被団協新聞

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「被団協」新聞2015年 1月号(432号)

2015年1月号 主な内容
1面 わたしとヒロシマ・ナガサキ JAXA宇宙飛行士・野口聡一さん
2面 年頭所感
全国初『基本要求』朗読劇を熱演(神奈川)
多彩な“継承”を交流
非核水夫の海上通信125
3面 被爆70年にあたって
「核抑止」は人類破滅への道 禁止・廃絶へ直ちに交渉開始を
4面・5面 記憶の継承 自分のことと考え、行動・発信を
7面 相談のまど ケアマネジャーの選び方について

わたしとヒロシマ・ナガサキ JAXA宇宙飛行士・野口聡一さん
美しい地球を次の世代に引き継ぐために

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野口聡一宇宙飛行士(写真=JAXA/GCTC)
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野口宇宙飛行士が、2009年12月末から国際宇宙ステーション(ISS)に滞在した時に広角レンズで撮った写真。中央に雪化粧した北海道が見える(写真=JAXA/NASA)
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 宇宙飛行士野口聡一さんを茨城県つくば市の宇宙航空研究開発機構(JAXA)筑波宇宙センターに訪ねました。世界で50万人の読者をもつ野口さんのツイッターに広島、長崎が登場します。思いを聞きました。

ツイッターに広島・長崎

 昨年の8月6日、9日に合わせて、私が宇宙滞在中に撮影した写真の中から、広島と長崎上空の写真をツイッターに投稿しました。何年か前にも、宇宙滞在中にも出した覚えがあります。
 「広島」は特に世界のどこに行ってもすぐわかってもらえる地名です。その地名、言葉が8月6日に、少しでも広まる機会になればと思いました。「長崎」も同様です。原爆投下から69年、痛ましい戦災があったことを少しでも風化させたくない思いからでした。
 広島の写真には「Our eyes on Hiroshima today」という英文を添えました。我々の関心・注目が広島に向いています、気持ちを寄せていますという意味です。さらに、宇宙から実際に見ている目が広島の上空にあったときの映像です、という意味もかけました。
 広島・長崎の写真を出すと、多くの人から原爆の記憶を風化させないようにしましょうというコメントが返ってきます。二つの写真を出した意図は、見た人に瞬時に理解されたのだと思います。

宇宙から見た地球

 地球は圧倒的に多くの水を含む星であって、ほとんどが海です。なんとなく我々は、地上のあらゆるところに人間がいるかのような気持ちになってしまいますが、地球規模で見ると、人間が実際に住んでいる場所、住める場所は少なく、非常に狭い場所にいることになります。一方で人間は、地球全部の環境を脅かす力を持っているのも確かです。だからグローバルな意識、地球全体の命を守るという観点をもっと持たないと、と思います。温暖化も然り、森林破壊も然り。都会にいて人間が全てを支配しているような感覚から、環境も自然も際限なくあると思っていると、それは間違いだと思います。
 日本は世界唯一の被爆国、実際に原爆の被害を2回受けた国ですし、我々日本人が核兵器廃絶に関して声をあげていかないと。世界の中で実際に、原発事故も含めて放射能の被害というものを身近に感じられる国は、なかなか他にないと思います。日本としても核兵器の廃絶に向けて、まだまだ力を入れて、声をあげないといけないのではないかと思います。

それでも地球は、まだ青かった

 半世紀前に旧ソ連の宇宙飛行士・ガガーリンが最初に宇宙に行って、「地球は青かった」と言ったのは、その当時の皆さんはよく覚えていらっしゃると思います。私が生まれる前の話です。私自身は「それでも地球はまだ青かった。今でも地球は美しい」と思います。本当に率直に、我々の地球というのは美しい星で、だからこそ、この美しさを次の世代に伝えていけるように。今でもまだ地球は美しい、だからこそ、この青い地球を核兵器で真っ赤に変えることがないように。
 そしてよく言われるように、宇宙から地球を見ると国境はない。地上では国境をひいて税関を作って、人の流れを止められるようだけれども、そもそも水も空気も全部つながっていて、同じ釜の飯を食べているわけです。同じ井戸の水を飲み、君が吐いた空気を僕が吸っているという関係にあることを理解しないと。例えば昔、悲惨な戦災がどこかの国であったらしいけれど、今、この国は平和だから関係ないと思っていると、全てはつながって、いつ自分のところにかえってくるかわからない。地球規模で見ると、我々は全員が隣人であり、同じ釜の飯を食べている。そういう規模で考えてほしいなと思います。

