被団協新聞

トップ >> 日本被団協について >> 被団協新聞 >> 「被団協」新聞2011年 11月号(394号)

「被団協」新聞2011年 11月号(394号)

2011年11月号 主な内容

1面 日本被団協結成55周年 記念のつどい・祝賀会開く
原点としての「ヒロシマ・ナガサキ」 西崎文子成蹊大教授が記念講演
2面 「原発は核抑止力」!?
国の償い求める運動交流 ―全国代表者会議―
意見書採択
日本被団協結成55周年宣言
中央行動 衆・参議院に要請
現行法改正賛同議員署名
政党・団体に要請 推進本部
3面 電力各社に申し入れ、全国で
浅草ウォークで連帯
非核水夫の海上通信 87
原発・放射線被害を学ぶための10冊
4面 相談のまど
被爆者手帳取得の証人さがし

日本被団協結成55周年
 記念のつどい・祝賀会開く



結成55周年記念のつどい(上)と祝賀会(下)

 日本被団協は10月18日東京・港区の東京グランドホテルで、結成55周年記念のつどいと祝賀会を開きました。
 つどいは午後3時に開会し、岩佐幹三代表委員のあいさつのあと、田中熙巳事務局長がスライドで日本被団協55年のあゆみを紹介。次いで西崎文子成蹊大教授の記念講演(要旨別項)があり、最後に「宣言」(2面に全文)を採択しました。約140人の参加者は、結成からの被団協運動の歴史を確かめ、新たな決意を固めあいました。
 祝賀会は午後6時開会で、4政党19団体の代表と支援者、被爆者合わせて135人が参加しました。ボーカリスト吉川敏男さんのギター弾き語りで始まり、坪井直代表委員のあいさつ、民主、公明、共産、自民の各党からの祝辞、社民党からの祝電紹介のあと、肥田舜太郎顧問の音頭で乾杯しました。次いで各団体からの祝辞、参加者全員の紹介のあと「原爆を許すまじ」を全員合唱。山田拓民代表理事のあいさつで会を閉じました。


原点としての「ヒロシマ・ナガサキ」 西崎文子成蹊大教授が記念講演

 日本被団協結成55周年記念のつどいで西崎文子成蹊大教授が記念講演しました。要旨は次の通りです。

私にとって全ての原点
 日本被団協結成55周年に話をさせていただくことを大変光栄に思います。今回、この大役をお引き受けしたのは、年を経るにつれ、被爆者運動や被爆者との出会いが、私のすべての「原点」だと確信するようになったからかもしれません。
 私には、研究者・教育者として裏切ってはいけないと意識してきた3つのグループがあります。第1は研究者仲間。第2は親や家族。そして第3が最も重要な被爆者の皆さん。核兵器や原爆の問題だけでなく、政治や歴史について発言するときに必ず考えるのが、被団協を通じて知り合った被爆者や協力者のこと。私がどこかへ流れるのを係留する錨の役割を果たしてくださっている。その意味で被団協が私の「原点」だと断言できます。

「楽しかった」理由
 被団協と接することになったのはほぼ完ぺきに偶然のなせる業でした。大学院受験に失敗して浪人していた1982年の春先のこと、田中熙巳代表理事(当時)から、今年はニューヨークで国連軍縮総会(SSD2)があり、被団協代表団の通訳を手伝ってもらえないかと依頼され、アメリカに行く機会があるならと気軽にお受けしました。
 その後はあっという間に被団協に引きずり込まれます。数カ月後のニューヨークでの軍縮総会への派遣訪問 団はおよそ40人で通訳は1人。被爆者の体験を直に伺うのは初めてでしたが、とにかく通訳しなければならない。いかに伝えるか悩む間もなく通訳をし続けました。神経の磨り減る作業でしたが、私にとっては、素晴らしく生きがいに満ちた日々でした。
 その年の夏にはヨーロッパへの訪問団が結成されますが、この通訳も2つ返事で引き受けました。被爆者の体験に触れ、生き方を学び、国際的な活動に体当たりで進んでいく。1982年は人生の転換期であり最も成長を強いられた年でした。とても感謝しています。
 その後、5年間、アメリカの大学院に留学しましたが、この間も時間の許す限り通訳としてご一緒いたしました。活動に携わったのは14年ということになります。
 その間どう感じたか。不謹慎ですが「楽しかった」というのが実感です。それは何よりも「ぶれない」とはどういうことか、皆さんを通じて存分に見せていただいたからです。
 もう1つ楽しかった理由は、多くを学んだからです。被爆者の言葉の豊かさや正確さ、「受忍論」や「核抑止論」への批判、「被爆体験の思想化」といった非常に重要なテーマ。それらに被爆者の視点で取り組むことで、考えもしなかった視野が開ける。「体験」と「こころざし」と「信念」が知的な作業の原動力となる素晴らしい世界が活動の中にありました。

