被団協新聞

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「被団協」新聞2016年 5月号(448号)

2016年5月号 主な内容
1面 核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶことを全ての国に求めます
2面 熊本地震災害への救援募金を訴えます
マレーシアでのシンポジウムに長崎から参加
被爆者運動の機関車「被団協」創刊40年
【宮城】国際署名スタート 被爆者運動勉強会
≪被爆者運動に学ぶ学習懇談会≫第3回「被爆被害者調査」とは
非核水夫の海上通信141
3面 わたしとヒロシマ・ナガサキ 劇作家 福山啓子さん
被爆者運動60年(5)
高裁でも3人勝訴 厚労省は上告断念

 

核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶことを全ての国に求めます

ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える
「核兵器廃絶国際署名」スタート

被爆者は核兵器廃絶を心から求めます

Photo
国際署名を訴える被爆者と賛同団体の人たち
(4月27日・渋谷駅ハチ公前)

 人類は今、破滅への道を進むのか、命輝く青い地球を目指すのか岐路に立たされています。
 1945年8月6日と9日、米軍が投下した2発の原子爆弾は、一瞬に広島・長崎を壊滅させ、数十万の人びとを無差別に殺傷しました。真っ黒に焦げ炭になった屍、ずるむけのからだ、無言で歩きつづける人びとの列。生き地獄そのものでした。生きのびた人も、次から次と倒れていきました。70年が過ぎた今も後障害にさいなまれ、子や孫への不安のなか、私たちは生きぬいてきました。もうこんなことは、たくさんです。
 沈黙を強いられていた被爆者が、被爆から11年後の1956年8月に長崎に集まり、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を結成しました。そこで「自らを救い、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」と誓い、世界に向けて「ふたたび被爆者をつくるな」と訴えつづけてきました。被爆者の心からの叫びです。
 しかし、地球上では今なお戦乱や紛争が絶えず、罪のない人びとが命を奪われています。核兵器を脅迫に使ったり、新たな核兵器を開発する動きもあります。現存する1万数千発の核兵器の破壊力は、広島・長崎の2発の原爆の数万倍にもおよびます。核兵器は、人類はもとより地球上に存在するすべての生命を断ち切り、環境を破壊し、地球を死の星にする悪魔の兵器です。
 人類は、生物兵器、化学兵器について、使用、開発、生産、保有を条約、議定書などで禁じて来ました。それらをはるかに上回る破壊力をもつ核兵器を禁じることに何のためらいが必要でしょうか。被爆者は、核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶことを、すべての国に求めます。
 平均年齢80歳を超えた被爆者は、後世の人びとが生き地獄を体験しないように、生きている間に何としても核兵器のない世界を実現したいと切望しています。あなたとあなたの家族、すべての人びとを絶対に被爆者にしてはなりません。あなたの署名が、核兵器廃絶を求める何億という世界の世論となって、国際政治を動かし、命輝く青い地球を未来に残すと確信します。あなたの署名を心から訴えます。

2016年4月

よびかけ被爆者代表:坪井直、谷口稜曄、岩佐幹三(以上、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)・代表委員)、田中熙巳(日本被団協・事務局長)、郭貴勲(韓国原爆被害者協会・名誉会長)、向井司(北米原爆被害者の会・会長)、森田隆(ブラジル被爆者平和協会・会長)、サーロー・セツコ(カナダ在住)、山下泰昭(メキシコ在住)


熊本地震災害への救援募金を訴えます

 4月14日夜起きた熊本県を震源とした地震(熊本地震)は、翌日の余震を本震と修正するなど大きな揺れが長期に続き、死者は49人、不明1人(4月26日現在)、家屋やビルの倒壊、橋や道路の崩壊、土砂災害など深刻な被害が広がっています。犠牲になられた方々に哀悼の意を表するとともに、被災された方がたに心よりお見舞い申し上げます。
 熊本県被団協では4月末に予定していた理事会を延期としましたが、21日現在、避難していることが予想される地域の役員と連絡が取れないとのことです。
 日本被団協は、震災救援募金をよびかけています。みなさまからお寄せいただいた募金は、被災地にお届けします。
 募金は、各都道府県被団協に取り扱いをお問い合わせください。日本被団協に直接送金される場合は、郵便振込で、口座番号00100‐9‐22913、加入者名=日本被団協、通信欄に「熊本地震救援募金」と書いてご送金ください。


