被団協新聞

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「被団協」新聞2017年 4月号(459号)

2017年4月号 主な内容
1面 「ふたたび被爆者をつくるな」の訴えを条約に 国連 核兵器禁止条約交渉会議始まる
国連会議直前全国一斉行動 ヒバクシャ国際署名 各地で
2面 一斉行動各地で
国連会議発言全文「ふたたび被爆者をつくらない」核兵器を禁止し廃絶する法的拘束力ある条約を
非核水夫の海上通信(152)
3面 「原爆で終戦」のウソと役割
3・1ビキニデー 諸行動の中でヒバクシャ国際署名
「被爆者運動継承」の学習交流会 福岡
肥田舜太郎顧問 死去
4面 相談のまど 介護保険サービスと合わせて被爆者の介護手当の受給を
日本被団協のバッジ2種

 

「ふたたび被爆者をつくるな」の訴えを条約に
国連 核兵器禁止条約交渉会議始まる

初日に藤森俊希 日本被団協事務局次長が発言

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核兵器禁止条約交渉会議初日に発言する藤森俊希日本被団協事務局次長

会議2日目に発言するサーロー節子さん

 核兵器を禁止し廃絶する条約交渉会議が3月27日、米ニューヨークの国連本部で始まりました。
 会議初日、ハイレベル部門の意見交換に先立ちキム・ウォンス軍縮担当上級代表らにつづき日本被団協の藤森俊希事務局次長に発言が指名されました。藤森さんは、1歳のとき広島で被爆した体験をもとに「ふたたび被爆者をつくるな」との被爆者の訴えが条約に盛り込まれ、世界が核兵器廃絶へ力強く前進することを希望しますと各国の代表に呼びかけました。
 藤森さんは、母に背負われ病院に行く途中、爆心地から2・3キロの場所で被爆。目と鼻と口だけを出して包帯でぐるぐる巻きにされ、間もなく死を迎えると見られていました。「その私が奇跡的に生き延び、国連で核兵器廃絶を訴える。被爆者の使命を感じます」とのべました。
 昨年の国連総会で核保有国とともに日本政府が、今回の交渉会議を定めた決議に反対したことに「被爆者で日本国民である私は心が裂ける思いで本日を迎えています」と語りました。
 「しかし、決して落胆していません」とのべ、会議参加の各国、国際機関、市民社会の代表が法的拘束力ある条約をつくるため力を注いでいるからだと強調。昨年4月被爆者が世界に呼びかけた国際署名について、2020年までに億単位の署名を集め「法的拘束力のある条約を成立させ、発効させるためともに力をつくしましょう」と呼びかけました(全文二面)。
 2日目の会議午前の部では各国代表の発言終了後、市民社会から5人の発言がありました。カナダ在住の被爆者サーロー節子さんは、被爆体験とともに核兵器廃絶への米国と日本の対応を鋭く批判、核兵器のない世界を訴え、満場の拍手が長く続きました。
 国連での交渉会議は初回3月31日まで開かれ、6月15日〜7月7日に2回目の会議を開きます。法的拘束力ある文書をまとめ、9月に始まる第72回国連総会に勧告する予定です。
日本政府は不参加表明
 日本政府代表の高見沢将林軍縮大使は、条約交渉について、「建設的で誠実な形で交渉に参加することは困難だと言わざるをえない」とのべ、交渉には参加しないと表明しました。


国連会議直前全国一斉行動 ヒバクシャ国際署名 各地で

 国連での核兵器禁止条約交渉会議を前にヒバクシャ国際署名連絡会は、会議直前国内一斉行動を呼びかけました。
 3月22日、渋谷ハチ公前で街頭署名行動、参議院議員会館で記者会見と院内集会を行ない、この日をはさんで各地で集会や街頭行動が取り組まれました(関連記事2面)。

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JR渋谷駅ハチ公前の街頭行動(3月22日)

渋谷街頭署名

 多くの人々が行き交うハチ公前、23団体、36人の被爆者を含む77人が参加し午後3時から4時まで行動しました。民族歌舞団「荒馬座」の小太鼓と笛のパフォーマンスではじまり、日本被団協の木戸季市事務局次長ほか、首都圏の被爆者及び連絡会参加団体の代表が次々に署名を呼びかけ、若者や外国人など251人の署名を集めました。

