被団協新聞

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「被団協」新聞2013年 6月号(413号)

2013年6月号 主な内容
1面 核兵器廃絶への明確な道程を
共同声明拒否に抗議
原点に戻ることの大事さ 外国代表から被爆者の訴えに謝意
「届けよう!被爆者の声を世界へ」
2面 被爆者の叫び受けとめて
最高裁が不当判決 東京大空襲訴訟上告不受理
非核水夫の海上通信106
3面 手記 ―― 被爆70年へ 生きぬいて(3)
「原爆と原発」 サウジアラビアで語る
被爆者の遺産、後世に
4面 相談のまど 健康手当から健康管理手当の切り替えは

核兵器廃絶への明確な道程を

2015年NPT再検討会議第2回準備委 藤森事務局長次長が訴え

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左から、松井広島市長、田上長崎市長、藤森事務局次長

 2015年NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議第2回準備委員会が4月22日〜5月3日、スイス・ジュネーブの国連欧州本部で開かれました。日本被団協から藤森俊希事務局次長が日本原水協代表団17人とともに22日からの5日間参加し、24日のNGO(非政府組織)代表の意見を聞く会で被爆体験をもとに2015年NPT再検討会議で核兵器廃絶への明確な道程をつくるよう訴えました(大要2面)。
 NGOから意見を聞く会ではパネルディスカッションの後、松井一実広島市長、田上富久長崎市長、藤森次長ら5人が発言しました。最後に、議長が各国代表に質問を呼びかけ、アイルランド代表が自席から手を挙げ、質問ではないがと前置きして、「日本の発言、とくに被爆者の発言に感銘を受けた、感謝する」とのべました。
 同日午後、同じ会場で南アフリカ代表が「核兵器の人道的影響に関する共同声明」に署名した74カ国(発表後80カ国に)を読み上げ、声明を発表しました。日本政府は、声明に署名しませんでした(5月号既報)。
 日本原水協代表などNGO代表は同日夕、国連欧州本部から日本政府軍縮代表部まで、旗やプラカードなどを掲げて徒歩で向かいました。川崎哲ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)共同代表と広島県原水協の佐久間邦彦さん(被爆者)が軍縮代表部に入館し、担当者に声明に署名しなかったことへの抗議の意思を伝えました。

 国連欧州本部とジュネーブ大で原爆展
 準備委に合わせて国連欧州本部とジュネーブ大学で日本原水協、日本被団協、国際平和ビューロー共催の原爆展が開かれ、日本被団協作成の新パネルの一部も展示されました。国連本部では準備委会場の後部ロビーで、ジュネーブ大では建物入口ロビーで展示されました。両会場で核兵器全面禁止の署名が呼び掛けられ5日間で518人が署名しました。
 藤森次長は、23日ジュネーブ高等研究所で開かれた「核軍縮・不拡散教育の前進」会議と25日ジュネーブ大での被爆証言の会で、佐久間さんとともに被爆体験をまじえて訴えました。

議長などに要請
 アンゲラ・ケイン国連軍縮担当上級代表とコネル・フェルタ第2回準備委議長(ルーマニア大使)との面談では、フェルタ議長に日本原水協から核兵器全面禁止を求める276万人余の署名が手渡され、ケイン上級代表には、日本被団協から潘基文国連事務総長あてメッセージを託しました。藤森次長と日本原水協代表は手分けして各国政府代表に要請。要請国は全体で、アメリカ、イギリス、フランス、パキスタンの核保有国を含む17カ国にのぼりました。

共同声明拒否に抗議

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核兵器不使用をうたった共同声明に署名することを拒否した日本政府の軍縮代表部前で、抗議するNGOの人たち


原点に戻ることの大事さ 外国代表から被爆者の訴えに謝意

 NPT再検討会議第2回準備委員会のNGOの意見を聞く会で貴重な体験をしました。
 会議の最後に、被爆者の発言に謝意をのべたアイルランド代表と、偶然ですが同日夕、国連本部内で原水協代表とともに会談することになりました。ジェラード・キーオンアイルランド軍縮不拡散局長は、被爆者の発言に謝意をのべた理由を次のように説明しました。
 こういう会議は、核兵器廃絶への段取りとかの細かい話になりがちだ。核兵器の残虐さ、非人道性を理解しなければ、有効な議論にならない、原点に戻ることの大事さを思い起こさせてもらった、ありがたかった。
 わたしは思わず手を差しのべキーオン局長の手を握りしめました。
 翌25日会談したスウェーデン代表も同様の感想をのべました。
 被爆者が、被爆体験を語り続けることの大事さをあらためて教えられた気がしました。
 日本政府は、ことあるごとに自らを「唯一の戦争被爆国」と称します。唯一の戦争被爆国が、唯一の原爆使用国の核兵器使用に道を開くため、共同声明への署名を拒否する。被爆者として断腸の思いがいたします。
 世界の人々と手をつなぎ、被爆体験をしっかりと継承して、国内外で被爆者が果たすべき役割に知恵と力をつくさなければとの思いを一層強くしました。

