さくら
姉はしばらく辺りの様子を窺うと少しずつ歩をすすめ、水と泥の中に入っていった。姉の美しい身体は次第に泥と水藻の中に隠れ、見えなくなった。姉が泥の中で動く度に上がった小さな気泡も、今はほとんど出なくなった。すべてはもとに戻った。池のまわりの桜が静かに色を散らした。
それからおもむろに泥のなかから姉の首が伸びた。姉の首がこんなにも長かったことを初めて知った。姉は水面に顔を浮かべて空を見ていた。
ぜんぶ遠いわねぇ…。
姉はひとりごちた。
わたしは一年越しの姉の介護からようやく抜け出そうとしていた。まず姉に黙って女とのアパートを探し、郊外の林のそばにそれを見つけると、少しずつ荷物を運んだ。姉は冬のあいだはほとんど動かず、食事もとらなかった。意識も朦朧としているので、生きているかどうか時おり手足をさすってみなければならなかった。姉は短く反応し、薄く目を開いてまた眠った。
幸いわたしの女は姉を好んだ。きれいなひとね。かわいいひとね。わたしにもごはんをあげさせて。
女は姉との同居を望んだが、わたしは夏の姉の下の世話をさせるわけにはいかなかった。それでも女はときおり姉をつれて家のまわりを散歩していたりした。
わたしは仕事を終えた夜、職場の車を借りて少しずつ荷物を運んだ。姉はそのことを知っているふうだったが、ほとんど何の反応も示さなかった。
まず梅の花がふくらみ、散った。それから季節はずれの雪が降った。そしてコブシがふくらみ、桜が咲いた。わたしたちは姉を残したまま新居に移った。姉は何もない部屋のなかで眠り続けた。
こどもの頃、姉はわたしによく本を読んできかせてくれた。わたしは小さな昆虫のような活字が姉の声を借りて世界を織りなすことに驚いた。姉はいつも最後に言った。わたしたちはいまほんとうのところにいったわね。
桜が散るころにわたしは姉を背負い、誰も来ない山裾の池に下ろした。夢のなかで姉はいつまでも眠り続けるので、わたしは姉のほんとうのところに返したくなったのだ。姉は水面に顔を浮かべ、静かに空を見上げながら、桜の花びらに降られていた。
ほんとうに、ほんとうに、遠いねぇ。
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