日本の歴史認識近代日本の歩み第2章 大日本帝国 / 2.6 大正デモクラシー / 2.6.4 第1次世界大戦と日本

2.6.4 第1次世界大戦と日本

バルカン(東欧)や北アフリカにおける列強による領土争いや民族自決の問題をきっかけにして始まった第1次世界大戦は、日本が海外に侵出する絶好の機会となり、中国や南洋諸島に新たな利権を獲得することになった。この大戦は帝国主義の時代から、民族自決や自由と民主主義の時代への変化点となったが、日本はそれに気づかずに帝国主義の道を歩み続けた。

図表2.19 第1次世界大戦と日本

Jfg219.png

(1) 第1次世界大戦の意義註264-1

20世紀初頭、ヨーロッパではモロッコ・リビアなどの北アフリカや、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビアなどのバルカン諸国を舞台に、英露と同盟を結んだ仏伊と独墺が植民地獲得競争を行っていた。1914年6月28日、当時オーストリア領だったボスニアの首都サラエヴォでオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者がセルビア系民族主義者の青年が放った銃弾に殺害されるという事件が起きた。ボスニアは同じ南スラブ系民族のセルビアとの統合を望んでいたが、オーストリアは1908年にボスニアを自国に併合してしており、セルビアにはオーストリアへの不満が蓄積していたのである。

オーストリアは7月28日、セルビアに宣戦布告、続いて、ロシア、ドイツ、フランス、イギリスが8月上旬にかけて次々と宣戦布告して、第1次世界大戦が始まった。主要参戦国は次の通りである。
 ・同盟国; 独、墺、トルコ、ブルガリア
 ・連合国; 仏、英、露、伊、米、日

途中、ロシア革命によりロシアが戦線から離脱したが、同じ頃、アメリカが参戦、ドイツでは1918年11月に革命が起きて帝政から共和制にかわり、共和制ドイツと連合国の間で休戦協定が締結されて終戦となった。

第1次世界大戦は、世界に次のような変化をもたらした。

(2) 参戦註264-2

日露戦争後、それに続く「発展」の機会をつかみかねていた日本の指導者たちは、第1次世界大戦の報を聞くと、この機会を捉えて「支那問題」を根本的に解決すべきである、という意見が大勢を占めていた。元老井上馨は「日本国運の発展に対する大正新時代の天祐」とし、新聞をはじめ多くの知識人たちも参戦を評価した。冷静だったのは、対独戦に反対の態度を示した原敬率いる政友会と、今しばらく大戦の帰趨を見極めるべきだと意見した山県をはじめとする元老たちであった。また、石橋湛山は「亜細亜大陸に領土を拡張すべきではない」、と批判した。

1914年8月7日、イギリスがドイツ艦船攻撃への助力を求めてきたのに対し、大隈内閣はその晩、緊急閣議を開いた。加藤高明外相は、ドイツ艦船の攻撃にとどまらず、青島攻撃を含めて東アジア全体に対する軍事行動をとることを提案して閣議はそれを了承、加藤外相は日本の全面参戦に渋るイギリスを説き伏せて、参戦を決定した。

山東半島(青島)

1914年8月23日、日本はドイツに宣戦布告し、中国が局外中立を宣言しているもかかわらず、イギリス軍とともに山東半島南部にあるドイツの膠州湾租借地を攻撃した。9月2日に山東半島に上陸開始、11月7日に青島を陥落させた。

南洋諸島

日本海軍は、ドイツ東洋艦隊を追って太平洋を南下し、1914年10月19日までにマーシャル、マリアナ、カロリンの各諸島を占領した。

地中海に駆逐艦派遣

1917年には、ドイツ潜水艦による攻撃から輸送船団を保護するため、駆逐艦の派遣要請があり、2月に特務艦隊を編成して地中海に派遣した。

(3) 大戦景気註264-3

第1次大戦が起こるとヨーロッパ諸国の経済は一時麻痺状態に陥り、日本のヨーロッパ向け輸出産業は滞貨の増大と価格下落に苦しみ、輸入品は品薄と値上がりで打撃を受けたが、1915年の春になるとロシアとイギリスに対する軍需品の輸出が増え始め、下半期になると戦争で途絶えたヨーロッパ諸国の商品にかわって日本製品が世界各地域で求められるようになり、1916年には空前の好景気を迎えた。

