被団協新聞

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「被団協」新聞2015年 8月号(439号)

2015年8月号 主な内容
1面 被爆70年 浦上天主堂の子どもたち
2面 “戦争法案”を廃案にせよ
戦争被害の解決を 戦争被害者が院内集会
初の原爆展開催 北海道庁ロビーで証言も
非核水夫の海上通信132
各地の行事
3面 手帳所持者数18万3519人に
被爆70年を生きて「被爆者として言い残したいこと」調査を実施
被爆者の声をうけつぐ映画祭2015
4-5面 ヒロシマ・ナガサキ70年 今を戦前にしてはいけない
浦上で 中尾憲
7面 日本被団協NY行動 現地ボランティアからのメッセージ(続報)
三宅信雄の洋上通信 ピースボート乗船中
8面 相談のまど 原爆症認定申請 2キロ以内で被爆し心筋梗塞
被爆70年核兵器のない世界のため 被爆者と市民のつどい(2015年8月5日)

 

被爆70年 浦上天主堂の子どもたち

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長崎の浦上天主堂のがれきの上で遊ぶ子どもたち。右から2人目が写真提供の中尾憲さん。写真は1949年頃

 長崎の爆心地から東北500メートルの高台にそびえ立っていた浦上天主堂。30年の歳月をかけて赤レンガを一枚一枚と積み上げて1925年に完成、双塔の高さ26メートルに及び、東洋一を誇っていました。
 1945年8月9日の朝、原爆の一閃でドームは落ち、わずかに赤レンガの堂壁を残して壊滅し、さらに夜に入って炎上しました。浦上の信徒8500人余が犠牲になったといわれています。
 戦後、原子野に残る天主堂の廃墟では残留放射能のおそれも知らず、遊びまわる子どもたちの姿がありました。
 原爆遺構として保存をという市民の声にもかかわらず、1958年に取り壊されました。天主堂はその後再建され、美しい赤レンガの建物に再建されました。
 今は、原爆でやかれ、顔をそがれたマリア像などが教会の前庭にたたずみ、堂壁の一部が爆心地公園で平和を訴え続けています。


“戦争法案”を廃案にせよ

自・公の衆院強行可決に抗議

 日本被団協は7月15、16日、自民・公明両党が、憲法9条に違反する集団的自衛権の行使を盛り込んだ安全保障関連法(戦争法)案を衆院で強行可決したことに対し、強く抗議し同法案の廃案を求める声明を発表しました(声明要旨別項)。
 戦争法案は、歴代内閣が憲法に違反するとして否認してきた集団的自衛権の行使を盛り込み、米国が始めた戦争に加担する法案です。審議が進行する中で通常国会の会期内に成立させることが困難になり、安倍内閣と自民・公明両党は、前例のない95日間という長期の会期延長を強行し、何が何でも戦争法を成立させようとしてきました。
 法案提出・審議開始後、各メディアの世論調査では、同法案反対が賛成を大幅に上回り、さらに反対は増え続け、安倍首相も「国民の十分な理解を得られていない」と認めざるを得なくなりました。
 首相官邸や国会前には、連日何万という人々が集まり、全国各地でデモ行進、集会が開かれ、戦争法強行に抗議する声があがっているさなか、自民・公明の与党単独で採決を強行しました。

 * * *

 強行採決を受け、メディアの中には「今国会成立へ」と報じるものもありますが、予算、条約と違い、衆院で可決すれば参院が可決しなくても自然成立とはなりません。参院で強行採決するか、衆院で3分の2以上の賛成再議決が必要です。
 国民の運動次第で参院での強行可決、衆院での再議決を阻止することは可能です。
 各地では戦争法反対の世論をさらに高めるため集会、デモ、インターネットなど使っての訴えなど多彩な取り組みが広がっています。
 * * *

[声明] 安全保障法案の衆院強行可決を撤回し、廃案にせよ!(要旨)
 日本被団協は、安倍内閣および自民・公明両党の暴挙の連続に怒りをもって抗議し、同法案の廃案を強く求める。安倍首相は「国民の十分な理解を得られていない」ことを認めた。「ていねいに説明する」「国民の理解を得られるように努力する」と繰り返す一方で、多数をたのんで強行可決し、成立を急ぐのは、なぜか。米国が始める戦争への加担を可能にする法案であることと、国民の意思を無視し、国会をないがしろにする態度の根源は一つである。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォーと世界に訴えつづけてきた被爆者は、核兵器廃絶とともに日本をふたたび戦争をする国にしないために、平和を求める国内外の人々と連携し力を尽くす。


