所感演説 核廃絶の具体策なし
三重県での7カ国首脳会議を終了した5月27日夕、オバマ米大統領は現職大統領として初めて被爆地広島を訪れました。平和祈念資料館の見学後、原爆死没者慰霊碑に献花し、慰霊碑前で所感を演説しました。演説後、被爆者代表として立ち会った坪井直日本被団協代表委員の前に歩み寄り「核兵器廃絶をともに」と訴えた坪井氏と握手しました。
オバマ大統領の所感は「核兵器のない世界」にふれ、核保有国は「核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけない」としつつ「私が生きている間には、この目標を達成できないかもしれない」とものべました。
大統領就任直後の2009年に行なった、チェコ・プラハの演説では「核兵器を使用したただ一つの核保有国として行動する道義的な責任をもっている」として、核兵器廃絶や包括的核実験禁止条約の任期中の批准など具体策を示しましたが、この約束は実現していません。所感では具体策を表明しませんでした。
日本被団協が事前にオバマ大統領に要望した4項目について、(1)〜(3)には一切触れず、(4)は限定的・短時間で極めて不十分でした。
核保有国は欠席
昨年秋の国連総会で採択した決議「多国間核軍備撤廃交渉の前進」にもとづいて国連の下に設置されたオープンエンド作業部会がスイス・ジュネーブの国連欧州本部で5月2日〜13日、2回に分けて8日間開かれました。決議は、すべての国が作業部会に参加するよう呼びかけていますが、2月会議に続き、米、ロなど核保有国は欠席しました。決議は市民社会の積極的参加もよびかけており、5月会議を前に各国から100人を超す非政府組織(NGO)代表が集まり、作業部会へのかかわりなど議論し、会議で活発に発言しました。
核廃絶条約被爆者が訴え
日本被団協からは、作業部会前半に和田征子事務局次長(写真上)、後半は藤森俊希事務局次長(写真下)が出席、被爆体験を述べ、一日も早い核兵器廃絶の実現へ禁止・廃絶条約の締結をすすめるよう訴えました。
会議3日目、カナダ在住のサーロー節子さんが史上稀にみる惨状を生き抜いてきた被爆者は過去70年間、核兵器廃絶を求めてきたと述べ、「核兵器廃絶こそが人類の生存を可能にする唯一の道であるという私たちの信念が揺らぐことは一度もなかった」と核兵器廃絶の推進を訴えました。
会議は、同一会場で行われ、事前に各国政府、NGOが提出した作業文書の論点や勧告についてタニ・トングファクディ議長(タイ王国大使)がまとめた文書をもとに、「核兵器のない世界を達成し維持するための効果的な法的措置、法規定、規範を構成する要素について」など6つのテーマで、それぞれ専門家が問題提起し、各国政府、NGO代表が任意に発言を求め議論するかたちで進められました。
17年条約交渉開始案
8日間の会議で注目されたのは、非核兵器地帯の視点からの勧告案として提起した、「2017年に核兵器禁止条約の交渉会議を開く」よう求めた作業文書です。メキシコ、アルゼンチンなど9カ国が提出。
米国の核の威力に頼る日本、オーストラリアなどは、新たな法的措置ではなく、包括的核実験禁止条約(CTBT)など既存の法的措置の強化を主張しました。CTBTは米国などが批准していないことから発効できないでいるもので、説得力に欠ける議論でした。
「核兵器の禁止と廃絶に向けた国際努力」を勧告する作業文書は、オーストリアが主導した「人道の誓約」に賛同した127カ国がほぼそのまま共同提案者となり世界全体で核兵器禁止・廃絶に向かう力が強まっていることを示しました。
国際署名呼びかけ
最終日の前日、被爆者が訴える国際署名について、藤森次長が議長団に発言を求めるとともに会議場で参加国、NGOに署名簿配布の許可を求めたところ快諾が得られ、国際署名の内容を説明しました。
会議後、個々に署名を訴え、法的枠組みを主導してきたメキシコ大使、パラオ大使が快く署名、NGO代表を含めて短時間でしたが19氏から署名が寄せられました。
