被爆から73年の8月9日、長崎市主催の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が長崎市の平和公園で開かれ、日本被団協の田中煕巳代表委員が「平和への誓い」を述べました(写真)。発言の全文を紹介します。
1945年8月9日、13歳だった私は、爆心地から3・2キロ離れた自宅の2階で被爆しました。爆風で飛んできた大きなガラス戸の下敷きになりましたが、奇跡的に無傷で助かりました。
3日後の今頃、私は、家屋が跡形もなく消滅し、黒焦げの死体が散乱するこの丘の上を歩き回っていました。探し当てた父方の伯母の家屋跡には、黒焦げになった伯母たち家族の遺体が転がっていました。この時、丘の下の上野町では、3日間生きながらえた母方の伯母の遺体をトタン板に載せて焼いていました。焼き終えた人の形をとどめた遺骨を見たとき、優しかった伯母の姿が目に浮かび、その場に泣き崩れました。原爆により身内5人の命が一挙に奪われました。この日一日、私が目撃した浦上地帯の地獄の惨状を私の脳裏から消し去ることはできません。
原爆は全く無差別に、短時日に、大量の人々の命を奪い、傷つけました。そして、生き延びた被爆者を死ぬまで苦しめ続けます。人間が人間に加える行為として絶対に許されない行為です。
全国に移り住んだ被爆者たちは、被爆後10年余り、誰からも顧みられることなく、原爆による病や死の恐怖、偏見と差別などに一人で耐え苦しみました。
ビキニ環礁での、1954年3月1日のアメリカの水爆実験による「死の灰」の被害に端を発し、全国に広がった原水爆禁止運動に励まされて、1956年8月、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されました。
日本被団協に結集した被爆者は、「同じ苦しみを世界の誰にも味わわせてはならない」と原爆被害の残虐な真相を、国の内外に伝え、広げ、核兵器の速やかな廃絶を世界に訴え続けてきました。
2010年代に入り、国際政治の場において、核兵器の非人道的な被害に焦点が当てられるようになる中、長年にわたる被爆者と原水爆禁止を願う市民社会のさまざまな活動、さらにICANの集中的なロビー活動などが実を結び2017年7月、「核兵器禁止条約」が国連で採択されました。被爆者が目の黒いうちに見届けたいと願った核兵器廃絶への道筋が見えてきました。これほど嬉しいことはありません。
ところが、被爆者の苦しみと核兵器の非人道性を最もよく知っているはずの日本政府は、同盟国アメリカの意に従って「核兵器禁止条約」に署名も批准もしないと、昨年の原爆の日に総理自ら公言されました。極めて残念でなりません。
核兵器国とその同盟国は、信頼関係が醸成されない国が存在する限り、核抑止力が必要であると弁明します。核抑止力は核兵器を使用することが前提です。国家間の信頼関係は徹底した話し合いで築くべきです。
紛争解決のための戦力は持たないと定めた日本国憲法第9条の精神は、核時代の世界に呼びかける誇るべき規範です。
私は、多くの先人たちの働きを偲びつつ、「ヒバクシャ国際署名」運動をさらに大きく発展させて、速やかに「核兵器禁止条約」を発効させ、核兵器もない戦争もない世界の実現に力を尽くすことを心に刻み、私の平和への誓いといたします。
8月6日、広島市まちづくり交流プラザで、ヒバクシャ国際署名全国交流会が40人を超える参加で開かれました。
連絡会事務局から、署名数は現在概数で873万人分で、年内に1000万人分を達成したい、今年の国連総会と、来年4月のNPT再検討会議準備委員会へ被爆者を2人ずつ派遣のため、目標200万円のカンパを集めるなど報告がありました。広島、東京、静岡、愛知、新潟、千葉、神奈川、岐阜から取り組みの状況や目標が話され、参加できなかった各地から事前に資料が寄せられました。日青協など団体からも発言があり、最後に日本被団協の木戸事務局長が、ヒバクシャ国際署名を世界で進めるとともに戦争をしない国づくりを、と呼びかけました。
8月9日、ヒバクシャ国際署名連絡会と県民の会が共催して街頭署名活動を行ないました。長崎市浜の町アーケード内ハマクロス411前で、午後2時から1時間、全国から集まった計80人が参加しました。高校生や家族連れなど多くの人が足を止めて署名してくださり、一時間で644人分の署名が集まりました。
行動中、うたごえの合唱に加え昨年8月9日の連絡会イベントで演奏してくれたガールズバンド「新月灯花」の生演奏も行なわれ大変な盛り上がりとなりました。また、世界大会に参加の世界各国の活動家も画板を持ち署名を一緒に集め、国際的な連帯の象徴とも言える街頭アピールとなりました。(林田光弘)
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中満事務次長(左端)と懇談 |
