2012年5月号 主な内容

原発の再稼働・輸出をやめよ! 日本被団協が要請行動

東京電力本店前行動

内閣府担当者に要請書を手渡す被団協代表

東電会議室で要請する代表団(4月13日)
政府・電力会社に
日本被団協は原子力発電所の再稼働と輸出に反対する要請を、4月10〜13日、政府と在京の電力各社に行ないました。
政府へ
総理大臣と原発事故の収束及び再発防止担当大臣への要請は10日、内閣府大臣官房総務課を田中事務局長と事務局次長の山本氏、児玉氏、中村氏が訪問、同課調査役の佐野美博氏と市村豊和氏が対応しました。「被爆国日本は核エネルギーからすぐに撤退すべき」などの被団協側の発言のメモとともに要請書を大臣に届けると約束しました。
昨年10月の原発からの撤退を求める要請に対し面会を拒否した経済産業省は、今回も面会を拒否したため、要請書を郵送しました。
東京電力へ
関東甲信越ブロックを中心に、13日東京電力本店への要請と街頭行動を行ないました。茨城、栃木、埼玉、東京、神奈川、千葉の被爆者と被爆2世、支援者など約50人が参加。一人ひとりマイクを握り、「広島・長崎・福島の実態を知っているのか」、「放射線被害の苦しみをもう誰にも味わわせたくない」などと訴えました。
このうち代表9人が東電内会議室で要請。広報部原子力センターの會田満男部長、竹内謙介課長らが対応し、今年度内の再稼働の予定はないとしながら、原子力発電からの撤退については言明しませんでした。
『ヒロシマ・ナガサキ 原爆と人間』増刷
日本被団協制作の新パネル「ヒロシマ・ナガサキ 原爆と人間」は、2月下旬の完成から4月初旬にかけて初刷り300セットを完売し、このたび増刷しました。利用いただいたみなさんからラミネート加工(透明プラスチックフィルムを圧着させ補強する加工)への要望が強かったため、増刷にあたってラミネート加工版も作りました。加工版は通常版と同じダンボールケースに入り、頒価は通常版の頒価にプラス1万円の、39500円です。
「被団協」新聞400号

「被団協」新聞創刊号1面
「被団協」新聞は今月号で400号を迎えました。創刊は1976年5月31日、36年前のことです。その後不定期に発行を続け、1979年6月6日付の第6号から月刊となりました。以来、全国の被爆者をはじめたくさんの人々に支えられ、毎月の発行を続けてきました。読者のみなさんと、中央、地方で新聞の発送などをボランティアで支えてくださっているみなさんに、心から感謝します。これからもよろしくお願いいたします。
認定制度改正求め院内集会

参議院議員会館での院内集会(4月18日)
日本被団協は4月18日国会内で原爆症認定制度の抜本改正を求める院内集会を開きました。首都圏の被爆者を中心に、約50人が参加しました。
集会では参加した政党代表に対し、日本被団協からヒアリングを行うこと、原爆症認定制度の廃止を前提とした改正案を作成して国会で取り上げることなどを求める要請書を手渡しました。民主党の高木義明氏は「野党時代から皆さんと一緒にやってきた、これからも取り組む」、自民党の河村建夫氏は「まだこの問題が解決されず申し訳ない、一日も早く解決するよう頑張る」、公明党の谷合正明氏は「被団協の提言はすばらしい、皆さんとの意見交換を密にする」、共産党の井上哲士氏は「制度の微調整で終わらせようとする官僚の動きをどうくい止めるか、皆さんの思いを受けとめ頑張る」、社民党の福島瑞穂氏は「法律改正にむけ党内でPTをつくる、国会の中でもやっていく」などと述べました。
集会には柳田稔議員、田村智子議員ほか議員秘書も多数出席しました。
2015年NPT再検討会議第1回準備会合
「核兵器のない世界へ」日本被団協代表が要請へ