広島・長崎の役割

 広島は観光旅行で、長崎は宇宙飛行士になってから、長崎大学の講座でお招きいただいたときに記念公園に行きました。
 百聞は一見に如かず、ですね。広島に行ったのは被爆から半世紀くらいたった頃だと思いますが、この場所で実際に原爆が爆発したという、そこでないと感じられない衝撃、原爆ドームの持つ訴求力に圧倒されました。これ一つで言葉が要らないくらい、原爆の記録というか悲惨さを伝えられる建物という意味で、原爆ドームのインパクトはすごいなと思います。
 そして子どもたち、修学旅行生、若い方が非常に多く来ていて、日本でこういう痛ましい戦災があったということが、次の世代に伝えられていると感じました。
 日本から見ると、第二次世界大戦が最後の戦争でもあって、戦争を二度と起こさないようにという象徴として広島・長崎があると思います。でもアメリカ、ロシアはその後、何度も戦争をしてきて、戦争をしないための努力も、有る意味彼らの方が日常的に、いろいろな形で続けている。だから、象徴的な意味で何かを使うということは、あまりないと思うのです。
 日本人は「広島・長崎のような悲惨なことは、もうないようにしようよ」と言えば、皆わかる。ただ他の国の方は、なかなかそうではない。だからこそ言い続けないといけないのだと思います。実際に原爆が使われた国というのは日本だけで、広島にはいまだに原爆ドームが遺跡として残っていて、それが世界遺産にもなっているということを言っていかないと、忘れられてしまうのではないかという気がします。

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ISSの窓から地球を撮影する野口宇宙飛行士(写真=JAXA/NASA)

宇宙航空研究開発機構(JAXA)の仕事

 JAXAが国際宇宙ステーション(ISS)でしている様々な科学、医学、物理等の実験は、宇宙環境を使って、地上にいる我々の生活が少しでも良くなるように、あるいは地上の健康管理に役に立つようなテーマを選んでいます。例えば、宇宙空間に行くと骨粗しょう症に近い症状が出ます。宇宙飛行士のための処方・薬が、地上の高齢者の方に役立つということもあると思います。また宇宙空間という重力がほとんどない状態で、新しい薬を作るための様々な実験をしています。
 そしてもう一つ、国際貢献、国際協力分野に、我々宇宙飛行士が出て行く場面が、これから増えるのではないかと思います。例えば若田光一飛行士は、アジアで初めてISSの船長になり、国際的に認知度が上がりました。日本は、平和の象徴であるISSでの活動に参加し、その成果をアジアの国々に還元しようと頑張っていることを、これからどんどん発信していくことも顔が見える国際貢献だと思います。

宇宙探検家協会

 私も宇宙から帰って来てから、特にアジアの国同士の連携ということに力を注いでいます。
 世界中の宇宙飛行士が集まる「宇宙探検家協会」という団体があって、昨年から私が会長になり、世界の宇宙飛行士を束ねる立場になっています。毛利さんや若田さんなどこれまでの日本人宇宙飛行士の活躍もあり、日本人にそろそろ任せてもいいのではないかと、アジアやロシアとか、ヨーロッパの国々が賛同してくれました。今回こういう立場を仰せつかりましたので、私個人としては、原爆の話、被害に関して、もう少し声をあげていこうと発信していくことはできるのではないか。人類の平和と幸福を願いつつ、顔が見える国際貢献の一環として、そういうことはできるのではないかと思います。
 国際的な仕事の場で、日本は最前線にあまり出てこない、一番大変なところで姿が見えないという批判はありますが、日本人は貢献していないわけではなく、シャイなので目立つところに行きたがらないというのはあると思うのです。私個人としては目立つポジションで仕事をしているので、公の場で核兵器廃絶を訴えることもできると思います。私の発言をきっかけとして、そこから繋がってもらえればいいですね。今年は被爆70年にあたりますので、新たな発信するにはちょうど良い時期にあるのではないかと思います。

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 のぐちそういち=1965年神奈川県横浜市生まれ。東京大学大学院修了。05年にスペースシャトルで宇宙初飛行、日本人として初めて国際宇宙ステーション(ISS)で船外活動。09年ソユーズに搭乗して2度目の宇宙飛行、ISSに約5カ月半滞在。14年9月から宇宙探検家協会会長。
 著書に『オンリーワン-ずっと宇宙に行きたかった』(新潮文庫)、『野口さん、宇宙ってどんなにおいですか?』(共著大江麻理子、朝日新聞出版)など。