8月に勧告文書まとめ
作業部会は、8月中旬の会議で、今秋の国連総会に報告する文書と勧告文書をまとめます。
人々の記憶を長く、遠く、深く伝える
広島で被爆した移動演劇隊「さくら隊」を描いた戯曲「紙屋町さくらホテル」(こまつ座、井上ひさし作)が10年ぶりに上演されます。この演出を手がける鵜山仁さんに話を聞きました。
「父と暮せば」
父が旧制広島高校出身で、終戦の年はすでに大阪の大学にいたのですが、広島で被爆された同級生もたくさんいらっしゃいます。僕がまだ小学生のころ、父の同窓会で広島に連れていかれ、資料館を見学したのを覚えています。
1994年に「父と暮せば」(こまつ座、井上ひさし作)を演出することになったとき、大変重たいものを背負う、という印象がありました。被爆体験をフィクションで語るということは、いろんな意味で困難なハードルです。特に広島での上演は、体験した人たちの前で、しかもそれを広島弁でどう語るのか、俳優たちも大変なストレスを感じているようでした。
この作品はその後毎年のように上演を重ね、ロシア、香港など、海外での公演も経る中で、人間が被った被害を物語る有効性、可能性が幾分見通せるようになり、フィクションを創る立場として多少腰がすわるようになってきた…そんな20年でした。
名代≠ニしての表現者
「紙屋町さくらホテル」に登場する長谷川清(海軍大将)は劇中、自らを天皇の名代(みょうだい)≠ニ言い、のちにさくら隊や原爆で亡くなった人たちの名代≠ニ言っていますが、僕は表現者はすべて名代≠セと思うんです。過去の出来事や、同時代であっても現場にはいあわせなかったことも含め、われわれにはさまざまな経験をフィクションとして再構築し、語り継いでいく役割がある。経験した人々の記憶≠、言葉にのせて、また色や形、音楽にのせて、できるだけ長く、遠く、深く伝えていく、それがわれわれの仕事なんだろうと思います。
自分の問題として
記憶するということの中には、被害者と加害者、両方の立場がないといけないと思います。まかり間違えば加害者になりうる自分がいることを自覚し、そこをどう反転させるか―日本が再び戦争をする国になるかもしれないという時、自分の中にある加害者性と[藤し、戦わないことが文化だと言える精神性を養っていかなければならない。
精神的には被爆の帰結をぼくらも被っている。それがないと広島を表現することはできません。
8月6日、9日、15日という記憶があって、さらに9・11、3・11があった―根本的問題はおそらく解決していない。そのことを自覚し、だからこそ自分の問題として表現し続けることが大切だと、思うのです。
人類の記憶を共有
7月上演の「紙屋町さくらホテル」では、被爆の体験を大事にしながら、それを現在の、われわれの問題として語っていきたい。
被爆者お一人おひとりの経験を引き継いで「過ちは繰り返さない」というプロセスを日々たどりなおし、これからの世界が多少ともいい方向に向かうように努めたい。さまざまな声を発信しつづけていれば、その声に触発されて、更に新たな表現が生まれるはずです。貴重な人類の記憶をよりよく共有し続けたいと思います。
(まとめ・工藤雅子)
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うやま・ひとし=1953年奈良県生まれ、慶應義塾大学文学部卒、文学座演出部所属。07年6月〜10年8月、新国立劇場の第四代演劇芸術監督。代表作に「グリークス」(文学座)、「コペンハーゲン」(新国立劇場)、「父と暮せば」「兄おとうと」「円生と志ん生」「マンザナ、わが町」(以上こまつ座)、「ヘンリー六世」(新国立劇場)など。受賞歴は、読売演劇大賞最優秀演出家賞、紀伊國屋演劇賞、芸術選奨文部科学大臣賞ほか。
千葉では、「ヒバクシャ国際署名」を5月1日メーデー集会が行なわれた千葉中央公園でスタートしました。
