7政党11人の国会議員が参加
厚生労働省交渉も
日本被団協と原爆症認定集団訴訟全国原告団、同弁護団連絡会、同支援ネットは、4月18日衆議院第1議員会館多目的ホールで、原爆症認定制度の抜本的改正を求める院内集会と中央行動を行ないました。全国各地から被爆者、弁護士、支援者約160人が参加して会場を埋め尽くしました。
院内集会に先立つ前集会で田中煕巳日本被団協事務局長が原爆症認定制度改正の現状を、在り方検討会の審議状況から現在より後退することが危惧されると報告。日本被団協の『原爆症認定制度の在り方に関する提言』に沿った制度改正の実現、被爆の実態に沿った認定基準への改定のための要請を提起しました。
会場いっぱいの参加者
(4月18日衆議院第2議員会館)
第20回原爆症認定制度在り方検討会
第20回原爆症認定制度の在り方に関する検討会が4月16日東京の全国都市会館で開かれました。
2月の前回検討会で厚労省が提出した資料に、昨年12月放射線影響研究所が出した「残留放射線に関する見解」をもとに「低線量被曝、内部被曝による健康影響への関連は認められていない」としたことに、田中熙巳委員(日本被団協事務局長)が反論の文書を提出。会議の冒頭、原爆症認定集団訴訟で最大の争点となった残留放射線の健康への影響について、司法は影響あると判決した、厚労省資料は、残留放射線の影響を考慮しないとの結論に導こうとするものだと、厚労省資料の不当さを指摘しました。
会議に先立ち、大久保利晃放影研理事長が、被爆者からの公開質問状に対し「影響ないとは言っていない」と回答したことを報じた新聞のコピーを委員に配布しました。
司法判断と行政認定が大きく乖離している問題で田中委員が、かねてから提起していた、集団訴訟で厚労省が29連敗した理由を明らかにした資料を提出するよう重ねて求めました。
原爆症とする疾病の拡大、適否を決めるにあたって専門家に検討を委ねたらどうかとして、厚労省の認定審査に携わる医療分科会に依頼する案が一人の委員から提起されました。
田中委員は認定を却下してきた医療分科会に依頼するのは不適切だと即座に反対を表明。神野直彦座長は、医師である長瀧重信副座長と相談したいとして結論は出しませんでした。
大久保放影研理事長が回答
放射線影響研究所の大久保利晃理事長は4月11日、広島県被団協(金子一士理事長)と広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会の公開質問状(3月27日提出)に回答しました。昨年12月の「残留放射線に関する放影研の見解」が「残留放射線の影響はない」としているというのは誤読・誤解だと強調しました。
原爆症認定制度の在り方検討会で、放影研の見解は「影響なし」としているとの理解に基づく意見が出ていることについて、「そのような理解をしている委員があるとすれば是正を申し入れる」とのべ、残留放射線、内部被曝について「影響がないとは言っていない、報告書を精読してほしい」とのべました。
「原爆体験者等健康意識調査報告書」等に関する検討会(黒い雨問題検討会)が「影響なし」との結論を出したことについて「正しいとも間違っているとも言えない」とものべました。
原爆症認定制度抜本改正求め いっせい行動
4月15日から20日にかけ、原爆症認定制度の抜本的改正を求める全国いっせい行動が取り組まれました。
18日の院内集会と中央行動(1面に記事)には弁護士や支援者を含め、北海道、秋田、宮城、東京、埼玉、千葉、神奈川、静岡、愛知、岐阜、石川、京都、大阪、和歌山、兵庫、岡山、広島、鳥取、愛媛、香川、長崎、大分、熊本の各地から参加がありました。集会のあと、衆参あわせて70人の厚生労働委員を中心に国会議員への要請を行ないました。
このほか、各地で国の償い実現要請とあわせて地元選出議員への要請などを行ないました。
熊本では15日、公明党県本部に同代表の江田康幸議員を訪ね、議員は急用で不在でしたが、原爆症認定訴訟の解決と現行法の改正についての協力と賛同署名をお願いしました。
兵庫では15日、神戸市の元町商店街で街頭宣伝をしました。
長崎では15日、各政党の長崎事務所を訪問しました。