マレーシアでのシンポジウムに長崎から参加

長崎被災協 柿田富美枝

Photo マハティール元首相(左)と柿田さん(中央)、谷口さん(右)

 長崎被災協の谷口稜曄会長と柿田富美枝事務局次長は、マレーシアのマハティール元首相が創設したNGO団体「戦争を犯罪にするクアラルンプール財団」の招きで3月23日〜27日同地を訪れ、26日開かれた「戦争に“ノー”と言う次世代連帯シンポジウム」に参加しました。
 シンポジウムでは、宮川眞喜雄在マレーシア日本大使が谷口、柿田を紹介。被爆者として、被爆二世として「戦争をなくすために何をすべきか」をテーマにそれぞれ30分間発言しました。谷口会長は「非人道的な悪魔の兵器、核兵器をなくすため、世界から戦争をなくすため、ともに頑張ろう」と訴え、「ノーモア・ヒバクシャ、ノーモア・ウォー」と締めくくり大きな拍手を受けました。
 柿田は、原爆資料館所蔵の写真を使い、長崎の被爆の実相をスクリーンに映し出しました。母親の被爆体験と、神奈川県原爆被災者の会提供の被爆者が描いた絵5枚を紹介し、被爆者の思い、願いを訴えました。
 日本から、長崎大学をはじめ福岡や東京など各地から高校生、大学生たち18人が参加。彼らは、マレーシアの学生たちと数日前から話し合いを重ね、シンポジウム当日、両国の学生たちが英語で平和宣言をおこないました。最後に被爆三世の熊本大生が「『ノー・ウォー(戦争反対)』と一緒に言いましょう」と呼びかけ、会場が一体になり声を合わせました。
 マレーシアで20年以上首相を務められたマハティール氏(90歳)と、シンポジウムの前日懇談、学生たちとともに交流しました。日本被団協がよびかける「核兵器廃絶国際署名」について、谷口会長がマハティール氏に協力を訴えたところ、快く賛同人になることを約束されました。


被爆者運動の機関車「被団協」創刊40年


「被団協」新聞創刊号(1976.5.31)

 「被団協」創刊は1976年5月31日でした。今年5月で40年の歩みを刻みます。
 70年代、日本被団協は「原爆被害者援護法案のための要求骨子」(73年4月)に基づいて「国家補償の援護法」を求め、国民的な運動の広がりをみせていました。
 4ページ建ての創刊号の1面は厚生省前座り込み(73年11月中央行動)の大きな写真。「さらに 被爆者運動の潮を/この三年間の運動の総括と展望」の見出しで「私たちの生きざまそのものとして援護法制定・核兵器完全禁止の運動をさらに発展させていきましょう」と呼びかけています。
 6号(79年6月)から原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇=厚生大臣の私的諮問機関)の発足に対決して月刊化(発行日毎月6日に)、18号(80年6月)からは常時4ページ建て(1、8月号などは8ページ)に発展しました。
 原爆被害への国家補償要求を拒否してその「受忍」を国民に強いた基本懇答申(80年12月)は81年1月号1面に「死んだ人が犬死になる」の大見出しで詳報。被団協の声明・見解全文、各界の声を速報しました。
 「原爆の非人道性と国の戦争責任を裁く国民法廷」運動スタートを報じた81年8月号では被爆者である平山郁夫画伯の名作「広島生変図」を、画伯のご厚意によって、カラー2ページ見開きで掲載しました。
 「原爆被害者の基本要求」(84年12月号)「現行法改正要求」(11年7月号)などの基本方針もくわしく伝え、運動を推し進めてきました。
 「被団協」は(1)被爆者を毎月訪問する新聞(2)運動を推し進める新聞(3)ヒロシマ・ナガサキと被爆者の願いを語り継ぐ新聞、として歩み続けます。
 ところで。題字「被団協」の模様(地紋)はなんでしょう?
(「被団協」編集委員・吉田一人)


