日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第4章 / 4.5 ロシア革命 / 4.5.2 1905年革命

4.5.2 1905年革命

ロシア革命は、広義には1905年革命(第1革命又は第1次革命とも呼ぶ)と、1917年の2月・10月革命の2つに分けられる。1905年革命は、1905年1月9日の「血の日曜日事件」から1907年6月のストルイピン首相による「6月3日のクーデター」までをさす註452-1

イギリスの歴史学者でロシア史に詳しいE.H.カーは、1905年革命について次のように述べている。

{ 1905年の第1次ロシア革命の性格は混合的なものであった。それは、恣意的で古色蒼然たる専制に対する、ブルジョワ自由主義者と立憲主義者の反乱であった。それはまた、「血の日曜日」の残虐行為によって点火された労働者の反乱であり、その結果が最初のペテルブルク労働者代表ソヴェトの選挙となった。更にまた、それは自然発生的で統制のとれていない、しばしば極端に非情で、暴力的な農民たちの広汎な反乱でもあった。…
革命は立憲主義導入という譲歩 … とひきかえに易々と鎮圧された。}(E.H.カー「ロシア史」,P2-P3)

図表4.18(再掲) ロシア革命

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(1) 革命と日露戦争註452-2

日露間で満州と朝鮮の権益をめぐって争ったのが、日露戦争である。(日露戦争全般については4.2.4項(7)を参照)

ロシア民衆は開戦(1904年2月G暦)直後こそ愛国的興奮をみせたものの、戦闘の劣勢が続き、物価高騰や物不足、労働強化などに悩まされるようになると、専制を批判する声が強まっていった。革命を志向する社会主義者や自由主義者たちは戦争の中止、専制打倒を叫んで運動を進めた。そして、1905年1月9日には「血の日曜日」事件が起き、反政府デモは全国に広がった。

バルチック艦隊が日本海海戦でやぶれると戦争を終結せざるをえなくなり、1905年9月G暦、講和条約を締結した。敗戦は皇帝の権威を失墜させ、ロシア国内の革命の波はますます高くなっていった。

(2) 血の日曜日事件註452-3(1905年1月9日)

ロシア正教会司祭のガポンは、1904年にペテルブルクで警察公認の労働組合を作り上げ、労働者の待遇改善を要求する請願書を皇帝に提出する機会を待っていた。請願書には、戦争中止、憲法制定会議の召集、法の前の平等、団結権と8時間労働などの要求が書かれていた。1904年12月19日、旅順が日本軍によって陥落すると、1905年1月9日労働者とその家族ら数十万人を率いて請願書を皇帝に手渡そうと、十字架、イコン(聖画像)、皇帝の肖像を掲げて冬宮(宮殿)を目指して行進した。しかし、軍は冬宮前広場など、市内各所で発砲し、公式発表で100人、実際には数百人の死者が出た。

革命の拡大

この事件は、学生、労働者、市民を憤激させ、全国に同情と抵抗のストライキが一気に広がった。
皇帝は内相を変え、国会開設など一部の要求に譲歩をみせたが、民衆は納得せず、反乱は激しさを増していった。2月にはモスクワ総督が暗殺され、5月には最初の労働者代表ソヴィエト(評議会)が組織され、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵が反乱、などが次々と起きた。7月にはエスエル党指導で農民同盟が結成、自由主義者たちも国会開設を決議し、立憲政治を求める運動が大学教師、学生、技術者、ジャーナリストら知識人階級に広がった。10月になると鉄道労働者のストライキをきっかけに全国にゼネストが拡大し、鉄道を含む主要交通機関、電信、郵便が停止し、国民の生活は麻痺状態になった。

(3) 10月詔書註452-4

ポーツマス講和から帰国したウィッテは事態を打開するため、市民の自由と国会開設の約束をするよう皇帝に強く進言し、皇帝は10月17日、「10月詔書」を発布した。これは、国民に言論、集会、結社の自由を与え、立法権のある国会の創設、選挙権の拡大を認めるものであった。自由主義者や貴族・企業主などはこれを認めたが、労働者や社会主義者の多くは拒絶した。なかにはモスクワで武装蜂起を起こす者もいたが、これは鎮圧された。