戦争被害の解決を 戦争被害者が院内集会

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 日本被団協も参加している「戦後70年戦争被害のすべて解決を!実行委員会」が、7月14日、衆議院議員会館で院内集会を開きました。空襲被害者、沖縄戦被害者、南洋群島戦被害者、被爆者、弁護士や支援者など約200人が集まりました。
 「戦争被害と憲法」のテーマで小林節慶応大学名誉教授が講演(写真)。各党の国会議員が参加、あいさつしました。
 被爆者として日本被団協の木戸季市事務局次長が、「被爆者の70年間は見捨てられた10年とたたかいの60年だった。今、戦争被害者が一体となって、戦争する国づくりを阻止するとき」と訴えました。


初の原爆展開催 北海道庁ロビーで証言も

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 7月9〜10日の両日、北海道庁のロビーで、被爆70年原爆展を開催しました。北海道被爆者協会が外に出て開催するのは初めてです。北海道および新聞各社の後援も得て実施されました。
 原爆パネルの展示、被爆の実相を物語る遺品・遺物・書籍の展示、DVDの上映、被爆者による証言・NPT行動報告など、多彩な内容でした。平日にもかかわらず青年層から年配者まで、2日間で来場者は517人にのぼり、昼休みには道庁職員の姿も目につきました。1日3回行なった被爆者の話にはその都度30〜40人の聴衆が詰めかけ(写真)、大きくうなずいたり涙を拭いたりして聞き入っていました。
 「2度とこのようなことを繰り返してはならない」…感想文の多くはそう結ばれていました。語り伝えることの意義を改めて自覚した2日間でした。


各地の行事

 被爆70年の各地の行事続報です。
 [青森]原爆と人間展8月6〜9日、6日県原爆死没者追悼平和祈念式、9日長崎原爆忌献花式、さくら野百貨店青森店4階イベントホール2。


手帳所持者数18万3519人に

2014年度 平均年齢80.13歳

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 2014年度(15年3月末)の被爆者健康手帳所持者数などが、厚生労働省から発表されました。手帳所持者は全国で18万3519人となりました。前年度と比べ9200人の減。手帳所持者が一番多かった1980年度末の37万2264人と比べ、半数以下となりました。平均年齢は80・13歳で、前年度から0・69歳上昇し、初めて80歳を越えました。
 健康管理手当などの諸手当の受給者数は合計16万9846人で、手帳所持者の92・6パーセントでした。そのうち医療特別手当受給者は8749人で、前年度より44人減っています。


被爆70年を生きて「被爆者として言い残したいこと」調査を実施

日本被団協とノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会

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 日本被団協はこの夏、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会とともに、〈被爆70年を生きて「被爆者として言い残したいこと」調査〉に取り組みます。これは、〈原爆地獄〉を体験し、その後の70年を生きて来た被爆者に、あらためてこの歳月をふり返り、いまこれだけは言っておきたいことを書き残してもらうためのアンケートです。寄せられた被爆者一人ひとりの思いは継承する会で保存し、次世代に伝え活かしてもらいます。
 「被団協」8月号の付録として調査票を同封します。ご自身で書くことが困難な場合は、ご家族や周囲の方に聞きとっていただいてもけっこうです。各問の選択肢を選ぶとともに、被爆者としてのあなたの思いのたけをできるだけご自身のことばで記してくださるようお願いします。空欄に書ききれないときは、別紙に書いて添付するか手記などをお寄せください。
 一人でも多くの被爆者の声を残すため、読者以外の周囲の被爆者にもぜひ協力を呼びかけてみてください。一部の地域の読者の方々には付録が入りません。調査票が必要な場合には、日本被団協事務局にご連絡ください。調査票はコピーして使っていただいても構いません。
 アンケートの〆切(第1次)は9月末日です。みなさんのご協力を心よりお願いします。