【宮城】国際署名スタート 被爆者運動勉強会


 宮城県原爆被害者の会(はぎの会)は、4月17日、仙台市太白区の秋保ホテルクレセントで午前中の総会の後、午後1時半から「被爆者運動勉強会」を開きした(写真)。高草木博日本原水協代表理事が「被爆者とともに、核兵器のない平和で公正な世界を」と題して、藤森俊希日本被団協事務局次長が「核兵器のない世界をめざして、被爆者が訴える国際署名」と題して講演しました。
 はぎの会会員のほかに平和団体会員や県会議員などあわせて40人を超す人が参加。質問や感想など述べあい、被爆者が訴える国際署名について「今日がスタートの日」としてそれぞれが賛同の署名をしました。


≪被爆者運動に学ぶ学習懇談会≫第3回「被爆被害者調査」とは

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 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会が連続開催している《被爆者運動に学び合う学習懇談会》の第3回が、4月23日立教大学で開かれました。テーマは「原爆は人間として受忍できない‐被爆40年“原爆被害者調査”ストーリー」。日本被団協が実施したこの調査について、浜谷正晴一橋大学名誉教授が調査票の成立過程を語り、分析過程については浜谷さんの恩師である故・石田忠さんの生前の講演がビデオで流されました。
 全国的に大規模に取り組んだ「原爆被害者調査」が、石田さん、浜谷さんなど研究者の協力を得て、決して「受忍」できない被害を明らかにし、ふたたび被爆者をつくらない証としての国家補償を求める運動を高めた経験を学び合いました。
 第4回は「要求骨子から基本要求へ‐国家補償論の発展を振り返る」をテーマに、問題提起は栗原淑江さんです。6月4日午後1時半、プラザエフ5F会議室、定員50人要申込、参加費千円。問合せは日本被団協または継承する会事務局へ。


わたしとヒロシマ・ナガサキ 劇作家 福山啓子さん

父と広島が私のベース ちゃんと向き合って

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 福山 被爆70年の夏に広島に行き、八丁堀を歩いていて福屋百貨店が目に入り、ああ、1950年の8月6日、峠三吉とともに父がここにいたのだと思い出しました。

父の軍隊日記

 父は大正生まれで、太平洋戦争末期に学徒動員された組なんです。外地には行かず、軍需工場で働いていて、耳が悪くなったと言っていました。まじめな人だったんですね、父が亡くなった後、軍隊日記が出てきました。昭和20年1月1日付に「今年は福山が命を国に捧げる年だ」と書いてある。上官が赤ペンで「貴様の決意は尊いぞ、頑張れ」と記入してあったり、下痢して治らなくて「それは根性がないからだ」と反省が書いてあったり…。

東京で接した広島

 その父が戦後、民青連や平和委員会の活動をやっていて、わが家は、東京の豊島区ですが、わたしが小さいころから、広島関連の情報はありました。父は毎年、広島、長崎に行っていました。署名活動もずっとやり、地元で平和委員会や労働組合をつくり、原爆の写真集やスライドを見る学習会など、幼いころから接していました。
 峠三吉の詩集も子どものころに読んで、強く印象に残っています。それが、いってみればわたしのベースです。

被爆問題にかかわり

 劇団に入ってからも被爆問題にはかかわってきました。青年劇場では長崎の渡辺千恵子さんのことを朗読構成にしました。堀田清美さん作で広島の坪井直さんをモデルにした「島」は、いま全国巡演していますし、広島が舞台じゃなくても被爆者が出てくる芝居がほかにもあります。
 劇団でカンパを集めて原水禁世界大会に若い人を送ったり、被爆者支援も新劇人会議で取り組んでいます。
 一昨年、日本被団協の「『原爆被害者の基本要求』策定30年のつどい」のお手伝いをして、あっ!きたな!っていう感じがして、ちゃんと広島と向き合って書こうと。それで広島の市立基町高校の高校生が被爆者の体験を聞き絵にする取り組みが印象に残っていたので、立教大学の小倉康嗣先生に手伝ってもらい昨年「あの夏の絵」を書き、上演しました。
 芝居を観た老いも若きも、被爆者もそうでない人からも、素晴らしい感想文をいっぱいいただきました。

