原爆被害の実相を後世に伝え、被爆体験を継承するため、広島の被爆者と広島市立基町高校の生徒が『次世代と描く原爆の絵』に取り組んでいます。
7月4日、同校のギャラリーで発表した2015年度の作品は、生徒24人、卒業生3人、教員4人の31人が分担し、12人の被爆者(75〜88歳)の証言を聞き、被爆場所を訪れ、資料を読み、約1年かけて35点を制作しました。1年で35点は初めてです。
証言した被爆者は「被爆体験を伝える大きな力になる」と感謝し、絵を描いた生徒は「広島で育ち平和学習をしてきましたが、被爆者の方と1対1で体験を聞くと想像できないことばかりでした。何度も聞き、資料を読み込みなんとかできました。また描きたいです」とのべました。
この取り組みは、04年広島平和記念資料館の提唱で始まり、07年度から基町高校普通科創造表現コースの希望する生徒が担当してきました。制作した絵は、毎年7月に同校のギャラリーに展示し、文化祭などを経て、資料館に寄贈、証言者は体験語りに活用しています。同校作成の『原爆の絵』冊子には「これからも1枚でも多くの絵を制作していこうと思っています」と記しています。
国が原爆症の認定申請を却下したのは違法として、原告6人が提訴していたノーモア・ヒバクシャ訴訟(東京第2次)で東京地裁(谷口豊裁判長)は6月29日、国の却下処分を取り消す全員勝訴の画期的判決を言い渡しました。
判決は、放射線起因性について、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の趣旨に立脚し、「現時点において確実であるとされている科学的な経験則では証明できないという理由のみによって、放射線起因性を直ちに否定することには慎重であるべきである」との判断を示しました。
積極認定の距離・時間には多少及ばない被爆者について原則的には積極認定対象者と同様に扱うことが要請されるとし、距離・時間に乖離(かいり)がある被爆者についても、個別的な特殊事情の有無や当該疾病の発症機序等をふまえ放射線起因性の有無を慎重に検討すべきであるとの判断を示しました。
原告6人のうち5人は、2013年12月の「新しい審査の方針」の積極認定に関する疾病、被爆距離、入市時間の基準に該当していません。前立腺がんの要医療性が争点となった原告も、定期的なフォローアップも必要な医療にあたるとして国の主張を退けています。
原告団、弁護団、東友会は控訴するなと訴えましたが、厚労省は7月12日、原告団長の山本英典氏(長崎4・2キロ、当日および3〜4日後入市、慢性心不全)を高裁に控訴しました。
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原告団、弁護団、被爆者団体の6者が、塩崎恭厚労相に表明した声明要旨は次のとおりです。
国は2009年8月6日、日本被団協代表との間で「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」を締結し、「訴訟の場で争う必要のないように、定期協議の場を通じて解決を図る」と確認したにもかかわらず、自ら作成した「新しい審査の方針」の運用を狭め、原爆症認定行政を後退させたため、被爆者は、提訴せざるを得なくなった。
今回の判決は、昨年10月の東京地裁17人全員勝訴判決、本年4月の福岡高裁判決とともに、国の後退する原爆症認定行政を痛烈に批判し、司法と行政の乖離が埋められていないことを明確に示している。
国は、これまでの認定行政を断罪した累次の司法判断を厳粛に受け止め、日本被団協の提言にそって司法と行政の乖離を解消する法改正による認定制度の抜本的な改善を行ない、1日も早く、高齢の被爆者を裁判から解放すべきである。
国が、被爆者が生きているうちに原爆被害に対する償いを果たすことこそが、核兵器をなくす歩みを進めると信ずる。
7月13日、東京・虎の門の日本青年団協議会会議室で、ヒバクシャ国際署名推進連絡会の第1回会合が開かれました。
会合には日本被団協のほか、日本生協連、日本青年団協議会、全日本民医連、日本原水協、日本反核法律家協会、新日本婦人の会、安保体制打破新劇人会議、ピースボート、ピースデポ、世界宗教者平和会議日本委員会、明治学院大学ピースリング、ピースプラットフォーム、創価学会平和委員会、世界連邦運動協会の15団体から21人が出席(連絡会への参加を検討中の団体も含む)。