日本被団協と日本原水協のウィーン行動記者会見
(4月12日)
2015年に国連で開かれる核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議の第1回準備会合が、オーストリアの首都ウィーンにあるウィーン国際センターで4月30日〜5月11日開かれます。
日本被団協は同会合に岩佐幹三代表委員と田中熙巳事務局長を派遣します。両氏は今回、外務省から非核特使として委嘱されました。岩佐氏は5月2日、準備会合のNGOプレゼンテーションで発言し、参加国の政府代表へ訴えます。田中氏は準備会合にあわせて開かれるIPB(国際平和ビューロー)運営委員会に役員として出席します。
両氏は、各国政府への要請書、国連事務総長、NPT再検討会議議長への日本被団協の要請書を持参。準備会合の傍聴のほか、各国の政府代表と面会し、核兵器禁止条約の協議にすみやかに入るよう要請します。
同会合には日本原水協からも代表団が派遣され、要請行動や関連イベント、原爆展での証言などを共同して行ない、核兵器廃絶と被爆の実相を世界に訴えます。
国際センター・ウィーン大で原爆展
NPT再検討会議準備会合が開かれるウィーン国際センターでは、4月30日から5月4日、IPB、日本原水協、日本被団協共催で日本被団協の新パネル「ヒロシマ・ナガサキ 原爆と人間」や被爆資料を展示する原爆展が開かれます。30日の開会セレモニーでは田中事務局長が挨拶します。
また、5月2日から4日には、ウィーン大学でも新パネルを使って原爆展が開かれます。
どちらも開催中に被爆者の証言が予定されています。
このほか国際センターでは、平和市長会議、青年と先住民、核専門家の3団体もそれぞれ展示を行ないます。
原爆症認定求め東京で新たな提訴
3月27日、東京、茨城、千葉、静岡に住む被爆者・遺族19人が原爆症の認定をもとめて東京地裁に提訴しました。昨年12月に提訴していた1人をふくめ、東京地裁で20人の原告による訴訟が始まりました。
提訴をよびかけた東友会は、厚生労働省で原爆症認定の在り方に関する検討会がつづいていること、裁判は被爆者にたいへんな負担がかかることから、集団訴訟の判決にそった審査がおこなわれるよう運動をすすめてきました。しかし、厚労省が判決を無視し、1キロ直爆の狭心症まで却下する状況のなか、東友会は弁護士や医師と協議し、今回20人に提訴をよびかけました。
提訴後の「はげます集い」(写真)には、東京、千葉、神奈川、埼玉、茨城、静岡からの被爆者と支援者116人が参加。原告のひとり寺西米子さんが、「1・7キロで被爆し、心筋梗塞の認定をもとめていた夫の思いをひき継いで、核兵器の被害を明らかにするために闘いたい」と訴えました。参加者は、参加した10人の原告の話を聞き、支援をつよめることを確認し合いました。
電力会社へ要請
原発の再稼働に反対



