日本の歴史認識近代日本の歩み第2章 大日本帝国 / 2.6 大正デモクラシー / 2.6.3 中華民国と日本

2.6.3 中華民国と日本

日本が大正時代(1912-26年)に入る直前、中国では辛亥革命が起きて中華民国が成立し、その後、ヨーロッパでは第1次世界大戦が勃発して、世界情勢が大きく変化した。日本は、辛亥革命直後にはイギリスと歩調を合わせて行動したが、第1次大戦が始まりイギリスの圧力が弱まると、中国における利権拡大に動き始めた。

図表2.18 辛亥革命と第1次世界大戦

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(1) 辛亥革命註263-1

革命派の勃興

広東省出身の孫文は、1895年10月に広州で最初の武装蜂起を行って失敗した後も、各地で蜂起を繰り返し、いずれも失敗したものの、革命派は広東、湖南、浙江などで集団が形成され、1905年8月には、それらが大同団結して中国同盟会が結成された。

革命のきっかけになったのは、1911年5月に清朝が発表した全国の鉄道の国有化だった。これに対して、すでに民間資本での建設が進められていた四川、広東、湖南、湖北では強い反対運動が展開され、鎮圧しようとした政府との間で流血の衝突も起きていた。

武昌蜂起

この鉄道国有化反対運動を後ろ楯にして、1911年10月10日、湖北省武漢市の武昌地区の兵士たちが蜂起し、清からの独立を宣言した。革命の蜂起は他の省にも広がり、11月下旬までに華中・華南を中心に中国18省のうち14省が清からの独立を宣言、上海で各省代表者による連合会が結成された。孫文はこれをアメリカで知り、ヨーロッパ経由で12月25日、上海に帰着した。各省代表は、孫文を臨時大総統に選出し、1912年1月1日、南京で正式に中華民国の発足を発表した。

清朝滅亡と袁世凱

中華民国が発足したものの、華北や東北部は依然として清朝の支配下にあり、イギリスをはじめ列強は清政府を承認し、その首相だった袁世凱を支持していた。イギリスの斡旋で、袁世凱は清政府を廃して共和制をしくことに同意し、中華民国政府も臨時政府を南京に置くこと、臨時約法(憲法)を遵守することなどを条件に袁世凱を臨時大総統とすることに合意した。袁世凱は清朝に圧力をかけ、1912年2月12日、清朝側も清皇室の優待条件などと引き換えに最後の皇帝である宣統帝溥儀(この時6歳)は退位し、300年近く存続した清朝はここに滅亡した。

宣統帝退位後、孫文は臨時大総統を辞任し、後任に袁世凱が選出された。袁世凱は南京で臨時大総統になることを拒み、南京側もやむを得ず北京での就任を認めた。1912年3月10日、臨時大総統に就任し、中華民国北京政府が誕生した。

(2) 第2革命註263-2

袁世凱が臨時大総統に就任すると南京の中華民国臨時参議院は、憲法にかわる臨時約法を定めた。臨時約法は主権在民や、三権分立、各省代表から議会の設置などを定めていた。この議員選挙に向けて革命の母体となった中国同盟会は国民党という政党を結成、その他にもいくつかの政党が結成されていった。1912年12月から13年2月にかけて行われた選挙では、国民党が圧勝、首班の宋教仁は国民党による政党内閣を組織し、議会の力で袁世凱に対峙しようとしたが、13年3月20日、上海駅で暗殺された。袁世凱の指示に依る可能性が高いとされている。

1913年4月、袁は国会を通さずに、日英仏露独の5カ国から2500万ポンドの借款を受取り、政権基盤の強化に利用し、独裁政治を押し進めていった。袁は自らに批判的な地方長官を罷免したため、同年7月、江蘇、安徽、広東など7省が袁世凱に反旗を翻し、第2革命の火ぶた切った。この戦闘には日本の大陸浪人※1や一部の軍人なども革命軍側に参戦したが、革命は2カ月ほどで袁世凱により鎮圧され、孫文や国民党の幹部は8月、日本に亡命してきた。南京などで北京政府軍による日本人への暴行事件が続発し、日本国内では、軍部は憤激、民衆は集会を開いて政府に強硬な対華政策を求めた。

※1大陸浪人 明治から昭和前半期まで、中国大陸各地に居住・放浪して、種々の画策を行った日本の民間人の称。政治的理想を抱く者もいたが、不平士族や国家主義者が多かった。(コトバンク〔デジタル大辞泉〕)

第2革命を制した袁世凱は、国民党を解散させ、新たな中華民国約法(憲法)を定め、大総統の権限強化と任期の撤廃、議会は大総統の諮問機関に限定、などを行って独裁体制を固めた。

