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平和公園に集った被爆者と市民 (長崎 10月25日) |
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原爆ドーム前に集った被爆者と市民 (広島 10月25日) |
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記者会見 (東京 10月26日) |
核兵器禁止条約への批准・加入が10月24日、条約の発効要件である50カ国に達しました。10月に入って13日ツバル、23日ジャマイカとナウル、24日ホンジュラスがそれぞれ批准書を国連に寄託。核兵器禁止条約が来年1月22日に発効することになりました。
日本被団協は声明を発表し、核兵器廃絶への確かな道が開かれたと歓迎するとともに、日本政府がその先頭に立つことを求めました。
ヒバクシャ国際署名連絡会は10月5日、署名累計1261万2798人分の目録を国連に提出。中満泉国連事務次長・軍縮担当上級代表からビデオメッセージを受けとりました(連絡会ホームページで配信、要旨)。
日本被団協と署名連絡会は26日に東京で記者会見を開き中満事務次長からのビデオメッセージを披露。林田光弘ヒバクシャ国際署名キャンペーンリーダーが、署名は年内いっぱい継続し来年1月に国連に最終提出することを説明しました。
田中熙巳署名連絡会代表・日本被団協代表委員は「条約の中身が不参加国も拘束することは間違いない。日本政府のことを考えると怒りがこみあげる。国民全体で政策を変えさせることを迫りたい」と述べました。木戸季市日本被団協事務局長は「日本政府が条約に背を向ける背景には戦争被害受忍論がある。国は、戦争があったら命や暮らしが破壊されても文句を言うな、と言っている。国民が手を取り合って核政策を変えさせたい」と述べました。
被爆75年にあたる2020年10月24日、核兵器禁止条約の発効要件を満たす50カ国の批准書(加入書を含む)が寄託されました。2017年7月7日、ニューヨークの国連本部において、核兵器禁止条約が122カ国の賛成で採択されてからまる3年の歳月を得て達成された快挙です。この日から90日を経た来年の早い時期に、核兵器禁止条約は発効することになります。名実ともに核兵器はこの条約によって禁止されます。被爆者が訴え続けてきた「核兵器なくせ」を実現する確かな道が開かれました。この日は、1945年8月に核兵器が人類の頭上にさく裂した日と合わせて、人類史上銘記される日となるでしょう。
核兵器の禁止、廃絶を求め続けてきた私たち被爆者は、生きていてよかった、と心からなる大きな喜びを分かち合う日を迎えました。75年前、理由もわからぬまま命を奪われた数十万の原爆死没者と今日まで被爆者運動に死力を尽くした先達に伝えたいと思います。あわせて、国内外で長年にわたり、被爆者の運動を支え、核兵器の廃絶を目指し核兵器も戦争もない世界に実現する運動を共にしてくださった多くの個人と団体、条約の成立に尽力された各国政府および市民の皆さまと、喜びを分かち合いたいと思います。
しかし、核兵器不拡散条約(NPT)で核兵器の所有が認められている核兵器国5カ国とその同盟国、他の核保有4カ国もこの禁止条約に反対し続けています。残念ながら唯一の戦争被爆国の日本の政府もその仲間に入っています。
今日まで日本政府は「核兵器は人道法の精神に反するが実定法は存在しないので違法ではない」「国際司法裁判所は核兵器の威嚇と使用は違法としながらも、国家の存亡がかかる状況下での判断はしないとしている」ことをもって、「核兵器の使用は国際法では禁止されない」との見解をとり、核抑止による安全保障政策をとり続けてきました。
これらの言い分はもはや成り立ちません。日本国政府、国会はいまや核兵器の全面禁止の先頭に立つべきです。直ちに核政策を転換し、速やかに核兵器禁止条約に署名、批准し核なき世界の実現の先頭に立つことをここで改めて要請します。
被爆者は国内外で、原爆は人類と共存できない絶対悪の兵器であることを、証言し続けてきました。2016年からは核兵器の禁止、廃絶の条約をすべての国が結ぶことを求める訴えに対する国内外の市民の賛同を呼びかける「ヒバクシャ国際署名」を推進してきました。
今や世界の核保有国の市民の多くが、核兵器が反人間的兵器で不要なものであることを知るところとなりました。しかも、莫大な費用や時間、人材をかけて製造し、所有することは、国際法違反となります。しかし、核兵器使用の危機は払しょくされていません。万が一使用されることになれば、その被害は計り知れません。
