被団協新聞

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「被団協」新聞2016年 9月号(452号)

2016年9月号 主な内容
1面 核兵器禁止条約協議 2017年開始を国連総会に勧告
広がる国際署名
広島で国際署名をアピール
2面 結成60周年のつどい 長崎被災協
被爆二世などに広がり 北海道被爆者協会
お見舞いありがとうございました
心こもる平和行進 山梨
原爆と人間展 神戸市
市役所でパネル展 芦屋市
平和美術展に5千人
非核水夫の海上通信(145)
3面 結成60周年祝賀会開く
キム・ウォンス国連事務次長と懇談
4面 日本被団協 結成60年写真展(下)
【日本被団協結成60周年に寄せて】人生を決めた被爆写真
【日本被団協結成60周年に寄せて】聞きとり、受け止めて、未来に手渡すこと
5面 【年表】日本被団協のあゆみ ふたたび被爆者をつくらないために
7面 心通わせ平和祈る 米国での8月6日、9日 箕牧智之さん
被爆者運動60年(9)
8面 相談のまど 身体障害者手帳 肝機能障害でも交付されますか 手続きのし方を教えて下さい

 

核兵器禁止条約協議 2017年開始を国連総会に勧告

国連作業部会が採択 賛成多数、日本は棄権

 昨年の国連総会で採択した「多国間核軍備撤廃交渉の前進」決議に基づきスイス・ジュネーブの国連欧州本部で議論を進めていたオープンエンド作業部会(OEWG)は、最終日の8月19日、核兵器禁止条約交渉の会議を2017年に開くことを勧告する報告書を賛成多数で採択しました。核兵器禁止条約について国連で会議を開き具体的に議論するのは画期的なことです。ただ核保有国はOEWGに出席せず、国連での議論で核兵器禁止条約について強く抵抗することが考えられ、紆余曲折が予想されます。
 OEWGは勧告部分を「(2017年条約交渉開始について)広範な支持を集めた勧告があったことを認識する」と表現を柔らかくするなど全会一致でまとめることを追求しました。最終段階でオーストラリアが「根本的相違」があり受け入れられないとして投票を強く求めました。このため表現を戻し、「(2017年条約交渉開始について)広範な支持をもって勧告した」と修正を加え、修正文について投票した結果、賛成多数で承認。勧告を含む報告案全体についても賛成68カ国、反対22カ国、棄権13カ国の賛成多数で採択しました。日本は両方とも棄権しました。報告は、国連加盟193カ国の過半数の100カ国以上が支持していることを明記しています。
 OEWGの勧告を含む報告は、9月13日から始まる第71回国連総会に提出され、軍縮を担当する第1委員会で勧告をもとにした決議案が出され、核兵器禁止条約をめぐる激しい議論が交わされるものとみられます。
 日本被団協田中煕巳事務局長の話「いま私たちが取り組んでいる、核兵器を禁止し廃絶する条約をすべての国が結ぶよう求めている国際署名は、国連での核兵器禁止条約推進の大きな力になります。はりきって取り組みましょう」。


広がる国際署名

広島で共同行動

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広島、元安橋(7月27日)

長崎(前号既報、5月27日)

 広島の被爆者7団体は7月27日午後1時半〜2時、広島市中区元安橋東詰めで、ヒバクシャ国際署名の街頭署名行動を行ないました。猛暑の中、各団体の被爆者と協力者約40人が参加。短時間でしたが約300人の署名が集まりました。



















長野で共同行動

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長野、JR長野駅前(8月1日)

 長野県原爆被害者の会(長友会)は8月1日、JR長野駅善光寺口前で国際署名に賛同する団体と共同街頭署名に取り組みました。正午から1時間、炎天下のなか長友会、教職員組合、原水協、原水禁、医療生協などから40人余が集まり、観光客や昼食で外出した人たちに訴え、177人の賛同署名が寄せられました。長友会には、8月25日現在、2439人の署名が寄せられています。










ベトナムから8万の署名

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世界大会開会総会でベトナム代表から署名名簿を渡される岩佐代表委員

 8月4日、原水爆禁止世界大会広島の開会総会で、ベトナム平和委員会のブイ・リエン・フオン事務局長が、同国で集めた8万の署名の1部を持参し、日本被団協の岩佐幹三代表委員と、広島の被爆者7団体を代表して出席した佐久間邦彦さんに手渡しました。フォン事務局長は、ベトナムで数百万を目標に署名を集めるとのべ国際署名の取り組みに大きな勇気と希望を与えました。













共同の力で大きなうねりに 広島で国際署名をアピール

 「ヒバクシャ国際署名」をアピールするリレートークが8月6日夕、広島県立総合体育館の会議室で開かれました。

核兵器使用許されない

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左から、チェアニーさん、田中事務局長、ガンジーさん

 日本反核法律家協会の田部知江子弁護士が司会し、世界宗教者平和会議から、バチカン正義と平和委員会主席補佐官のマイケル・チェアニーさん、マハトマ・ガンジーの孫エラ・ガンジーさん、国際事務局杉野恭一さんが賛同人挨拶を行ないました。エラ・ガンジーさんは、「世界宗教者平和会議の代表として1億人署名の実現へ最大限努力する。核兵器の使用はあらゆる基準・原則から決して許されることではない」とのべました。日本青年団協議会副会長の福永晃仁さんが連絡会を代表して挨拶しました。