人、社会の根源を問う
 「ヒロシマ」「ナガサキ」が「原点」だということはより広い意味でも言えます。
 被爆者の体験は、核、戦争の酷さを伝えるだけではなく「超えてはならない一線がある」ことを教えてくれるからです。
 この悲惨さを許せば人間が人間でなくなってしまう。被爆者が「基本懇」答申に怒りを爆発させたのは、原爆被害を受忍せよとの言葉が、その一線を超えたからです。
 もう1つは、ヒロシマ・ナガサキの体験を十把ひとからげに語ることを拒否する姿勢です。
 「この一線を超えてはならない」意識と、体験の個別性をなぎ倒して語ることは許さない感覚。「ヒロシマ・ナガサキ」が揺るがない「原点」であるのは、そこを出発点に、個人の尊厳や人権の問題を考えていくよう向かわせるからです。

オバマ大統領の盲点
 核兵器のない世界を言い始めたオバマ大統領の発言、行動には職責ゆえの限界があります。その盲点は「ヒロシマ・ナガサキ」です。原爆被害をその構想の中心に据えていないために、オバマの言う「核兵器のない世界」は「核抑止論」から抜け出せない。その意味では、オバマ大統領に代わってその限界を乗り越えることのできる被団協こそ、ノーベル賞に相応しいと信じています。

「原発は核抑止力」!?
「非核3原則」つぶしだ

核兵器はすぐ作れる
 「原発は核抑止力」という説が横行しています。
 〈原発は、核兵器を作ろうと思えば…作れるという「核の潜在的抑止力」になっている。…原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄することになる〉。論者は自民党政調会長だった石破茂氏(『サピオ』10月5日号)。
 原発推進宣伝の先陣を切ってきた読売新聞も同じ説を担いでいます。〈日本は…核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が…潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ〉(読売9月7日社説)
 これは「原発の軍事利用」論です。「原子力の平和利用」論の化けの皮を自ら脱ぎ捨てたのです。

 原発開発の目的は
 原発による核兵器開発の恐れは警告されています。
 〈平和利用はむしろ核武装の言い訳として使われた。現に…我が国はすぐにも(核)爆弾に転用できるプルトニウムを大量に保有している。…爆弾を作る潜在能力の保持が原発経営の真の目的ではなかったか〉(池澤夏樹『春を恨んだりはしない』)

 飛核・被核3原則
 国是とされる非核三原則‐‐核兵器は(1)作らず(2)持たず(3)持ち込ませず。核持ち込み密約が暴露されて開き直り「核持ち込み」を認め「非核2原則」に、というたくらみもあります。
 「原発=核抑止力」なら日本は準核保有国。核加害国になり、また核被害国になる恐れも出てきます。「核兵器を(1)つくる(2)持つ(3)持ち込ます」。これでは「飛核・被核3原則」です。
 日本被団協が進めている「非核3原則法制化」署名運動の意義がますます大きくなってきました。

国の償い求める運動交流
 ―全国代表者会議―


東日本大震災の被害状況を報告し全国からの見舞金にお礼を述べる(右から)岩手、宮城、茨城、千葉、青森の各代表

 日本被団協全国都道府県代表者会議が10月19日東京グランドホテルで、36都府県100人の参加で開かれました。
 黙祷、代表委員挨拶のあと、日本原水協安井正和事務局長から挨拶と100万円の援護連帯寄金の寄贈を受けました。東日本大震災被災各県から見舞金に対するお礼と現状報告がありました。
 次いで田中煕巳事務局長が、定期総会から4カ月の間に運動方針に基づいて取りくんだ各県の経験をふまえ互いに学ぶべき点を交流し合い、さらに大きく足を踏み出すきっかけを作り出してもらいたいと、代表者会議への希望を述べて、総会後の情勢と運動について基調報告をしました。
 報告は6つの柱からなっていました。(1)原爆症認定問題の現状 (2)国の償いを求める運動 (3)原子力エネルギーに依存しない社会の実現を目指して (4)第66回国連総会に向けて (5)ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会への賛同を (6)二世のアンケートから。
 会議前半はすべての問題について、各代表が率直な疑問や意見など胸の内を吐露する発言がつづきました。後半は、被爆者の願いを実現するために頑張ることを確認する会議になりました。