被爆者の願いは、「ふたたび被爆者をつくらない」ことです。高齢化した被爆者に残された時間はわずかです。力のある限り平和を願うみなさんと共に、核兵器も戦争もない世界に向かって歩み続けます。
2020年10月25日
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)
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毎年恒例となりましたヒバクシャ国際署名の目録を、今年も受け取らせていただきました。感謝申し上げます。
被爆者の方々は核兵器のない世界の実現をたゆみなく訴え続けてこられました。75年前に降りかかった悲劇から立ち直られ、復興、希望、そしてすべての人々の安全と幸福を訴えられるみなさまの強さに、いつも勇気づけられています。
みなさまの人生は、核兵器の危険性に対する警鐘であり、人の精神の勝利の模範であり、何世代もの外交官と核兵器廃絶を求める運動家に深く響き渡りました。
この目録にある素晴らしい署名の数は、みなさまのメッセージの強さを示しています。
被爆者の方々は、核兵器禁止条約の支援に特に積極的に声をあげられ、2017年の交渉会議とその後の各国の批准プロセスにおいてとても重要な役割を果たしました。この条約が間もなく発効する状況にこぎつけたのは、みなさまの努力のたまものです。
どうかみなさま、お元気で長生きされ、これからも私たちのインスピレーションであられてください。
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ヒバクシャ国際署名を進める北海道民の会は9月12日、30余人が参加して札幌市の大通りで署名活動を行ないました。
会場には原爆パネル、「核兵器のない世界をめざし、あなたの署名を国連へ」の横断幕、被爆者協会や二世プラスの会ののぼりなどが飾られました。前日北海道新聞で報じられたこともあって、高校生から年配の方まで「署名をしにきました」という人がかなりの数にのぼりました。中には署名活動を手伝ってくれる人、署名をした後に戻ってきて5000円をカンパしてくれる人、「日本政府は核兵器禁止条約を批准せよ!」のパネルと原爆ドームの水彩画を持って加わってくれた仲間もいるなど、いつにも増して意気込みと活気を感じる署名行動でした。
呼びかけ人代表の眞田保北海道被爆者協会会長、上田文雄弁護士・前札幌市長をはじめ何人もの人がリレートーク、それぞれ「核兵器禁止条約の一日も早い発効を」と訴え、最後を川去裕子被爆二世プラスの会会長が締めくくりました。
11時から45分の間に143筆の署名が集まり、9月18日時点で北海道の署名の累計は70万3858筆に達しました。生協、平和運動フォーラム、原水協、被爆者協会が事務局をつとめ、幅広い団体と個人によって構成された北海道民の会は、共同の取り組みを継続し大きな足跡を記しました。(北明邦雄)
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ヒバクシャ国際署名連絡会宮城は、署名運動の一区切りとして9月30日、仙台市の市民の広場いこいのゾーンで、30人が参加してゴール集会を行ないました。
木村緋紗子会長が「宮城の皆さんはよく頑張ってくださった。また一人被爆者が亡くなり力の抜ける思いだが、支えてくださる皆さんがいるので、これからも核兵器廃絶のために頑張っていく」とあいさつ。続いて事務局から、3年間の取り組みを報告しました。うれしいニュースとして国際平和ビューロー(IPB)からヒバクシャ国際署名の運動に対して「ショーン・マクブライド平和賞」をいただいたことも報告しました。
宮城の署名数は9月18日までの集約で14万207筆になったことを発表。今後も事務局体制を続け、新しい署名ができたらまた集まりましょうと提起し、最後に全員で記念撮影をしました。
その後平和ビル前に移動して街頭宣伝を行ないました。署名へのご協力御礼と、署名到達数を報告し、用意した250枚のチラシはあっという間にはけて30分で終了。今後は日本政府が核兵器禁止条約に参加するよう求めていくことも大事であることをアピールしました。(署名連絡会宮城)
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北海道ブロックの中央相談事業講習会が10月4日札幌市内で、参加者27人で開かれました。