ビデオレター世界から

 賛同人のビデオメッセージが紹介されました。宇宙飛行士野口聡一さん、グローバル・ゼロ・ボストンメンバーのメアリー・ポピーさん、ニューヨーク在住の核軍縮分野の活動家クリスチャン・チオバヌさん。署名をいただいた松井一實広島市長、田上富久長崎市長、元国連上級代表アンゲラ・ケインさん、メキシコ国連軍縮大使のホルヘ・ロモナコさんらが紹介されました。

素晴らしい会の仲間に

 フェイスブックを見て参加した笹森恵子さん(原爆乙女として渡米、米国在住)。「身体の4分の1を火傷し、奇跡的に助かった。84歳になるが、核兵器廃絶と命の大切さを訴えていきたい。素晴らしい会に出合い、私も微力ながら仲間に」と訴えました。
 団体・個人の11人がリレートークしました。


結成60周年のつどい 長崎被災協

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 山口仙二氏ら12人が、原爆被害への国家補償と核兵器廃絶を目指し1956年6月23日に発足した長崎原爆被災者協議会は60周年を迎えました。
 7月23日「結成60周年記念のつどい」をサンプリエールで開催、約90人が参加しました。
 森内實副会長が「この日を迎えられたのは、歴代会長らが困難を乗り越え運動してきてくれたおかげだ。被爆二世とともに運動を継続していこう」とあいさつしました。
 被爆二世の会・長崎、諫早の会員9人で「被災協60年の歩み」を群読しました。受付や案内などを二世たちが担当し、被爆者から喜ばれました。
 日本被団協事務局長の田中熙巳氏が被団協の運動の歴史について講演、一日も早い核兵器廃絶を訴えました。
 田上富久長崎市長、高木義明衆議院議員ほかの挨拶を受け、最後に田中重光副会長が「世界の人々と協力し、戦争と核兵器に反対していく」と述べ、結成60周年の決意としました。(柿田富美枝)


被爆二世などに広がり 北海道被爆者協会

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 北海道内各地で今年も被爆者と連携した様々な取り組みが行なわれました。道被爆者協会の取り組みを紹介します。

〈原爆展〉7月20〜21日道庁ロビーで開催しました(写真)。昨年亡くなった辻口清吉さんの原爆の絵10 枚を展示、越智晴子前会長の証言DVD上映などとともに、二世を含む6人の被爆者が証言しました。来場者は637人、昨年を上回る盛況でした。「辛い。黒くなった人達の声が聞こえてきます」(60代女性)「今の世代は当時の話を聞いて次の世代に受けついでいく責任があると思います」(19歳女性)などの感想が。手伝えることはないかと協力を申し出る人もいるなど、多くの市民、道民に感銘を与えました。なお「国際署名」は115筆が集まりました。

〈追悼会〉8月6日、協会と実行委の共催で52回目の追悼会が札幌市で開かれました。参加者は112人。第一部ではこの1年に亡くなった14 人の被爆者の名前を読み上げて追悼、眞田保会長は「亡くなった被爆者の思いを、次に続く被爆者、二世・三世、非被爆者で受け継いでいこう」と挨拶しました。第二部「被爆者の思いを受けつぐつどい」では、最初に小野崎浅治さん(91)が被爆体験を語り「核兵器は悪魔の兵器、使ったら絶対ダメ、持っても作ってもダメ」と訴えました。その後青年を含めた参加者がそれぞれの経験と決意を述べて交流。20年間ヒバクシャ会館を訪れて平和学習をしている札幌の小学校校長先生の報告は感動的でした。
 被爆者の運動は被爆二世や非被爆者に広がる機運を見せつつあります。(北明邦雄)


お見舞いありがとうございました

熊本県被団協 会長 長曽我部久

 4月14日と16日に起こった熊本地震は、益城町、城南町、熊本市、宇土、八代と想像以上の多大の被害をもたらし、住民は長期間の余震で苦しめられました。
 ほとんどの家庭で家財の被害を受けていますが、危険で住めない方や雨漏りのある家は本当に大変です。工事業者を見つけるにはまだ1年以上かかるでしょう。
 熊本県被団協としては、地震後ひとり暮らしの高齢化した会員にはがきでお見舞いしました。
 日本被団協によって各県に義援金を呼びかけられ、全国から400万円を超す義援金が寄せられました。被爆者の暖かい連帯と助け合いの気持ちに熱くお礼を申し上げます。
 さっそく上記地区の400人を超す会員に、2度にわたる被害状況調査を行ない、配分の基準を定め、誤解のないよう公明にしてダブルチェックで支給しました。
 毎日多くの会員からお礼と感謝の気持ちが電話や手紙で届けられています。しかし、未だに、入院先の移動や避難先移転で連絡のつかない方もおられます。
 調査段階では、「少しでもいただきたい」との切実な返事や、「私より困っている方にあげてください」との謙譲の返事もありました。
 ご協力に感謝し、ご報告いたします。