「会の目的は、国際署名への賛同の輪を内外にひろげ、署名運動を促進します。この会は、会の目的、趣旨に賛同する個人、団体で構成します」などとする連絡会としての「申し合わせ」を確認し、代表者を日本被団協の田中熙巳事務局長に選任。運動要綱を確認し、広く著名人に賛同を広げること、参加団体の中から数人が事務局を担うことなどを確認しました。
8月6日広島で行事
8月6日18時から、広島グリーンアリーナ大会議室(地下1階)で、賛同者によるリレートークなどの行事を開催することになりました。
第30回宮城県原爆死没者追悼平和祈念式典が7月17日仙台市戦災復興記念館で行なわれました。
黙とうの後、合唱団ふきのとうの追悼合唱「銘文」が披露されました(写真)。宮城県原爆被害者の会が錦町公園に建立した「いのりの像」の碑文に高平つぐゆきさんが曲を付け、2001年から歌い続けています。被爆者の訴えが込められた歌は、心を打ち涙なしでは聴けないものです。
中学生2人の「平和宣言」は、平和への思いに勇気づけられ、高校生の「追悼朗読」は、原爆投下後の惨状を思い浮かべて怒りと悲しみが沸き上がり、どちらも参加者の涙を誘いました。
2部では核兵器廃絶への思いが語られました。年々参加者は増え、運動の確信を感じます。(宮城県原爆被害者の会)
被爆者7団体で
7月14日14時から広島市役所の市政記者室で、広島の被爆者7団体が「国際署名」に関する記者発表を行ないました。
広島県被団協の坪井直理事長が挨拶し、もうひとつの県被団協の佐久間邦彦理事長が説明を行ないました。
なぜ今7団体として取り組むのか、との質問に「被爆者がまとまって署名に取り組むために広島では被爆者7団体が呼びかけ人となった。長崎でも同様に展開している」と回答。そのほか、核兵器廃絶のみを取り上げて被爆者が署名活動を行なうのは初めてのこと、などの応答がありました。
地元紙はじめ新聞各社とテレビ各局など多くの報道機関が集まって、濃いやりとりが行なわれました。(前田耕一郎)
日本被団協代表委員 岩佐幹三
私たち被爆者が体験を語るのは、過去の教訓を踏まえ、絶対に誰にもこの体験をさせたくないという思いからです。
死者に対し「あなた方の死を無駄にはしない」と誓い、戦争被害者・核兵器被害者にはふたたびならない、と決意しました。決意を持って思いを伝え広げたときに大きな力となっていく―私たちはそういう思いで生き、運動してきました。
日本被団協結成
日本被団協は1956年8月10日、結成大会宣言として「世界への挨拶」を発表。「世界に訴えるべきは訴え、国家に求むべきは求め、自ら立ち上がり……かくて私たちは自らを救うとともに私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」と述べています。この決意は今なお私たち原爆被害者の胸の中に、脈々と流れ続けています。
訴えるべき内容、求めるべき要求は、同時に発表した「大会決議」で5項目を提示しています。
統一と支援
その実現を目指す道は決して平坦ではありません。60年代には原水禁運動分裂の波が日本被団協にも押し寄せました。先輩のリーダーの方々は議論を重ね、日本被団協を独立した主体性を持った組織として確立し、キノコ雲の下で同じ非人間的な体験をした者として、思想信条を超えて統一した運動を継続していくことを確認したのです。
このことは日本被団協への国民的な信頼を確保し支援の基盤を築くことになりました。そして被団協は、被爆者が一致できる要求を『つるパンフ』から『要求骨子』へと練り上げて行き、各政党に援護法案作成を要請。73年11月には、旧厚生省前で初めての5日間にわたる座り込みを行ない、4野党共同援護法案の国会提出を実現しました。
体を張ったこれらのたたかいは、『日本被団協50年史』に名前も出ていない多くの被爆者や支援者に支えられたもの―本当に感謝しています。
受忍論と「基本要求」
77年のNGO国際シンポジウム、被爆問題市民団体懇談会による援護法制定2千万署名など、国家補償の援護法を求める大きな世論と国民的支援にもかかわらず、80年12月、厚生大臣の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」は、国が起こした戦争被害は国民等しく受忍せよとの意見書を出しました。
戦争被害について反省もなく、国の責任を認めない受忍論は、憲法への違犯だと思います。
日本被団協は84年に「原爆被害者の基本要求」をつくり、85年「原爆被害者調査」を実施。さらに援護法制定を求める国民署名、衆参両院議員の賛同署名、地方議会の促進決議の「3点セット」の運動を「みんなのネットワーク」と共に繰り広げ、国家補償に基づく援護法制定を求める世論を大きく盛り上げました。