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グテーレス事務総長(左端)と懇談 |
8月6日午前、広島市内で中満泉国連軍縮上級代表と日本被団協の懇談が行なわれました。
木戸季市事務局長などが出席、それぞれ自らの被爆体験を述べるとともに核兵器禁止条約、ヒバクシャ国際署名の推進状況など報告しました。
中満さんは条約への今後の対応についてふれた中で、グテーレス国連事務総長が5月に発表した軍縮アジェンダ(行動計画)を国連の事務局で日本語に翻訳しており、9月の国連総会開会までに仕上げると述べました。
同日午後、国連ユニタール広島事務所と国連軍縮部の共同開催で「広島から考える国連軍縮アジェンダ」が開かれました。パネルディスカッションではグテーレス事務総長の軍縮アジェンダが主テーマになり、中満さんのほか京都大学浅田正彦教授、拓殖大学佐藤丙午教授、難民を助ける会の長有紀枝理事長がパネリストとして熱心に議論を交わしました。
前日の5日には広島市内で、核兵器廃絶日本NGO連絡会が中満さんと懇談。森瀧春子核兵器廃絶をめざす広島の会共同代表が最初に挨拶し、日本被団協の田中煕巳代表委員ら連絡会の参加者16人全員が発言しました。
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8月8日午後、長崎市内でグテーレス国連事務総長が被爆者と懇談、日本被団協の田中熙巳、田中重光両代表委員が出席しました。グテーレス氏は自国ポルトガルと長崎との交流に触れて訪問の喜びを語り、「核兵器のない世界の実現に向けた希望と決意を皆さんと共有する」と述べました。
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マディン英国大使(右から3人目) |
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薛中国公使参事官(右) |
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ピックフランス大使(中央) |
日本被団協は7月下旬、今年度の活動方針の一つに掲げている核保有国の駐日大使館への要請を行ないました。
要請内容は①貴国で被爆者の証言の場を設定してください②核兵器禁止条約に署名・批准をしてください③NPT6条を遵守してください、の3項目です。
【イギリス】NPTを最も重要な条約と考える。禁止条約には重要な問題が含まれていないとし、安全性、透明性、信頼性が欠けていると述べました。英国はこれまで核兵器を50%削減してきた、2020年のNPT再検討会議が、この分野での進展の年になり、禁止条約がそれに影を落とすことがないよう願っていると述べました。
【中国】中国での被爆証言の場については、日本の加害責任について国内で反感を懸念すると述べました。相手方の核攻撃に対する反撃の場合を除き、核兵器を使用しないという先制不使用については、従来から変更はないとしました。
【ロシア】米国は他国の安全保障を犠牲にして、自国の安全を保障している。ロシアはNPT6条を守っている。禁止条約は共通のゴールである核廃絶にとっても悪い条約と考える。法的、戦略的方法を無視し、保有国の意見を考慮していないと述べました。
【フランス】世界の平和のために貢献したいと思い、そのためには戦いも辞さない。抑止力は必要と考える。合法的な保有国は核兵器を使わないが、非合法的に所有している国が脅威になることを許してはならない。NPTを遵守し努力をしていると自負していると述べました。
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各国とも、NPTの重視を述べますが、核保有国間の明確な話し合い、前進が見られません。アメリカ大使館については後日訪問する予定です。
ヒバクシャ国際署名新潟県連絡会は7月28日、「核兵器も戦争もない平和な世界へ」県民のつどいを新潟市万代市民会館で開催し、233人が参加しました。
素晴らしい合唱の後、黙とう、主催者挨拶、県原爆被害者の会山内悦子会長の挨拶に続き、日本被団協代表委員でヒバクシャ国際署名連絡会代表の田中煕巳さんから「今日の国際情勢における核兵器廃絶への道すじ」のテーマで講演をしていただきました。
田中さんは「願いを意志に、意志を行動に変えて核兵器廃絶を成し遂げよう」と訴え、「唯一の被爆国日本が条約に賛成しなくていいのか」と強く批判し、世論の力で核兵器禁止条約を発効させようと呼びかけました。
連絡会は、7万9千を超える署名数、政府に条約批准を求める意見書提出が全30市町村のうち19に達したことを報告。