意見書採択

 非核三原則の法制化を求める地方議会の意見書採択、8月から10月24日までの報告分は以下のとおりです。
 秋田=能代市
 非核宣言都市になっている自治体の議会にも働きかけ、意見書採択をすすめましょう。

日本被団協結成55周年宣言

2011年10月18日
 米軍が1945年8月6日広島に、8月9日長崎に投下した2発の原子爆弾によって地獄に突き落とされた被爆者は、それから66年たった今年、被爆者の変わらぬ願いである「ふたたび被爆者をつくるな」「すみやかな核兵器の廃絶と原爆被害への国家補償」を実現するため「原爆被害への国の償いの実現を求める」新たな運動を始めました。

 55年前、原水爆禁止という国民的運動の大きなうねりのなかで、10年余りも国に放置され、全国で孤立して、病気や生活とのたたかいを強いられていた被爆者が長崎につどい、被爆者の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会を結成しました。結成大会宣言として「私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります」との「世界への挨拶」を発表しました。
 私たちは自らと人類を救うため、自らの地獄の体験を明らかにし、「いのち、からだ、こころ、くらし」の全面にわたる被害への国家補償を今日まで求めつづけてきました。
 私たちは多くの国民に支えられ、国会請願署名を集め、幾度も厚生省前で座り込み、全国行脚を繰り返し、多くの国会議員や自治体首長の賛同を得るなど、血のにじむような運動をつみ重ねました。この間、「原爆医療法」と「原爆特別措置法」を制定させ、生存被爆者の医療と健康への施策を大幅に改善させてきました。しかし、これらの施策は「放射線被害」に限定されたものでした。

 戦後50年を目前にした1994年、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を制定させました。しかし、いくつかの施策の前進が盛り込まれましたが、死没者への償いをはじめ、国の償いを表明したものにはなりませんでした。しかも、私たちが求めつづけた「ふたたび被爆者をつくらない国の証」としての核兵器廃絶は究極のかなたの目標に押しやられてしまいました。

 この10年、私たちは、原爆症認定集団訴訟をたたかい抜き、306人の原告の多くが29の地裁・高裁判決でかち進んできました。2000年の松谷裁判最高裁判決が示した判断の趣旨を故意にねじ曲げ、政府・厚生労働省は原爆症認定を厳しくし、却下し続けたことへ、司法から指弾されたものでした。裁判の過程で一定の認定基準の緩和がなされました。2009年、麻生総理大臣と日本被団協が確認書をかわし集団訴訟は終結に向かいました。しかし、原爆症認定制度を改訂させ一定の前進はありましたが、一方で大量の却下もつづいています。
 国の被爆者施策の根本にあるのは、現行法を貫いている、戦争を開始した国の責任を回避し、市民の戦争被害は受忍させ、原爆被害は狭く、軽く、小さく扱う立場です。
 世界で唯一の被爆国でありながら核兵器の威力に頼る「核抑止力論」にしがみつく立場とも共通しています。昨年の国連でのNPT再検討会議が決議した「核兵器のない世界」の達成にも反するものです。

 今年は東日本大震災という大災害が日本を襲いました。東京電力福島第一原子力発電所の破壊で、多くの国民が放射能汚染の危機に直面しています。日本被団協は、原発災害=放射線被曝をわがこととし、ふたたびヒバクシャをつくらないために全力をあげるとともに、今年の総会で原発のない世界をめざす方針をきめました。

 日本被団協結成55周年にあたり、わたしたちは「自らを救い、世界の危機を救う」ため、あらためて、原爆の地獄を、核兵器の非人間性を、国の内外に語り伝え、語り継いでいく決意を新たにし、国に要求します。

  1. ふたたび被爆者をつくらないとの決意をこめ、原爆被害に対する国の償いと核兵器の廃絶を趣旨とする法の目的を明記すること。
  2. 原爆死没者に償いをすること。
  3. すべての被爆者に償いをすること。

 国民のみなさん、平和をもとめる世界のみなさん、被爆者は心から訴えます。高齢化したわたしたちの最後となるかもしれない要求と運動に大きなご支持・ご支援をお寄せください。
 ともに力をあわせて核兵器も戦争もない世界をつくりあげましょう。

中央行動 衆・参議院に要請


厚労省要請

 10月20日に行なった日本被団協中央行動は「現行法改正要求」への賛同を全国会議員に要請することを目標に、全国から集まった約90人の被爆者が行動。衆参合わせ721人の各議員あて要請書をブロックごとに分け持ち、3棟の議員会館の各議員室を訪問しました。
 1日で450人を超える議員に要請書を届けることができ、残りは後日郵送しました。
 さっそく9議員の賛同署名が寄せられ、その後も郵送で届けられています(別項参照)。
 この日、厚労省要請もあわせて行ないました。

