日露戦争の勝敗を決する陸の決戦が奉天会戦であり、海の決戦が日本海海戦であった。日本軍は前者に辛勝、後者には大勝して講和に持ち込むことに成功した。
図表2.11(再掲) 日露戦争の主要な戦闘
沙河の会戦後、日本陸軍の満州軍は遼陽の北東にある烟台に総司令部を置き、来るべき決戦を翌春の解氷期と想定していた。しかし、西方から軍や物資を補給したロシア軍は9万を超える大兵力で1月24日、渾河を越えて攻勢に出てきた。日本側は最左翼に布陣していた秋山好古率いる騎兵第1旅団と第8師団が対応したが、作戦ミスもあって25日夜、黒溝台はロシア軍に占領された。日本軍は援軍を送って3日間の激闘の末、クロパトキンは28日夜に撤退命令を出し、29日にロシア軍は撤退していった。寒さに強い東北北部出身兵それも現役主体の精鋭で構成された第8師団の踏ん張りなどによって大きな犠牲を払いながらもロシア軍を退けることができた。
この戦いに参加した日本側の戦闘総員は約54,000人、ロシア側は約105,000人、死傷者は日本側約9,300人、ロシア側約12,000人であった。なお、「機密 日露戦史」は、敵兵力を過小に見積り、兵力の逐次投入を行ったことを「統帥の不覚」と指摘している。
図表2.14 奉天会戦地図(開戦時)
出典) 半藤「日露戦争史3」,P109などをもとに筆者作成
奉天会戦にあたり、これまでの第1~4軍に加えて、鴨緑江軍が編成された。日本軍の総兵力25万人、砲992門、機関銃268挺、対するロシア軍の総兵力は29.2万人、砲1386門、機関銃56挺、兵力と砲ではロシア軍がやや勝るが、機関銃は日本軍が上回っていた。
なお、第3軍の司令部について、陸軍省や参謀本部の幹部などは、旅順攻囲戦において作戦指導に欠陥があった、と考えており、全員を内地に帰還させようとしたが、乃木将軍への称賛の声は国内外で高く、これを行えば内外から批判が殺到し、第3軍将兵の士気を落とすことにもなるため、実施しなかった。第3軍は1月下旬、列車で遼陽に到着している。
堅牢な旅順要塞を攻略した乃木希典の存在が、奉天会戦におけるロシア軍司令官クロパトキンの判断に影響することになる。
1905年2月20日、満州軍総司令部は各司令官を集めて、大山総司令官が「来るべき戦いは日露戦争の“関ケ原”である…無駄な弾丸は発射するな…」と、訓示した。
2月23日、最右翼(東側)にいた鴨緑江軍が進撃を開始、24日に清河城を占領した。鴨緑江軍には旅順攻囲戦に第3軍のもとで参加した第11師団がいたが、ロシア軍はこれを知って東側の防備を強化するために中央にいた軍の一部を東側に移したため、日本軍は中央と西側からの攻撃が楽になった。
27日から、日本軍は中央から猛烈な砲撃を開始するとともに、左翼(西側)の第3軍はロシア軍の西側後背から攻撃すべく、大きく迂回して進撃を開始した。ロシア軍を左右両翼にひきつけた上で、中央を主力の1,2,4軍が突破する、という作戦である。
3月1日、大山総司令官は全軍に総攻撃の命令を下し、1~4軍すべてが全力を振り絞って前進を開始、3日から5日にかけて猛攻撃をかけたが、ロシア軍の抵抗は各方面で頑強で一進一退の状況となった。満州軍司令部は、その突破口を第3軍が左翼から北進し敵の退路を断つことに求めたが、第3軍の戦闘能力はかなりにぶっており、思うように進撃できない。
クロパトキンは西側の第3軍こそが旅順を落とした乃木希典が率いる部隊であることに気づき、第3軍が狙っている自軍の後方遮断を防ぐため、中央と東の部隊の一部をいったん撤退させて西側を強化しようとした。この動きは日本側の第1軍、第4軍を勢いづかせ、ロシア側の戦況を悪化させた。
結局、クロパトキンは翌8日に全軍に撤退命令を出し、ロシア軍は8日から9日にかけて全軍が北に向けて退却していった。
3月8日、満州軍総司令部は追撃命令を出したが、疲弊した各軍に追撃する余力は残っていなかった。3月10日午後3時ごろ、奉天城に一番乗りで入城したのは、第2軍の将校斥候隊8人だけであり、そのときロシア軍はすでに退却していた。
