日本海海戦後、日本は継戦能力が尽きたこと、ロシアは国内情勢が不安定になってきたこと、という事情を抱えて講和に同意した。日本は朝鮮半島と満州の利権獲得ならびに樺太島半分の領有に成功したが、それ以上の領土と賠償金は獲得できず、反発した民衆が日比谷焼打ち事件と呼ばれる暴動を起こした。
図表2.8(再掲) 日露戦争
註) 参与者数/戦死傷者/戦死者は、横手「日露戦争史」,P194-P195による。
ロシアの民衆は日露戦争の開戦直後こそ愛国的興奮をみせたものの、戦闘の劣勢が続き、物価高騰や物不足、労働強化などに悩まされるようになると、専制政治を批判する声が高まっていった。
1905年1月22日・日曜日、首都ペテルブルクで司祭ガボンを中心とする数十万人の民衆は、戦争中止、憲法制定会議召集、法の前の平等、8時間労働などの要求を掲げて、冬宮(宮殿)を目指して行進した。軍は市内各所でデモ隊に発砲し、数百人の死者が出た。
この「血の日曜日事件」がきっかけとなって、全国に同情と抵抗のストライキやデモが広がり、政府要人の暗殺、ソヴィエト(評議会)の組織、戦艦ポチョムキンの水兵反乱(1905年6月)、などの事件が次々と起き、ロシアの戦争遂行にブレーキをかけることになった。これら一連の民衆運動は1917年のロシア革命(2月革命・10月革命)の布石となり、第1次ロシア革命と呼ぶこともある。
資源力の乏しい日本にとって日露戦争は、いつ終わらせるかを見極めることが最大の課題の戦争であり、金子堅太郎をローズヴェルト大統領のもとへ派遣したのも、講和の調停を依頼することが重要な目的の一つだった。一方、東アジアへの進出で後れをとっていたアメリカにとって、日露戦争の調停役を務めることはこの地域での影響力を強める絶好の機会であった。また、イギリスなどの列強も、日露双方が圧倒的な勝利を収めずに終わることが、戦後の満州・朝鮮における自らの活動に都合がよかった。
講和の動きが顕在化してきたのは、日本が旅順を陥落させ、ロシアで民衆の反乱の動きが出てきた1月末あたりからである。3月上旬の奉天会戦後には駐米ドイツ大使とフランス大使がローズヴェルトに講和の斡旋を勧めたが、バルチック艦隊の東航を控えており、ローズヴェルトは時期尚早、と判断している。
日本海海戦の勝利が確定した5月31日、日本政府は米国駐在の高平公使を通してローズヴェルト大統領に講和交渉の斡旋を依頼、ローズヴェルトはこれを受けて駐米ロシア大使に講和会議を開くよう勧告した。6月5日、ロシア大使は「…開戦いらいわが軍は敗北を重ねてきているかもしれぬが、日本軍はまだ尺寸の地すらもわが領土に侵入していない。これっぱかしの領土を失っていないわが国が、こっちから和議を日本に言い出す要はまったくない…」※1として、拒絶してきた。
これに対してローズヴェルトは金子堅太郎に次のように語ったという。「これら頑冥の国民をして覚醒せしむるは、武力をもってこれを圧服するの外なきなり。(中略)日本はこのさいに処するに、速やかに兵をサガレン(樺太)に出し、彼の防備なきに乗じて一挙これを占領すべし。…」※1金子はこれをそのまま日本政府に送った。
※1 これらの言葉は「明治天皇紀」から半藤氏が引用したものをそのまま掲載している。
いったん講和を拒否したロシアであったが、6月6日重臣たちを集めて御前会議を開き、国内情勢も不穏であることから講和会議への参加を決め、7日、その旨ローズヴェルトに伝えられた。ローズヴェルトは6月9日、公式に日露両国に講和交渉を行うことを勧告し、両国はこれを受け入れて講和会議の開催が正式に決定した。このとき、ローズヴェルトは両国に休戦協定を結ぶよう勧告したが、樺太侵攻計画がある日本はこれを拒絶した。
1905年3月30日、参謀本部において陸軍トップだけの秘密会議が開かれ、今後の作戦方針として、ハルビン攻略姿勢の継続などともに、樺太占領が決定された。しかし、海軍側が拒否したためいったん中止されている。6月に入って陸軍は再び動き始め、伊藤博文、小村外相ならびに海軍の了承もとりつけ、6月15日の山県有朋や桂首相なども出席したトップ会議で樺太占領計画が承認された。
7月4日に樺太上陸部隊を青森から出港させ、7日樺太南部に上陸、翌8日には大泊を占領、24日には樺太北部に上陸し、31日にロシア守備軍が無条件降伏して、樺太全島は日本軍に占領された。
講和会議は、アメリカ東海岸ボストンの北にある小さな港町ポーツマスで、8月9日の予備会議から始まり、9月5日まで開催された。日本側全権は小村寿太郎外相、ロシア側全権はウィッテ元蔵相だった。
日本側が要求した主な事項は次のようなものである。◎は絶対的必要条件、〇は比較的必要条件、△は付加条件である。なお、★は成立、☆は一部成立、×は不成立を示す。