「届けよう!被爆者の声を世界へ」

注文あいつぐ 国の償い実現運動カラーリーフ

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 原爆被害への国の償い実現運動を広げるため、被爆者の願いをわかりやすくまとめたリーフレットができました。カラーA4判(4つ折)です。
 表紙に「届けよう! 被爆者の声を世界へ」と大きなタイトルがあり、「二度と、被爆者をつくらせないために、現行法の改正へ協力を」の言葉が並びます。1回開くと「高齢になった被爆者たちが、伝えたい『平和への願い』。語り継ぐのはあなたです」との呼びかけが。さらに開くと横長の紙面に「現行法改正要求」の骨子と、その解説のためのQ&Aが現れます。カラーで見やすくわかりやすいと好評で、各地の被爆者の会や団体から、すでに3800枚余の注文がありました。
 署名用紙やパンフとともに普及し、運動を広げましょう。問い合わせは各都道府県被爆者の会または日本被団協まで。


被爆者の叫び受けとめて

NPT再検討会議準備委員会NGOセッション 藤森事務局次長の訴え(大要)

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 1945年8月6日、1歳4カ月の時、アメリカが広島に投下した原子爆弾に被爆しました。爆心地から2・3キロの川の土手の上でした。体調を崩し、母が背負って病院に行く途中でした。原爆の爆発直後、わたしたち親子は、襲ってきた爆風で土手下まで吹き飛ばされました。偶然にも爆心と親子の間に2階建て民家があり、熱線を直接浴びることは避けられました。被爆後、わたしの頭部は化膿し、目と鼻と口だけ出して包帯でぐるぐる巻きにされ、間もなく死ぬとみられていました。死線を乗り越え、いまこの場にいることに深い感懐を覚えます。
 わが家は祖父、父母、9人兄弟姉妹の12人家族でした。疎開していて難を逃れた4人の子どもを除き、市内にいた8人全員が被爆しました。女学校1年生だった4番目の姉は、爆心地近くに学徒動員され建物疎開にあたっていました。父、母、姉たちが4番目の姉を探しに爆心地に何日も通いましたが、遺体は見つかっていません。その日、各地から広島市内に動員されていて犠牲になった学徒は6千人を超えます。未来への希望を断ち切られ、遺体さえみつからず、人として死ぬことを許されなかった姉たち多くの学徒の無念さは、核兵器の非人道性を鋭く告発しています。年末までに広島、長崎あわせて21万人が殺されました。
 原爆が人間に何をもたらしたか、いくら語っても語りつくせません。
 原爆は、老若男女、戦闘員、非戦闘員を問わず無差別に殺戮しただけではなく、被爆者が病魔と緩慢なる殺人から逃れることを許さない悪魔の兵器です。女学校4年だった3番目の姉は、のちに結婚して生まれた被爆二世である次男を幼くして急性白血病で亡くしました。自らも被爆者に発現しやすい肝臓病で56歳で命を落としました。被爆した8人のうち、生き残っているのは次姉と末弟のわたしだけです。祖父、父母、2人の姉のいずれも被爆が原因のがんなどで死にました。68年たつ今日もなお、多くの被爆者が後遺に苦しめられています。
 被爆者は、「2度と同じ苦しみを世界の誰にも味わわせてはならない」と「ふたたび被爆者をつくるな」「核兵器をなくせ」と訴え続けてきました。
 被爆者の悲惨な体験を聞いた外国の方から「報復は考えなかったか」と質問を受けることがあります。被爆者は決して「報復」を求めません。報復によって、地球上にふたたび生き地獄を再現することは被爆者にとって耐えがたいことであり、絶対に許してはならないことだからです。
 被爆者の心からの叫びを正面から受け止めて、2015年NPT再検討会議では、核兵器廃絶への明確な道程がつくられることを強く願い、被爆者の訴えとします。

〈注〉NPT検討会議準備委員会とは
 NPT(核兵器不拡散条約)発効から25年の1995年再検討・延長会議で、無期限延長、5年ごとの再検討会議開催を決めました。準備委員会は、再検討会議で確認した内容の実行状況を確認し議論を深め、次回再検討会議の議長と議題を決めるために開かれます。2015年再検討会議の準備委員会は、昨年第1回がウィーンで、今年の第2回がジュネーブ、来年の第3回はニューヨークで開かれます。