午前中は原爆障害調査委員会(ABCC)―放射線影響研究所(放影研)の問題を学習しました。今夏放映されたテレビ映像を観た後、北海道反核医師・歯科医師の会の上野武治会長が「放影研は被爆者・被曝者に寄り添うことが果たして可能か」の題で講演。ABCC、放影研の果たしてきた役割を知り、参加者は驚きとともに様々な思いを抱きました。今後も放影研の動きに注目していく必要を確認しました。
午後は、当初6月に予定していた二世プラスの会の会員のつどいが行なわれました。まず日高町からかけつけた二世会員が母親の被爆体験を語りました。次いで昨年6月からの活動報告と今後の予定が示され、来年は頃合いをみて長崎ピースツアーをやりたい、と話されました。(北明邦雄)
被爆75年の12月は、原爆・戦争被害の「受忍」を強要する基本懇意見が答申されて40年、それを制度化した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」制定から26年にあたります。
この節目に日本被団協は、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会との共催で、表記シンポジウムをオンラインで開催します。
近年、被団協運動資料による研究・教育実践をしてきた昭和女子大学・松田忍准教授、松山大学・根本雅也准教授と、その学生・院生らの報告をもとに、これら資料の意味と可能性、継承のあり方をさぐります。
12月12日(土)13時半~16時。オンライン参加が基本ですが、東京・四谷のプラザエフに若干の席も用意します。必ず事前に申し込みを。問い合わせは日本被団協まで。
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青森県原爆被害者の会は11月27日に結成60周年を迎えるにあたって、記念誌『未来につなぐ―「原爆はいらない」』を発行しました。
会ではこれまでに2回「被爆体験証言集」を発行してきました。今回は60年のあゆみを県内の原水爆禁止運動と共に記録に残していこうと、寄稿を呼びかけました。被爆者には被爆体験と戦後75年を経て思う事を寄せてもらいました。「子や孫の世代に戦争を体験させたくない」「原爆は二度と使われてはならない」という思いが強くこめられました。
県内全市町村の図書館等に寄贈が済み、広く県民の皆様に手に取っていただきたいと地元紙「東奥日報」に掲載、紹介されました。
A4判105頁、頒価1000円。問い合わせは当会事務局=電話090―7666―3044まで。(辻村泰子)
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埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)は、被爆75周年記念事業として被爆証言集『原爆許すまじ第3集―未来への伝言』を発刊しました。
昨年12月末に編集委員会を発足。年明けから新型コロナ感染が広がるなか、会員、賛助会員、支援団体ほか会員外の被爆者にも呼びかけ、50人から投稿がありました。
今回の投稿者には、89歳の母から聞き書きをした娘さんや、祖母から話を聞き当時の日記を読んで「世界で唯一被爆を語れる国の人間として」被爆体験を語る活動に参加する40代前半の若い二世のなど、被爆二世や会員外の被爆者(5人中2人が入会)の応募がありました。
第3集が「未来への伝言」として多くの方の目に触れ、核兵器も戦争もない平和な世界が次世代に引き継がれることを願います。
第3集は、埼玉県内すべての高校、大学、図書館に寄贈しました。
頒価2000円。問い合わせはしらさぎ会=電話048―431―6521、FAX048―431―6531まで。(原明範)
海外企業の訪日コンサルティング等を行なう旅行会社The J Team株式会社(東京・港区)が9月9日、都内でチャリティ駅伝を開催し、その収益金の一部を日本被団協に寄付しました。
新型コロナの影響でオリンピックも延期、訪日客も減少する中、都内のホテルや、レストラン、ハイヤー会社などに参加要請し、スカイツリー634mにちなんで63・4キロを手分けして走りました。その様子の公式動画が公開されています。
https://youtu.be/-TKYOzKxJhM
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原水爆禁止日本協議会(日本原水協)の安井正和事務局長が10月6日、日本被団協事務所を訪れ100万円の寄付金を木戸季市事務局長に手渡しました。毎年、秋に開催している日本被団協の全国都道府県代表者会議に合わせて届けられていましたが、今年は会議中止となったため、事務所での受け渡しとなったものです。