心こもる平和行進 山梨

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 2016年国民平和大行進が7月13日、長野県から山梨県へ引き継がれ、県内13市8町6村の全市町村を行進し、21日に東京都へ引き継がれました。今年は、被爆者が訴える国際署名の協力を県内被爆者同伴で事前に市町村に協力を求めていたこともあり、各首長の署名を含み1770筆の署名が集まりました。
 行進団は各首長はじめ各職員の出迎えを受け、身延山久遠寺では、身延町に住む佐野理事の取計らいで初めて身延山内にある「原爆の碑」を参拝することができ、同山の上人様に読経いただくなど、心のこもった平和を求める行進となりました。


原爆と人間展 神戸市

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 神戸市原爆被害者の会は今年も、神戸駅地下街デュオぎゃらりーで「原爆と人間」写真展を8月4日から9日まで開催しました。
 期間中の来場者数は、昨年の展示会場変更による激減から少し回復して1340人に。会場でお願いした国際署名は287筆を集めることができました。
 これからも実相普及に努めたいと考えています。


市役所でパネル展 芦屋市

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 芦屋市原爆被害者の会は今年も芦屋市役所で、8月2日から10日まで「原爆と人間」パネル展を開き、数百人の市民に見ていただきました。原水爆禁止芦屋協議会との共催です。
 「被爆した親戚や知人がある」「若い人たちに伝えていく義務がある」「こどもたちと話し合う機会をつくってくれてありがとう」等々、共感の声もたくさん寄せられ、ヒバクシャ国際署名が108筆集まりました。
 パネルを見た後、千羽鶴をいっしょに折ってくれた家族連れやグループもありました。
 芦屋市では、山中健市長が「ヒバクシャ国際署名」をしてくださったのをはじめ、今回のパネル展も市役所の玄関を入ってすぐの場所を提供くださるなど、市役所あげての協力を得ています。


平和美術展に5千人

原爆死没者肖像画展示

 第64回平和美術展が8月12日〜20日、東京都美術館(東京・上野)で開かれました。美術家平和会議主催、同展実行委員会運営。日本被団協は毎年後援しています。
 「日本を戦争する国にさせない、平和の壁に花一輪を、すべてのいのちを大切に」をスローガンに、絵や書、写真などさまざまなジャンルの作品が展示され、来場者は5000人を大きく超えました。
 1959年の第7回展から取り組まれ、累計1500点を超えている原爆死没者肖像画は、今年は2点が制作・展示され訪れた人に平和の大切さを訴えました。
 肖像画は、展示後、日本被団協に届けられ、各県被団協を通じて遺族に贈られます。なお美術展での小品売上の中から8万円が、日本被団協に寄付されました。


結成60周年祝賀会開く 日本被団協

結成の地長崎で

 日本被団協は8月8日、団体結成の地長崎市の平安閣サンプリエールで結成60周年記念祝賀会を開きました。
 長崎、九州を中心に全国各地から被爆者と国内外の来賓あわせて65人の人々が集まり祝いました。開会挨拶で田中事務局長は、核兵器の法的禁止を求める国際情勢の高まりの中で、核兵器廃絶に向けて世界中の草の根運動を引き起こすためにも「ヒバクシャ国際署名」を成功させたいと訴えました。
 「結成から60年、日本被団協運動を担い支えた人々」と題したスライドを映しながら田中事務局長が日本被団協の活動を振り返り、核兵器廃絶と原爆被害への国の償い運動を進める決意を表明しました。
 西山すすむさんの音頭で乾杯。来賓から挨拶をいただきました。
 被爆者運動は多くの人びとと団体に支えられてきた60年でした。来賓の心のこもった挨拶をうけ、「先人の努力で今がある。最後の一人になっても、核兵器のない世界の実現に力を尽くそう」と誓い合いました。
 挨拶をいただいた来賓は次の方々です。(順不同)
 浅田克己日本生協連会長、高草木博日本原水協代表理事、川野浩一日本原水禁議長、鈴木達治郎長崎大学核兵器廃絶研究センター長、井原東洋一長崎県被爆者手帳友の会会長、安斎育郎安斎科学・平和事務所長、宮原哲朗弁護士、林田光弘ヒバクシャ国際署名連絡会キャンペーンリーダー、アメリカからジョゼフ・ガーソン氏、ピーター・カズニック氏、スペインからジョルディ・ガルヴォ・ルファンヘス氏、フィリピンからコラソン・バルデス・ファブロス氏。

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国際署名の成功を誓いあいました。(左から)原水禁・井上さん、宮原さん、安斎さん、日本被団協・田中さん、署名連絡会・林田さん、ルファンヘスさん、カズニックさん、ガーソンさん、原水協・高草木さん、ファブロスさん、乗松さん、長崎被災協・横山さん