造船業、機械工業などの重工業が伸びて工業地帯が形成され、東京・大阪がますます巨大になるとともに、佐世保・川崎・宇部などの産業都市、横浜・横須賀・神戸などの港湾都市、さらには別府などの観光都市も出現した。こうした産業の発達に伴って、各地で様々な成金が多数誕生した。労働者の賃金も熟練工を中心に上昇し、それに伴って小料理屋や飲食店も増加した。

一方、工場労働者の半数を占める女工の待遇は改善されなかった。女工の多くは20歳未満、労働時間は13~15時間で徹夜作業も多く、粉塵や湿気の多い粗悪な環境の中で結核などの病気で帰郷する者があとを絶たなかった。彼女らの多くは寄宿舎住まいで、一人1畳のスペースで2人で一つのふとんに寝る。毎年全国で20万人が出稼ぎに出るが、そのうち帰ってくるのは8万人、うち13千人は結核にかかっていたという。

{ 大戦景気はゆがんだ面をつよくもっていた。好況はおもに輸出品の暴騰によるもので、食糧などの国内消費物資の値上がりは遅れ、賃金も低水準を続けた。そのうえ、重工業が未発達で生産設備の拡張が困難だったので、残業・夜業によって需要の増大に応じた。…購買力の乏しい国内の消費者を無視して輸出する、いわゆる飢餓輸出が盛んに行われた。}(今井「大正デモクラシー」,P104-P105<要約>)

(4) 米騒動と原敬内閣註264-4

1917年中頃から米価が上昇しはじめた。大戦中の好況によって都市の人口が増えたことなどによって、米の消費量が増加した一方、農村からの人口流出によって農民労働力が不足して、内地米の収穫高が減少したことが主な原因だった。1918年になると外米を大量輸入せよ、という声が高まったが、その時の寺内内閣を支えた政友会の票田である地主の機嫌を損ねたくないとの思惑から、外米の調達は中途半端な量にしかならなかった。

1918年7月、アメリカが日本にシベリア出兵の申し入れを行うと、派遣する多数の兵士に対するコメ需要の高まりの思惑から米穀倉の買占め、売り惜しみが起こり、米価は連日高騰を続けた。

こうした状況の中、同年8月3日、富山市の西北、西水橋町で170-180人の女性たちが、資産家や米屋に押しかけ、廉売を要求した。続いて6日にはその西隣の滑川町で千余名が米の積み出しを実力で阻止した。「富山の女一揆」として有名なこの事件は、またたくまに全国に広がり、9月12日までに、青森・秋田・岩手・栃木・沖縄の5県をのぞくすべての道府県369か所で騒動が発生し、延べ5万人以上の軍隊が鎮圧のために投入され、25千人以上が検挙された。
騒動収束後の9月21日、寺内内閣は総辞職し、27日に原敬が組閣を命じられた。

(5) シベリア出兵註264-5

出兵に至る経緯

1917年3月、ロシア2月革命※1が起きてニコライ2世のロマノフ朝が廃され、自由主義者などを中心とした政権が樹立されたが、その後、10月革命でレーニンらの共産党(ボリシェヴィキ)が政権を握り、翌1918年3月にはドイツとの間でブレスト・リトフスク講和条約を締結して第1次大戦から離脱した。

※1 2月革命は、当時のロシアが使用していたユリウス暦の2月23日に起きたが、現在、一般的なグレゴリオ暦では3月8日になる。なお、10月革命が起きたのはユリウス暦10月25日(グレゴリア暦11月7日)である。