最後に、ヒバクシャ国際署名の積極的な取り組みによる国際世論の積み上げと、県内全ての市町村が条約への署名・批准を求める意見書採択するよう求めるアピールを確認し、つどいを終了しました。(西山謙介)
原爆胎内被爆者全国連絡会は8月5日、第5回胎内被爆者のつどいを約30人の参加で広島市内で開きました(写真)。
日本被団協の木戸季市事務局長から「最年少の被爆者として被爆者運動を担っていっていただきたい」との激励のあいさつのあと、「ある原爆乙女の生涯とノーマン・カズンズ氏」のテーマで愛媛県の松浦秀人さんからメイン報告。日本被団協事務局次長の濱住治郎さんから日本被団協定期総会の報告がありました。
続いて、昨年亡くなった星野菊子さんの絵画遺作展、広島支部、長崎の取り組みなどの報告がありました。今後の取り組みとしては、被爆75年にむけ、第2段の「胎内被爆者の体験記」発行を全国の胎内被爆者に呼びかけていくことを確認しました。
各演者の熱心な報告で予定時間が大幅に伸び参加者の交流時間が短くなりましたが、有意義な時間を過ごすことができました。(三村正弘)
7月19~20日、道庁ロビーで開催した「被爆者の証言と原爆展」には660人余が来場し、高熱で溶けた屋根瓦やガラス瓶などの遺品、原爆の絵、原爆と人間パネルなどに見入っていました。被爆者とともに二世の2人が母や父の被爆体験を語りました。
8月6日の原爆死没者北海道追悼会には被爆者・遺族をはじめ150人が参加しました。第1部追悼会では眞田保会長の挨拶、来賓挨拶に続いて高校生の岸本万尋さんが「惨禍を繰り返さないために被爆者の思いを伝えていく」と述べ大きな共感を呼びました。カザルスの「鳥の歌」のフルート演奏に合わせて献花・献水をしました。第2部では、宮本寿美子さんが自身の被爆体験と若くして娘を失った悲しみを語り「非人道的な核兵器は絶対に無くさなければならない」と語りました。参加者はこれまでの取り組みや決意などを述べ交流を深めました。二世プラスの会は出来上がったばかりののぼりと横断幕を披露し大きな拍手に包まれました。
8月9~12日、ジョー・オダネルの写真展(50点)をノーモア・ヒバクシャ会館で開催(写真)。「私は苦しい時いつもこの写真を見て頑張ってきた」と写真の少年の顔を手で撫でる男性など、4日間で560人余が来場、被爆者の証言も大きな感銘を与えました。
8月15日のさっぽろ平和行動に参加し「赤紙」を配り、貸し切りの平和電車でも94歳の小野崎浅治さんが体験を語りました。(北明邦雄)
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スクリーンの前で語る 吉永小百合さん(7月14日) 〈写真=被爆者の声をうけつぐ映画祭、 撮影:小宮広嗣〉 |
7月14~15日東京の武蔵大学で開催された第12回被爆者の声を受け継ぐ映画祭に、俳優の吉永小百合さんが登場し、1966年に主演した映画「愛と死の記録」上映前のトークと、記者との懇談を行ないました。吉永さんのお話を紹介します。
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素敵なタイトルの映画祭ですね。もう12回も。これからも続いてほしいと思います。
この映画を撮影したころはまだ原爆スラムも残り、SLも走っていました。8月6日から撮影が始まり、ドキュメンタリーのように撮影されました。原爆ドームの中に入って撮影したし、原爆病院でも、ずっと入院している方に出演してもらいました。初めて原爆のことを知った作品で、学校では教えてくれなかったことを学びました。映画の現場が私の学校、作品が私の教科書でした。
主演した120本の映画のうち、3本が原爆に関係しています。「愛と死の記録」「夢千代日記」「母と暮せば」です。
「夢千代日記」で被団協とのつながりができ、原爆詩の朗読の依頼を受けて、渋谷の教会で読みました。その後、もっと多くの人、多くの子どもたちに、と思い、朗読するようになったんです。1986年から全国で朗読会を開いてきました。
戦争のことを知らない子どもたちに、たくさんの人が亡くなって今があること、戦争は人殺しだということを伝えたい。
私の父は戦争に行ったけれど病気になって帰ってきて、私が生まれました。今、仕事をして生きていることに感謝しかありません。
核兵器禁止条約が、早く成立するといいと思います。核のない平和な世界をつくれるように、私たちがいっしょに行動していかれたらどんなに素敵かと思っています。平和はみんなでつくっていくもので、人からもらうものでも待っているものでもありません。できることをしていかなければ。あきらめないで、一人ひとりが声を出していけば変わると思います。
(まとめ・工藤雅子)
広島原爆の日の8月6日、ノルウェーのオスロで集会が開かれました。