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「はむingはーと」のお二人の歌で開会
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乾杯の音頭をとる西山すすむさん
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日本生協連からは4人の役員のみなさんが参加
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関東ブロックから、東京、神奈川のみなさん
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東海北陸ブロックから、愛知、静岡のみなさん
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近畿ブロックから、兵庫のみなさん
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中国ブロックと四国ブロックから、山口、愛媛のみなさん
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九州ブロックから、福岡、佐賀、大分、熊本、鹿児島のみなさん

長崎被災協の被爆者のみなさん

長崎被災協の二世のみなさん

キム・ウォンス国連事務次長と懇談

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 長崎の平和祈念式典前日の8月8日、長崎市を訪れていたキム・ウォンス国連事務次長・軍縮問題担当上級代表と谷口稜曄長崎被災協会長、田中煕巳日本被団協事務局長ら被爆者11人が、長崎原爆資料館応接室で懇談しました。
 谷口、田中両氏が潘基文事務総長に昨年のNPT再検討会議でお世話になったことへのお礼を述べると、キム氏は「6年前に広島・長崎を訪問して以来、被爆者の苦しみと平和への願いを考えるようになりました。事務総長へ2人からの感謝のメッセージを伝えます」とこたえました。
 キム氏は、原爆は性別・年齢・宗教・国籍を問わず人々を殺傷した、長崎でも多くの韓国人が犠牲になったが、在日韓国人の慰霊碑がないことは悲しいことで、長崎市民の支援をいただきたいという声も聞いてきたと話しました。
 長崎被災協からは、長崎で犠牲になった人や、韓国へ帰られた方の聞き取り調査、治療などについて話しました。
 この春から、核兵器を禁止し廃絶する条約をすべての国に結ぶことを求める国際署名を開始したことを、田中事務局長から伝えました。キム氏は、事務総長に新しいキャンペーンに取り組んでいることを伝えますと答えました。
 核兵器禁止条約をめぐる作業部会について意見交換し、軍縮教育について、国連のツアーガイドに被爆の実相を伝えてほしい旨のべ、核兵器のない世界へ固い握手を交わしました。


日本被団協 結成60年写真展(下)ずっとがんばってきた

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集団訴訟のトップを切って行なわれた大阪地裁判決は、原告9人全員勝訴。地裁前で待ち受けた支援者たちは歓声をあげ、喜びに沸きました。(2006・5・12)
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原爆症認定集団訴訟は2003年4月17日に第1陣7人が札幌、名古屋、長崎地裁に提訴して始まりました。続く第2陣は同年5月27日、21人が東京、千葉、大阪地裁に。提訴はその後も続き、全国で306人が原告となりました。(2003・5・27 東京地裁に向かう原告団)
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1年にわたる全国討議を経て、2011年6月の第55回定期総会で、現行法改正要求「原爆被害者は国に償いを求めます」を決定。12月には現行法改正を求める全国いっせい行動に取り組みました。(2011・12・6 上野公園)
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集団訴訟の全面解決を求める「にんげんをかえせ」パレード(2008・6・4)
〈写真・布施裕仁〉
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「ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」の取り組みを開始。(2016・4・27  渋谷駅ハチ公前)
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原発の再稼働・輸出に反対し、政府・電力会社に要請行動を行ないました。(2012・4・13 東京電力本店前)

全国各地で毎年、「原爆と人間展」を開催し実相普及に努めてきました。被爆者の会を中心に、幅広い支援者とともに実行委員会をつくって取り組むところも増えています。(2008・8 神奈川 横浜駅東口)

NPT再検討会議開催に合わせ、2005年、2010年、2015年の3回にわたって代表団をニューヨークに送り、国連本部での原爆展開催、市内を中心に各地での証言活動、集会やデモなどのNGO共同行動に取り組みました。(2015・4・26 ニューヨーク)

わたしとヒロシマ・ナガサキ 日本被団協結成60周年によせて

人生を決めた被爆写真

岩垂弘さん(ジャーナリスト)