栃木と静岡、愛媛では、県内選出国会議員に要請書を送付しました。
山梨と福岡、大分では、国会議員の地元事務所を訪問しました。
北海道では20日、会員と賛助会員、「被団協」新聞読者にむけ、運動への協力を求める手紙と署名用紙などを郵送しました。
千葉と埼玉、東京、新潟は日程をずらして国会議員の地元事務所への要請をする予定です。
要請書要旨
政党・議員への要請書の要旨は次のとおり。
原爆症認定集団訴訟で被爆者勝訴、国敗訴の判決が相次いだ結果、2度にわたって原爆症認定基準が改定された。09年8月総理大臣・自民党総裁と日本被団協代表との間で「確認書」が交わされ、集団訴訟は終結した。
その後「原爆症認定制度の在り方に関する検討会」が設けられ、10年12月以来20回の検討会が開催された。認定制度をより充実する方向で改正することが目的だが、審議状況を見ると、現状からの後退も危惧される。
以下の項目について要請する。 (1)司法と行政の乖離をなくすために日本被団協の「原爆症認定制度の在り方に関する提言」に沿った制度の改正実現にご尽力を (2)原爆症認定基準を被爆の実態に沿ったものに根本的に改定するようご尽力を (3)厚生労働大臣との定期協議が実のあるものとなるようにお力添えを。
結成総会に29人が参加
上・伊方原発、下・集合したビラ配布協力者
愛媛 伊方原発をとめる会
伊方原発をとめる会は3月31日、伊方原発が建つ佐田岬半島一円へのビラ配布を行ないました。愛媛県原爆被害者の会の松浦秀人事務局長も参加しました。
ビラの内容は、地震の活動期に入っている日本で、沖合6キロに巨大活断層がある伊方原発の危険性を解説し、再稼働反対と廃炉を訴えるもの。松山をはじめ各地から協力者60人が参加し、各地域に散らばって3500枚を各戸配布しました。
宮城県山元町などで採択
宮城県の山元町では、宮城県原爆被害者の会の要請にこたえ、3月議会において「非核三原則の早期法制化を求める意見書」が、総務民生常任委員会より提出され、可決されました。
議会への提出の際、「原爆被爆国である日本は、その悲惨さを痛感しており、大震災での原発事故によりその恐怖を改めて確認した。今こそ、核兵器廃絶に向け日本が主導的役割を果たすべきであり、非核三原則の法制化が望まれることから提案するものです」との提案理由がつけられていました。原発事故を踏まえて、今やらなければいけないこととして訴えた被爆者の声を反映したものとなっています。
意見書採択
現行法改正を求める地方議会の意見書採択は、3月議会で愛知県の犬山市と熊本県の苓北町が採択しました。
6月議会にむけて、要請を積極的にしていきましょう。
国会議員賛同署名
現行法改正国会議員の賛同署名の追加分です。
衆議院議員=横路孝弘(民・北海道比例)、牧原秀樹(自・北関東比例)
日本被団協
4月22日から5月3日スイス・ジュネーブの国連欧州本部で開かれた2015年NPT再検討会議第2回準備委員会で24日、74カ国が賛同して「核兵器の人道的影響に関する共同声明」が発表されました。人類生存のためには核兵器の不使用が不可欠であり、それは核廃絶によってのみ実現できるとしています。
ところが日本政府は、「いかなる状況下でも核兵器を使用しないという表現は日本政府の方針と違っている」として賛同を拒否しました。
日本被団協は22日、内閣総理大臣と外務大臣にあてて、共同声明に賛同するよう要請していましたが、拒否という結果に対し25日、抗議声明を出しました。「昨年のウィーンとニューヨークにひきつづき、この呼びかけに賛同しなかったことは、いよいよ、被爆国日本政府の核軍縮に関する姿勢が国際的に厳しく問われることになる」とし、3月のオスロ会議においても核兵器使用の禁止、廃絶こそが核兵器に対応できる唯一の道であることが共通の認識となったことをふまえ、「日本政府の態度に強く抗議し、核兵器廃絶実現のイニシアティブを発揮することを求める」としています。
「怠けもん」となじられ、家族と別れて
西 龍典(西山すすむ)さん 85歳 <長崎被曝 当時17歳 福岡市在住>
福岡のさようなら原発集会で発言する西さん