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 ツイッター=パソコンや携帯電話を使いインターネット上で不特定多数の人に向けて、制限字数内で文を発信し、他の人の文を読めるサービス。写真など画像も投稿でき、転送・引用機能を使えば投稿を拡散できる。野口さん(@Astro_Soichi)は、ISS滞在時に美しい地球写真を発信し、世界中で話題になり、フォロワー(読者)は世界に約50万人。
 宇宙航空研究開発機構(JAXA)=宇宙航空分野の基礎研究から開発・利用に至るまでを一貫して行なう独立行政法人。野口さんをはじめ8人の宇宙飛行士がいる。


年頭所感
核廃絶へ大きな国際世論を

日本被団協代表委員 岩佐幹三

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 新年おめでとうございます。
 被爆後、70年経ちました。しかし、私たち被爆者の核兵器廃絶という願い達成には、今もなお多くの障害がみられます。昨年末ウィーンで開かれた、核兵器の非人道性を協議する会議には、被爆国日本も参加し、核兵器保有超大国のアメリカ、イギリスの政府代表が初めて参加しました。しかしそれら代表たちの発言は、会議の進展に横槍をはさむものにとどまったようです。
 私は、前からこうした国際的情勢の変化には、大きな関心を持っていました。特に核兵器の廃絶に向けた新たな情勢を作り出そうとする動きは、それに賛同する国々を代表する人びと中心の会議にとどめてはなりません。世界中の平和を愛する人びとによってそうした動きを支える大きな国際世論を広げて、その高まる力で反対する国々を取り巻いて政策転換を迫ることが必要です。
 そのために、2020年を目標に、かつてのストックホルム・アピールへの署名運動を上回るような、新たな国際署名運動が展開されることを夢見ている私です。


全国初『基本要求』朗読劇を熱演(神奈川)

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 神奈川県原爆被災者の会は11月30日〜12月1日、平成26年度医療講演会を開催しました。その中で、朗読劇『今、ふたたび被爆者をつくらないために-原爆被害者の基本要求』を上演しました。
 これは日本被団協が10月19日に開催した『原爆被害者の基本要求』策定30年記念のつどいで朗読構成劇として演じられ、台本が配布されて各地での上演が呼びかけられていたものです。
 全員で朗読する箇所を設けて、25分に短縮。広島出身の男性に方言部分の朗読をお願いし、総勢8人で朗読しました。全国で初の試みは出演者の熱演もあって非常に好評でした。


多彩な“継承”を交流

ヒロシマ・ナガサキを語り受け継ぐつどい

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発言する高校生たち
 被爆70年、核のない未来に向けて私たちにできること-をテーマに、ヒロシマ・ナガサキを語り・受け継ぐつどいが12月13日、東京・四ツ谷の主婦会館プラザエフで開かれました。語り・受け継ぐネットワーク主催。首都圏をはじめ、宮城、新潟、愛知、奈良、岡山など全国から集まった100人の参加者で、会場はいっぱいになりました。
 最初に日本被団協藤森俊希事務局次長が登場。ウィーン会議に参加し前日に帰国したばかりの藤森さんは、高校生の新妻さくらさんのインタビューに応えて、ウィーン会議の様子を伝えながら2015年NPT再検討会議の意義を語りました。

被爆証言とリレートーク
 東京の片山昇さんと埼玉の坂下紀子さんの被爆証言をはさみ、各地で被爆者とともに活動を行なっているグループや個人によるリレートークがありました。
 東京高校生平和ゼミナールの高校生は、被爆者の話をきいたり、被爆地でフィールドワークを行なったりした経験を仲間と共有することで深めてきた、と語りました。今年初めて聞き取り活動に参加したという女性は、私たちがつなげていくから被爆者は記憶を伝えてほしい、と発言。被爆者の姿勢や熱意を原動力に、長く活動を続けてきたとの発言もありました。大学講師と高校教諭は、授業でのとりくみについて発言。埼玉と岐阜からは、多くの団体が協力して被爆者とともに行事を行なっていることなどが報告されました。
 閉会挨拶で鈴木美穂さん(大学生)は「いろんな継承の形がある、できるところからやっていこう」と呼びかけました。