「被爆者は核兵器廃絶を心から求めます」と書かれた横断幕を被爆者16人が持ち、県下から集まった人々に署名を呼びかけました。
集会がはじまる前1時間の行動で、306の署名が寄せられました。
県内で広範に署名をすすめるために、千葉県原爆被爆者友愛会から33団体に呼びかけ、懇談会を6月4日に開く予定です。各団体・市民がどのようにすれば自分のこととして取り組めるか、議論・検討することにしています。(千葉県友愛会)
長野県の諏訪地方では6年に1回の諏訪大社御柱祭の都合で、憲法集会が5月1日諏訪市文化センターで開かれました。550人が参加、会場入り口で「被爆者が訴える国際署名」が呼びかけられ、参加者の半数近い258人が署名しました。
前年の核兵器全面禁止アピール署名の倍以上、募金は4倍と「国際署名」への共感の高さをうかがわせました。
4月24日「B屋市原爆被害者の会」の第49回定期総会を行ないました。
総会終了後、ノーモアヒバクシャ訴訟弁護団の塩見卓也弁護士の講演がありました。今さらながら、国の無理解な態度に腹立たしい思いをすると同時に、力強い弁論を展開してくださる弁護団や支援の皆さまへの感謝の気持ちでいっぱいになりました。
被団協結成60周年の記念品として、『被爆者相談のための問答集』を1冊ずつ会員さんに差し上げました。
熊本・大分の大震災へのカンパ箱もおいて協力していただき、2万円をお送りしました。(B屋の会会長・千葉孝子)
NPO法人ノーモア・ヒナクシャ記憶遺産を継承する会 第4回通常総会
NPO法人ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会の第4回通常総会が5月28日、東京・四ツ谷のプラザエフで開かれました。
岩佐幹三代表理事が挨拶し「私たち人類は、かつて世界中に大きな惨禍をもたらした。その負の教訓を踏まえて、今こそ『過ちを繰り返さないために』立ち上がっていかなければなりません」と述べました。
昨年度事業報告では、愛宕山資料室と南浦和資料室で進む資料・文献整理の様子や、「ヒロシマ・ナガサキを語り受け継ぐつどい」などの原爆体験の記憶を継承する取り組み、被爆者運動から学び合う学習会シリーズ、インターネットを使った広報・募金活動などが報告されました。
今年度事業計画では、「継承センター」設立構想の具体化のための資金づくりをどう進めるか、活発に議論が交わされました。今年2月に、個人や法人による寄付の税制優遇措置が受けられる「仮認定NPO法人」の認可を受けたこともあり、「外に向かって大きく打ち出す時」「国会内で集会を開き首相はじめ国会議員にもアピールを」などの発言がありました。
核兵器廃絶日本NGO市民連絡会が要請
オバマ米大統領の広島訪問にあたって、核兵器廃絶日本NGO・市民連絡会の共同代表5氏が5月24日付で、オバマ大統領と安倍首相に要請書を送り、記者会見を開きました。要請書の骨子は次の通りです。
1.核兵器の非人道性についての認識をはっきりと示し、核に依存した安全保障政策から決別してください
2.北東アジアに非核・平和の秩序をもたらす努力を強めてください
3.核拡散や核テロにつながる核物質を管理すると共に、これらを防止する政策を強化してください
川崎哲(ピースボート)、田中熙巳(日本原水爆被害者団体協議会)、朝長万左男(核兵器廃絶地球市民長崎集会実行委員会)、内藤雅義(日本反核法律家協会)、森瀧春子(核兵器廃絶をめざすヒロシマの会)
集団訴訟・東京地裁判決(2007.3.22)
原爆症認定制度は、原爆放射線に起因する病気にかかった被爆者を国が原爆症と認定して、医療費の全額国庫負担と一定額の手当を支給する制度です。しかし、認定基準がきびしいまま改善されていませんでした。
2000年7月、原爆症認定申請却下の取り消しを求めた長崎原爆松谷裁判が最高裁で勝利します。松谷英子さんは2歳の時2・3キロで被爆、飛んできた瓦で脳挫傷、下半身不自由になった傷害への原爆症認定を求めて国と争ったのです。