署名累計172万余

 午後5時から参議院議員会館で開いた記者会見では、集まっているヒバクシャ国際署名が累計で172万4266筆(3月21日現在、昨年10月提出の56万4240筆を含む)と発表しました。日本被団協の児玉三智子事務局長は「交渉会議が始まるが、被爆者は待ちこがれてきた。実りある会議になるように、国際署名がぐっと押し上げていければ」と話しました。

院内集会−今後の行動

 午後6時からの院内集会には、公明、民進、共産、自由、社民の各党から代表が出席し連帯の挨拶がありました。27日から始まる国連会議の要点説明の後、東友会の「被爆72年、被爆者の生と死」のスライドと朗読が披露されました。林田光弘キャンペンリーダーから、今後の行動提起。4月に交渉会議報告集会開催、6月の交渉会議にあわせた「ピース・ウェーブ2017」の展開、平和首長会議との共催イベントの計画、若者リーダー養成などです。


一斉行動各地で

【岩手】

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 ヒバクシャ国際署名をすすめる岩手の会は、幹事会と街頭署名行動を3月21日行ないました。
 幹事会では県知事と県議会議長、県議48人中47人が署名したこと、県議会総務常任委員会で「日本政府に対し、核兵器禁止条約の交渉会議に参加し条約実現に真剣に努力するよう求める請願」が賛成多数で採択されたことなどが報告され、50万署名目標を目指す取り組みを話し合いました。
 正午過ぎ30分間の街頭署名行動は28人が参加、署名は49筆でした。


【宮城】

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 3月10日、14団体19人が参加して、ヒバクシャ国際署名連絡会宮城が結成されました。事務局は原水協、新婦人、生協連、民医連、宮教組が担い、代表ははぎの会とすることを確認。署名の目標を県人口の半数近い100万筆と設定しました。
 21日、仙台市一番町で街頭署名行動に取り組みました。被爆者をはじめ12団体23人が参加。50分で114筆の署名が寄せられました。





【埼玉】

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 3月22日、ヒバクシャ国際署名埼玉連絡会が、参加団体21団体から28人が参加して発足会を開きました。これまでに上田清司知事と20自治体首長の賛同が得られたことを報告。当面の学習活動、署名行動を検討しました。事務局は生協連、原水協、平和センターが担い、署名の達成目標を300万筆としました。






【千葉】

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 千葉県「ヒバクシャ国際署名」推進連絡会は3月25日11時〜12時、JR津田沼駅北口デッキで街頭行動を行ないました。被爆者15人を含む8団体31人が参加。「祖父母が広島の被爆者で、生前よく原爆の話をしていた」という若者や、募金箱に小銭入れをひっくり返して入れて署名した人など、署名149筆、募金4千円余が集まりました。





【長野】

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 ヒバクシャ国際署名長野県推進連絡会は3月16日、13団体と個人の29人が参加して設立総会を開きました。県民過半数の署名を目標に活動することを確認。代表世話人5人を選任しました。昨年5月からの準備会の活動で阿部守一県知事と県内77全市町村長から署名が寄せられたことなどを報告。ヒバクシャ国際署名連絡会の林田光弘さんが1時間講演し、参加者は熱心に聞き入りました。
 22日、昼休みの時間帯にJR長野駅善光寺口前で署名行動。30人の参加で横断幕や原爆パネルを展示し、132人から署名が寄せられました。

【岐阜】

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 3月24日、被爆者ほか60人余が参加して、ヒバクシャ国際署名岐阜県民の会を結成しました。冒頭、3人の女性被爆者が署名の訴え文「被爆者は核兵器廃絶を心から求めます」を朗読。代表世話人を選出し、署名目標を県民過半数の100万としました。田中煕巳日本被団協事務局長が講演し「本気で核兵器をなくそうと語る運動です。主権者として国を動かす運動、核兵器を持っている国の国民を動かす運動です」と呼びかけました。





【広島】

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 広島被爆者7団体は321日午後1時から30分、原爆ドーム近くの元安橋で、街頭署名行動を行ないました。7団体のほか広島平和文化センター理事長の小溝泰義さん、広島県生協連、広島YMCAなど約30人が参加。外国人を含む350筆の署名が寄せられました。







【長崎】

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 「ヒバクシャ国際署名」をすすめる長崎県民の会は3月26日16時〜17時、月1回定例の街頭宣伝(8回目)を行ないました。被爆者10人をはじめ各団体からの参加者は全部で70人。うたごえ協議会の会員たちが署名のためのオリジナルの新曲「忘れえぬ夏」を披露するなどたくさんの歌を演奏し美しい音楽であふれる中、若い人、高齢者、外国人など様々な人たちが署名に応じ、465筆が集まりました。