被爆者の声をうけつぐ映画祭2015

“被爆者の声”を語り交流 ―― 550人が参加

 「被爆者の声をうけつぐ映画祭2015」が7月18〜19日、武蔵大学(東京・練馬区)シアター教室で開かれました。6プログラム、8作品が上映され、550人が参加しました。
 2日間の最後のプログラムは「被爆者の声をどのように継承するのか」をテーマに、日本被団協とノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会の共同制作作品「原爆は、人間として死ぬことも生きることもゆるさなかった」を上映後、シンポジウムを行ないました。
 「濃く、考えさせられる二日間でした」「実行委員会に参加します」などの反響が寄せられています。
 同映画祭実行委員会の有原誠治代表は、「今回の映画祭ほど切実に被爆者の声である“核も戦争もない世界の実現”を、真剣に語り合い、交流できた映画祭はなかったように思います。来年は、「被爆者の声をうけつぐ映画祭」が10周年を迎えます。今年の成功を力に、さらに充実した映画祭を準備していきたい」と話しています。


ヒロシマ・ナガサキ70年 今を戦前にしてはいけない

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中尾憲さん
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木戸季市さん
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田中重光さん
 1945年8月9日、当時5歳で長崎原爆を経験した、木戸季市日本被団協事務局次長、長崎被災協理事の田中重光さん、中尾憲さんの3人が、70年後の今年7月9日、浦上天主堂の瓦礫の上で遊ぶ子どもたちの写真を前に語り合いました。
 写真を持っていたのは中尾さん。原爆で破壊された浦上天主堂。大きく引き伸ばして紙焼きされた写真が貼られた台紙には青いインクで「原爆の子」と記されています。
 3人の話は戦時中に遡って始まりました。

戦時中の記憶
 小さかったのでほとんど覚えていませんが、稲佐橋通り近くに住んでいた中尾さんと木戸には共通の記憶があります。一つは空襲。高射砲から打たれた爆弾が、目標のB29のはるか下で花火のようにぱっと散ったり、長崎湾に落ちて水柱が上がっていたこと。当たったのを見たことはありません。もう一つは、囚人服を着た捕虜の一隊が、朝晩徴用で歩かされていたことです。敵国人と教えられましたが、なんともいやでした。

原爆の記憶
 1945年8月9日のことは、みな鮮明に記憶しています。
 木戸は爆心から2キロの路上で被爆。顔半分に火傷を負いました。
 田中さんは爆心から約6キロの時津で被爆。庭先の柿の木の下で、祖父と弟と遊んでいました。家のガラスというガラスが砕けました。
 中尾さんは、疎開して爆心から20キロ離れた諫早にいました。歯科医だった中尾さんの父は救護隊に編入され長崎に通いました。赤チンしかなく、塗った翌日ガーゼをはがすのがつらかったそうです。

戦後の生活
 食糧事情は戦争中より戦後がひどかった。芋とカボチャばかり。芋の中に米があるお粥でした。
 小学校へ行き始めましたが教科書がない、ノートがない、鉛筆がない…勉強するなと言われていました。

憲法
 ひもじい毎日の中「憲法が変わる、これから日本は戦争しない」と聞こえてきました。強烈な印象です。その後憲法はあらゆる面で、今日まで生きる支えになりました。

まだ死ねない
 被団協運動に参加して多くの被爆者を知りました。そして原爆への怒り、ふたたび被爆者をつくるなの思い、核兵器廃絶と国の償いを求める願いと情熱、被爆者としての生き方を教わりました。受け継いでいくつもりです。まだ死ねない、もう少し生きましょう。

繰り返してはいけない
 田中さんの「戦前の日本は棄民政治だった」というひと言から、戦争被害に話がすすみました。南米移民、満蒙開拓、沖縄、ジャングルの兵士、特攻兵…そして空襲被害者、被爆者。みんな国から見捨てられました。
 今年4月、木戸はニューヨークで小学生に話をしているとき、目の前の子どもたちの上に原爆が落ちたら、と想像し、この子たちが真っ黒になって死んでしまう…と身震いがしました。絶対に繰り返してはいけません。
 今の日本の政治に話が及び、戦後最大の危機を迎えている、愚かな政治家に私たちの命を預けるわけにはいかない、と話し合いました。
 今を戦前にしてはいけません。国民主権、基本的人権、平和主義の憲法を守り、活かす時です。
 若い人には、近現代史をしっかり学んでほしい、今をどう生きるか学び考えてほしい、と願っています。

 * * *

[Q&A]「原爆で戦争は終わった」のか?