しかし94年に制定された「原爆被爆者に対する援護に関する法律」は、核兵器廃絶を「究極」のかなたに追いやり、国家補償を「高齢化対策」にすり替えたものでした。国の受忍政策は、いまだに突破されていません。
がんばってきた
被爆者はよくがんばってきました。核時代に生きる人間にとっての道標(みちしるべ)を示す役割を果たしてきたと自負しています。
核被害から人類を解放する課題はまだ実現していません。そのために、「核兵器を禁止し、廃絶する条約の締結を求める国際署名」をよびかけ、賛同する多くの団体、個人で連絡会をつくり力強く踏み出しました。
頑迷な核保有国に対して「核兵器のない世界」の実現を求める私たちの力強い声をぶつけて行きましょう。
2015年度 平均年齢80.86歳
2015年度(16年3月末)の被爆者健康手帳所持者数などが、厚労省から発表されました。手帳所持者は全国で17万4080人となり、前年度と比べ9439人の減。平均年齢は80・86歳で、前年度から0・73歳上昇しました。健康管理手当などの諸手当受給者は合計16万618人。そのうち医療特別手当受給者は8511人で、前年度より238人減りました。
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合 計 174,080 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016年3月末現在(厚生労働省調べ) |
![]() NGO被爆問題国際シンポジウム・広島大衆集会(1977・8・5 広島県立体育館) 全国約4千人の調査員が被爆者約8千人を面接調査し、それを受けて7月21日から8月8日まで、東京、広島、長崎で3段階に分けて開かれました。第3段階の大衆集会には、広島で7千人、長崎で3千人が参加しました。〈写真・日本原水協資料〉 |
![]() 日本被団協結成。檀上は森瀧市郎さん。(1956・8・10)(写真・連合通信) |
![]() 折り鶴人間の輪行動…手に手に千羽鶴をかかげて、多くの支援者とともに2500人で厚生省を幾重にも取り囲みました。(1987年11月11日) |
![]() 西ドイツ遊説で小西悟国際部長は、峠三吉の詩「にんげんをかえせ」をドイツ語で朗誦し、核の恐怖を訴えました。(1983・10・20) |
![]() 原水爆禁止世界大会の会場入り口前では、ポリバケツの側面に「被爆者援護募金・日本被団協」の文字を書いた大きな張り紙をして、募金活動を行ないました。中央・木戸大さん、右・前座良明さん。(1981・8 長崎市公会堂) |
![]() 1973年11月6日から5日間、厚生省正面玄関前にテントを張り、国家補償の援護法制定を求め座り込みを続けました。前列中央・檜垣益人さん、右・伊藤サカヱさん。〈写真・森下一徹〉 |
漆原敦俊さん(元朝日新聞社会部記者)
日本被団協の結成60周年、おめでとうございます。長年の大切な活動に深く敬意を表します。
私は1980年代前半に原水禁・被爆者運動の取材を3年間担当しました。毎年広島・長崎を訪ね、被爆者の皆様にも大勢お会いしました。その中でもとくに強く心に残っているのが、長崎の故山口仙二さんと長野の故前座良明さんです。
山口さんとは、82年にニューヨークの国連本部で開かれた第2回国連軍縮特別総会でご一緒しました。被爆者として初めて国連総会議場の演壇に立ち、世界に向けて核兵器の廃絶を訴えたのです。こぶしを振り上げながらの力強い演説でした。最後の言葉はいまでも耳に残っています。
「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアウォー、ノーモアヒバクシャ!」
全身から火が噴きだすような絶叫でした。山口さんが思いのすべてを込めた瞬間だったのでしょう。各国代表が身を乗り出し聴き入っていた姿も目に焼き付いています。
もう1人、私にとって忘れられないのが前座さんです。長野支局員当時の72年にお会いし、以来約40年のお付き合いとなりました。
前座さんは私が取材した初めての被爆者です。あのピカドン食堂などで何度も話を聞かせていただき、長野県内では初となる原爆被爆者の連載記事を仕上げました。
晩年の前座さんは「おら忙しくて死んでる暇ねえだ」が口ぐせでした。また自らの被爆体験を語るとき、兵隊当時に中国で目撃した日本兵の残虐行為も包み隠さず話していました。「我々は原爆では被害者だけど、外国では加害者だった」と。
私はこの数年、安保法制や改憲などに反対する活動を友人や市民グループと続けています。「自分が生きている限り絶対に戦争はさせない」。そんな思いが切実です。