「あの夏の絵」は必要と

 23歳の息子が観にきて「面白かったよ」「あれは、やっぱ、やった方がいいよ」と言ってね、へ〜って思いました。息子は東京生まれ東京育ちだし、教科書だって「現代」はやらないから知らない。やはり、ああいう演劇は必要なのだと。
 広島の話だから、重い話だろうと思って覚悟して来たら、高校生たちがすごく生き生きとして面白くって、それが良かったと言う人や、単に重いだけではなく今とつながるのが良かったという感想がけっこうあって、それは良かったなと。

被爆者の手となって

 基町高校に何度もうかがって話を聞きました。美術の橋本一貫先生も生徒も被爆者に対する向き合い方がものすごく真摯なんです。被爆の話を聞いちゃったら、代わりに手となって描かざるを得ないと、みんな口々に言う。
 橋本先生は先生で、途中やめる子が出たら話した人を傷つけるからと最初からすごく厳しい覚悟で取り組ませる。これまでに途中で投げ出した子は一人もいない。そういうお話を聞くと、小細工は出来ない、作りごとをするわけにはいかない、あったこと、語られた言葉に忠実につくっていこうという気持ちに自然となり「あの夏の絵」ができました。
 来年秋から全国巡演をやる話がすすんでいます。(まとめ・藤森俊希)

*  *  *

 ふくやま・けいこ=東京都出身。早稲田大学第一文学部卒。1980年秋田雨雀・土方与志記念青年劇場入団。文芸演出部所属。2006年初演「博士の愛した数式」で脚本・演出を担当、児童福祉文化賞(厚生労働大臣賞)を受賞するなど、脚本・演出で活躍。昨年12月、広島市立基町高校の実践をもとに書き下ろした「あの夏の絵」が大きな話題を呼ぶ。


被爆者運動60年(5)相談活動と「被団協」

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74年3月近畿ブロック講習会


 70年代、野党4党案が国会に上程されると、政府・自民党は特別措置法改正を提案し健康管理手当などの受給制限の緩和をすすめるようになりました。
 受給対象者の増加とともに被爆者からの相談も増え、各県の被爆者組織の相談活動の充実が求められ、日本被団協の相談体制を強化するために、「被爆者中央相談所」を設置。78年に厚生省の認可を受け「社団法人・日本被団協原爆被爆者中央相談所」となり、自転車振興会からの補助金を受け、ブロックごとの相談事業講習会、電話相談、問答集や「しおり」の発行など全国的な相談活動を展開しました。
 76年5月に、機関紙「被団協」を創刊。79年6月の第6号から月刊化しました。
 「被団協」の定期刊行と相談活動の発展は、日本被団協の財政・組織の強化にも寄与。各地の被爆者組織と被爆者、支援者をつなぎ、全国の活動の交流や運動論の深化に大きな力を発揮して、援護法制定の運動も大きく発展しました。「被爆50年に原爆被害者援護法を制定させよう」との全国運動が支援者とのネットワークに発展。繰り返しての「全国行脚」や中央行動など、大きな運動のうねりを作り上げていきました。


高裁でも3人勝訴 厚労省は上告断念

原爆症認定訴訟・熊本

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 原爆症の認定を求めて提訴しているノーモア・ヒバクシャ訴訟の第2次熊本訴訟・控訴審(原告5人)判決が、4月11日福岡高裁でありました。金村敏彦裁判長は、熊本地裁で勝訴して国が控訴した原告3人と、地裁敗訴で本人控訴の2人について、いずれも控訴を棄却しました。
 ノーモア・ヒバクシャ訴訟全国原告団、同弁護団、日本被団協、熊本原告団および熊本弁護団は連名で「声明」を発表。勝訴の3人について、「科学の限界を踏まえ被爆の実態から判断すべきとの原審と同様の判断枠組み」によるものと評価し国に上告断念を求めた結果、厚労省は25日上告を断念、判決は確定しました。
 高裁門前では原告の山中輝雄さん(71)、米留範昭さん(73)が挨拶。福岡、佐賀、大分の各県被団協から傍聴支援があり、熊本からは被爆者、市民団体、被爆二世の会など支援者が大型バス1台で駆けつけました。