(上から)日本原子力発電、電源開発、日本原子力研究開発機構への要請
日本被団協は原子力発電所再稼働反対の要請を政府と東京電力(1面参照)のほか、4月10日と11日、以下の3社(機関)に対し行ないました。
日本原子力発電株式会社(東海原発・敦賀原発)には10日、田中事務局長と山本、児玉両事務局次長が訪問しました。総務室の竹内聡課長が対応し、被爆者からの要請は重みがある、経営会議にあげるよう伝える、と答えました。
電源開発株式会社(大間原発)には11日、田中事務局長と児玉事務局次長が訪問しました。広報室の本田正人課長と野口毅課長代理が対応し、大間原発は停電のため現在建設をストップしているが、地元の要望もあり国からの変更要請がないかぎり建設する予定、と答えました。また、同社は火力と水力による発電が9割以上で、風力発電は全国2位、地熱発電も研究中と説明しました。
独立行政法人日本原子力研究開発機構(ふげん・もんじゅ)には11日、田中事務局長と児玉事務局次長が訪問しました。昨年9月の要請では路上での写真、ビル1階ロビーでの立ち話という対応でしたが、今回は会議室で総務部総務課の上原伸主査らが対応しました。研究機関であり要請項目には答えられない、原子力の専門家が除染に積極的に関わっている、「もんじゅ」は研究に必要、などと答えました。
要求書
原子力発電所の再稼働と原発の輸出に反対します
福島第1原発事故による放射線被害で、国民はいま不安がいっぱいの毎日を送っています。政府と東京電力の情報隠蔽・情報操作で、被害の実態はどうなっているのか、今後どうなるのか、どうすればいいのかが、さっぱり分からない状況です。
こうした不安の中で、政府が原子力発電所の再稼働を許可しようとしていると報道されています。「安全点検」が終わったからとか、原発操作についての安全対策ができたからとか、震災対策も十分に行ったからとかが、再稼働を認める根拠とされています。
しかし、このような根拠は、福島原発被害の現実を見れば、とうてい国民を納得させるものではありません。
政府はさらに、日本国民の不安に十分応えないまま、日本から外国へ原子力発電所を輸出しようとしています。外国人にまで放射線被害を広げる可能性のあるこのような輸出計画は、道義的にも許されないことというほかありません。
日本被団協はすでに、政府および電力各社・原子力発電関連機構にたいし、安全対策と被害者補償について怒りを込めた申し入れを行っています。今回の原発再稼働の動きに関連して、改めて次の諸項目を申し入れます。政府および電力各社が誠実に実行することを強く要求します。
要求項目
1 原子力発電所の新増設はすべて取りやめること
2 現存する原発については年次計画を立てて操業停止・廃炉にすること
3 原子力発電所の海外輸出計画を取りやめること
4 点検で操業休止中の原発は、安全点検が終わったとしても再稼働を許さないこと
5 自然エネルギー、再生利用可能なエネルギー利用に向けて大転換すること
6 福島第1原発の被害者にたいして、東京電力は万全の賠償を行い、
国策として原発推進を行ってきた国も補償責任を負うこと
「ふたたび被爆者をつくるな」訴え続けて400号
「被団協」新聞1976号5月→2012年5月
読者に支えられて400号 ―― 編集委員長 木戸季市
「被団協」新聞が、今号で400号になりました。創刊第1号は、1976年5月31日。日本被団協結成から20年後のことでした。
それまで、全国の被爆者を結ぶ、現代風に言えばネットがなかったわけではありません。「被団協速報」「被団協ニュース」「被団協連絡」などが全国の被爆者組織等に提供されていました。
創刊の辞は、発刊のいきさつとともに「全国被爆者の正しい情報源となり、また一方では心のオアシスにもなり得べき本紙の創刊は誠に意義深い」とのべています。
毎号のクイズ解答の余白に、紙面について感想をいただいています。
「貴紙を読むと益々“原爆”についての知識を得ます」「特に『相談のまど』は、とても参考になり、切りとってスクラップしております」「被爆二世ですが被団協新聞を愛読しています」
紙面を通じて読者のみなさんの交流が、被爆者健康手帳取得や、各種手当支給の大きな力になっていることを読者のお便りで知らされます。先輩が願った「被団協」新聞の役割をいっそう発揮する紙面にと心を引き締めているところです。
今号では、各界の方からメッセージをいただいています。
「被団協」新聞の紙面が活動の活力になっていること、世界に例のない新聞であること、日本国民の羅針盤の役割を期待する、3・11以後の紙面が原発事故に力を入れていること、さまざまな角度から激励をいただいています。読者のみなさんに支えられて「核兵器も戦争もない世界」「被爆者への国の償い」実現に力をつくしていきます。よろしくお願いします。
『被団協』のあゆみ
1981年1月号(25号)
1987年5月号(100号)
機関紙『被団協』の創刊は1976年5月。「原爆被害者援護法案のための要求骨子」に基づく運動の中での誕生でした。1面は「国家補償の援護法を」の厚生省前の座り込みの大きな写真。
不定期刊から月刊に踏み切ったのは79年6月。厚生大臣の諮問機関、原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)発足のその月で、4ページ建てに発展したのが80年6月号でした。
同年12月の基本懇答申は原爆被害「受忍」を強いるものでした。『被団協』81年1月号は被爆者の怒りをぶっつけました。「死んだ人が犬死になる/被爆者は答申を認めない!」の大見出し。答申全文と被団協の声明、見解、各団体、文化人の怒りの声満載です。
日本被団協は基本懇の「受忍」論を打破するために「原爆被害者の基本要求」を策定しました(84年11月)。『被団協』は「基本要求」づくりのための「国民法廷」運動、全国的討論などに大きな役割を果たしました。
「『被団協』の役割」は、(1)被爆者を毎月“訪問”して励ましあう新聞(2)被爆者の要求実現をめざして、運動を推し進める新聞(3)原爆被害の実相と被爆者の実状を語り継ぐ新聞(「機関紙活動の手引き」1981年)。
『被団協』400号の歩みは多くの方々の協力に支えられてきました。中でも特記しておきたいのは平山郁夫画伯「広島 生変図」の掲載です。自らも被爆者である平山さんが快諾され、1981年8月、日本被団協結成25周年記念号の見開きページを飾りました。今は亡き平山画伯に改めて謝意を表します。
漫画ルポの思い出 ―― 西山すすむ
400号、おめでとうございます。第11号(1979年11月)から「おり鶴さん」を描き始め、何度か漫画ルポをやりました。
熊本(49号・83年2月)
熊本城のすぐそばに熊本県被団協の事務所がありました。長崎原爆後第1号救援列車を動かしたという、元国鉄駅長だった野中勝美会長が、のこぎりを片手に大工仕事をしていました。「事務所の調度品はみんなお手製の持ちより」と自慢。被爆者の健康についてきくと、竹踏みマッサージとアロエの効能を熱っぽく説いてくれました。
北海道(54号・83年7月)
北海道被団協が全国的にカンパを呼びかけてつくった「ノーモアヒバクシャ会館」(札幌)の、カンパを募る「平和のレンガ運動」をルポしました。92年1月の落成式に行くと、みんな喜びに沸いていて、最初の取材当時事務局長の酒城無核さんが、完成までの涙ぐましい苦労話を聞かせてくれました。私はもらい泣きして「頑張ろうね」と固い握手。後日昆布が送られてきました。
広島県油木町・府中市(100号・87年5月)
「被団協新聞、まだきとらんかね」と、待ち遠しくて毎月会長さんのところに訪ねてくるおばあちゃんがいるという油木町と、府中市の被爆者の会を訪ねました。
府中市では会長の池田次郎さんが、府中市は小説「荷車の歌」を書いた山代巴さんが峠三吉さんたちといち早く活動を始めたところ、と話してくれました。そのうちの一人で、当時会の広報担当だった内田千寿子さんは、今年86歳。いまも元気で野良仕事のかたわら、毎月「おきゃがりこぼし」という冊子を出しながら仲間たちと文筆活動に余念がありません。
わが街の被爆者の会
新メンバーで頑張ってます ―― すいせん会(福井県)