 [Q]アメリカでは今も「原爆投下は正しかった」という世論が強いようですね
 [A]「日本本土上陸作戦になれば数十万の米兵が死んだだろう。原爆で日本が降伏したので救われた」という「原爆神話」、原爆投下正当化論が根強く残っているといわれます。
 太平洋戦争末期の日本は戦力を失い敗戦必至で、原爆使用の必要はありませんでした。アメリカは「原爆で日本を敗戦に追い込んだ」“実績”をつくり戦後世界の主導権を取ろうという狙いだったのです。

 [Q]日本でも「原爆で戦争は終わった」という説が強いですね
 [A]「原爆終戦」論は「終戦の詔書」が発生源です。「敵が残虐な爆弾を使ったので、戦争を続けたら民族の滅亡、人類文明の破滅を招くことになるので、ポツダム宣言を受諾することにした」と理由づけしています。「米国」とも「原爆」とも明示していませんが、この「原爆終戦」論が大宣伝され、歴史の定説のようになりました。1945年8月15日、終戦の詔書を1面で大きく報じた新聞の見出しは--
 朝日「新爆弾の惨害に大御心/帝国 四国宣言を受諾」、毎日「新爆弾・惨害測るべからず」、読売「畏し 敵の残虐 民族滅亡を御軫念」
 いずれも「原爆で終戦」の大宣伝です。
 しかし「原爆でもポツダム宣言受諾を決断しなかった」のが歴史の真実です。

 [Q]「原爆で終戦」ではないのですか
 [A]終戦までの1カ月の経過をみれば明らかです。
 ▼1945年7月16日=アメリカが原爆実験に成功▼25日=日本に対して原爆投下命令(ポ宣言より前)▼26日=米英中、ポツダム宣言発表▼8月6日=広島に原爆投下▼8日=ソ連が対日参戦▼9日=長崎に原爆投下▼10日=御前会議で「国体=天皇制護持」を条件にポ宣言受諾を決定▼12日=連合国から回答(バーンズ回答)。日本は「国体護持」が不明確と受諾をしぶる▼13日=夕方、米軍機「日本がポ宣言受諾」のビラを散布▼14日=急転、ポ宣言受諾の最終回答。夜、終戦の詔書発布▼15日=正午、詔書を天皇の朗読で放送
 日本の国家中枢は、広島原爆では即終戦に動いていません。ソ連参戦に動転し、一応ポ宣言受諾を決めますが、「国体護持」にこだわってためらいます。そのさ中の長崎原爆の報には何の反応も示していません。
 13日の米軍ビラに仰天して、14日即終戦、というドタバタの終幕です。
 「原爆で終戦」という終戦の詔書は、歴史の大ウソです。昭和天皇は終戦直後の8月17日に出した「陸海軍人への勅語」では、ソ連参戦が終戦の動機だと言い、原爆には一言も触れていません。『昭和天皇独白録』では、14日朝、米軍ビラを見て「何を置いても…廟議の決定を少しでも早くしなければならぬと決心」し、鈴木首相に御前会議召集を命じたと言っています。そして即日終戦。大日本帝国へのトドメは、原爆でもソ連参戦でもなく、一枚のビラだったというのが歴史の真実です。終戦の詔書の日付けが「8月14日」である理由も解けると思います。

 [Q]原爆への抗議はしたのですか
 [A]広島原爆についてだけ、アメリカに「国際法違反」と抗議しています。発信時刻は8月10日午前1時。といえば、ポツダム宣言受諾を決める御前会議の最中です。会議が終って、宣言受諾電を発信したのが7時15分。抗議はそのわずか6時間15分前でした。「負けた」と手をあげる寸前に一応、文句だけはつけておこうという“駆け込み抗議”に過ぎません。
 戦後、この抗議文について政府は「あれは戦争中のことなので、今は核兵器が国際法違反とはいえない」と、抗議を事実上取り消す態度を取り続けています。

 [Q]日本政府の核政策は?
 [A]被爆国日本が、核加害国アメリカの「核の傘」を担ぎ、「核兵器使用もありうる」と公言しています。何とも異常な構図です。
 安倍内閣は憲法を踏みにじって「戦争法案」の成立に狂奔しています。それは、ヒロシマ・ナガサキが生み出した憲法を殺し「ふたたび被爆者をつくる」道に通じます。
 究極の大量殺傷・破壊兵器である核兵器は、いかなる事情、理由があろうとも絶対に使用も保持も許されない「悪魔の兵器」です。
 「原爆で戦争は終わった」という「核兵器有用」論をただすことは、「ふたたび被爆者をつくるな」と訴えている被爆者として「ヒロシマ・ナガサキ70年」のいま、大事な課題になっています。