安斎育郎(安斎科学・平和事務所所長)
原爆投下2カ月後に軍務で長崎の爆心地を訪れた元米兵ジュリアン・コーエンさんから、2012年、自分の病気の放射線起因性について日本被団協に照会がありました。私は田中煕巳事務局長から相談を受け、原発事故対応で忙しい中、半年余りかかってA4版英文14頁の被曝線量評価報告書を送りました。
コーエンさんは1927年のニューヨーク生まれ。10代から海軍の造船所で働き、18歳で海軍に志願、やがて水兵になりました。終戦後は大型揚陸艦に配属され、西太平洋各地に駐屯、その過程で長崎も訪れました。45年10月のことです。爆心地に立ったコーエンさんは、「地面が黒く熱かった」と記憶しています。
4カ月後、右目に異常を感じ、マーシャル諸島の海軍病院でメガネを処方して貰いました。海軍を離れたコーエンさんは職を得、結婚して3人の子をもうけましたが、60年代の初めから「喘息」と「黄斑変性」に悩まされました。黄斑変性は網膜の黄斑部が変性し、進行すると失明の原因になる病変です。
喘息は海軍を辞めた頃から起こりましたが、61年に治療薬を飲み始め、現在も飲んでいます。90年代初頭に復員軍人援護局に申し出た結果、昨年、補償金が支払われました。
一方、海軍を辞めた後、右目の視野が不鮮明になり、63年に黄斑変性と診断されました。その後も働き続けたものの、88年には右目の視力を失い、「連邦就業不能保険」を申請するとともに、黄斑変性についての補償を請求、復員軍人援護局に視力障害について訴えました。しかし、目の障害の放射線起因性は一貫して却下され続けました。そうした経過の中で「藁にもすがる思い」で被団協に照会したのでした。
線量評価の詳細には立ち入りませんが、かなりの不確定性があって因果関係の立証が容易でないことは近年の原爆症認定訴訟とも通じるものがあります。もちろん、原爆投下国の兵士と原爆被爆者との間には決定的な立場の違いはありますが、核兵器使用はそうした立場をこえて心身の不安をもたらす反人間性をもつということでしょう。
私は、原爆投下国の側にもこうした悩みを抱えている兵士がいることを紹介することも意味があると考え、お伝えすることにした次第です。
再来年の2015年は広島・長崎に原爆が投下されて70年になります。
被爆70年を前に被爆者のみなさんから「生きぬいて」をテーマにした手記を募集しています。
[原稿]手記=千字以内。筆者の顔写真、関連写真を可能な限り添えてください。紙面の都合上編集を加えることをご了承ください。短歌、俳句=3首(句)以内、絵手紙=1枚も募集します。なお、いただいた原稿は原則として返却しません。写真などの返却希望はその旨明記してください。
[書式]原稿の最初か裏面に次のことを記入してください。(1)筆者名(2)住所(3)電話番号(4)所属組織
[送付方法](1)原稿用紙に書いて送る (2)パソコン原稿をプリントして送るかEメールで送信。
[送付先]日本被団協=本紙1面題字横の住所、Eメールアドレスへ。
7月6日から7日の2日間
明治大学リバティーホールにて
今年で7回目になる「被爆者の声をうけつぐ映画祭」が、7月6日(土曜)と7日(日曜)の2日間、東京・千代田区の明治大学リバティホールで開催されます。
今回は、昨年亡くなった漫画家中沢啓治追悼上映が予定されています。1本は劇映画「はだしのゲン(第1部)」。1976年の作品で、ゲンの父を三國連太郎が、母を左幸子が演じています。もう1本はドキュメンタリー「はだしのゲンが見たヒロシマ」。2011年の作品で、中沢啓治の被爆体験と創作にかけた半生が、本人によって語られています。
ほかには、2012年キネマ旬報ベストテン文化映画部門第8位となったドキュメンタリー「放射線を浴びたX年後」など。プログラムごとに、映画評論家や監督などゲストのお話があります。
問い合わせは、被爆者の声をうけつぐ映画祭実行委員会(電話=03-3232-7867、 ファクス=03-3205-8958)
【問】私の父は最近肝臓がんであることがわかりました。父は現在92歳です。広島の二葉の里、爆心地から1・7キロで被爆しました。