日本側の戦史によれば、奉天の会戦での日本側の死傷者は約7万人、ロシア側のそれは約9万人※1であった。ロシア側は2万余人の捕虜を出しているが、遼陽の会戦での捕虜は1127人であり、旅順攻囲戦以降、ロシア軍の中に厭戦気分が広がっていたと思われる。なお、奉天会戦で捕虜となった日本人は2100人弱であった。
※1 横手「日露戦争史」,P177の数字。原田「日清・日露戦争」,P212では6万人となっている。
ロシアの指導部は、開戦後まもない1904年4月半ばにはバルチック艦隊の中から第2太平洋艦隊を編成し極東に送ることを決定していたが、旅順の太平洋艦隊が自力で日本の連合艦隊を撃退することを期待して派遣を躊躇していた。もし、この時点で送っていれば戦況は変わっていた可能性が高い。
黄海海戦(8月10日)敗戦後の8月23日、秋になったら第2太平洋艦隊(以降、これをバルチック艦隊と呼ぶ)を出撃させることを決定し、海軍指揮官として評価の高かったロジェストヴェンスキーを司令官に任命して準備を始めた。第2太平洋艦隊は準備に時間をかけた割に乗組員は寄せ集めで、演習などは行えず、準備が不十分なまま、10月15日、バルト海に面したリバウ港(現ラトビア西部リエパーヤ港)をウラジオストク目指して出港した。
バルチック艦隊は出港して間もない10月22日未明、イングランド東北のドッガーバンク沖でイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤って砲撃し、死傷者を出した上に沈没した船の乗組員を救助しない、という事件を起こした。この事件はイギリスの反ロシア感情を高め、イギリス領の港湾への寄港や石炭の供給を拒否し、バルチック艦隊を疲弊させることになった。
輸送船も含めて45隻※2、乗員1万人に及ぶ大船団は、およそ3万キロ、150日間に及ぶ遠征を強いられ、補給も十分に出来ず士気も上がらなかった。
戦艦などの大型艦はスエズ運河を通過できなかったので、喜望峰を回る本隊とスエズ運河を通る支隊の2手に分かれて進み、1月8日、マダガスカル島で合流した。 当時マダガスカルは仏領だったが、日本政府がフランスに中立国義務の厳守を申し入れ、イギリスとの関係強化を図っていたフランスもこれを聞き入れたので、バルチック艦隊は設備のしっかりした軍港ではなく付近の島に碇泊することになり、炎天下、充分な補給・補修・給養を行うことはできなかった。
12月の旅順攻囲戦で旅順艦隊が全滅したことから、ロシア本国の海軍首脳部にはバルチック艦隊は引き返すべきだという主張も出てきて、2カ月ほど足止めを食らうことになったが、結局、戦艦1隻を含む第3太平洋艦隊を追加派遣することになり、3月16日、マダガスカルを離れてアジアに向かった。
4月8日、シンガポール沖を通過、4月12日にヴェトナム南部のカムラン湾に入港したが、ここでも日本政府はフランス政府に中立国義務を守るよう申し入れ、バルチック艦隊は艦艇の補修や補給が十分にできないまま22日に出港、周辺の海上を放浪した後、26日にカムラン湾の北、港湾設備のないヴァン・フォン湾に碇泊した。
5月9日、第3太平洋艦隊の9隻がヴァン・フォン湾に入り、5月14日、輸送船も含めて50隻を超える大艦隊はウラジオストクに向って出港していった。
バルチック艦隊はウラジオストクを目指していたが、そこに至るルートは宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡の3つあった。宗谷海峡はこの時期霧が深いので、津軽海峡か対馬海峡のどちらかで、対馬海峡の可能性が高いと、連合艦隊は判断し朝鮮半島南部の鎮海湾に待機したが、もし津軽海峡を通ってしまうと、捕えられなくなる可能性があった※2。バルチック艦隊がヴァン・フォン湾を5月14日出港したことは把握しており、順調ならば23日には対馬海峡に現れると推測し、25日午後3時まで待っても来ないときは、津軽海峡にまわったと見て艦隊を北へ移動させる、と決めていた。