日本の陸軍参謀本部は、1918年1月にシベリアの「居留民保護」を名目に派兵計画を作成したが、山県有朋や政友会の原敬や牧野伸顕らは日本単独の出兵に消極的であった。同じ頃、ドイツの攻勢に押され気味だったイギリス・フランスは、早くから日本にシベリア出兵を要請していたが、アメリカはシベリアを日本の手に委ねる危険があると判断し、派兵に反対していた。

出兵

出兵のきっかけになったのはチェコ・スロヴァキア軍捕虜の問題だった。当時オーストリアの支配下にあったチェコ・スロヴァキアは対ロシア戦に参戦させられたが、ロシア軍に投降して連合国側に加担しようとしていた。ソビエト政府とドイツが講和したため、これらの兵士たちはシベリア経由で帰国することになったが、5月にソビエト政府が武装解除を命令すると、彼らはそれを拒否してシベリアで孤立した。

このチェコ軍救出を理由に、7月6日アメリカはシベリア出兵を決意し、兵力を日米ともに7千とし、地域もウラジオストクに限定することを条件に日本にも出兵を提議した。日本政府は、アメリカ政府と交渉し、兵力は12,000以下とし地域はウラジオストクに限定するが、必要な場合にはそれ以外の地域にも出動・増援する了承を得た上で、出兵に踏み切った。

8月2日に日本が、3日にアメリカが出兵を宣言、アメリカ軍9,000、日本軍12,000、英軍5,800、中国・仏・伊軍1200~2000が派遣されることになった。日本はシベリア東部の支配を目論み、ハバロフスクなどを占領、10月末に兵力を72,000に増やし、アメリカから非難された。

1920年1月、アメリカはチェコ軍救援の目的を達成したとして撤兵を開始し、英仏などもそれに続いたが、日本軍はその後も駐留を続け、1922年10月に撤兵の意思表明をしたものの、完全に撤兵したのは、1925年5月だった。

尼港事件

尼港(ニコラエフスク)は樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海にそそぐ河口に位置する町で、日本軍守備隊と居留民あわせて約700名がいた。米などの連合軍が撤退した後の1920年2月、トリャピーツィン率いる4000余のパルチザンに包囲され、日本軍はパルチザンと休戦協定を結んだが、3月12日未明、戦闘が始まり、700人余の日本人が死亡、120人余が捕虜になった。どちらが休戦協定を破ったかは、日ソ間で証言が異なり、真相はわからない。5月に入ってパルチザンは、投獄されていた反革命派のロシア人と日本人捕虜を皆殺しにした上で尼港の街を焼き払い、去っていった。

この事件は、ボルシェヴィキやパルチザンの残虐非道なことを宣伝するために大々的に報道され、日本はこの事件について満足すべき解決が実現するまで、北樺太を保障占領した。

(6) パリ講和会議註264-6

大戦は1918年11月に休戦協定が結ばれ、翌1919年1月から6月まで連合国32か国の代表が参加してパリで開催され、会議終了後ヴェルサイユ条約が締結された。会議開催前にアメリカのウィルソン大統領が発表した「14カ条平和原則」※2が大きな影響力をもった。

※2 「14カ条平和原則」は、秘密外交の禁止、公海航行の自由、経済障壁の撤廃、軍備縮小、植民地問題の公正な解決(民族自決の一部承認)、個別の領土問題(6条~13条)、国際組織の創設、からなり、レーニンが1917年11月に発表した「平和に関する布告」を強く意識している。

日本の首席全権は西園寺公望であったが、実質的には牧野伸顕が代表を務めた。日本に関連する問題は、下記の3件である。

南洋諸島の領有

日本は旧ドイツ領だった南洋諸島(マリアナ、パラオ、マーシャル、カロリンの各諸島)の領有を要求した。オーストラリアは日本からこれら諸島の占領を引き継ぐと発表したが、イギリスとオーストラリアとの間で誤解が生じていたようで、日本の要求は南洋諸島の「委任統治」というかたちで認められた。