(3) 日本軍、山東半島上陸註263-3

1914年7月下旬、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発すると、8月7日、イギリスは山東半島の青島を拠点とするドイツ艦船を撃破するため、日本の対独参戦を求めてきた。大隈内閣は東アジア全体にわたる軍事行動をイギリスに提案、イギリスはそれを望まなかったが、加藤外相は戦闘地域を限定することでイギリスを説得し、参戦を決めた。

8月23日、日本はドイツに宣戦布告し、中国が局外中立を宣言しているもかかわらず、イギリス軍とともに山東半島南部にあるドイツの膠州湾租借地を攻撃した。9月2日に山東半島に上陸開始、11月7日に青島を陥落させた。

(4) 対華21カ条要求註263-4

第1次大戦勃発後、中国における権益の拡大に関する強硬意見は、陸軍のみならず、広範な国民的支持を得ており、非政友会系の政党勢力や新聞世論なども強硬な要求が噴出していた。大隈内閣はこうした要求を全5号21カ条にまとめ、1915年1月18日、日置特命全権公使が直接、袁世凱に手渡した。
要求内容は、次のようなものである。

袁世凱はこの要求に強く抵抗し、5号の内容をアメリカ公使に洩らしたため、アメリカとイギリスも強く反対した。しかし、日本政府は強硬姿勢を崩さず、交渉は25回に及んだが、結局、内政干渉になる第5号を中心に5か条を撤回した上で最後通牒をつきつけ、1915年5月9日に中国はやむをえず受諾した。

日本が強圧的な方法で要求を認めさせたことは、中国国民を怒らせ、中国全土で排日運動が起り、それは翌年末頃まで続いた。日本では「露骨なる領土侵略政策と軽薄なる挙国一致論の跋扈」と非難した石橋湛山以外は、吉野作造も含めて政府を支持した。

{ 21カ条要求は近代日本外交史上最大級の失策である。日本は国際的な信認を自ら傷つけ、中国、とりわけ北京袁世凱政権との関係は全く険悪なものとなった。それは大隈とその内閣のポピュリズムがもたらした外交上の大惨事であったが、その基底には日露戦争の勝利をきっかけとする大国意識の高揚、とりわけ日本は有色人種の代表として、白人のアジア支配に異を唱えるべきであるとの「人種競争論」あるいは「亜細亜モンロー主義」が存在していた。}(小林道彦「近代日本と軍部」,P321-P322)

{ この時代の外務省の主流は、ロシアやイギリスなど欧州の帝国主義外交との一体化をめざしていたことがあったと思われる。彼らは植民地を持たないアメリカ外交が、大戦後の主流になるとは考えていなかった。}(坂野「日本近代史」,P309)

(5) 第3革命と袁世凱の死註263-5

袁世凱を皇帝にしようという動きは1915年9月から袁世凱周辺で起こったが、日本を含む列強は帝政に否定的であった。同年12月、袁は皇帝に就任したものの、国内で強い反発を生み、なかでも地方分権や共和制を主張する西南諸省は中央政府からの独立を宣言、それは1916年5月までに10省に達した。袁世凱に近い地方長官からも帝政停止が勧告された。こうした動きを第3革命と呼ぶ。

日本の大隈内閣は中国国内の反政府勢力を支援することにより、反日的な袁世凱政権を打倒しようとし、南方革命派への武器援助や叛乱支援などの「反袁政策」を実施した。
袁世凱は3月に帝制を取り消したが、混乱が続くなか、1916年6月6日、尿毒症と神経性疲労のため死去した。

(6) 北洋軍閥の分裂と西原借款註263-6

袁世凱が死去すると、副総統の黎元洪(れいげんこう)が大総統に就任したが、実権を掌握したのは軍事力を持ち日本の支援を受ける段祺瑞(だんきずい)ら安徽(あんき)派と、英米をバックにする馮国璋(ふうこくしょう)ら直隷(ちょくれい)派の両派閥であった。北洋軍をはじめとする諸軍の指導者たちは、各省の軍事統率者でもあり、各省の独立を求めたが、中華民国を否定してはしなかった。

大隈内閣のあとを受けて1916年10月に成立した寺内内閣は、借款を中心とした穏健な方法により段祺瑞を中心とする北京政権を支援して中国進出を進めようとしていた。朝鮮銀行総裁の個人秘書だった西原亀蔵らを通じて、1917年1月の500万円借款を手始めに、18年にかけて総額1億4500万円の借款を段祺瑞一派に供与し、あわせて3200万円の武器供与も行ったが、これらは政府公式のものではなく、西原個人の借款として行われた。段祺瑞はこれに応えて日本政府寄りの政策をとったが、この借款の担保は不十分で結局返済されることはなく、日本の国庫に穴をあけることになった。