 ごくささいなことが、人の一生を決めることがある。私の場合は、数葉の被爆写真だった。
 1967年8月8日、長崎を訪れた。当時、私は全国紙の社会部記者で、平和問題を担当していた。「長崎原爆の日」の8月9日を中心に原水爆禁止世界大会が長崎で開かれるため、それを取材するためだった。
 取材の合間に、爆心地に近いところにあった「長崎国際文化会館」を訪ねた(その後、建て替えられ、名称も「長崎原爆資料館」と変わった)。
 そこには、被爆してボロボロになった衣服や、熱線で焼けただれた瓦、異常な高熱で溶けてしまったガラスのびんなどが展示されていた。なかでも、私をその場に釘付けしたのは被爆直後の写真である。
 見渡す限りすべてが破壊し尽くされ、焼き尽くされた長崎の街。まさに原子野と化した荒涼たる光景。そこに転がる、炭化した焼死体。爆死した母子。馬の死骸。まだ救援の手も届かず、半ば死んだように、うつろな表情で横たわる被爆した人々……。
 どれもこれも衝撃的だったが、中にひときわ強烈な印象を私に残した写真があった。原爆投下直後の8月下旬に撮影された1枚だった。肉親の遺体を、生き残った家族らが焼いているのだろう。積み上げられた材木が炎をあげ、そのわきで学生服の少年2人と、もんぺ姿の女性、ゲートルをつけ戦闘帽をかぶった男性が、炎を見つめて茫然と立ちつくす。4人は身じろぎもしない。まるで、放心したよう。その背後に広がる焼け野原はすでに暗く、遺体を焼く炎だけが明るい……。
 私は、その写真からしばらく目を離すことができなかった。原爆で被害を受けた人々の、言語に絶する深い、深い痛苦と悲しみが切々と伝わってきたからだ。
 私は思った。こんな残酷な、悲惨極まることがこれまで果たして人類史上にあっただろうか。こんな惨劇をもたらした行為が人道上許されるだろうか、と。そして、こう思ったのだ。この惨事は絶対に忘れ去られてはならない。むしろ、地球の果てまで伝えてゆかなくてはならない、と。
 では、報道に携わる者としてはどうしたらいいのか。私は決意した。そうだ、自らの仕事を通じて世の人々にヒロシマ・ナガサキを伝えてゆこう。そのために、毎年、「8・6」と「8・9」を被爆地で迎え、「ふたたび被爆者をつくるな」という被爆者の訴えと、反核への熱い思いを胸に全国から被爆地に結集してくる人々の運動を報道してゆこう、と。
 それから、毎年欠かさず広島、長崎へ出かけて行った。こうした“広島・長崎詣で”は、新聞社を定年退職する1995年まで続いた。そればかりでない。定年後もこれを続けており、今年(2016年)の“広島詣で”は47回目だった。本来なら50回目だが、1970年代に3年間の空白(内勤職場に転勤となったため中断)があったためだ。残念ながら“長崎詣で”の方は38回目で途切れた。2008年、あまりの酷暑にバテてしまい、長崎まで足を伸ばすことができなかったからである。
 被爆者の皆さんによって日本原水爆被害者団体協議会が結成されてから、本年で60年だが、皆さんの悲願である「核兵器廃絶」はまだ実現していない。しかし、国連で、核兵器禁止条約の実現を目指す核軍縮作業部会がスタートした。皆さんの訴えがようやく国際社会に届いたと言ってよく、まさに画期的なことだ。被爆者の皆さんは核兵器廃絶を目指して国際署名を進めるという。この運動が成功するよう願わずにはいられない。


聞きとり、受け止めて、未来に手渡すこと

大塚茂樹さん(ノンフィクション作家)

 被爆体験の「継承」とは、最適の表現でしょうか。たとえば家庭料理や好きな歌手も、親から子や孫に受け継がれないことがありますね。被爆体験を若者へと伝えていくことは、さらに難しいことでしょう。私もその一人でしたが、身近に被爆者がいない若い世代にとっては、まず被爆者の証言に出会おうと思い、想像力をもって受けとめ、学び続ける主体性が求められます。継承という語を使う際には、そのプロセスをも包み込んだ語感を持たせていきたいと考えます。被爆体験を聞きとり、受けとめて、未来に手渡していく大切さについては、もちろん私も同感なのですが。
 1976年に東友会の長尾当代さんのお話を聞いたのが、自らの意思で被爆者の証言に出会った最初でした。以後、何人もの証言を聞きながら、被爆者の苦しみがあまりにも壮絶なもので自分がまだ何も理解できていないことを痛感していました。今も若き日のその自覚を失わずに、私は被爆者の声に耳を傾けています。被爆者と市民との間に無数の架け橋ができることを願い、自らもその流れに棹さしたいと思ってきました。
 日本被団協結成の1956年は、私が生まれる前年です。とはいえ当時の状況はそれなりに理解しています。『まどうてくれ…藤居平一・被爆者と生きる』(旬報社)という高校生でも読める1冊を書き上げる際に、被団協初代事務局長である藤居氏の軌跡とともに被爆者運動の出発について取材しました。被爆から10年以上、ほぼ全ての被爆者が沈黙をよぎなくされていた事情が胸に突き刺さってきました。
 被爆者運動でも、リーダーのみが大事なのではありません。被爆者一人ひとりの被爆体験と自分史の多様な道筋を実感します。世界のヒバクシャとともに原爆被害者を見つめていくことにも共感します。「あの日」と直後に亡くなった人たちを忘れることはできません。
 被爆体験を表現せず、被爆者運動にも関わらなかった方々の存在も、私は長らく気がかりです。その悲しみと苦しみもみつめながら、被爆体験を次代へと伝えていきたいものです。底辺の被爆者の戦後史をたどる一作業として、『原爆にも部落差別にも負けなかった人びと…広島・小さな町の戦後史』(かもがわ出版)を6月に刊行しました。
 NHKの朝ドラ「あさが来た」の主題歌を覚えていますか。「ずっと見てる夢は/私がもうひとりいて/やりたいこと好きなように自由にできる夢/人生は紙飛行機」というAKB48の歌です。
このメロディーを聞きながらこれまで出会ってきた被爆者と家族・友人の人生が蘇ってきます。被爆の苦しみの中でどれほどの自由があったのかと想い起こします。被爆者と被爆者運動から大きな励ましを受けてきたことに、私も感謝の念を禁じることができません。