浦上で 中尾憲

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 終戦前、私の父は、原爆投下中心地から約2キロメートルの長崎市宝町で歯科医院を開業していましたが、終戦直前に諫早の片田舎に一家疎開しており、被爆を免れました。私は当時5歳でしたが、約20キロメートル離れた土地で体感したピカドンはとても間延びしたものだったことが記憶に残っています(後日の計算によると、ピカッからドン迄約1分)。
 1年後に、原爆中心地から約100メートルの松山町に引越しました。この写真は、浦上天主堂のがれきの上で撮ったものですが、まだ人家もまばらな原子野は子どもにとっては格好の自由空間でもあり、レンガ壁やコンクリート片の上を飛び回って遊びましたし、土を掘っては地金を探し出して小遣い銭稼ぎをしましたし。大人達はがれきを片付けて整地した畑でイモや落花生を植えて食糧難をしのぎました。言ってみれば、自ら好んで残留放射能を摂取しまくったようなもので、怖い話です。
 父が生きている間になぜここに引っ越したのかを聞き忘れたのは残念ですが、恐怖心などサラサラなかったことは確かでしょう。残留放射能などという言葉は人々には聞かされてない時代ですから。そんな言葉が再び死語となるような時代が早く戻ってくることを願ってやみません。


日本被団協NY行動 現地ボランティアからのメッセージ(続報)

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心揺さぶられ オハロラン美紀
 被爆者の皆様とお会いする度、私はいつもたくさんの刺激を受けます。ラリーの日も皆様のパワーに圧倒され、証言を聞くと心が揺さぶられ、そして普段の会話からは皆様の明るさと謙虚さの様子に、大きな感銘を受けます。今回も皆様と関わる機会をいただき、大変光栄でした。
 会議の結果は残念なものとなりましたが、皆様が心から訴えられたことは、証言を直接聞かれた方、関わったボランティア達、国連展示会へ訪ねた方、何らかの形で関わった方達に、しっかりと伝わったと思います。
 皆様が帰国されてからも、私達のもとにたくさんの感謝のメールが毎日届き、その文面から、我々の世代や学生達の心に皆様のメッセージが深く刻まれたことが伝わってきました。皆様のやまない努力は近い将来必ず結果を出す、と私は心から信じています。


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人生が変わる 遠山京子
 学校訪問で共通して感じたのは、子ども達の反応の純粋さでした。被爆者の話を聞き、もう一度会いたいと、国連原爆展に来てくれた小学生、高校生がいました。名門女子高生のアニーさんは、被爆者のお話を聞いた日が「自分の人生を変えられた」日だったといい、先生に許可をもらって学校を早引けして国連に足を運んでくれました。
 ペンシルバニア大学での証言を実現させてくださったロブさんは、曾祖母が広島の被爆者で、広島のことを聞いて育ったそうです。曾祖母が亡くなって日本とのつながりが遠のいていた矢先に被爆者訪問を聞き、眠っていた日本人の、広島人の血が騒いだといいます。
 人と人とが被爆者の方々でつながり、たくさんのいい思い出を残してくださいました。皆さんとの出会いは、ニューヨーカーにとって「人生が変わる」出会いになったことは間違いありません。


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世界を動かす 中村ゆき
 私の役目は各国政府代表部との面談の通訳でした。「核保有の目的は国を守ること。大変難しい問題で英国内でも賛否両論」と発言し唇を振るわせたイギリス政府代表。「核兵器が世界平和を保つ役割をしている」と言うフランス政府代表に対し、「世界中の全ての国が核兵器を保有していれば平和な世界を築くことが出来るのですか」と突っ込んだ田中事務局長。「核兵器の数を600から300に減らしたのなら、その半分、更に半分と減らし続けてほしい」と迫る生協の女性の発言に動揺するフランス政府代表。…国と一個人の思いの相違を感じる印象的な場面がありました。
 会議最終文書に米、英、カナダが同意しなかったこと、特にカナダには深い憤りを覚えますが、被爆者、被爆二世、そして一般の人々の勇気ある行動が世界を動かすと信じます。(カナダ在住)