いつの間にか私の中にも、山口さんや前座さんの魂が溶け込んでいるのかもしれません。
舟橋喜恵さん(広島大学名誉教授)
日本原水爆被害者団体協議会の結成60年おめでとうございます。
人間ならば一区切りつける時ですね。
しかし日本被団協には大きな課題が残っています。「世界の被団協をつくる」ことです。これは日本被団協の初代事務局長だった藤居平一氏が晩年繰り返し言っておられた言葉です。私は藤居さんの遺言だと思っています。核被害者の状況は、藤居さんの頃より、はるかに広く深刻になっていますから、対応はいっそう複雑になっています。
被爆者以外の核被害者との結集は容易ではないでしょう。難しい点をあげれば10個でも20個でもあげられるでしょう。でも、歳をとったから、などと引っ込み思案にならないでください。被爆者がその気にならなくて誰がなるというのでしょう。まず声をあげてください。
77年NGO被爆問題国際シンポジウム
「ヒロシマ、ナガサキ」後、核戦争の危機が何度もありました。朝鮮戦争、ベトナム戦争 、キューバ危機、ベルリン封鎖危機、中東戦争、イラク戦争…。「ふたたび核兵器を使うな
」「核戦争起こすな、核兵器をなくせ!」、被爆者は訴えつづけてきました。
傷む身体にむち打ち、なけなしの私財を投じ、無数の人びとの寄付に支えられて世界をか けめぐり、被爆体験を語り、力の限り核兵器の恐ろしさ、残酷さを語り広げました。
国際的な会議や運動に積極的にかかわるなか「ノーモアヒロシマ・ナガサキ」「ノーモア ・ヒバクシャ」が人類の共通語になり、「NIHON HIDANKYO」は国際語になり
ました。
「NGO被爆問題国際シンポジウム」(1974〜77年)、3度にわたる国連軍縮総会 (SSDT〜V78〜88年)、世界法廷運動と被爆50年シンポジウム(92〜95年)
、国際司法裁判所の勧告的意見からハーグ・アピール平和集会(96〜99)、2000年 以降のNPT再検討会議、3回にわたる核兵器の人道的影響に関する国際会議(13〜14
年)、核兵器廃絶の法的枠組みを議論するOEWG(16年)。核兵器のない世界へ被爆者 の国際行動は続きます。
ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会が連続開催している《被爆者運動に学び合う 学習懇談会》の第4回―Aが、7月23日、プラザエフの5階会議室で開かれました。前回
「「要求骨子」から「基本要求」へ〜国家補償論の発展をふり返る〜」をテーマに6月4日 に開いた第4回が、十分な討議の時間を確保できなかったため、論点をさらに深め議論する
場として開かれました。
前回の問題提起者、栗原淑江さんが要点を整理して報告したあと、「原爆被害にたいする 国家補償」とは何か、また「国の責任」とは何かについてなど、参加者から発言が続きまし
た。「国家補償」についての理解を深めるため、地元で学習会を開きたい(愛知)との発言 もありました。
次回は9月9日、日本被団協との共催で沖縄戦被害をテーマに開催します(別項参照)。
【問】原爆症認定制度のあり方について日本被団協が「提言」をしているということです が、それはどんな内容ですか。現在の裁判と関係があるのでしょうか。
* * *
【答】2010年から3年間にわたって行なわれた、厚労省の「原爆症認定制度のあり方 に関する検討会」に、日本被団協の代表が「原爆症認定制度のあり方に関する日本被団協の
提言」として提案したものです。
現在の認定制度は、原爆が爆発した時の初期放射線による直爆線量にこだわり、残留放射 線の外部被ばく、内部被ばくを軽視しています。このために03年から原爆症認定集団訴訟
が、さらに現在ノーモア・ヒバクシャ訴訟が争われ、国は敗訴を続けています。
「提言」は、高齢化した被爆者が裁判をしなくてもいい制度への改正を求めたもので、そ の骨子は次のとおりです。
@現行の、直爆線量にこだわった認定制度は廃止する。その上で、
A現在の医療特別手当、特別手当、健康管理手当、保健手当を廃止し、すべての被爆者に 健康管理手当相当額の被爆者手当を支給する。
B被爆者ががん、白血病、白内障、甲状腺機能障害、肝機能障害、心筋梗塞などの病気に なった場合には、障害の程度に応じて3段階で被爆者手当を加算する。加算の最高額は医療
特別手当相当額とする。
Cいずれの加算区分に該当するかの判断は、都道府県知事、広島・長崎市長が行なう。
日本被団協、ノーモア・ヒバクシャ訴訟原告団、弁護団などは、厚労省や各政党に対し「 提言」をもとに現行法を改正するよう要求しています。