本として、次の4大政策を進めた。
・教育の改善; 中等・高等教育の充実を目指し、高等学校(10校) 実業専門学校(17校)の増設、大学の学部増設、私立専門学校(慶応、早稲田、明治、法政など)の大学化などを実施。
・交通・通信の整備; 鉄道や道路、電話網などの整備・拡充。
・国防の充実; 海軍の八・八艦隊(戦艦8,巡洋戦艦8)の建造や、陸軍の21個師団の充実、軍備拡張や近代化など。
・産業の奨励・振興
原内閣の積極財政政策により、第1次大戦の戦後景気の到来と相俟って空前の好景気となり、政友会の支持基盤である地域の名望家たちを潤した。
積極政策は新たな利権を生み、汚職事件が続発した。満洲(関東州)の官僚によるアヘンの密売事件、満鉄副社長に炭鉱などを高値で売却した見返りに政友会への献金を要求した事件、明治神宮参道の砂利敷きの手抜き工事に東京市議会議員が関与した事件、東京ガスのガス料金値上げに絡む贈収賄事件、等々の疑獄事件が起こった。
普通選挙運動は、1897(明治30)年に普通選挙期成同盟会が長野県松本市で結成されて以来の歴史をもつ。1919(大正8)年2月11日の「憲法発布30周年記念日」には、各地で集会や演説会が開催され、全国的な盛り上がりをみせた。
同じ頃、政府、野党それぞれから選挙法改正案が出された。政友会の政府案は納税要件を直接国税10円以上から3円以上に引き下げるとともに、それまでの大選挙区制を小選挙区制にするというもので、野党憲政会の案は選挙区は現行のままで納税要件を2円にするというものであったが、政府案が成立し、有権者数は143万人から約300万人に増加した。有権者数は倍増したものの男子普通選挙の場合の4分の1に過ぎず、しかもその大半は政友会の地盤である農村地主であった。原敬もいずれ普選の導入を覚悟していたかもしれないが、現状を維持した方が、政友会の政権を継続しやすかったのである。
普選運動はその後も続き、1920年2月、野党はまたもや普通選挙法案を提出した。与党政友会はこれを否決できるだけの議席を持っていたが、原首相は衆議院解散を選んだ。解散して総選挙を行い、政友会が勝利すれば、次の総選挙までの4年間、「普選は時期尚早が国民多数の意見である」と主張し続けることができる。1年しかもたない議院での否決を避けて4年間有効の解散を選んだのである。1920年5月の総選挙で政友会は圧勝し、政友会の議席比率は約42%から約60%に大幅に増えた。
1920(大正9)年7月に大正天皇の病状が悪化すると、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の摂政就任が必要となった。原首相や山県有朋らは、これに先立って皇太子の海外視察を希望したが、皇后は天皇の病気を理由に承諾しなかった。
同じ頃、皇太子妃に内定していた久爾宮(くにのみや)家の母方に色盲の血統があることが伝えられると山県有朋は婚約の取り消しを主張した。それに対して頭山満や北一輝らの国粋主義者たちが反発し、山県を攻撃し始めたが、1921年2月、宮内大臣が辞任して収拾した(宮中某重大事件)。
他方、皇太子洋行問題は皇后の同意が得られないまま、天皇の裁可を得て、1921年3月に御召艦「香取」で渡欧し、英、仏、ベルギー、蘭、伊を視察して9月3日に帰国した。この外遊は皇太子の人間的な成長に大きな役割を果たしたと言われている。同年11月25日、皇太子は摂政に就任した。
原敬は力の政治家と呼ばれた。原内閣が政友会の絶対多数を背景にして権力の座をかため、普選の実現を阻止し、疑獄の続出にも平然と居座り続けたことは民衆の反感を高めた。
1921(大正10)年11月4日、原敬は東京駅頭で刺され絶命した。犯人は大塚駅の転轍手で18歳の中岡艮一(こんいち)であった。暗殺した理由や背後関係はわかっていない。
なお、翌1922年2月1日、山県有朋は小田原の別荘で83歳の生涯を閉じている。
第1次世界大戦後のヨーロッパでは民主化の動きが加速されたが、日本では社会改造に向けて次の3つの思潮がみられた。
・民本主義; 吉野作造は「黎明会」を結成し、戦後世界の新趨勢への順応を掲げて注目されたが、やがて社会主義の勢いに呑まれていった。