会の始めに日本被団協の藤森俊希さんから送られた挨拶が紹介されました。オスロの知事、マリアンナ・ボルゲンさんが挨拶し(写真)、オスロ県が平和首長会議に加盟していることを話しました。知事はまた、ノルウェー国会が今年2月に、核兵器禁止条約の内容と条約調印が国にとってどのような影響を持つのか分析する提案を採択し、12月にはその結果が報告されることを説明しました(ノルウェー政府はNATOの加盟国であることを理由に条約調印を拒否しています)。
その後、平和を求める祖母の会と2つの政党の青年部の代表がアピールしました。最後にオスロ在住の守口さんが、禎子と千羽鶴の話を紹介。私は、福島の犠牲者に捧げられた歌を歌いました。
集会の演説者全員、ノルウェー政府が核兵器禁止条約に調印するべきだと主張していました。
(真弓美果・オスロ在住)
神戸市原爆被害者の会は第19回原爆写真展をJR神戸駅南地下街デュオぎゃらりーで8月2~7日に開催しました。猛暑の中、1470人の来場者があり、481筆の署名をいただきました。感想文の中には戦争の悲惨さ核兵器の残忍さを訴えるものが多く見受けられ、我々の願いが通じるものとなりました。若い人が多かったのも嬉しいことでした。(立川重則)
鹿児島県原爆被爆二世の会は、8月6日「核兵器廃絶・世界平和」を願う鹿児島県宗教者懇話会と共に「平和巡礼」を行ないました。二世の会として一昨年から参加しています。
今年は午後5時にザビエル教会に、仏教、キリスト教、神道の各宗派の宗教者と関係者が約70人参集(二世は4人)し、出発式では参加者全員にフランシスコ・ローマ教皇の「焼き場の少年」のカードが配られました。
福岡県星野村より分火された「広島原爆の火」を先頭に、鹿児島市の繁華街・天文館を中心に、ただ黙して各自祈りつつ歩きました。
今回から最終地を「鹿児島県原爆犠牲者慰霊平和祈念碑」前としていただき、祈念碑の前では「癒しの時」として、平和の歌の演奏があり、最後に「原爆の火」を消し、献花を行ない、祈りを捧げて終了しました。
前日に二世6人で慰霊碑の清掃を行ない、被爆者・岡元米子さんから託された折り鶴を供えていました。より良い巡礼となったと思います。
(大山正一)
広島県では8月6日、広島市平和公園の平和祈念式典以外にも各地で原爆死没者慰霊・追悼の催しが行なわれています。
三原市原爆被害者之会は市内隆景広場で午前8時から、原爆死没者慰霊式ならびに平和祈念式を行ないました。2017年度の死没者26人の名簿を慰霊碑に奉納し(写真)黙祷。平和の鐘を鳴らして、献水、献花を行ないました。「平和を歌う会・みはら」のみなさんによる合唱もありました。(音丸篤夫)
第66回平和美術展が8月14日~21日、東京都美術館(東京・上野)で開かれ、約5000人の来場者を集めました。
1959年の第7回展から取り組まれている原爆死没者肖像画は、今年は3点が制作・展示されました(写真)。これらの肖像画は都道府県被団協を通じて遺族に贈られます。
美術展での小品売上の中から5万円が、日本被団協に寄付されました。
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【問】自宅で倒れ緊急入院した、一人暮らしの被爆者の後見人をしている者です。
近所の人がたまたま訪問して、倒れているのを発見し入院。本人の経済的情報がわからず、入院と同時に生活保護が開始され、回復期リハビリ病院など3カ所の病院をへて施設入所となり、その時点で後見人を任されました。
自宅を整理する中で被爆者健康手帳と多額の残高がある貯金通帳がみつかり、福祉事務所から医療費の全額返還を求められました。どうこたえたらいいかわかりません。
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【答】一人暮らしで突然倒れると情報がなく、困ってしまいます。何も見つからなければ生活保護受給で終わったかもしれませんが、被爆者健康手帳と多額の貯金が見つかったことで問題が生じたようですね。
生活保護の場合医療費は「他法優先」なので、被爆者は生活保護を受けていても被爆者健康手帳により請求することになっています。
この方の場合、入院して1年近くになり3カ所の病院での医療費の請求が終わっています。ですがご本人に医療費の請求がないように、福祉事務所から各病院の請求事務担当者に、生活保護で請求した医療費の返戻手続きと被爆者健康手帳での再請求をお願いして貰ってください。
被爆者で一人暮らしの方は、次のことに特に気をつけてください。
①目につくところに緊急の連絡先を貼っておきましょう。そこに、被爆者の会の連絡先も加えておきましょう。
②被爆者健康手帳と保険証、お薬手帳をまとめて、目につくところに置くようにしましょう。