23日になると東シナ海に放っておいた哨戒艇や民間の船から様々な情報が届けられたが、いずれも信頼度の低いものであった。24日昼頃、東郷司令官は海軍軍令部に宛て、25日午後3時までに敵を見なければ、北海道大島(渡島)に移動する、との電報を打った。25日午前、東郷は連合艦隊の幹部を集めて会議を開いた。北に移動することに賛成する者が多かったが、強硬に反対する者もいた。最後に東郷は「ここでもう1日待つ」と決断した。
26日早朝、軍令部から「ロシアの運送船6隻などが25日夜、上海に入港した」という情報が届いた。戦闘になれば邪魔になる運送船を切り離したことはバルチック艦隊は最速で対馬海峡を突破しようとしていることを示すものだと判断され、北への移動は中止された。
27日午前5時過ぎ、五島列島の北にいた仮装巡洋艦※3信濃丸から「敵艦隊見ゆ」の一報が入り、連合艦隊は直ちに出撃体制を整えて続々と出撃していった。
※2 津軽海峡には海軍軍令部の指示により、水雷艇によって海峡全域に水雷をばらまく準備ができていたが、連合艦隊には通知されていなかったようだ。(半藤「日露戦争史3」、P226-)
※3 仮装巡洋艦とは民間船を巡洋艦風に改造したもの。
戦艦の数は日本が4隻に対して、ロシア側は2倍の8隻もあったが、下記のように総合的にみると互角もしくは日本側が有利であった。
27日の早朝6時21分、連合艦隊は「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす。本日、天気晴朗なれども波高し」と大本営に打電した。
27日朝、連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾を離れ、対馬の北に向かって南下、午後1時50分、バルチック艦隊の全容をとらえ、戦闘態勢に入った。日本艦隊は北から南下、バルチック艦隊は南から北上しているので、このまま行けばすれ違いながら短時間の撃ち合いで終ってしまう。そこで連合艦隊は敵前でUターンして敵と並航しての砲撃戦に持ち込む作戦をとった。2時5分、「東郷ターン」と呼ばれる180度方向転換が始まった。これを見てロシア艦隊は一斉に砲撃を開始、先頭を行く旗艦三笠にも弾丸が命中するが、約15分後に全艦がターンを完了し、ロシア艦隊と並行して航行しながら双方が猛烈な砲撃合戦を繰り広げた。
この砲撃戦に勝利したのは連合艦隊で、ロシアの旗艦スワロフとオスラビアは集中攻撃を受け、オスラビアは大火災を起こして沈んでいった。スワロフも火災を起こし、司令官ロジェストウェンスキーは重傷を負って戦線を離脱した。この後、ウラジオストク目指して逃走しようとするロシア艦隊を連合艦隊が攻撃するという戦闘が夜の7時過ぎまで続き、ロシアの8隻の戦艦のうち4隻が撃沈された。連合艦隊側も三笠が30発以上の命中弾を受け、他の艦も損傷を受けたが、戦闘力は健在だった。
午後7時半、東郷司令官は駆逐隊・水雷艇隊にウラジオストク目指して北進している残りのロシア艦隊を撃滅せよ、との命令を発した。各隊は激しい肉薄魚雷攻撃を敢行し、戦艦2隻、巡洋艦2隻を撃沈、他の艦にも大小の損傷を与えた。
翌28日、竹島の南方海上で連合艦隊はロシア艦隊を包囲、午前10時半ごろロシア艦隊は降伏した。
負傷したロジェストウェンスキーは駆逐艦に移されたが、その駆逐艦は28日夕刻に連合艦隊の駆逐艦に降伏し、ロジェストウェンスキーは佐世保に収容された。
ロシア艦隊でウラジオストクまで逃げ延びたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻だけで、あとはマニラや上海に逃げ延びた艦もあるが、ほとんどは撃沈されるか破壊されて降伏した。日本側の沈没は水雷艇3隻のみである。
こうして日本海海戦は日本の圧倒的勝利で終った。人的損害は、ロシア側の戦死約5千名、捕虜6,106名、日本側は戦死116名、戦傷580名であった。
{ 日本海海戦の結果は、世界中に強い印象を与えた。制海権をとることのできなくなったロシアには、戦争で日本を降伏させる可能性はなくなったのである。}(横手「日露戦争史」、P185)
横手「日露戦争史」,P167-P170 半藤「日露戦争史3」,P58-P64 谷「機密 日露戦史」,P524-P527 大江「日露戦争の軍事史的研究」,P340-P342