最高裁が不当判決 東京大空襲訴訟上告不受理

 東京大空襲(1945年3月)の被害者が国に対し損害賠償と謝罪を求めていた東京大空襲訴訟で、最高裁判所第1小法廷は5月8日、原告側の上告を退ける決定をしました。戦争被害受忍論を支持した1審、2審を認めるものです。
 同訴訟原告団と弁護団は、「基本的人権と平和主義を基調とする憲法に反する不当決定」との抗議声明を発表。日本被団協も22日、声明(要旨別項)を出しました。

日本被団協 声明(要旨) 東京大空襲被害者へ援護を

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最高裁判所前抗議行動(5月10日)

 1945年3月10日、アメリカ空軍の焼夷弾爆撃によって、東京の住民約10万人が焼き殺され、家屋数万戸が焼き尽くされた。日本政府は3月22日、重光葵外務大臣の名で「国際法と人道の原則に対するもっとも深刻かつ重大な違反」として米国政府に抗議した。
 2013年4月24日、安倍晋三内閣総理大臣は、福島瑞穂参議院議員の「東京大空襲に対する政府の認識に関する質問趣意書」に対して、東京大空襲は「国際法の根底にある基本思想の一たる人道主義に合致しないものであったと考える」との答弁書を返した。
 東京大空襲の焼夷弾攻撃は非人道そのものであり、その結果生じた人間被害は、今日まで癒やされることのない残酷なものである。
 空襲被害者は2007年3月、東京地裁に対し訴訟を提起し、軍人・軍属との差別のない救済施策と被害者への謝罪を求めた。しかし裁判所は、1審、2審、最高裁とも、空襲被害者を救済する法律がないことを理由に、被害者の要求を認めなかった。
 1970年から80年代にかけ「空襲被害者等援護法案」が14回国会に提出されたが、毎回廃案にされてきた。原爆被害者も、国家補償による「原爆被害者援護法」の制定を求めてきた。94年「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されたが、政府は「国家補償」とすることを拒み、最大の犠牲者である死没者への償いも残されたままになっている。
 国が起こした戦争による被害は、国によって償われなければならない。非人道であると認めている被害に「受忍」を強いるのでは、政府自体が非人道な政府というそしりを受けることになる。
 空襲被害者救済の立法を急ぎ、施策を実現するよう求める。

手記 ―― 被爆70年へ 生きぬいて(3)

原爆の非人道性に心からの怒り 瀬戸高行(せと・たかゆき)さん 87歳〈広島被爆 当時19歳 広島市在住〉

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核実験に抗議して平和公園で座り込みをする瀬戸さん

 19歳のとき、国鉄広島駅構内で客車の入れ替え作業中に、原爆の閃光で頭、顔面、両腕に大火傷を負い、太陽が昇るにつれ顔面や腕の皮膚が垂れ下がり、無惨な姿になりました。爆風で30メートルも吹き飛ばされ、被爆から60年たって頸椎と腰椎の変形と診断され、歩行に支障が出ました。さらに甲状腺の機能低下や心不全を発病しました。
 両腕にケロイドが残り、顔の皮膚はどす黒くなり、原爆は伝染や遺伝するという風評から健康や結婚への不安感は耐え難く、人と会うのも恥ずかしくて避けるようになりました。

* * *

 私は現在87歳で、生命の危険に脅かされています。29歳で助役試験に合格し予備助役でした。駅長になる夢がありましたが、あの残虐な原爆の非人道性に心からの怒りに燃え、駅長への夢を捨てて原爆の生き証人の一人として反核・被爆者運動に傾注していきました。
 一生懸命に活動して、1966年に国労に「被爆者対策協議会」を結成して大きな反響を呼び、全国に組織化と運動が拡大しました。国鉄労働者の手で原爆死没者の慰霊碑を広島と長崎に建立し、毎年原爆の日に死没者への弔慰と核廃絶の誓いを新たにしています。
 わたしを被爆者運動に駆り立てたのは、被爆時に作業をともにしていた同僚の爆風で機関車の前に落ち轢断されるというむごたらしい死でした。

* * *

 84年には被爆地広島市に「原爆被害者の会」を結成、私が会長となり県被団協に加盟し、県被団協副理事長として迎えられました。当時、県被団協理事長は故・森瀧市郎先生で私の尊敬する方でした。その補佐役、手足となって運動することは大いなる誇りでした。森瀧先生の核絶対否定の理念である「核と人類は共存できない」という言葉が、今日ほど重要なときはないと思っています。
 米国オバマ大統領は2009年プラハで「核兵器なき世界」と演説してノーベル平和賞を受賞し、私たちを喜ばせましたが、すぐに裏切り大きく失望させました。昨年の国連で「核兵器の非合法化」の声明への署名を拒否し、日本も同調しました。残念でなりません。
 日本でも、被爆国でありながら核武装論が台頭していることを憂います。核絶対否定こそ、核兵器廃絶の基本理念です。日本被団協と各県被団協の存在こそが、日本の核武装をくい止められると信じています。