東海北陸ブロック会議に参加した(右から)小稲吉春会長、役員の西繁雄さん、山岡直文さん
福井県原爆被害者団体協議会(すいせん会)は今、元気を取り戻しつつあります。会の運営上の問題で5年ほど、あまり活動もなく他県との連携もなく、解散寸前まで追い込まれました。前会長のあとを受けて会長となり、改革を試みました。
まず組織作りに取り組み、数人の協力を得てなんとか形が整いました。昨年4月から新体制でスタートし、軌道に乗せることに成功しました。県内6福祉センターごとに理事をおき、年2回の被爆者健診と相談会に立ち会うようにしています。
報道2社の協力を得て会の運営への協力や2世の入会を呼びかけたところ、女性の2世が入会してくれました。その後相談会などでも入会をすすめ、3人の2世が入会。
相談活動も、会員から家族介護手当、単独交通事故死葬祭料の相談を受け、2件とも支給で解決しました。
東海北陸ブロック会議に出席し、活発な意見が飛び交う一方、和やかな雰囲気があり、各県の取り組みを教えていただくなど、とても勉強になりました。
昨年は原水禁や民医連などと交流をはかり、語り部も4回実施。また、原爆被害者追悼法要を理事の協力で開催したところ、従来にない多数の参加者があり盛大に行なうことができました。
新パネルも真っ先に購入し、費用がかかりましたが吊りパネルにしました。原爆展をどんどん開催して、県内6地区に展開していきます。
原発の最多保有県で、今は全基停止していますが、敦賀市、美浜町で稼働推進の動きがあり、憂慮しています。
今後、原爆パネル展、語り部、2世募集の3本柱で、事業展開していきます。そして核兵器廃絶を訴え続けていきます。
被爆二世らが交流会

4月25日、湯島第二会館(東京・文京区)で、東友会事務局の村田未知子さんの呼びかけにより、東京在住の被爆二世13人が集まり、交流会を持ちました。ほとんどが初対面であったにもかかわらず、親の被爆体験とその後、自身の乳がんや甲状腺がんなど健康不安と対策、新たに始まる原爆症認定東京訴訟の原告となる二世、証言活動への取り組みなど、さまざまな体験や意見が交換されました。
全国の被爆二世を10年間撮り続け、今年の8月には東京で写真展を開催するカメラマンの吉田敬三さんからは、兵庫、山口、松江、鹿児島、福岡、佐賀の各地での被爆二世の会の活動が紹介されるなど、豊かな内容の語り合いが続きました。
このような集まりを今回限りで終わらせずに、交流を続けるために、東京被爆二世の会(仮称)を作ることで参加者の意見が一致し、今年7月に次回会合の開催を目指して、会則や連絡体制などの準備を進めることを取り決めました。当面は、年2〜3回程度の会合を重ね、毎回テーマを決めて、体験の交流や知識、情報の摂取を重ねていく見込みです。
地域の会だより
北広島町原爆被害者の会