[国連会議発言全文]
「ふたたび被爆者をつくらない」
核兵器を禁止し廃絶する法的拘束力ある条約を

日本被団協事務局次長 藤森俊希

 議長および会議参加の皆さん、発言の機会を与えていただき感謝します。
 私は、日本被団協事務局次長の藤森俊希と申します。1945年8月6日、米軍が広島に投下した原爆に被爆した1人です。
 被爆後11年目にして日本被団協を結成した被爆者は「ふたたび被爆者をつくるな」と国内外に訴え続けてきました。被爆者のこの訴えが条約に盛り込まれ、世界が核兵器廃絶へ力強く前進することを希望します。
 被爆した時の私は、生後1年4カ月の幼児でした。当時のわが家は祖父、父母、6人の姉、2人の兄と私の12人の大家族でした。空襲を避けるため広島市から避難した2人の姉、2人の兄以外、広島市に残った8人全員が被爆しました。
 13歳で女学校1年だった4番目の姉は、爆心地から400mあたりで建物疎開に動員されていました。ここでは、放射線、熱線、爆風の直撃をうけ、私の姉を含む教師、生徒676人全員が命を落としました。広島市全体では中学1、2年に当たる学徒8400人が建物疎開に動員され、うち6300人が亡くなったとされています。
 私は当日体調を崩し、母に背負われ病院に行く途中、爆心地から2・3`地点で母とともに被爆しました。偶然、親子と爆心の間に2階建ての民家があり熱線を直接受けることは避けられましたが、爆風で土手の下まで吹き飛ばされました。母は、私を抱いて近くの牛田山に逃れました。それぞれの出先で被爆した家族が牛田山に逃れてきました。4女が帰ってきません。父、姉、母が、4女の行方を探すため、動員されたであろう爆心地周辺に何日も出かけました。姉はついに見つからず、遺体も分からないままです。その間私は目と鼻と口だけ出して包帯でぐるぐる巻きにされ、やがて死を迎えると見られていました。その私が奇跡的に生き延び、国連で核兵器廃絶を訴える。被爆者の使命を感じます。
 米軍が広島、長崎に投下した原爆によって、その年の末までに21万人が死亡しました。キノコ雲の下で繰り広げられた生き地獄後も今日3月27日までの2万6166日間、被爆者を苦しめ続けています。
 同じ地獄をどの国のだれにも絶対に再現してはなりません。
 私の母は、毎年8月6日子どもを集め、涙を流しながら体験を話しました。辛い思いをしてなぜ話すのか母に尋ねたことがあります。
 母はひと言「あんたらを同じ目に合わせとうないからじゃ」と言いました。
 母の涙は、生き地獄を再現してはならないという母性の叫びだったのだと思います。
 ノルウェー、メキシコ、オーストリアで開かれた3回の国際会議、NPT再検討会議準備委員会、国連総会第一委員会での共同声明など、ねばり強い議論、声明が導き出した結論は、
 「意図的であれ偶発であれ核爆発が起これば、被害は国境を超えて広がり」
 「どの国、国際機関も救援の術を持たず」
 「核兵器不使用が人類の利益であり」
 「核兵器不使用を保証できるのは核兵器廃絶以外にあり得ない」
ということでした。 
 多くの被爆者が、万感の思いをもって受け止めました。
 核兵器国と同盟国が核兵器廃絶の条約をつくることに反対しています。
 世界で唯一の戦争被爆国日本の政府は、この会議の実行を盛り込んだ決議に反対しました。
 被爆者で日本国民である私は心が裂ける思いで本日を迎えています。
 しかし、決して落胆していません。
 会議参加の各国代表、国際機関、市民社会の代表が核兵器を禁止し廃絶する法的拘束力のある条約をつくるため力を注いでいるからです。
 被爆者は昨年4月、すべての国が核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶことを求める国際署名を始めました。世界各国に呼び掛け昨年10月、1回目の署名56万余を国連総会第一委員会議長に届けました。現在累計で172万余の署名が集まっています。億単位の署名を目標に2020年まで続けます。
 法的拘束力のある条約を成立させ、発効させるためともに力を尽くしましょう。
 ご清聴ありがとうございました。