【年表】日本被団協のあゆみ ふたたび被爆者をつくらないために

1945.8.6 広島に原爆投下(死者14万人)
8.9 長崎に原爆投下(死者7万人)
8.10 日本政府、広島原爆について「国際法違反」と米に抗議
8.15 日本がポツダム宣言受諾、終戦
9.19 連合国軍司令部(GHQ)、プレスコード(新聞準則)で原爆報道を事実上禁止
46.11.3 日本国憲法公布47.5.3施行
50.3.25 平和擁護世界大会委員会、「原子兵器禁止」のストックホルム・アピール発表
・世界で5億人、日本で645万人が署名
52.4.28 対日講和条約発効。戦争被害についての連合国に対するすべての請求権を放棄
8.6 『アサヒグラフ』原爆特集発行、大反響。映画『原爆の子』封切
54.3.1 米の太平洋ビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸など被災(ビキニ事件)
・3月下旬から水爆実験反対署名運動全国に広がる
8.8 原水爆禁止署名運動全国協議会結成。署名数3216万0709人(55.8.7現在)
9.23 第五福竜丸無線長・久保山愛吉死去
55.8.6‐8 第1回原水爆禁止世界大会(広島)。被爆者の発言に感銘
・大会宣言「原水爆が禁止されてこそ真に被爆者を救うことができる」と指摘、被爆者救援(連帯)運動を「原水爆禁止運動の基礎」と位置づけ
56.5.27 広島県原爆被害者協議会結成。広島、長崎、愛媛、長野4県連絡協議会
6.23 長崎原爆被災者協議会(被災協)結成
8.10 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成
・第2回原水禁世界大会(長崎)の原水爆被害者全国大会で
・大会宣言「世界への挨拶」で「ふたたび繰り返してはなりません」と訴える
・大会スローガンに「原水爆禁止運動の促進」「原水爆犠牲者の国家補償」
 57.4.1 「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行
・被爆者の定義、被爆者健康手帳の交付、年2回の健康診断
61.8.14 日本被団協第6回定期総会「国家補償にもとづく被爆者援護法」要求を打ち出す
63.12.7 東京地裁、「原爆裁判」で「原爆投下は国際法違反」の判決
66.10.15 日本被団協「原爆被害の特質と『被爆者援護法』の要求」(つるパンフ)発表
・原爆被害の特質を解明、国家補償要求の正当性を主張
68.9.1  「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」(原爆特措法)施行
・特別手当、健康管理手当など諸手当。国家補償は拒否
71.9.5 日本被団協第15回定期総会「私たち原爆被害者の要求」決定
・原爆2法改正、国家補償=被爆者年金、遺族年金、障害年金など
73.4.2 日本被団協「原爆被害者援護法案のための要求骨子」発表
・「国家補償の精神に立った援護法」を要求
11.6‐10 被爆者援護法制定中央大行動―テントで徹夜の5日間、3000人が参加
74.3.29 野党4党(社会・共産・公明・民社)が「被爆者等援護法案」共同提出(5.21廃案)
10.16 野党(社会・公明・民社・共産・二院ク)共同「被爆者等援護法案」参院に提出(廃案)
77.7.21‐8.8 NGO被爆者問題国際シンポジウム―原爆被害を全面的に解明
78.5.21‐6.8 第1回国連軍縮特別総会への国連要請国民代表団に日本被団協代表38人参加
79.6.8 厚生大臣の私的諮問機関・原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)発足
80.3.15‐4.18  「被爆者援護法制定をめざす被爆者全国行脚」
11.18‐22  日本被団協中央行動.厚生省前座り込み、政党要請など
12.11 基本懇「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」(意見)
・国家補償拒否、原爆被害を含む戦争被害「受忍」論打ち出す
12.11 日本被団協「声明」「見解」を発表して基本懇を批判
・「戦争被害は“受忍”できない」。「受忍」論は「国の戦争責任を問おうとしないのみならず、戦争を肯定する姿勢といわざるをえない」
81.7.11  「原爆を裁く国民法廷」運動始まる
82.6.24 第2回国連軍縮特別総会(SSDU)で、山口仙二日本被団協代表委員が演説。ニューヨークで100万人大行進
82.11.6‐7 「援護法の即時制定を要求する大運動」「死没者・遺族調査」始まる
83.6.25 日本被団協「要求骨子」検討委員会設置
11. 「被爆者要求調査」始まる 84.7.30調査の「まとめ」発表
84.11.17 全国代表者会議で「原爆被害者の基本要求」制定
・「ふたたび被爆者をつくらない」ための2大要求―「核戦争起こすな、核兵器なくせ」 「国家補償の原爆被害者援護法」。「原爆被害者援護法の制定によって、核兵器否定の理念を確立することは、日本が被爆国として果たすべき国際的責務です」