4月12日、北広島町原爆被害者の会新年度総会を開きました。総代役員30人が出席。来賓に町の福祉課長を呼び、医療特別手当、健康管理手当、葬祭料等の説明を受けました。前年度の活動報告と決算報告の承認、新年度の活動提案、予算案については原案通り可決。
議長(箕牧)からの報告として、日本被団協では援護法の全面改正を求めて厚生労働省と折衝していること、また広島県被団協の財政が苦しく会費の値上げとカンパの要請があることを話しました。その場でカンパ18000円が集められ、県被団協と町の原爆被害者の会の浄財にあてることにしました。
10フィート映画 DVDで再登場
10フィート映画『にんげんをかえせ』(20分・橘祐典監督)『予言』(42分・羽仁進監督)など4作品が、4月よりDVDとして新しく発売されました。
1980年〜82年、アメリカに眠っていた原爆被害の記録映像フィルムを、10フィートを1単位に市民からのカンパにより日本に戻そうという市民運動で、10万フィートを超すフィルムが日本に戻ってきました。その映像を使って、数本の映画がつくられました。
米戦略爆撃調査団が撮影した映像と、そこに映る被爆者の証言で構成された映画は、当時画期的な内容で、全国各地で上映が取り組まれ、国内外の反核運動に寄与しました。現在も平和学習や証言活動で活用され、原爆症認定集団訴訟では被爆の実相を伝える資料としても使われました。
問い合わせは、平和博物館を創る会までハガキかFAXで(〒105―0014東京都港区芝1―4―9 FAX03―3454―9800)。
相談のまど
病院入院時の保証人について
【問】私は現在、一人暮らしで、82歳になります。近く整形外科の手術を受けるために入院することになっています。
知人から、入院に当たっては入院保証人が必要と聞きました。私には広島に親族が一人いますが、長いことほとんど付き合いがなく、保証人を依頼することは無理です。どうしたらよいでしょうか。
* * *
【答】一人暮らしの高齢者が増えている中、入院に限らず高齢者の「保証人」の問題は、憲法で決められている「法の下の平等」ということからも、見放されてはなりません。
病院でいう「保証人」は、入院中に同室の患者さんや病院に迷惑をかけた場合などの身元保証人に近いものがあります。
連帯保証人のようなものではありませんので、入院費を払えなくなったときに、差し押さえや強行な債権回収をするためのものではありません。
入院・手術をする病院に、保証人がどうしても必要かどうか、事情を話して確認してください。病院に医療ソーシャルワーカーがいるようでしたら、相談してみてください。
どうしても必要ということであれば、友人や被爆者の会に相談して、どなたか引き受けてもらえるといいですね。
有料で入院・手術保証人代行サービスを行なう機関もありますが、利用する場合は、信頼できる機関かどうか、よく調べてからにしてください。
まどから
5月から、伊藤直子相談所理事が電話または来所での相談を受ける曜日が変わります。毎週木曜日午前10時から午後3時までです。
被爆者手帳取得の証人さがし
佐野(旧姓・下川)映子さん 昭和10年2月生まれ。
映子さんは昭和20年当時父子家庭で、長崎県佐世保から、広島市皆実町で旅館と貸家を経営する伯父の貸家に移り住み、近くの皆実小学校に通っていました。父の兵吉さんは消防用ホース修理の仕事をしていました。
8月6日朝、兵吉さんは仕事で呉へ。映子さんは近くのお寺(現在の光徳寺所有の墓地のあたり)で学習しており、水を飲む順番の列に並んでいたところ、被爆。気がつくと、天幕を張った軍の病院でけがの手当てをされていました。5日後、兵隊に送られて家の焼け跡に戻った映子さんは、呉から徒歩で広島に戻り娘を探しまわっていた兵吉さんと再会しました。
その後すぐ広島を離れたため、小学校の学籍簿には載っていません。
連絡先(本人)=山梨県笛吹市石和町河内261―5/Tel.055―262―6296