山東権益の継承

日本は大戦中に攻略した山東のドイツ権益をいったん継承した上で、中国へ返還すると主張したが、中国側は直接、中国への還付を求めた。日本はドイツ権益を継承した上で、返す段階で中国側と交渉して山東の経済的な利益を得ようとしていた。ドイツから直接、中国に返還されてしまうとそうした利権を得る手がかりがなくなってしまうのである。ウィルソンは心情的には中国を支持していたが、イタリアが別の問題をめぐって会議から離脱していたこともあり、日本の要求をしぶしぶ認めた。

中国はあくまで直接返還を要求し、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。これが契機となって、大規模な抗日運動(五四運動)が起きるのである。

人種差別撤廃問題

ウィルソンは国際連盟の設立を提案していたが、この頃、アジア人は人種差別を受けており、それが国際連盟にも持ち込まれることを日本は危惧して、連盟の規約に各国民平等、差別撤廃の文言を盛り込もうとした。採決では賛成が多数を占めたが、ウィルソンは全会一致でないとの理由で退けた。日本政府はそれほどこだわりを持っていたわけではなく、このまま引き下がった。国際連盟が人種差別を助長するということは特段なかった。

(7) 五・四運動註264-7

パリ講和会議で山東省旧ドイツ権益の日本への継承が承認されたことが伝わると、1919年5月4日、北京大学の学生たちおよそ3000人は天安門前広場で集会を行い、気勢をあげた。集会後、学生たちは各国公使館を訪ねて抗議書を手渡し、勢いをかって親日派官僚官僚の邸を襲って火を放った。警察は多数の学生を逮捕したが、世論の反撃をうけて釈放を余儀なくされた。この後、日本製品のボイコット運動が始まり、学生や労働者のストが中国各地に広がった。

2.6.4項の主要参考文献

2.6.4項の註釈

註264-1 辛亥革命

拙サイト「ヨーロッパが歩んだ道」4.4節

成田「大正デモクラシー」,P55-P56・P59

{ 日露戦争後の都市民衆騒擾をきっかけに、民本主義の潮流として台頭した大正デモクラシーは、第1次世界大戦とロシア革命・米騒動により加速し、改造の動きを生み出した。雑業層や旦那衆、労働者・農民、あるいは女性被差別部落や植民地の人々がそれぞれの立場からアイデンティティを掲げ、社会変革を訴えた。またこうした各階層の主張は、「日本人」や「国民」と重ねられてもいた。この動きによって、普通選挙法と治安維持法による1925年体制が創出される。}(成田「同上」、P237)

註264-2 参戦

成田「同上」,P57-P58 今井「大正デモクラシー」,P71-P76・P173 小林「近代日本と軍部」,P316-P317

註264-3 大戦景気

今井「同上」,P95-P105・P110-P113 成田「同上」,P62-P63 坂野「日本近代史」,P310-P311

註264-4 米騒動と原敬内閣

今井「同上」,P191-P206 成田「同上」,P82-P89 坂野「同上」,P315-P316

註264-5 シベリア出兵

成田「同上」,P75-P78 今井「同上」,P178-P182・P238-P240 小林「同上」,P332-P335・P352-P355 坂野「同上」,P315 中村「大東亜戦争への道」,P167

{ 事件を目撃した海軍士官の手記はパルチザンの蛮行を次の如く伝えている。… 公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞婦人を極端に辱めて獣欲を満し、なほ飽く処を知らず指を斬り、腕を放ち、足を断ち、かくて五体をバラバラに斬りきざむなど言外の屈辱を与え、残酷なるなぶり殺しをなせり。…}(中村「同上」、P168)

註264-6 パリ講和会議

佐々木「近代日本外交史」,P128-P137 今井「同上」,P213-P225 成田「同上」,P139-P140

註264-7 五・四運動

今井「同上」,P223-P225 成田「同上」,P146-P147