85.11.1 日本被団協独自の「原爆被害者調査」1万人を対象に実施
87.11.9 11月大行動集結集会
11.11  「折り鶴人間の輪行動」厚生省を包囲(支援者含め3,500人参加)
89.12.15 野党6会派(社会・公明・共産・連合参議院・民社・参院ク)共同の国家補償にもとづく「被爆者援護法案」参院に提出。11.15参院本会議可決(衆院で廃案)
90.1.22 「被爆者援護法実現・みんなのネットワーク」結成・よびかけ発表
90.8.6 広島に「被爆者の森」完成
92.4.24 野党6会派共同「被爆者援護法案」参院で可決
6.19 野党6会派共同「被爆者援護法案」衆院で継続審議
94.10 被爆者援護法制定に国会議員の賛同署名全議員の70%に。地方自治体の援護法制定促進決議も、全自治体の3分の2を超える2470自治体に。国会請願署名は1000万を突破
94.12.9 「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」成立(95.7.1施行)
・核兵器は「究極的廃絶」、国家補償は拒否。「基本懇答申に従い、すべての戦争犠牲についての“受忍”を強いる立場に立っている」(日本被団協声明)
95.7.30〜8.2 「被爆50年国際シンポジウム」
96.7.8 国際司法裁判所が勧告的意見「核兵器の使用と威嚇は一般的には国際法違反」
97.7.6 日本被団協制作のパネル「原爆と人間展」発行。各地で原爆展開催
99.5.12 オランダ・ハーグで世界市民平和会議。被爆者代表も参加
2001.6.5 日本被団協「21世紀被爆者宣言―核兵器も戦争もない世界を」発表
03.4.17 原爆症認定集団訴訟始まる。原告300人余。10.12までに27勝
05.4.29〜5.6 日本被団協ニューヨーク行動(被団協代表団、生協代表団とともに行動)
05.5.2〜27 国連本部で原爆展、2005年核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議
05.7.29〜31 「ノーモアヒロシマ・ナガサキ国際市民会議」
05.10.18 「被爆60年10.18大集会―核兵器も戦争もない世界をめざして」
08.5.4‐5 9条世界会議シンポジウムで日本被団協代表が発言
09.5.1 『ふたたび被爆者をつくるな日本被団協50年史』刊行
09.8.6 原爆症認定集団訴訟で麻生首相・自民党総裁と日本被団協が「確認書」に署名
10.4.30〜5.7 日本被団協ニューヨーク行動(被団協代表団、生協代表団とともに行動)
10.5.3〜5.28 2010年核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議
10.5.3〜6.22 国連本部で原爆展
10.6.16 日本被団協第55回定期総会、原爆被害への国家補償を求める「現行法改正(案)」についての全国的討議を提起
・改正要求第1次案(2010.4)によって代表者会議、現行法改正検討委員会、専門家・支援団体との懇談会などで討議、全国アンケート、ブロック講習会、各県被団協、『被団協』紙上、代表理事会などで全国的討論進める。2011.4第2次案発表。さらに全国的討議
11.6.8 日本被団協第56回定期総会、現行法改正要求「原爆被害者は国に償いを求めます」を決定
11.10.18 日本被団協結成55周年宣言発表
11.12.10 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会発足
12.1.25 「原爆症認定制度のあり方に関する日本被団協の提言」発表
12.2.27 日本被団協制作の新パネル「ヒロシマ・ナガサキ原爆と人間」発行
14.10.19 「原爆被害者の基本要求」策定30周年記念のつどい開催(立教大・実行委主催)
15.4.24〜5.1 日本被団協ニューヨーク行動(被団協代表団、生協代表団とともに行動)
15.4.24〜5.22 国連本部で原爆展
15.4.27〜5.22 2015年核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議
15.8.5 「核兵器のない世界のため被爆者と市民のつどい」開催(広島)
15.10.17 被爆70年のつどい「広島・長崎はなんだったのか?―今を戦前にしないために」開催(日比谷公会堂・実行委主催)
16.3.23 「ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」発表
16.8.10 日本被団協結成60周年

心通わせ平和祈る 米国での8月6日、9日 箕牧智之さん

 米国のヒロシマ・ナガサキ平和委員会の招きで、今年も日本被団協の被爆者が8月3日〜13日の日程で訪米。ワシントンDCを中心に証言活動を行ないました。
 訪米した箕牧智之さんの報告です。

広島の日

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メリーランド州の教会で広島から持参の千羽鶴を牧師さんに手渡す箕牧さん(左)