被爆70年にあたって

日本被団協事務局長 田中煕巳
 高齢化した被爆者にとって被爆70年はこれまでの10年の節目とは違った重みを感じます。
 日本被団協は結成以来、一貫して、「原爆被害者の基本要求」で明らかにしているように、ふたたび被爆者をつくらせないために、核兵器のすみやかな廃絶とすべての原爆被害に対する国の償いを求めてきました。
 これらの要求は、非人道的な核兵器がもたらした非人道的な被害の体験に基づく切実な要求ですが、被爆者の要求だけにとどまらず。国民的あるいは人類的な大きな課題でもあります。
 2011年の第56回定期総会で被爆70年に原爆被害に対する国の償いの実現をめざす方針を決定し取り組んできました。今の政権下で、戦争被害に対する受忍政策の壁を破るのは容易ではありません。10月中旬には日本被団協が音頭を取り、すべての市民の戦争被害者が大結集して戦争被害受忍政策の廃棄を求める集会を呼び掛ける企画を検討しています。ぜひ成功させたいものです。
 核兵器の非人道性についての検討を深めたウィーン会議に参加した多くの国の代表が2015年を「ヒロシマ・ナガサキから70年の年」として特別に位置付けています。核兵器のすべての被害者の苦しみを受け止め2015年核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議で、核兵器禁止条約の交渉開始を含む、核兵器の禁止、廃絶に向けての法的枠組みづくりを前進させようと決意を固め合いました。
 NPT再検討会議への日本被団協代表派遣と国連ロビーでの原爆展を通して核兵器の非人道性を明らかにし、会議の成功に貢献しましょう。日本被団協のニューヨーク行動への全国の被爆者の支援をお願いします。


「核抑止」は人類破滅への道 禁止・廃絶へ直ちに交渉開始を

ウィーン会議で田中事務局長が訴え

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 12月8日〜9日、オーストリア政府主催の第3回核兵器の人道的影響に関する国際会議がウィーンのホーフブルク宮殿で開かれ、最多の158カ国が参加しました。核5大国のうち米、英国が初めて参加し議論に加わりました。
 会議は「核兵器爆発の影響」「核兵器使用のリスク」など4つのセッションでの議論を経て一般討論で100カ国を超す代表がそれぞれの見解を述べ、オーストリア政府の責任で議長総括とオーストリア宣言が発表されました。

サーローさん、田中さんが証言
 被爆者の証言が重視され、開会セレモニーで、広島被爆者でカナダ在住のサーロー節子さんが被爆体験をのべ救援が必要な時期に手が差し伸べられなかったことなど、核兵器使用の非人道性を明らかにしました。
 日本政府代表の一員として参加した田中煕巳日本被団協事務局長は、2日目の一般討論の冒頭で発言し、核兵器の破滅的被害について、13歳・長崎での体験を証言。3回の国際会議で核兵器の非人道的影響の検証がいっそう深められいかなる条件の下でも使用してはならないことが明らかになったと強調。核兵器の存在を容認する「核抑止」は人類の破滅につながると批判し、核兵器の全面禁止と廃絶を達成する交渉へ大きな一歩を踏み出すよう呼びかけました。

核実験被害者の告発
 マーシャル諸島、米国ユタ州などの核実験被害者が放射性降下物の被害を明らかにしました。
 議長総括は、「圧倒的多数のNPT締約国は、2015年NPT再検討会議が、核兵器の人道的影響に関する会議の結果を含めすべての発展を検討し、核兵器のない世界の達成と維持のための次のステップを決定するものとなることを期待する」と表明しました。

市民フォーラムで証言
 国際会議に先立ち6日と7日、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)主催の市民フォーラムが開かれ日本被団協、日本原水協、反核法律家協会や各国の非政府組織(NGO)から600人が参加しました。各分野の専門家や被爆者、核実験被害者が証言、核兵器の非人道性について議論しました。原水協、被団協共催で「原爆と人間」展が開かれ、核兵器禁止署名を訴えました。国際会議中はウィーン大学で原爆展を開き学生や教師が署名、両会場で140筆寄せられました。

 * * *

被爆国大使の暴論
 国際会議初日のセッションで日本の佐野利男軍縮大使は、核兵器爆発が起これば被害者を救援することは困難とのこの間の国際会議が到達した見解に対し、「悲観的過ぎる」とのべ積極的に対応すべきと主張しました。出席者からは「国際会議の積み重ねに水を差すものだ」との声が聞かれました。核兵器爆発の被害者救援が困難を極めることは、広島、長崎の無数の事実が示しています。
 議長のオーストリアのクメント軍縮大使は、「どんな爆発であれ都市の場合は深刻な状況をもたらす。これを防げるのは核兵器廃絶によってのみである」と断じました。