木戸事務局長は「コロナ禍で大変な中、いつもと変わらぬご支援に心から感謝します」とお礼の言葉を述べました。
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兵庫県被爆二世の会は広島・長崎被爆75周年記念として制作した、古石忠臣さんの被爆体験をもとにした紙芝居『ふるいしさんのはなし』(本紙9月号既報)を予約販売します。
古石さんは原爆投下当時17歳、志願兵で暁部隊に所属しており、8月6日午後に救援部隊として広島市内に入り、被爆しました。
1部6千円。申し込み受付は12月末まで。お届けは来年1月です。
紙芝居の貸し出しも始めました。送料のみご負担いただきます。
どちらも詳細は兵庫県被爆二世の会中村典子=電話090―7759―5964まで。
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愛知県原水爆被災者の会(愛友会)は、9月14日、名古屋市公会堂で「被爆75周年原爆犠牲者を偲ぶつどい」を開催し、被爆者、遺族、平和団体の代表、行政担当者ら120人が参列しました。
金本弘愛友会理事長はあいさつで「この『偲ぶつどい』を犠牲者への追悼だけでなく、核兵器廃絶を誓う日にしましょう」と訴えました。
慰霊式典の後、アニメ映画「アンゼラスの鐘」を上映し、別会場で広島の高校生が描いた「原爆絵画展」を開催。昨年から今年にかけて亡くなった3人の愛友会役員の被爆証言DVDが配られました。(大村義則)
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神奈川県原爆被災者の会は、慰霊祭・追悼のつどいを10月4日、大船観音寺境内原爆慰霊碑の前で行ないました。
今年は規模を縮小し被爆者のみで行ない、64人が列席しました。
初めて参加した被爆二世の東出幸美さんから寄せられた感想を抜粋して紹介します。「大船観音寺境内に被爆者の慰霊碑があることも存じませんでした。黙祷、読経、献花、朗読など滞りなくしめやかに行われ、何より参列された被爆者の方々がまだ少し暑い中を高齢の御身にはかなり負担に思われる急な坂道を懸命に登ってこられる様子に皆様の深い追悼の思いを強く感じました」。(神奈川県原爆被災者の会)
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第42回千葉県原爆死没者慰霊式典を10月8日、県文化会館小ホールで例年の3分の1に縮小し、参加者を81人に抑えて行ないました。
新たな合祀者のお名前を披露し、冥福を祈り、遺族代表による献水のあと、折り鶴献納者の皆さまに感謝をこめてお名前を読み上げ、全員で白菊の献花をしました。「原爆を許すまじ」の合唱のテープを流し、参列者一同、心のなかで声を合わせました。合祀者の御霊に対し、残された運動の実現を誓う、厳粛で心温まる慰霊式となりました。(児玉三智子)
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10月9日に行なわれた兵庫県原爆死没者追悼慰霊祭には、39人が参列しました。
鹿島孝治副理事長の司会のもと、主催者を代表して兵庫被団協岡邊好子理事長が式辞を述べ、宝塚の片桐安子さんが遺族代表として、また各界の来賓から「追悼の詞」が捧げられました。多数の「追悼メッセージ」紹介の後、参列者全員で碑前に献花しました。
今年は被爆75年の節目にあたり、また核兵器禁止条約発効が目前という時期。加えて「ヒバクシャ国際署名」に県下すべての自治体首長の賛同が得られたなどのもとで、核廃絶への思いを共にあらたにした慰霊祭となりました。(副島圀義)
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愛媛県原爆死没者合同慰霊祭が10月18日、石手川公園内の慰霊碑前で挙行されました。これまでは春に愛媛原水協が、夏に松山原水禁が実施していましたが、「被爆75年の本年はぜひ共同で実施を」との県原爆被害者の会の要請に応え、3団体共同開催となったものです(写真左は中村嘉孝松山原水禁会長、右は永瀬勉愛媛原水協理事長)。
澄みわたる青空のもと県うたごえ協議会の合唱で始まり、主催者挨拶の後、県原爆被害者の会の岡本教義会長が「追悼のことば」を述べました。被爆体験に触れ「私たちには核兵器も原発も要らない」と訴えました。