三宅信雄の洋上通信 ピースボート乗船中

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〈前号からのつづき〉
 5月から6月にかけ、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、ベルギー、ポーランド、スエーデン、ロシア、フィンランド、ドイツ、ノルウェー、アイスランドに寄港。寄港地では市長やNGOの歓迎をうけ、学校などで被爆証言と交流を行ないました。
 ロシアのサンクトペテルブルクでは、1988年に長崎市が寄贈した「長崎の鐘」を設置している公園で、長崎からきた2人が鐘をついたのち献花しました(写真)。
 ドイツでは港からバスで3時間かけてハンブルクに行き、市のゲストハウスに招かれて空襲体験者と語り合いました。
 6月10日夜、船はアイスランドのレイキャビックを出港。グリーンランドの南を通ってカナダ東岸に達し、以来大西洋を一路南下しました。
 6月16日、船内のホールで、ギリシャ・アテネからアイスランド・レイキャビックまでの1カ月間にヨーロッパの13カ国で計16回行なった証言集会の様子について映像を交えての報告会を行ない、約200人の船客が聞いてくれました。20日と21日には、映画「はだしのゲン」を2日に分けて上映しました。
 6月22日、カリブ海に面するベネズエラ・ラグアイア港に寄港しました。(つづく)


相談のまど 原爆症認定申請 2キロ以内で被爆し心筋梗塞

 【問】私は広島の爆心地から2キロ以内の皆実町で被爆しました。白内障で健康管理手当を受給していますが、近く手術をすることになりました。また、現在心筋梗塞で治療を続けています。
 白内障の手術後に、心筋梗塞で健康管理手当を申請できますか。

 * * *
 【答】白内障の手術後すぐに手当を受給できなくなるわけではありません。健康管理手当の認定書に支給期間が記載されていると思います。その期間中は受給できます。次の更新の時に、心筋梗塞で申請してください。
 ところで、被爆地が爆心地から2キロ以内ということですから、心筋梗塞で「原爆症」の認定申請をして、厚生労働大臣が認定すると、医療特別手当が受給できます。原爆症認定申請と同時に、医療特別手当の申請をしてください。
 原爆症認定申請中は健康管理手当を受給しますが、原爆症と認定されると、医療特別手当に変わります。次のように考えてください。
 (1)健康管理手当の認定期限の1カ月前までに、心筋梗塞で健康管理手当の申請をします。(2)その前でもかまわないので、心筋梗塞で原爆症の認定申請をします。(3)この時一緒に医療特別手当の申請も行ないます。(4)申請に必要な書類(原爆症認定申請書、診断書、医師の意見書、医療特別手当申請書)は最寄りの保健所にあります。
 日本被団協の原爆被爆者中央相談所では、認定申請の診断書作成のための、主治医あての紹介状を用意しています。必要な場合、返信用封筒と82円切手を同封して申し込んでください。


被爆70年核兵器のない世界のため 被爆者と市民のつどい(2015年8月5日)

8月5日(水)13:30 広島文化交流会館

 日本被団協の「核兵器のない世界のため 被爆者と市民のつどい」(後援・広島市、長崎市)が8月5日に広島で開かれます。俳優の斉藤とも子さんの司会で、マリンバ演奏、平和のうたなど文化行事を交え、被爆者の証言、被団協運動の報告と提起、若者の決意表明、海外ゲストのメッセージなど。被爆70年に被爆者と幅広い市民のみなさんが一つになって核兵器廃絶への決意を新たにするつどいの成功のため、全国から多数のご参加をお願いします。
 「つどい」に協賛くださった方々を紹介します(順不同・敬称略)。
[団体]日本生活協同組合連合会 日本青年団協議会 全国地域婦人団体連絡協議会 原水爆禁止日本国民会議 原水爆禁止日本協議会 日本宗教者平和協議会 全国空襲被害者連絡協議会 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会 全国商工団体連合会 全日本民主医療機関連合会 日本反核法律家協会 日本母親大会連絡会 日本平和委員会 非核の政府を求める会 全国生協労働組合連合会 旬報法律事務所 東京南部法律事務所 城北法律事務所 代々木総合法律事務所
[個人]安斎育郎 浦田賢冶 小山内美江子 片平洌彦 上條恒彦 齋藤紀 杉山茂雅 鈴木瑞穂 高崎暢 田沼祥子 西崎文子 舟橋喜惠 増田善信 山田洋次 横山巌 吉永小百合 綿引勝彦