記憶の継承 自分のことと考え、行動・発信を

 今、日本被団協のまわりで、若い世代による“継承”の活動が活発です。「ヒロシマ・ナガサキを語り受け継ぐネットワーク」に参加し聞き取りなどを行なっている若者たち、「被団協文書」の整理に取り組む大学生、そして被爆者に話を聞きました。

思いを共有すること

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鈴木美穂さん(22歳)


 12月初めに卒業論文を仕上げました。タイトルは「被爆者のライフストーリーから記憶の継承を考える」です。
 大学1年の春休み、祖母と一緒に広島に行きました。祖母は17歳の時に広島で被爆しています。
 その後、原爆のことを調べるうち、「そういえば私は三世だ」と、急に責任を感じました。祖母と祖母の妹に何回かインタビューし、ほかにもインターネットで調べてはあちこちに被爆証言を聞きに行きました。
 2年の夏に広島へ、3年の夏に長崎へ一人で出かけ、7カ月間の米国留学中は在米被爆者に会って話を聞き、ロスアラモスも訪ねました。帰国後、記憶遺産を継承する会の活動に参加するようになったのです。
 被爆者の方とふれ合う中で、被爆者じゃなくても継承していける、と思うようになりました。被爆者の思いをおきざりにせずに、寄り添い、共感できれば…思いを共有するとその人との間に関係性ができ、他人事とは思えなくなります。自分のことのように考え、行動していくことが継承だとすれば、それは難しいことではありません。
 被爆時の記憶のない若い被爆者が、試行錯誤しながら語り伝えようとする姿に接すると、私たちにもできるのでは、と希望がわきます。
 最近、企画から関わって被爆者の話を聞く会を開きました。友達も興味を持ってくれて、私が影響を与えていることがわかりました。受動的でなく発信することが大事だな、と思います。

今、起こるかもしれない

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宮地大祐さん(32歳)


 小学校3年のとき、広島で被爆した祖母から一度だけ話を聞いたことがあります。その時感じた恐怖をずっと覚えていましたが、その後20年余り原爆のことには向き合ってきませんでした。
 昨年、広島の記念式典に参加し、このまま目をそらし続けていいのか、という思いがわき、私にできることがあるのではないかと、語り受け継ぐネットワークに参加しました。
 被爆者の方の話を聞きネットワークの人たちと接する中で、たくさんのことを学びました。
 友達と戦争や原爆のことを話すとき、遠い過去のこと、ととらえられてしまうことがあります。映画や慰霊碑などのイメージで、今の世界とかけ離れていることだと。
 被爆者の話を聞いて、戦前あるいは原爆投下以前には「日常」があったということが実感できました。ある時突然、その日常が断ち切られるということ…これは、今もまた起こるかもしれない。こんなことをこれから起こさせないためにも、ヒロシマ・ナガサキを人々に忘れさせないことが大事だ、と思うようになりました。
 これからも小さなことからコツコツと、できることをやっていきたいと思っています。

考えるきっかけに 資料整理に参加する昭和女子大学生

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積みあげられた資料整理用の箱の間で作業する学生たち

 人間文化学部歴史文化学科の2年生です。松田先生からお話をきき、史料の実物に触れてみたいと、資料整理に参加しています。
 ここには授業では学べないことがいっぱいあります。被爆者の生の声もあり、整理しながらつい記述に目が行って、涙が流れたこともあります。
 自分の住んでいる地域に関係することも目について、もっと知りたくなったり、核反対の運動を外から見ていたけれど、その意味を考えたり…いろんなことを考えるきっかけになっています。集団的自衛権のことも、いいことのように宣伝されたりしていますが、私たちの未来のことを大人が勝手に決めちゃっていやだな、と思えたり。
 『はだしのゲン』を子どもたちに見せないように、という動きがあったことも、現実から目をそらせていいのかな、と思いました。今の高校の歴史教育では、現代史をちゃんと教えない学校もあるし、テレビニュースを見ない、新聞をとっていない家もあります。このままだと世の中どうなっちゃうのか、などと考えるようになりました。

話す勇気、聞く勇気

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坂下紀子さん(2歳時被爆)