「原爆で終戦」のウソと役割

被爆者から学び合う学習懇談会

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問題提起する吉田一人さん

 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会は2月25日、東京・四ツ谷のプラザエフで、シリーズ7回目の学習懇談会を開きました。
 問題提起は吉田一人さん(長崎被爆、継承する会理事)。アメリカでも日本でも「原爆で戦争は終わった」という‘原爆神話’が信じられています。終戦前後の日本の国家中枢(天皇と軍部・政府)の動きを追った8ページもの詳細な「日録」をたどることによって、そのウソが浮かび上がりました。
 34人の参加者は「知らなかったことがたくさんある」と驚き、「事実を知らない恐ろしさ」を痛感。原爆が戦争を終らせたと思っている人は少なくないが、被爆者運動はそれをくずし、原爆投下をもたらした国の戦争責任を追及してきた、それはなぜ可能だったのかを明らかにしたいという意見も出されました。
 次回は日本被団協事務局次長の木戸季市さんが「沖縄戦と被爆者運動−9・9学習会と沖縄ツアーをふまえて」をテーマに問題提起。原爆被害への国家補償を求めつづけてきた被爆者運動が、国の「受忍」政策をのりこえるため沖縄戦や空襲の被害者と連帯し、民間人の戦争被害に対する国家補償をどのように実現していくか、その方向性をさぐります。4月8日(土)午後1時30分からプラザエフで。参加費1000円。事前申し込みをしてください。


3・1ビキニデー 諸行動の中でヒバクシャ国際署名

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 3月1日、静岡県焼津市内で久保山愛吉さん墓前祭や集会が開かれ約1700人が参加、核兵器廃絶への決意を新たにしました。
 墓前祭では日本被団協の田中熙巳事務局長が、核兵器廃絶に力を尽くすことを誓いました。
 午後の集会では、主催者を代表して静岡県被団協の川本司郎会長が「核兵器のない世界に向けて日本が先頭に立つことが求められている」と述べ被爆者が訴える国際署名への協力を訴えました。第五福竜丸元乗組員の大石又七さん、池田正穂さんも参加しました。
 この日、ヒバクシャ国際署名は494筆集まりました。(川本司郎)


「被爆者運動継承」の学習交流会 福岡

九州ブロック被爆二世の会連絡会

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 九州ブロック被爆二世の会連絡会は3月4日、福岡市内で第5回被爆者運動継承の学習交流会を開催しました。
 「被爆者運動の継承」を掲げて、これまで講演や対談などの企画を重ねてきました。
 今回は「被爆者運動をどう継承していくのか」を統一テーマに報告1「二世委員会の現在の状況と私の問題意識等について」−報告者・日本被団協二世委員会委員長濱住治郎さん、報告2(文書)「広島県被団協の実態と被爆二世の今後の活動」−報告者・広島県被団協副理事長田口正行さん、問題提起「被爆者運動継承の理論的、実践的諸課題について」の内容で、論議・交流を深めました。(南嘉久)


肥田舜太郎顧問 死去

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相談事業講習会で話す肥田さん(2009年11月)

 肥田舜太郎日本被団協顧問が3月20日死去しました。100歳でした。26日の葬儀には、日本被団協の田中熙巳事務局長が弔辞をささげました。
 軍医として広島陸軍病院に在勤中に被爆。直後から被爆者の救護にあたりました。戦後は千葉、東京、埼玉で医師を続け全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)創立に参加。全日本民医連理事、埼玉民医連会長、埼玉協同病院院長を歴任。
 日本被団協原爆被爆者中央相談所では、1976年9月の開設時に副所長、社団法人となった78年に副理事長、79年から2009年まで理事長を務め、毎週木曜日に全国からの医療相談に応じていました。また「被団協」新聞に1983年3月から2009年12月までコラムを執筆。海外遊説も数多く行ない、核兵器廃絶を訴えました。