・社会主義; 1920年12月に「日本社会主義同盟」が結成されたが、直後に解散させられ、以後は共産党系、無政府主義、社会民主主義などに分かれて活動していくことになる。
・国粋主義; 1920年前後からは北一輝、頭山満、大川周明など国粋主義者の活動も活発になる。様々な団体が作られ、なかには社会主義者と共闘するような団体もあった。
民主化の要求への声が大きくなっていくことに対して、原敬などは民衆の暴発を避けるために一定範囲でその要求を取り込んでいくべきだと考え、次のような法整備や国民の教化活動を行った。第1次世界大戦以前の社会は、あらゆる面で特権階級本位のものであり、それを急激に廃止することはできなかったが、その特権をなくすきっかけにはなった。
・結核予防法や健康保険法の制定
・借地法、借家法、借地借家調停法、職業紹介所法の制定
・労働争議や小作争議に関する法の制定(後述)
・内務省主導の民力涵養運動として、健全なる国家観念、立憲思想、自治、公共心の教育・育成などが掲げられた。
また、大阪など地方自治体では貧窮化した都市住民を救済するため、公設市場や公設食堂が設けられ、安価で食糧などが供給された。また、市内の困窮者の調査・監視や救済を行う委員が設けられ、治安対策も兼ねて、困窮者の支援を行う仕組みがつくられた。これらの仕組みは東京をはじめ全国の都市でも実施されるようになっていく。
日本の労働運動の源流となったのは、1912(大正1)年に労働者の相互扶助団体として設立された友愛会である。1919年8月末、友愛会は大日本労働総同盟友愛会に改称したが、その直後、神戸の川崎造船所で賃金引上げを要求する争議が起こり、労働者たちはサボタージュで会社側に圧力をかけ、実質賃上げにつながる実働8時間労働制の採用などを獲得した。
この頃は労働運動が激しさを増し、足尾、釜石、日立などの鉱山や北九州の八幡製鉄所でも大規模なストライキが行われ。なかでも1921年6月から8月にかけて神戸の川崎・三菱両造船所の争議は35千人におよぶ労働者が、団体交渉権や賃上げを要求してストライキを行った大規模な労働争議となった。警察や軍隊までが出動して幹部はすべて検挙され、労働者側は「惨敗宣言」を出して争議は終了した。
この争議のあと、労働運動は困難になる反面で、急進化するグループも出てきた。
小作人と地主との間の小作料などをめぐる争議は、1921(大正10)年に急増した。工場などの労働者の給料に比べて、小作人の収入が極めて少ないことがわかってきたからである。1922年4月には日本農民組合が結成され、またたくまに全国に組織を拡大、農民の地主との闘争を支援するとともに、争議を調停する法の制定を要求した。調停法は1924年に公布されたが、調停にあたる裁判官は、農民運動が激化することをおそれて、地主に対して若干の譲歩を求めるようになった。そうなると、地主のなかには小作地を保有するより売却して別の投資に回したいと思う人も増えてきた。そこで1926年に自作農創設制度が制定され、小作人に資金を融通して比較的高い価格で農地を買い取らせて自作農化することができるようになった。
平塚らいてう らは、1911(明治44)年に雑誌「青鞜(せいとう)」を創刊して、「新しい女性」を宣言し、男性中心の社会を批判した。1920(大正9)年3月には、市川房枝・平塚らいてう らが「婦人としての、母としての権利の獲得」を目指して「新婦人協会」を設立、女性の選挙権の獲得、花柳病※1男子の結婚制限法の制定に向けて活動し、女性の政党加入や政治集会の主催・参加を禁止した治安警察法第5条の改正に成功している。平塚は「婦人の天職は母であるとし、恋愛、結婚、生殖、育児、教育を通じての「人類の改造(社会の根本的改造)」、「母たる権利の要求」を主張した。
翌1921年には、山川菊栄、伊藤野枝らが社会主義の団体である「赤瀾(せきらん)会」を結成し、「家庭奴隷」「賃金奴隷」以外の生活を許さない「資本主義社会」を批判した。
また、1922年にアメリカの産児制限の運動家サンガー夫人が来日した際、政府は、産児制限は国力を弱め家族制度を破壊する、として、講演を一切禁止した。しかし、京都で開かれた専門家だけを対象とした講演会での講演内容を記したパンフレットを作ると、一般家庭の主婦などからそれを求める依頼状が殺到したという。
※1 花柳病は、梅毒や淋病などの性病のこと。