ロシア側の方針は、何が何でも講和成立を目指す必要はない、とした上で、領土の割譲、賠償金の支払い、東清鉄道の一部割譲、太平洋に艦隊を置く権利の剥奪、の4点については国家の威厳に係るので許されない、というものであった。しかし、全権代表のウィッテは、ロシア側の財政事情をよく知っており、講和交渉をまとめることに抵抗はなかった。
日本の絶対的必要条件の4については、ハルビンからではなく、日本が実効支配する長春から旅順まで、とすることで合意したが、最大の懸案になったのは、5の賠償金と7の樺太割譲であった。
日本側は樺太全島の譲渡と賠償金支払いを求めたが、ロシアはその両方とも拒絶し、会議は膠着状態になった。8月22日、ローズヴェルトは日本側に賠償金の要求を断念するよう求めた。23日、小村は、樺太北部をロシア領とする代わりに賠償金を支払うという妥協案を提示したが、ウィッテは受け付けなかった。
日本本国では8月28日の御前会議で、領土割譲と賠償金の両方を放棄してでも講和の成立を優先させるという決定がなされ、小村に指示した。29日、小村は樺太全島の割譲を条件に賠償金の要求は放棄してもよい、と提案、ウィッテは樺太を占領されている状態で割譲を完全に拒否するのは困難と判断し、樺太南部だけなら譲ってもよい、と応じた。結局、賠償金は無し、樺太南部を日本へ譲渡、ということで決着した。日本が樺太を占領していなければ、樺太を獲得することもできなかったであろう。
ニコライ2世は、この結果を不満足ながら了承し、9月5日、講和条約が締結された。ロシアは大軍をハルビン方面に集結させており、もしここで講和が成立しなければ、陸戦が再開する可能性があった。
8月末に講和条件の決定が伝えられると、新聞各紙はその内容を伝え、全権使節を批判する記事をのせた。東京朝日新聞は、「…20億の金を遣い、10万の死傷を出した結果が、この通りだ。…国民はわが当局者に向って損害賠償を要求して可なりだ」と書き立てた。こうして、講和反対の動きが全国各地ではじまった。9月3日、大阪中之島で5000人の市民が気勢をあげ、同じ日、栃木県、名古屋市などで、4日には山形市、宇治山田市、高松市などで市民大会が開かれ、「講和条約破棄」を要求した。
戦争中、特別税の増徴や相続税の新設、生活必需品の値上がりなどによって生活苦を強いられ、相次ぐ大勝利を知らされながら、実は多数の将兵が犠牲になり弾薬も尽きて国力が限界に達していることを知らされない民衆にとって、賠償金もない講和条件は受け入れられないものだった。
9月5日、頭山満、河野広中らの呼びかけで東京の日比谷公園で国民大会が開催された。警察は朝から日比谷公園の門を閉鎖し集会を禁止したが、午前10時ごろから人が集まり始め、集会開始予定の午後1時には数万人に達した。人々は警備の警察官を押しのけて公園に入り、河野広中らが演説を行って集会は30分ほどで終了した。群衆は講和支持を表明していた国民新聞社や内務大臣官邸などを襲撃し、政府は軍を出動させて鎮圧を図ったが、夜になると東京市内の多数の派出所や市外電車、教会などが焼打ちされ、政府は市内とその周辺に戒厳令を布いた。暴動は翌日も続き、7日になってようやく鎮圧された。
{ 日比谷公園に集まったのは、新聞やビラを読み、その内容を理解した上で煽動に乗って積極的に暴動に加わった人々で、多くは中小商工業者層だった。一方、交番や電車の焼き討ちをしたのは、文字もろくに知らず新聞などは読まず、交番や電車が燃えることに快感を覚えて暴れまわった人々だったと考えられる。}(黒岩「日露戦争 勝利のあとの誤算」,P120)
横手「日露戦争史」,P165-P167 半藤「日露戦争史3」,P45-P47 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P109-P110
「血の日曜日事件」関係については、下記拙サイト も参照願いたい。
https://www.ne.jp/asahi/puff/mdg/g1/G1cp452.html
山室「日露戦争の世紀」,P123-P127 横手「同上」,P170 半藤「同上」,P157-P158
横手「同上」,P186-P188 半藤「同上」,P323-P330
半藤「同上」,P167-P173・P338-P343・P356-P357 横手「同上」,P187-P188
横手「同上」,P189-P194 半藤「同上」,P348-P372 谷「機密 日露戦史」,P647-P667
{ ウィッテは【ラムズドルフ外相に】折り返し回電して曰く 「世界が談判打切りの真相を知らば、露の償金拒絶は正当視せらるべきもサガレン【樺太】についてはわれに味方せざるべし。日本はサガレンを占領しわれ奪回し得ざる事実は議論よりも強し。…」 }(谷「機密 日露戦史」、P653)
横手「同上」,P195-P196 山室「日露戦争の世紀」,P125-P126 半藤「同上」,P377-P387 黒岩「日露戦争 勝利のあとの誤算」,P54-P73