* * *

 生きぬくために原爆の生き証人の一人として、全身全霊を打ち込もうと固く決心しています。
 東日本大震災から早くも2年経ちました。犠牲者や被災・避難者問題の解決は急務です。原発の安全神話は崩れ、核の平和利用はありえなくなりました。脱原発しかなく、再稼働や増設はもっての外です。
 私たちも日本被団協を中心に、政府や電力会社の国民の声を裏切るような行為を許さないため闘おうではありませんか。

「原爆と原発」 サウジアラビアで語る

埼玉 三宅 信雄
 4月24・25日、ピースボートとサウジアラビア政府の要請で、東京の杉野信子さんとともに同国を訪れ原爆の被爆体験を話しました。さらにその後、同国の選ばれた青年12人がピースボートに乗船し、船内でも交流して話し合いしました。海外でも日本は原爆の被爆国というだけでなく、最近の福島原発の事故にも関心が深く、私の話も当然これに触れざるを得ません。
 原爆も原発もその目的こそ異なるものの、核分裂によって生ずる膨大なエネルギーを使用する点では変わりなく、科学技術は万能ではなく、その放射能被害を技術によって100%制御することは出来ないことを話し、危険性を訴えました。
 同時に、核兵器は原発と異なり、人間を大量殺戮する目的で使用されるもので、きわめて非人道的兵器であることをその体験にもとづいて話し、現在万一使用された場合は、敵・味方の区別なく全人類の破滅をきたすこと、したがって核軍縮ではなく、核兵器廃絶が全世界にとって急務であることを訴えました。また広島・長崎の場合、その被害が当初アメリカの占領軍によって、その後日本政府によって隠蔽されたことが生き残った被爆者をたいへん苦しめたこと、この隠蔽はその後の核実験被害者も同じであることを話しました。
 エジプトから乗船した同国の女性活動家が、私たちに接触を求めてきて被爆体験を話しました。その中で、広島の爆心地がどこかを詳しく聞き、それが軍需工場でもなく、軍隊のいるところでもなく、市民の人家が密集している市中心部であることにたいへんな怒りをもって興奮したことは印象的でした。
 さらにギリシャのピレウスに入港したとき、同国の平和活動家が「ノーモア ヒロシマ! ノーモア フクシマ!」とギリシャ語で書かれた大きな横断幕を持って私たちを迎えてくれたのも驚きでした。その後彼らの案内で市役所を訪れ、市長、市議会議長などに被爆証言をして核兵器の非人道性を話しました。

被爆者の遺産、後世に

ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会が総会

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 NPO法人ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会は5月18日、法人設立後第1回目の通常総会を、東京・四ツ谷の主婦会館プラザエフで開きました。日本被団協の田中熙巳事務局長が、来賓として「被爆者の証言は人類の遺産であると、後世の人が思えるようなものを創り上げていきたい、共に頑張っていく」とあいさつしました。
 総会では、被爆者運動関連資料の収集やネットワークづくり、資料センター検討委員会での議論が進んでいること、原爆体験の継承の取り組みとして、被爆70年にむけた「聞き取り」をすすめること、などが報告されました。参加した会員からは「センターは平和博物館的なものに」「大きな構想を出し、もっと多くの人に広げよう」などの発言がありました。

相談のまど 健康手当から健康管理手当の切り替えは

 【問】私は現在、一般分の保健手当(16830円)を受給しています。増加分の保健手当(33570円)を申請する資格はありません。
 健康管理手当を申請することはできませんか。現在、腎臓の病気で治療を続けています。

* * *

 【答】保健手当は、爆心地から2キロ以内で被爆した人が申請できる手当です。病気が無くても一般分として16830円が支給されます。さらに身体障害者手帳3級程度の障害があるか、日常生活に制限を受ける程度のケロイドがあるか、身寄りがいない70歳以上の一人暮らし、のいずれかに該当すれば、手当額は健康管理手当と同額に増額されます。
 あなたには加算の条件がないということですが、健康管理手当は該当すると思います。
 腎臓の治療をしている医療機関で、健康管理手当用診断書を作成してもらい、健康管理手当申請書と一緒に、都道府県知事に提出してください。
 認定されると、申請した翌月分から、保健手当にかわって健康管理手当33570円が支給されることになります。