(7) 軍閥割拠の時代へ註263-7

孫文らは広州に移り、1917年9月、孫文をトップとする広東軍政府を成立させ、中華民国は南北2つの政府が並立し、軍閥が割拠する時代となった。この状態は蒋介石が北伐を完了する1928年まで続くことになる。

(8) 石井ランシング協定註263-8

日本は日露戦争後、日英同盟を背景にロシアと中国における利権を調整してきたが、ロシア革命(1917年)によってロシアのかわりにアメリカとの協調を目指し、石井菊次郎特使をアメリカに派遣した。アメリカは1917年4月に第1次大戦に参戦し、西部戦線でドイツ打倒に専念しようとしていたため、日本に対して一定の譲歩をせざるをえなかった。1917年11月、石井特使とランシング国務長官の間で協定が発表されたが、アメリカの主張する中国の領土保全と門戸開放、機会均等を日本が支持する一方、日本の中国における特殊利益を認めることを、曖昧さを残して表現したものであった。


コラム 「支那」という呼称

21世紀の4半分まで過ぎた現代に至っても、中国を「支那」と呼ぶ日本人がいる。「支那」の語源は“China”であり、それ自体に蔑視観は含まれていないし、義和団の乱の起きた20世紀初頭において、中国人自身にも「支那」を使う人が少なからずいた、という人もいる※1。日本で「支那」が正式な文書で用いられるようになったのは、辛亥革命(1911-12)で中華民国が成立したころ、日本の中華公使の伊集院彦吉が王朝交代のたびに呼称を変える必要がないよう「支那」と呼ぶことを提起したときからだというが、文明の中心という意味もある「中国」という国号を用いることを避けた可能性は否定できない※2

日本では明治の教育で、近代化が日本に比べて遅れていた中国を「支那」と呼んで蔑視する感情が形成され、中国の蔑称として「支那」が使われるようになっていった。これに対して1930年、中華民国から日本政府に対して「支那」という言葉は使わないよう申し入れがあり、政府もこの要求を受け容れて公式文書から「支那」の文字は消えたものの、民間ではなかなか消えず、戦後になって歴史学的なものなど例外を除いて全面的に禁止するよう通達が出ることにより、ようやく減ってきているようだ※3

この問題は、本人がいやがる俗称・あだ名のたぐいを、屁理屈をつけて、あえて使うものであり、人としての道徳が疑われるものではないかと思う。

※1 岡本隆司「清朝の興亡と中華のゆくえ」,P263

※2 川島真「近代国家への模索」,P136

※3 佐藤三郎「近代日中交渉史の研究」,P51-P52など

2.6.3項の主要参考文献

2.6.3項の註釈

註263-1 辛亥革命

川島「近代国家への模索」,P128-P142 田中他「図説 中国近現代史」,P62-P74 今井「大正デモクラシー」,P14-P17 成田「大正デモクラシー」,P54-P55

註263-2 第2革命

川島「同上」,P147-P150 田中他「同上」,P74 今井「同上」,P51-P57 小林「近代日本と軍部」,P305-P308

註263-3 日本軍、山東半島上陸

成田「同上」,P56-P58 今井「同上」,P70-P75 小林「同上」,P316-P319

註263-4 対華21カ条要求

成田「同上」,P60-P62 今井「同上」,P76-P82 小林「同上」,P319-P322 川島「同上」,P153-P155

{ 21カ条の要求は必ずしも不当なものではない。例えば、第2号の租借期間99年延長はイギリスも香港を99年契約で租借しているし、満蒙での居住権は既にロシアに提供している。支那の主権を侵害するものとされた第5号も、相当の経緯と理由あってのことであり、孫文は「兵器は日本と同式にする、中国の軍と政府は日本人を優先的に採用する…」などの提案を日本政府に行っている。}(中村粲「大東亜戦争への道」,P150-P153<要約>)

註263-5 第3革命と袁世凱の死

川島「同上」,P159-P161 田中他「同上」,P76 小林「同上」,P324-P327 今井「同上」,P156-P159

{ それにしても、袁世凱に対する日本側の執拗な敵意はいったい何に基づくものであろうか。恐らくそれは壬午・甲申事変において、漢城で日本軍と対峙し、朝鮮の属国化を進めようとした袁の反日的イメージが彼らにとって牢固たるものだったからであろう。}(小林「同上」,P327)

註263-6 北洋軍閥の分裂と西原借款

川島「同上」,P162-P164 田中他「同上」,P76 成田「同上」,P78 今井「同上」,P168-P172

註263-7 軍閥割拠の時代へ

田中他「同上」,P76-P86 川島「同上」,P169・P227

註263-8 石井ランシング協定

川島「同上」,P167 今井「同上」,P174 北岡「日本陸軍と大陸政策」,P210 黒野「日本を滅ぼした国防方針」,P51-P52