 私が被爆したのは2歳のときでした。当時の記憶はありません。私が語るのは被爆者だった母の記憶です。
 ピースボートに乗って地球一周し、一緒に乗っていた若者や寄港した各地の人々に、母のことを語りました。その中で、私の語りを若い人が歌にしてくれました。記憶のない私でも伝えることはできると思いました。世界中の人がわかってくれた実感があります。
 語り、伝える活動の中で、平和のために生きるのが被爆者の使命と気づきました。そして今、亡くなった被爆者の尊厳を取り戻したい、と思っています。それは、核兵器が廃絶されたとき、初めて取り戻せるのです。
 話すのにも勇気、聞くのにも勇気がいります。若い人が、「被爆者じゃなくても心を寄せていけば、自分たちも継承者になれる」と言ってくれるのを聞いて、心をこめてありのまま話せば伝わるのだと確信し、一層の勇気を得ました。

「被団協文書」の史料的価値 昭和女子大学専任講師・松田忍

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学生とともに被団協文書の整理にとりくむ松田忍先生(左)

 あらゆる史料が現在に存在している理由。それは、かつて誰かが文字を記すことで、なんらかの思いを伝えたいと思ったからに他なりません。その思いは一度史料が失われると、永遠に失われてしまいます。
 我々が生きているこの時代を、これから生きることになる誰かが知りたいと思う可能性がある限り、史料は生き続けます。その誰かのために史料を保存することは、未来に対する我々の責任であると思っております。
 被団協文書を整理することの意味を、私は次のように考えています。
 1点目は、機関誌や内部通信文書の保存です。整理の過程で、『被団協通信』といった基本的な史料ですら、現時点ですでに欠けている号があることがわかりました。しかし今なら、欠号状況が分かれば、各関係機関に問い合わせることで補うことも可能です。被爆者の高齢化が進んでいる状況からみて、今がまさしく「ラストチャンス」だと思っております。また史料整理をやってみて分かったのは、各県や各地で原爆運動をやっている大小さまざまな団体が数多く存在することです。被爆者運動は広島、長崎、あるいは東京だけの運動ではないことが実感できます。被団協には断片的にしか残されていない各団体の史料も、被団協文書の史料目録が出れば、史料が存在しているという事実を共通認識として持つことができます。そうすれば、欠号を補おうとか、場合によってはデジタル化して保存しようといった動きも出て来るのではないかと思います。
 2点目は、この文書群は、戦後の言論空間において「運動の言葉」がどのように練り上げられたかを豊かに指し示してくれる可能性があるということです。たとえば自ら被爆者として国連で演説し、昨年亡くなった山口仙二氏の演説原稿は第1稿から第4稿(完成稿)まで存在していますし、「基本要求」を作っていく過程での20数回の書き直しも残されています。当時発表された史料、されていない史料双方を解読することで、「運動の言葉」の変遷を非常に高い密度で追うことが可能となるでしょう。それはまさしく歴史学の仕事です。
 3点目は、被爆者に対する各種アンケート調査の結果を調査原票にまでさかのぼって見ることができるということです。被団協によせられた被爆者やその家族の生の声は、まさしくここにしか存在しない「一点物」の史料です。今、整理・保存しなければ、その声は永遠に失われると考えると、責任の大きさに身が引き締まる思いがします。
 現在、戦後史料は次々と整理されています。運動の側だけではない他の史料群ともあわせながら被団協文書を読むことで、どのような戦後の歴史像が描きだされるのか。現在進行系で進んでいる、戦後を歴史的に捉えようとする試みにとって、この史料群の存在は大きな価値があると思います。

相談のまど ケアマネジャーの選び方について

 【問】今、介護保険の申請をしています。介護保険サービスを利用する上で、ケアマネジャーの役割が大事だと言われますが、ケアマネジャーの選び方のポイントを教えてください。(被爆者の家族より)

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 【答】ケアマネジャーの正式な名称は「介護支援専門員」で、保健、医療、福祉に関する仕事に一定の従事期間のある人が、国家試験に合格し、実務研修を受けてなることができます。
 居宅介護支援事業者(介護支援サービス提供者)には必ずいて、介護内容を決めます。介護保険の利用にあたっては重要な役割を果たします。
 ケアマネジャーは利用者が自分で選んで契約を結びます。ケアマネジャーにはこちらの希望を具体的に伝え、サービスを受けている間にも遠慮なく、希望や不満を伝えることが大切です。
 次の点に注意して選ぶようにしましょう。
(1)一人ひとりの生き方や暮らし方を尊重して、親身に相談にのってくれる人
(2)専門的知識や技能が優れている人
(3)担当する利用者に公平に接することができる人
(4)公平な立場からサービス事業者を選ぶ人
(5)利用者個人の秘密を口外しない人