(4) 憲法制定と国会召集註452-5

国民は憲法制定会議の召集を求めたが、専制政府は自分たちで作成した憲法を議会開催に先立つ4月23日に公布した。これは皇帝が下賜する「欽定憲法」そのものであり、皇帝が強い権限を持つ「立憲専制体制」を規定した憲法であった。

1906年2~3月、国会議員の選挙が行われた。社会民主労働党およびエスエル党の革命派は選挙をボイコット又は無視したので、当選した議員は自由主義系と穏健な改革派であった。4月27日から国会審議が始まったが、議員たちが提示した土地問題に関する法案は政府が容認できるような内容ではなく、皇帝は7月9日に国会を解散した。

解散とともに、首相も解任され、新たな首相には内相だったストルイピンが任命された。

(5) 6月3日のクーデター註452-6

ストルイピンは、人口の8割を占める農民の問題対策と農業改革が重要だと考え、それを専制の枠内で実施すべく革命運動を仮借なく弾圧した。1907年1~2月に再び国会議員の選挙が行われた。この選挙では社会民主労働党及びエスエル党も加わったので、前回以上に革新派が大勢を占め、反政府的な議会となった。ストルイピンが議会に諮ろうとしていた土地問題改革のための議案などは否定されることが明らかになったため、議会に革命派が紛れ込んでいるという理由をつけて6月3日に議会を解散してしまい、同時に保守勢力が有利になる選挙法を公布した。これを「6月3日のクーデター」と呼ぶ。

(6) ストルイピンの改革註452-7

改定後の選挙法に基づいて実施した3回目の選挙では保守勢力が過半数を占め、1907年11月1日に国会が召集された。ストルイピンの土地改革法などは、時間はかかるが国会を通過するようになった。なお、この第3国会は1912年11月まで続き、その後同様に保守勢力の強い第4国会となる。

ストルイピンは自立的な個人農を育成するための改革に注力し、農村共同体(ミール)からの離脱、散在する耕地の集約、シベリアへの移住などを推進したが、十分な成果をあげることはできなかった。

1911年9月1日、ストルイピンはキエフで観劇中に皇帝の面前でユダヤ人青年に銃撃され、同月5日死去した。


4.5.2項の主要参考文献

4.5.2項の註釈

註452-1 1905年革命(第一革命)の範囲

Wikipedia「ロシア革命」、コトバンク〔百科事典マイペディア〕「ロシア革命」

註452-2 日露戦争

栗生沢「同上」,P108-P110 和田編「同上」,P257-P265

{ 旅順の陥落に際して、レーニンは「進歩的な、進んだアジアは、遅れた反動的なヨーロッパに、取り返しのつかない打撃を与えた」とし、ロシアのプロレタリアートは、「専制を壊滅させた日本のブルジョワジーがはたしているこの革命的な役割」を直視すると書いた。}(和田編「同上」,P261)

註452-3 血の日曜日事件、革命の拡大

栗生沢「同上」,P109-P110 和田編「同上」,P262-P266

註452-4 10月詔書

栗生沢「同上」,P110 和田編「同上」,P265-P267

{ 10月詔書後、政府は労働組合などの団体結成の合法化やストライキにたいする刑事罰の廃止などの措置を講じた。大方の市民層、ブルジョワジーは10月詔書とその後の措置を満足をもって受け止めた。… 自由主義者たちは、いまや街頭から制度の中へ入ろうしていた。
しかし、労働者ソヴィエトは革命を更に進めようとした。したがって、国民のなかに亀裂がはしることになった。当局は…トロツキーらのペテルスブルク・ソヴィエトの幹部たちを逮捕した。}(和田編「同上」、P267)

註452-5  憲法制定と国会召集

栗生沢「同上」,P110-P111 和田編「同上」,P268-P270

註452-6 6月3日のクーデター

栗生沢「同上」,P101-P102 和田編「同上」,P270-P272

{ ストルイピンは名門貴族の出で、ペテルブルク帝国大学で自然科学を学んだ合理主義者であり、帝政最大の改革者だった。改革構想の要に農村共同体からの農民の離脱を促進し、自立的な農民経営を育成する農業改革をおいた。… 政治的には革命運動を仮借なく弾圧しながら、平和政策をとり、「内外における2,30年間の平静」を確保しようとした。}(和田編「同上」,P270<要約>)

註452-7 ストルイピンの改革

栗生沢「同上」,P111-P113 和田編「同上」,P270-P274