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貝を食べる
朝は五時半に目が覚める。疲れているのに頭が冴えてしょうがない。
空っぽの空が入って来るんだ。空っぽの白い空が入って来て私の密度を希薄にする。密度がないと眠れない。私は仕方なく起きあがる。
いい天気だ。きょうは稼がないと苦しくなる。コーヒーを煎れ、パンを押し込み、着替える。
駐車場でご老体「鈴木」のセルを回す。今日もかからない。バッテリーがふにゃふにゃなんだ。舗路まで引っ張って押しがけをする。鈴木はようやく不機嫌に目覚まし唸る。
堤防を錆びたナイフのように河口へ走る。朝は嫌いじゃない。まだ何も始まっていないから。ここで世界はどんな風にも生まれ変われるから。
浜の人夫出しはごった返している。鈴木を電柱の陰に停め、手配師の前に顔を見せる。手配師はうなずきもしない。仕事は真面目に毎日顔を出してる連中から割り振られる。現場は一週間、十日と続くのが多いから、その現場に慣れているものが優先される。私はこの三日ほどサボっていたから、後回しだ。人夫の中には初めて見る顔もある。眉を入れ墨にしている爺さんがいる。頭髪が白く薄いのに、そこだけがくっきり強いから役者じみて見える。顔中にピアスをした青白い兄ちゃんもいる。しゃべると舌にも銀の輪っかがのぞく。靴を片ちんばに履いた一見して宿無しと解る中年のオヤジもいる。ひどく臭う。それから耳の潰れた奴。片目の白い奴。上下色違いのジャージを着た奴。頭に傷のある奴…。
その中にキャップを目深に被った華奢な身体の奴がいた。後ろに束ねた髪が細い。胸の目立たぬ服を着ているが、女だろう。ときどき女も来る。大抵髪を金銀に染めた暴走族上がりで、腕や尻のでかい女だ。けれどこの女はいかにも場違いだ。人夫達がちらちら盗み見している。オスの目だ。
仕事にはあぶれた。不景気だ。真実なんとかしないと飢えるだろう。
けれど今日は働くには惜しい日だ。夏が近いし、風が乾いて肌に心地よい。私は鈴木を押しがけし、近くの砂浜へ行って寝転んだ。
海には何隻か船が浮かんでいる。空の色と海の色が水平線で混じり合い、乾いた風が色の間をゆくと、小さな波がたつ。風は私の身体にも届く。それは私の左にあたり、身体をつつみ、髪や胸、ズボンのすそをなぶって右へゆく。私はそいつに吹かれながら、風ーカゼーkazeという言葉が奇妙なものに感じられる。もう幾千年も同じ感じを持ったような気もする。ひばりが甲高く鳴きながら私の上空で羽ばたき静止している。それから風に流され見えなくなる。
風が身体にさわる触り方に集中していると、しだいに目が見えなくなる。その分耳はいろんな音を聴き分ける。波が砕け、潮が流れ、島がある。空にはたくさんの階層があり、音には色んな流れがある。そしてそれぞれに色彩があるのだ。もう自分の目は潰れてもいいなと思う。
そのうち耳もぼうっとしてくる。音も色も薄れ、ただ空っぽの自分が見える。空虚な自分が光も闇もない中空に浮いて風を感じている。
それはひとのかたちをしているけれど、ひとのかたちの線があるだけだ。風が吹いて、風の流れの抵抗として自分がある。風と風が分かれて自分なのだ。私は風の異物である。
それから風も私も分からなくなる。ただ風という言葉、私という言葉があるだけだ。空や海、山や川もただ言葉として、ただなにかの不協和音としてあるだけだ。不協和音。私は目を開く。
一瞬だ。たくさんの言葉が殺到する。ぎしぎしとたくさんの言葉が乱舞する。
……………………
ふと気付くと、目の前に、さっきのキャップの女が立っている。
「座っていい?」
女は少し幼い感じの声を出す。
「いいよ」
私はまだめまいがしている。気の抜けた返事をしている。
「さっきあそこにいたでしょう」
声が遠くに聴こえる。私は平常を装って応える。
「きみもあぶれたの? 無理もない」
女は横に座る。風が来ると、微かな体臭がする。海草の匂い。
「無理もない?」
海は膨らんでないか。
「場違いだよ。きみのような子がする仕事は他にいくらでもある」
「日銭が欲しかったの。もう一文無しなんだ」
「おれも似たようなものさ」
ふふ、と女は笑う。
「どこに住んでいる?」
風は…。
女は黙って松林の方を指さす。松の根元に工事用のブルーシートが見える。
「あれか」
「あれにくるまって寝るの。今の季節は快適よ。」
砂はここにある。たくさんの粒子だ。それが全体。…全体?