国は松谷さんを原爆症と認定しましたが、前よりきびしい認定基準を打ち出しました。
これに対して被爆者が提起したのが原爆症認定集団訴訟です。
03年4月から11年12月の終結まで17の地裁に提訴、306人の原告がたたかいました。
裁判は地裁、高裁を含め29勝を重ね、08年4月には「原因確率」を根拠とする基準を撤廃させ、3・5キロ内の直爆被爆者のがんはすべて認定。いくつかの非がん疾患も100時間内に2キロ内に入市した被爆者については認定するなど制度の改善をかちとりました。その後、非がん疾病についてはさらに改善され、新基準による認定被爆者の数は約4倍になっています。
被爆者とともに 齋藤紀さん(医師)
核分裂反応の発見という科学の到達、あらたな覇権主義(冷戦)への急展開、無謀残虐なアジア侵略の破綻、それらの交叉の一点に原子爆弾の大量殺戮が生じました。
私の立った40年前の広島のまちは明るく、街路の木々はなお伸びようとしていました。壊されてなおそこにとどまる人間の価値はなにか、土着に、平生にとどまる人間の価値はなにか、「あの日」に対する私の強い対抗意識でした。
「あの日」から生かされた人々の誰にでも、伸びた背丈と寸分たがわず「あの日」の辛酸も生長したのでした。だれもがときに体調を壊し、ときに今日は楽だと苦笑し、議論し、家で泣き、平生のあれこれを生きたのでした。みなの肉体に、予想される死、突然の死、逃げ切った当座の安、それらの何を見たとしても、私も医師としての一日を生きてきました。眼前にある淡々とした事実にささえられてです。
私における日常のヒロシマ・ナガサキは、被爆者の年輪にくぐもった辛酸を感じ、同じ年輪から発する人間の優しい声をきくことでした。
歩きつづける、優しい人々の群像と言わざるを得ません。
【問】私の母が87歳で死亡しました。死亡診断書には「老衰」となっていて、他には何も記載がありませんでした。
母は特に大きな病気はしていませんでしたが、血圧が高めで、食事などに気を付けていました。寝たきり状態でもなく、とても「老衰」とは言えないと思います。
死亡診断書を書いた医師は、かかりつけの医師ではありません。
葬祭料の申請をしたいと思いますが、「老衰」でも支給されますか。
(被爆者の家族より)
* * *
【答】葬祭料は、死因が被爆以前の病気や交通事故、自殺、天災等で原爆の障害作用の影響によらないことが明らかなときは支給されないことになっています(昭和44年衛発543号第3)。
あなたのお母さんの場合ですが、事情が十分わからない医師が死亡診断書を書かれたようですから、事情のわかる医師に既往歴など補充してもらうといいのではないでしょうか。
「老衰」だから支給されないということではありませんので、都道府県担当者にもよく説明してみてください。
まどから
本紙第447号(4月号)の「相談のまど」の家族介護手当の回答に関して、東京都では家族介護について次の独自の対策をとっていますので補足します。
(1)中度障害も支給されます。(2)月額17500円の独自加算があります。(3)同居家族以外は支給されません。
清水昭男(90歳・広島)
医者へ行くこともなく元気に育った身が、19歳の時広島の爆心地近くの軍隊へ入市被爆、戦後は各種の病気に苦しみ7回も病院へ入院しました。
原爆は絶対に許されません。現在世界中軍拡競争の状況になりました。第一次、第二次世界大戦前の感じがします。協定や同盟に類するものは、敵を想定してのこと、戦争の根源だと思います。日米安保条約も戦争に参加するためのもので、平和を守るものではありません。
平和は親密な外交によって達成できるものです。日米安保条約は、アメリカの軍による世界制覇の野望に加担するものであり、絶対に許せないと思っています。このことを、全国民、特に政治家に考えていただき、近隣諸国と親密な外交、さらに世界各国との親交を願っています。