肥田俊太郎先生への弔辞
日本被団協事務局長 田中熈巳

 肥田先生、しらさぎ会の新年会と先生の100歳の長寿をお祝いする会を楽しく送ったのは1月末でしたね。あんなにお元気だった先生が亡くなられるなんて誰が予想できたでしょうか。先生は「100歳は105歳への通過点だよ」と何回も強調されましたね。みんな納得していましたよ。
 先生は若い軍医として広島の原爆を体験し、その後一貫して医師として被爆者に寄り添い、被爆者が言葉にできない心の苦しみに耳を傾け、生きる励ましを与えてくださいました。また、被爆者が原爆とたたかうことの大切さを教えてくださいました。
 先生は核兵器の恐ろしさは放射能による内部被ばくだと一貫して主張されてきました。「直爆放射線の残忍性、強烈な熱線と爆風の恐ろしさを軽視しないでくださいよ」と私が注文つけたこともしばしばでしたね。
 先生は道を間違えたかと思わせるほどの文筆家でした。自分の人生、権力とのたたかいの生きざまについて、私たち被爆者が心がけることについても、沢山の言葉を書き遺してくださいました。
 先生はまた、人を引き付ける上手な話し方をされる方でしたね。原爆症認定集団訴訟を始めることには猛反対された先生が、一たん裁判に入ると近畿訴訟団裁判の冒頭の口頭弁論に被ばく医師として証言に立たれ、原爆の残虐性を具体的に証言されたことが裁判官の心を動かし原告6人全員の勝訴を導き出しました。この勝訴判決が導火線となり、広島地裁の原告31人全員勝訴、その後の連戦連勝に発展しました。
 1979年、日本被団協原爆被爆者中央相談所の理事長になられ私も理事の一人として参画しました。中央相談所は日本被団協の地方組織の強化と運動発展に沢山の業績を残しましたね。相談員は伊藤直子さんでした。先生は「理事長を全うできたのは彼女のおかげだった」とよく述懐しておられましたね。伊藤さんは昨年暮れに亡くなられ、時をほぼ同じくして先生の大の仲良しだった池田眞規弁護士も亡くなられました。池田さんと先生はお話し好きで、石田忠先生がご存命の時は毎年「三老会」での放談を楽しんでおられましたね。これからはあの世でにぎやかな「三老会」が再開されるのでしょう。伊藤さんも加わっての「四老会」にかわりますか。
 先生が私費をなげうって海外で30数回に及ぶ遊説活動をされたことや多くの被爆者の努力が、やっと実を結び始めました。明日から国連で「核兵器禁止条約の締結をめぐる交渉会議」が開催されます。これを促進するヒバクシャ国際署名も大きく広がり始めています。先生にはこの会議と署名活動の成果をぜひ見届けていただきたかった。
 先生の口癖だった「被爆者は長生きすることが核兵器とのたたかいにもなるのだよ」との言葉を守り、核兵器廃絶のためにたたかいつづけることをお誓いしてお別れの言葉とします。


相談のまど 介護保険サービスと合わせて被爆者の介護手当の受給を

【問】「要介護4」の認定を受け介護保険サービスを利用しながら一人暮らしをしています。デイサービスや訪問リハビリと訪問介護(ヘルパー)を利用しながらの闘病生活です。
 ケアマネジャーから、手すりなどの福祉用具を入れることや、訪問リハビリの回数を増やすことを勧められましたが、介護保険で使えるサービスの限度額を超えてしまうため、訪問介護の回数や時間を減らすしかないと言われました。そうなると、在宅での生活を継続することはできません。ヘルパーの利用料は「被爆者訪問介護助成受給者証」で自己負担はありませんが、年金と健康管理手当でぎりぎりの生活です。どうしたらいいでしようか。

*  *  *

【答】高齢で病気をかかえながら一人暮らしを続けるためには必要なサービスをしっかり利用することが大事ですね。特に訪問介護は、買い物や掃除・食事つくりなど生活の柱となるサービスになりますので、回数や時間を減らされると日々の暮らしが困難になってしまいます。訪問リハビリやデイサービスも、身体機能維持や人との交流の場を確保する上で外すことができません。
 「要介護4」の認定を受けているとのことですので被爆者の他人介護手当の申請をして、介護保険の限度額を超えた部分のヘルパーサービスの支払いに充当したらいかがでしょうか。他人介護手当は障害によって2段階あり中等度が月額7万80円、重度が10万5130円を限度に支払った額が支給されます。毎月領収書を添付し手続きをします。ヘルパーのサービス以外でもお金を払って外出同行してもらったり家の中の事をしてもらっている場合も請求することが出来ます。
 主治医に「介護手当診断書」作成をお願いする場合、必要であれば中央相談所から紹介状を送りますので連絡ください。


日本被団協のバッジ2種

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@つるバッジ
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A結成60年記念バッジ

 先月号で紹介した、日本被団協結成60周年記念バッジが好評です。これまでの「つるバッジ」も合わせてご利用ください。改めて紹介します。

@つるバッジ
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 ご希望の種類、色、個数と送付先の住所、氏名、電話番号を明記して、郵送またはFAX(03−3431−2113)でお申し込みください。