「驚いたな。危ないよ」
「大丈夫。誰も私を女だと気付かない。それにこの辺はめったに人が来ないし…。
まだシーズン前でしょ」
「勇気あるな」
会話は何をするのか。
「そんなんじゃない」女は海をみる。
「どっから来た?」私は問うている。女はふふ、と笑う。
「ね、それよりあなた、さっき変だったわよ」
「なにが」
「からだの輪郭が無くなりかけていた」
今度は私が笑ってみせる。
波打ち際にはときどきカモメが舞い降り、何かを熱心に啄んでいる。
「あれは何を食べているのだろう」
「貝よ。美味しいのよ。私がここに居着いたのはね、あれがあるから。お金が無いときはあれを食べてるの。それに海草ね。ミネラルたっぷり」
たっぷりの世界。世界はすでに充満している。あとは発見すること…。
「たくましいな」
女はへへへ、と笑う。「生きてゆかなくちゃね」
「食べてみたいな」
どんな音も。どんな光も…。
「みる? じゃあ、はい」女は手を差し出した。
「何?」
「レストラン海の幸へようこそ。わたくしシェフが腕によりかけて調理いたします。コースは五百円コース、千円コース、二千円コースとあります。」
見出し、おどけること…。
「なるほど。じゃ千円コース」
「毎度ありぃ」
女は裸足になると波打ち際まで駆けゆく。ズボンの裾を上げて、水の中で踊るような格好をする。こちらを見て叫ぶ。
「お客さ〜ん! 千円コースはお客さんも貝を拾うのよ!」
水はまだ少し冷たい。素足を砂の中に入れ、こじるように歩くと時々固く丸いものに当たる。ハマグリとアサリの中間のような大きさの貝。
「こうするといいのよ」女はツイストのような腰の振りをする。なるほど爪先に回転がかかって効率がよいのだ。
太陽はそろそろ真上に差し掛かっている。女のキャップから束ねられた髪がくるくる回る。後ろに水平線がある。誰もいない渚で、ふたり顔を見合わせながらツイストを踊る。
収穫物は結構な量になる。はい千円ぶんね、と言って貝を抱えた女は浜に上がって自分の寝床のある松林へ向かう。ブルーシートの少し先に石を組んだかまどがある。もうここで何日か暮らしているのだろう。石は煤で汚れている。女はあたりの松の枯れた小枝を集めると、手早く火を起こし、金網をのせる。松は火力が強く、すぐに燃え上がる。女は無造作に貝を金網の上に乗せ、火力を調整するために少し太い松以外の枝を探してくべる。「これでよし」それから女は、倒木の陰からポン酢とアルミホイルを出して来る。そして笹枝を切って器用に箸を作る。
貝はすぐに身を開いて金網の上でぐつぐつ煮えだす。「まだよ。貝の中の汁がもう少し減って、あと少しでなくなるって時が食べ頃よ」そう言いながら女は出来上がった貝を次々に竹箸でつまみ、私の前のアルミホイルの上に乗せる。私はポン酢をたらしながら貝を食べる。砂っぽくて濃厚な海の味がする。
私は海の嘘を食べる。だが、ふう…と身体の中から風が出て、深呼吸した気になる。リアルとは嘘を食べることだ。
「どお?」
「うまい」
はは、そうでしょう。と女は笑う。でも、内緒よ。
「ところであなた、なんでさっき消えそうだったの?」
「なんでかな」
「あなたって自意識過剰なタイプでしょう」
「よく言われる」
「そんなんじゃモテないわよ」
「分かってる」
女は笑う。私は初めてのように訊ねる。
「きみはなんでこんな暮らしをしてるの」
女はキャップを脱いで、髪をほどく。風が吹いて女の髪が舞う。
「わたしが世界で一番の美女だからよ」
なるほど、と私は海を見る。
…………………
海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。 (中原中也)
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