立見尚文中将(弘前第8師団長)に次のような逸話がある。{ …秋山旅団を救うために、寡兵にもかかわらず敵の大軍に真っ向から戦いを挑み、自軍が全滅の危機に陥りながらも、広島師団が援軍として急行中ゆえ何とか頑張れと督戦されたとき、「ナニッ、援軍だと。日本最強を誇る我が師団に、これほどの恥辱はあるかぁ」と猛憤激し、中国風の長持の上で足を踏み鳴らしながら檄を飛ばし、しまいに蓋を踏み抜いてしまったという。}(半藤「同上」,P63-P64)
横手「同上」,P170-P171 半藤「同上」,P29-P31・P68・P114-P116 谷「同上」,P528-P534
*兵力と砲及び機関銃の数量は、横手氏と半藤氏で微妙に異なるが、ここでは横手氏が挙げる数値を採用した。
横手「同上」,P174-P175 半藤「同上」,P109-P114 谷「同上」,P535-P538
横手「同上」,P175-P176 半藤「同上」,P119-P142 谷「同上」,P538-P546
横手「同上」,P176-P177 半藤「同上」,P124-P145 谷「同上」,P546-P548
当日【3月10日】各軍の行動を仔細に調査せば次の如きを見る。
1.鴨軍及び第一軍主力は渾河右岸に近く停止して遠く北方に去れる敵軍を追うことなし…
2.第四、第二軍は奉天の周囲に集中し、その一部は城内に入りて僅かに敗残の敵一旅団内外を壊滅降伏せしめしのみ。
3.第三軍は優勢なる敵兵の逆襲を受け、… 軍司令官は前夜の命令を以て第七師団を除き、各兵団に現位置を占領して待機の姿勢を執らしめたる儘何等命令する所なし … }(谷「同上」,P546)
横手「同上」,P141-P144 半藤「日露戦争史2」,P255-P256 山室「日露戦争の世紀」,P120
横手「同上」,P144-P145 井上編「日本の外交」,P77
横手「同上」,P143-P145・P182 半藤「日露戦争史3」,P74-P83・P174-P178・P186-P192・P198-P200
{ ロジェストウェンスキー提督が妻に送った一番最後の手紙は4月29日付のものとなる…「近々の事態がどのようなものになるにせよ、つまり日本艦隊との決戦の結果を意味するが、ロシアの恥辱に新たな1頁が付け加えられること以外には何もない…少なくとも、私は生きて帰れるとは思えない。生還することは私にとってはまったく異常な出来事のように思える。(中略)熱帯地域で7か月過ごしたため、私はボロボロになった」。}(半藤「日露戦争史3」、P199)
半藤「日露戦争史3」,P218-P114 横手「同上」,P182-P183
半藤「日露戦争史3」,P196-P197
半藤「日露戦争史3」,P246-P298 横手「同上」,P183-P184
{ 「本日天気晴朗なれども波高し」 注意してほしい「晴朗にして」ではなく、「晴朗なれども」なのである。あるいは「奇襲作戦が決行できない恐れがある」との意味を秋山は暗にそこにふくめた、とみることができる。作戦通りの第一弾の奇襲攻撃は不可能かもしれない、その苦しい状況をそれとなく大本営に知らせた。それがこの名文句であった。}(半藤「日露戦争史3」、P250)
{ 秦; ロシア艦隊はデッキに石炭やボートなど可燃性のものを積み上げていて、それに引火したといいますね。
戸高; …連合艦隊は出撃するときに、高価なカージフ炭も甲板上に残った分は残らず海中に投げ捨てましたし、甲板もきれいに掃除した。…}(半藤・秦他「徹底検証 日清・日露戦争」,P249)
半藤「日露戦争史3」,P298-P302・P319-P320 横手「同上」,P184
{ 戦艦ニコライ1世のメインマストに…白旗が上がった。…東郷は白旗をみとめながら、砲撃中止の命令を出さなかったらしい。… 秋山は詰め寄って「…発砲をやめてください」といいつつ落涙した。東郷は静かに首をふると冷ややかに言った。「本当に降伏すっとなら、その艦を停止せにゃならん。敵はまだ前進しちょるじゃないか」これには、さすがの秋山も返す言葉はなかったという。}(半藤「日露戦争史3」、P300) 東郷は若いころ、イギリスに留学しており、国際法に詳しかった。