 オバマ大統領広島訪問という歴史的な大きな出来事があって初めての渡米に、私は大きな期待と不安を抱きながら成田空港を発ちました。
 最初の日程は、日本時間の8月6日午前8時15分、米国では8月5日午後7時15分、ワシントンの入り江に立ち並ぶ桜並木の中、キング牧師記念像のある公園です。
 ヒロシマ・ナガサキ平和委員会のジョン・スタインバックさんと1年ぶりの再会にほっとしました。7時15分全員で黙とう。挨拶を求められ、次のように述べました。「原子爆弾によって多くの市民、軍人、捕虜などそこにいた人々はすべて焼き尽くされました。ヒロシマ・ナガサキは核兵器の被害者です。しかしあの戦争に最初に火をつけたのは旧日本軍と一部政治家によるパールハーバーへの奇襲攻撃でした。私は日本の市民として米国の皆様に謝罪させていただきます」。
 集まった人たちは静かに耳を傾け、「核兵器の怖さを米国市民はもっと知ろう」という雰囲気を感じました。


路上原爆展

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ホワイトハウス前の路上で原爆展

 翌日は反核平和団体が早朝からホワイトハウス前に集合、ヒロシマ・ナガサキの被爆写真とアピール文を路上に展示し、団体から私に、原爆投下のお詫びの文書を渡されました。その署名活動を始めたばかりだが300名の署名があると言っていました。
 行事が終わるころ若者たちがヘルメット姿で自転車に乗って集まり始め、その数200を超えました。ワシントンに原爆が落ちたら、を想定しその周囲8マイルを自転車で走るという企画で、広島から被爆者が来ているということで大変な盛り上がりよう。米国で核兵器に反対する市民が沢山いることを実感した一日でした。
 3日目はホテルから高速道路で2時間かけボルチモアの教会での証言。


長崎の日

 4日目は長崎追悼の日で、教会で証言後、キャンドル持参でホワイトハウス前に集合、午後10時2分、全員で黙とうの後「原爆を許すまじ」を合唱しました。参加者一人一人が今の思いを語った中で、ボストン大学の女性教授が日本語で「みまきさん、米国がヒロシマ・ナガサキに投下した原子爆弾で多くの人が亡くになったことに謝罪します」と発言されたことが胸に残ります。
 5日目はメリーランドの教会で証言。6日目は子供たちの平和サマーキャンプに参加しました。
 一連の活動を終え、米国の反核団体の温かい親切な対応に感謝しながら帰国しました。


被爆者運動60年(9)「基本要求」の策定

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国民法廷(1981.7.11東京)

 日本被団協が掲げた「原爆被害への国家補償」要求は1970年代、反核運動の世界的な高まりの中で国民的な支持を広げました。
 これに対して政府は厚生大臣の私的諮問機関・原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)を設置、80年12月に答申を出しました。
 戦争被害は原爆「地獄」さえも「受忍」(がまん)せよ、と答申は強要したのです。
 日本被団協はこれに対し、被爆者要求調査や国民法廷運動などで反撃、基本懇を乗り越える要求づくりへ全国的討論を進めました。
 相談所講習会などでの討論、文書、友好団体、個人からの意見も多く寄せられました。
 「原爆被害者の基本要求」はこうして84年11月の全国代表者会議で採択されました。
 「基本要求」は「核兵器廃絶」「原爆被害への国家補償」の二大要求が不可分の関係にあることを明らかにしました。国家補償の実現が日本を核否定の立場に転換させる土台、ということです。
 その後「原爆被爆者の援護に関する法律」が制定(94年)されましたが、これは国家補償法ではありません。
日本被団協はさらに「21世紀被爆者宣言」(01年)、国家補償への「現行法改正要求」(11年)を発表して運動を広げています。


相談のまど 身体障害者手帳
肝機能障害でも交付されますか 手続きのし方を教えて下さい

【問】以前本欄で「肝機能障害があると身体障害者手帳が交付される」と書かれていたように記憶しているのですが、記憶があいまいです。もし本当に交付されるのであれば、手続きなど再度教えてください。

*  *  *

【答】肝臓機能障害がある場合、平成22年4月から身体障害者手帳が交付されることになりました。これは被爆者対策として行なわれるものではなく、肝機能障害のすべての患者を対象としたものです。
 肝炎ウイルスに起因する肝炎、薬剤性肝障害、アルコール性肝障害など法律が定める認定基準に該当することが要件となっています。
 手続きは、所定の身体障害者手帳申請書、身体障害者手帳指定医が作成した診断書、写真(タテ4p×ヨコ3p)を居住地の市区町村の担当窓口に提出します。
 身体障害者手帳指定医がいる医療機関は、市区町村の担当窓口に問い合わせてください。また、自治体によって提出書類が異なる場合がありますので、市区町村に確認してください。
 認定基準に該当したときは、障害の程度によって1級から4級までのいずれかの手帳が交付されます。
 身体障害者手帳によって適用される施策としては、所得税、住民税など各種税制優遇措置の対象になります。また、手帳の等級によって異なりますが、JR運賃、航空旅客運賃、有料道路料金などの割引措置が受けられます。