原爆症の認定申請をしようと思うのですが、医師からは「がんの進行状況と高齢でもあるので、特別な治療はしない」と言われています。認定申請に当たっては、放射能起因性と要医療性が必要と聞いています。父の場合「要医療性なし」ということになり、申請してもだめなのでしょうか。
原発事故後、今、思うこと
福島第一原発で事故が起きてから、2年が経とうとしています。被爆者として今、どんな思いを抱いておられますか。事故が起こる前と後で、生活や考え方など変わったことはありますか。また、変わらなかったことは何ですか。
(東京・主婦・40歳)
読者からの回答
◆科学技術に完全はない 埼玉・広島被爆・84歳
2年前、津波で洗い流された三陸海岸や、福島第一原発の無惨に破壊された建屋をテレビで見たとき、原爆で一瞬のうちに壊滅して死の街となった、68年前の広島を彷彿とさせられました。大量の放射性物質が日本列島にばらまかれたのは、広島、長崎に続く3度目となりました。そして同年12月に政府から出された収束宣言と裏腹に、今も十数万人の人が故郷を追われて避難生活を送っています。
この原発事故は、原爆と原発はその目的こそ異なるものの、人間の手で完全に制御することのできない多量の放射性物質を発生させる点では同じであることを見せつけました。巨大なエネルギーをもつ核は、たとえ平和利用といっても、人間が完全にコントロールできる範囲を超えていることがはっきりしました。もし完全に制御できると考えるならば、科学技術に対する人間の「驕り」にほかありません。専門は違いますが私も技術屋の一人として、科学技術に完全はないと信じています。自然に対する謙虚さを失った結果が、今回の大事故につながったと言えるでしょう。そして「人間と核は共存できない」ことがはっきりした事件です。この不幸な事件は、将来に生かす機会としなければなりません。
◆容認を悔いています 兵庫・広島被爆・71歳
放射能の恐ろしさを一番よく知っていたはずの被爆者として、「平和利用」とされてきた原発を容認してきたことを悔い、多くの人に詫びました。私たち被爆者が、核兵器の恐ろしさを訴えるのと同じくらいの熱意で、原発の恐ろしさを訴えていたら…と悔やまれてなりません。
正常に稼働していてさえ、低線量の放射線を出し続ける原発。今、内部被曝の恐ろしさを考えると、まさに未来の子どもが危ない! これ以上ヒバクシャをふやすな!と訴えて行動しています。
◆被爆者とともに叫ぶ 秋田・被爆者の子・75歳
亡父は私が6歳(小学一年)のとき、広島で被爆し生きて帰ってきた。父の被爆が縁で、今日まで秋田県被団協とともに運動にかかわっている。
60年代の被爆者運動で、運動方針の対立になった「あらゆる国の核実験に反対」(このことで原水禁運動が分裂)で、被爆者団体も混迷。今考えると、どこの国の核兵器でも「絶対悪」であることは自明。当時のことを思えば、内心忸怩たるものがある。
福島第一原発事故以前は、原子力の平和利用は可能であると考え、原発の危険を深く認識することができなかったし、原発反対の運動にかかわることもできなかった。
原爆と原発は双子のきょうだいで「絶対悪」。人類と共存は不可能。広島・長崎・「3・11」が証明している。核廃絶・脱原発は、被爆者運動の柱にならざるをえない。
世界で唯一の核被爆者―人間国宝に値する―が被害の実相、生きざま、今まで続く内部被曝、低線量被曝の恐ろしさを人々に訴え、伝えていくことが、核廃絶・脱原発を願う70%以上(世論調査)の国民の声に応える原動力になると思う。
私は希望を捨てず、生きている限り被爆者とともに叫びつづける。それが核のない世界への一助となると確信している。
お答え待っています
アメリカに対する思い
アメリカではいまだに「原爆投下は正しかった」という世論があると聞きます。あの戦争を美化しようとする日本に対し、アジア諸国が反発を強めるように、被爆者の方々は反米感情を抱かないのでしょうか。
(東京・会社員・35歳)
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被爆体験の継承に関する質問と回答を「質問部屋」係までお寄せください。次回は7月号に掲載する予定です。