1922(大正11)年3月、被差別部落※2の解放を目指した全国水平社が設立され、差別解消のための地域的な活動や、部落民自身の自覚を高める活動などに取り組んだが、差別意識は根強く、現代に至っても根絶された、とは言い難い。
※2 江戸時代の封建的身分制度において最下層に位置づけられた人々が居住していた地域。明治4年(1871)の太政官布告で法的な身分の差別は撤廃されたが、社会的な差別の意識は現在でも根絶されていない。(コトバンク〔精選版 日本国語大辞典〕)
毎日新聞記者の永松浅造は、「中央公論」昭和6(1931)年2月号に「帝国議会乱闘史」を寄稿している。彼は、1914年の議会でシーメンス事件の疑惑が追及されたとき以降、議場の内外で暴力沙汰が起きることが増えたという。それまで、議場において政敵を攻撃する手段は、もっぱら野次だったが、その程度では生ぬるいと感じ始めたのと、議場における対抗図式が従来の官僚対政党から政党対政党に移行したことがその原因であると指摘している。さらに、暴力の行使にあたっては、政党や議員が院外の国民の存在を強く意識したケースが多いという。
シーメンス事件では、与党議員が「議会が群衆に支配されたことはない」と言い放つと、野党議員は「国民大会を指して群衆とは何だ」とやり返して乱闘となった。1915年の議会では野党による内相の汚職追求がきっかけとなり、柔道2段の鳩山一郎議員が与党議員を片端から投げ飛ばした。さらに、1920年の議会には野党が普選法案を上程し、議事堂周辺には普選を支持する群衆が取り巻いているなかで、野党議員を与党議員が議席の名札(幅10センチほどの角柱)で殴ろうとして大乱闘になった。
民衆の眼がある以上、安易な妥協はできないという意識が議員たちの背中を押したのであろう。院外の民衆には身体をはっているんだ、とアピールでき、収拾困難な騒擾事件を起こせば、重要法案の成立を阻止して政権に大きな打撃を与えることができる。
こうした暴力沙汰の常態化は、1931年に5・15事件で犬養毅首相が暗殺されて政党内閣が途絶えるまで続くことになった。
(参考文献: 村瀬信一「帝国議会」,P197-P204 小林道彦「近代日本と軍部」,P398-P399)
成田「大正デモクラシー」,P89-P90 佐々木「近代日本外交史」,P127-P128 小林「近代日本と軍部」,P330 Wikipedia「原敬」
{ 原敬の政友会内閣は社会主義者の堺利彦や山川均からは、金持内閣といわれた。野田卯太郎逓相は三井の財力を代表し、中橋徳五郎文相は大阪商船前社長、高橋是清蔵相、山本達雄農商相は金融界出身、床次竹二郎内相は薩閥の代表、原首相自身も古河財閥の代表者でもある。}(今井「大正デモクラシー」,P244)
成田「同上」,P90-P92・P101 今井「大正デモクラシー」,P244-P248・P276-P279 坂野「日本近代史」,P317-P318
坂野「同上」,P318-P321 成田「同上」,P92-P93 今井「同上」,P251-P253
今井「同上」,P279-P282 成田「同上」,P100
今井「同上」,P284-P285 成田「同上」,P100
{ 中岡は後日、公判廷で「自分の身を犠牲にして内閣総理大臣たる原敬をたおせば自然に自分の名も世に現われようし、内閣は倒壊するからそれによって革新しようという考えになりました」と犯行の動機を陳述した。」(今井「同上」、P284-P285)
成田「同上」,P104-P118 今井「同上」,P520
成田「同上」,P93-P96 今井「同上」,P302-P311
{ 原は1917年10月22日の日記にこう記している。「将来、民主主義の勃興は実に恐るべし、是れ余も官僚も同様に心配する所なるが、只官僚は此の潮流を遮断せんと欲し、余等は之を激盛せしめずして相当に疎通して大害を起こさざらん事を欲するの差あり」。}(成田「同上」,P94)
今井「同上」,P312-P341 成田「同上」,P119-P121
今井「同上」,P342-P353・P358-P367 成田「同上」,P122-P123
成田「同上」,P37-P40・P123-P124 今井「同上」,P299-P302
今井「同上」,P353-P357 成田「同上」,P124-P126