るーとらの秘密基地
blog「日のすきま」  
松吉
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●犬殺しの男
●ルカとセラ
●夢の記憶
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●嘘つきエンピツ
(KとYの共作)

●冬の日
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ロク

 この国の景気を知るなら、全国に点在する寄せ場へゆけばいい。東京の山谷、横浜の寿町、大阪の西成(釜が崎)、福岡の築港(千代)。必ず近くに簡易旅館、通称「ドヤ」があり、一泊1500円くらいで寝泊まり出来る。そのドヤにも泊まれない者たちは、ガード下や閉じた倉庫の軒先で「アオカン=野宿」をする。景気はそのアオカンの数で知れる。
 もう何年も不景気が続いているので、今はアオカンも雨露しのげる場所を確保できればいい方で、道路の端にモノのように自身を投げ出すしかないものもいる。
 冬のアオカンは厳しい。きのう「越冬隊」から配布された毛布にくるまって動かなかった男が今日は舗路にシミだけを残して消え去っている。昼のうちに役所が「片づけ」に来たのだ。そのシミの痕にまた新しい男が横たわる。生きているうちはほとんど誰も寄りつかない。
 ロクはもう何日も仕事にありつけない。夜明け前に寄せ場に立って、みんなのために火をおこし、暖まりながら朝焼けを見る。このひとときがロクは好きだ。そのうち仲間が集まる。きのうの現場はどうだった。あそこはキツすぎる。この間、シゲがユンボの爪に引っかかれ片手をダメにした。会社は雀の涙ほどの見舞金で事故を隠し、労災が下りるはずもない。サダは昨日も監督と喧嘩し、途中でいなくなった。チョーは朝から酔っている。テルは隅の方でぶつぶつ言っている。外国人たちも集まる。黒いのやら茶色いの。白いのもいる。カタコトの日本語を喋ってくる。愛想のいいのや悪いの。ロクはただ黙って微笑みながらたき木をくべる。そのうち手配師のクルマが来る。途端に場は殺気だつ。
1万2千円!コンクリはつり、どうだあー。1万3千円!バナナ荷降ろしだ。5人。やらんかあー。 みんな無言で手配師の前に立つ。手配師は、立ったものの顔つきや身体つきをみて、お前とお前、それにお前もだと無造作に選んでクルマに乗せる。人数が揃うとクルマはすぐに現場へ向かう。ものの30分ほどで騒ぎは収まる。ロクは今日もあぶれる。
 あぶれたものたちは、しばらく焚き火にあたり、身体を暖める。小金のあるものはワンカップを飲りだす。近くの公園で朝からやっている露天のホルモン焼き屋に拠ることもある。ロクも誘われたが、はにかむように笑って断る。ロクは今夜からいよいよアオカン生活になる。
 ロクはドヤから荷物を引き払う。荷と言ってもボストンバックひとつしかない。中には少しの着替えと死んだ女の位牌しかない。女は死んだと言うよりもロクが殺した。

 もう30年も昔の話だ。
 女には亭主、子供がいた。老親もいた。その垣根からさらうようにして女といっしょになった。逃げる途中女は月が明るい、月が明るい、私には魔性が棲むと目を伏せた。
 女とは誰にも知られぬ田舎町で暮らした。
 少しの月日が過ぎた。
 ある日、仕事から帰ると庭中の椿の花がむしられていた。女が夕暮れの中笑っていた。口端から赤い花弁がこぼれている。黙って髪をなで、風呂にいれた。
 ある日、暗い部屋の中、女が壁に向かって座っている。さっき壁からこどもの手がでた。とても綺麗な手で大きくなった。呼んでいるような気がする。今度出たらゆくつもりだ。あどけなく笑う。明かりをつけると女は泣く。
 夏の日はひまわりがゆれている。
 秋の夜は虫が声を降らす。
 日差しが低くなり霜が立ち、薄く氷の張る朝もあった。
 春浅い寒い日、女が薄着で畳を覗いている。時折魚がゆくのだという。見たこともない綺麗な魚がゆくのだという。とってくれろと言う。私はあそこへゆくんだ。とってくれろ。
 ロクが黙って服を着せかけると、弾けるように、殺せ、と吐いた。お前に人は無理だ。なんで生まれて来た。どうして私と出会った。殺してくれと言う。
 月が明るかった。月が畳を照らしている。それは蒼く、深く、波立つ。そうしてロクの目の前で魚が跳ねた。

 椿の根元に穴を掘り、女を埋めている所でロクは捕まった。死骸の上に椿の花が散り、女はまるで人形のようだったと言う。

 紙のような年月が過ぎる。ロクは刑務所の教戒師に頼んで女の位牌を作ってもらった。経をあげるわけではない。ただ女の形見のようなものが欲しかった。それを抱いて寝ると、ロクはあまり夢をみなくてすんだ。それからも毎日、日は昇り、日は沈んだ。房へ入る日差しの角度が移ろった。

 模範囚だったのと、天皇の代替わりの恩赦でロクは刑務所を出された。短く刈り込んでいた頭に黒いものは数えるほどもなかった。 

 流れるように日々を暮らしていたら、案の定、木の葉のようにこの寄せ場に寄せられた。何度かの冬を越し、生き延びてきたが、いよいよこの冬でおしまいかとロクは思う。ねぐらはなかなか見つからない。

 寄せ場を少し離れた小高い丘に古い小さな社(やしろ)があった。朽ち果てて殆ど人は寄らないらしい。ロクはここをねぐらに決めた。もう立ちん棒もやめた。そんな力も残っていなかった。

 ロクは日がないちにち境内の山茶花の散るのを見て過ごした。初めは空腹が辛かった。けれど、しだいにそれも朽ちてゆくような気がした。

 花は静かに散った。ひとつとして同じものはなかった。空腹から来る幻覚か、花びらの離れる音、風に舞う音、地面に触れる音、それが薄く重なりゆく音、ひとつひとつが調べのように聴こえた。しだいに調べは世界中に満ちて来て、花が散るのか、自分が彩りとなって虚空をゆくのか分からなくなった。

 「忘れなさい、忘れなさい、忘れなさい…」

 調べの奥に声が聴こえて、ふと我に返ると、満天に星があり、星は流れ、地は流れ、すべて融け合い、魂も、流れ、失せたのだった。