なおコロナ感染拡大防止のため、式次第を簡素化し参列者を3団体の構成員に限定して執り行ないました。(松浦秀人)
【問】私は肝臓がんと大腸がんで原爆症の認定を受けています。7月に何回目かの肝臓の塞栓術を受けましたが、今年の夏の暑さはことのほか体への負担が大きく体調を崩してしまいました。主治医から在宅で点滴をと指示されましたが、訪問看護の費用負担が大きくことわりました。
介護保険の「要支援2」で週2回の訪問看護を受けていますが、点滴の針刺しと針抜きで1日に2回訪問看護を受けなければならず、「要支援2」では限度額をこえるため1日1万円近く自費になるといわれたのです。
これから先、訪問看護を受けなければならないことが多くなりますが、自己負担を考えると困ってしまいます。何か援助はありますか。
* * *
【答】大変な思いをされましたね。認定された介護度によって介護保険サービスの利用限度額が決まります。限度額を超えた費用は被爆者健康手帳があっても自費負担になります。
しかし、あなたのように原爆症認定被爆者が認定疾病のために訪問看護が必要な場合は、介護保険とは別枠で全額国の負担で受けられます。(平成12年3月31日健医企発第12号)。介護保険とは別に、主治医が原爆症認定疾病を管理する上で必要と判断し訪問看護指示書を出せば、自費負担が生じることはありません。一度、主治医とよく相談されてみてはいかがでしょうか。
定期的な全身管理のためだけでなく、状態が急に悪くなった場合には特別訪問看護指示書が出されます。特別訪問看護指示書が出された場合、週4回以上の訪問看護、1日に複数回の訪問看護が認められます。原爆症認定疾病を管理してもらっている医師と日常管理の主治医が違うようでしたら、連携を取った対応をしてもらいましょう。
1932年5月13日生まれ、88歳。コロナウイルス騒ぎの最中に米寿を迎えました。他の人と同じように88年間生きてきたのだなという想いとともに、やはり被爆者としての想いがあります。
1945年8月6日、私は13歳、旧制中学1年生でした。体調が悪く学校を休み、爆心地から2キロの自宅で横になっていた時に被爆しました。奇跡か偶然か命拾いしてその後75年間生かされて88歳を迎えたのです。
私の戦前からの友人のほとんどが13歳という若さで原爆に殺されました。原爆さえなければ、一緒に米寿のお祝いができたはずです。コロナのため家族だけでささやかなお祝いをしてもらいましたが、お祝いの乾杯と同時に献杯をする複雑な心境でした。
戦前、戦中に私が通い卒業したのは日本陸軍の将校クラブ偕行社付属の済美幼稚園・小学校でした。陸軍幼年学校に合格していましたが、9月1日の入学式を待たずに敗戦。私の人生の方向が大きく変わりました。
被爆者としての私の人生は、両親のおかげで当時としては恵まれていたと思います。学生時代もその後もいじめられたり差別を受けたりした記憶はなく、就職難の時代でしたが大学卒業前年の10月に入社試験に合格。20歳代後半に原爆の影響で肝炎になり2カ月入院し半年間会社を休んだ以外は特に問題なく、超多忙ではありましたが結婚し家族にも恵まれました。
それにしても思い出されるのは、2人の幼馴染との想い出です。M君とS君とは家が近く仲良しでした。いつも近所の道路で遊んでおり、特にS君とはお互い言いたい放題ものを言い、毎日のように喧嘩別れしても翌日はケロッとして遊ぶ仲でした。被爆前日の8月5日、「お前とは二度と遊ばないからな」と別れたのも普段どおりで、次の6日はいつもと同じように遊ぶはずでした。しかし2人とも朝元気よく家を出たきり二度と帰ってきませんでした。明るく元気だった2人と、わずか13歳という若さで、「別れともいえない別れ」におそわれなければならなかった…なぜ自分だけが生き延びたのか、辛い想いがよみがえります。原爆さえなければ、3人元気で米寿を迎え、何を語り合いながら杯を重ねたことでしょうか。
ほぅたるを待つ被爆死の友を待つ 〈旅人木〉
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日本被団協制作のパネル「ヒロシマ・ナガサキ原爆と人間展」のパンフレット版。パネルの写真、図版と文章をすべて収録しています。
A5判モノクロ、32ページ、200円。
日本被団協結成60周年記念式典で上映したスライドをもとに構成。1ページ毎に写真と解説文で結成からの運動の歩みを紹介しています。巻末に略年表。
A5判カラー、60ページ、400円。