現行法改正賛同議員署名

(10月25日現在)
衆議院
野田 国義 民主党 九州 比例
吉田 公一 民主党 東京 比例
赤嶺 政賢 共産党 九州 比例
佐々木憲昭 共産党 東海 比例
阿部 知子 社民党 南関東比例
奥野総一郎 民主党 千葉 9区
中島 隆利 社民党 九州 比例
漆原 良夫 公明党 北信越比例
志位 和夫 共産党 南関東比例
笠井 亮  共産党 東京 比例
高木美智代 公明党 東京 比例
石津 政雄 民主党 茨城 2区
参議院 (数字は選出年度=平成)
岡崎トミ子 民主党 宮城 19
吉田 忠智 社民党 比例 22

政党・団体に要請
推進本部

 日本被団協現行法改正推進本部は10月5〜7日、各政党と諸団体への要請を行ないました。
 面会要請に応じた、民主、公明、共産、社民の各党と、日本生協連、日青協、地婦連、日本原水協、原水禁国民会議、宗平協、全国空襲連の各団体を訪問。「現行法改正要求」の立法化に賛同し早期実現にむけて尽力をと要請しました。各党、団体とも、趣旨を受けとめ可能な協力をする旨、返答がありました。

電力各社に申し入れ、全国で
原発からの撤退求め各地で本社に要請


内閣府(右)への要請

関西電力(左)への要請

中部電力(右)への要請

 原子力発電からの撤退を求める政府と電力各社への要請が、本紙前号既報の各社要請に続き、各地で行なわれています。
 総理大臣と原発担当大臣へは10月5日内閣府で、厚労大臣へは6日厚労省で要請しました。
 電力各社への要請は、日本被団協の各ブロックが担当しています。
 九州電力へは9月30日奥城和海代表理事と福岡、熊本の各会長ほかが要請。原爆被害を語り「これ以上被ばく者をつくるな」と訴えました。
 関西電力へは10月7日武久熈、鹿島孝治両代表理事と兵庫の会役員が要請。事故が起これば琵琶湖が汚染され近畿一円水が飲めなくなる、などと廃炉を強く訴えました。
 中部電力へは10月13日大和忠雄代表理事と静岡、愛知、岐阜の各会長ほかが要請。人類の破滅が存続かという観点で検討を、などと訴えました。
 四国電力へは10月日25日要請。詳細は次号で。


浅草ウォークで連帯

 10月23日東京浅草で、第6回「浅草ウオーク」の集会と行進が行なわれ100人が参加しました。「浅草ウオーク」は、平和を願う市民サークル「和ピースリング」の呼びかけを受け東京都原爆被害者団体協議会(東友会)と東京空襲犠牲者遺族会の3団体代表が共同代表となって実行委員会をつくり「戦後補償のゆがみを正し、すべての人々が分かち合える平和を」のスローガンを掲げて05年から毎年、この時期に開いているもの。
 今年のスローガンは「いのちへの償い、いまこそ」。集会のメイン企画は集団証言で、当時の写真や被害者の描いた画をスライドで映しながら広島・長崎の被爆体験と東京大空襲の体験を3団体の代表6人が朗読。参加者に感銘を与えました。
 集会後参加者は「いのちへの償い、いまこそ」の横断幕を掲げて、浅草寺の周囲を1時間歩き、通行人や観光客にアピールしました。

原発・放射線被害を学ぶための10冊

 3月の福島原発事故後、各地の被爆者から「原発や放射線被害などを学べる本が知りたい」「証言活動に活用したい」といった問い合わせが数多く寄せられています。わかりやすく、役に立ち、入手しやすい10冊の本を紹介します。

▼基礎知識
安斎育郎『改訂版 放射能 そこが知りたい』かもがわブックレット
 60ページ余りの小冊子ながら、放射線の性質、起こりうる被害と防護対策などを見開きごとにまとめ、手軽で便利。
安斎育郎『図解雑学 放射線と放射能』ナツメ社
 放射線と放射能についての入門書。豊富な図解を交えながら、核物理学の歴史、放射線の特性、生物への影響、原子力発電や核兵器開発などまで幅広く解説している。
安斎育郎『これでわかる からだのなかの放射能』合同出版
 放射線、放射能と健康被害について、詳しく説明。身を守るために「放射能リテラシー」(放射能についての基本的な知識)を習得する重要性を強調する。

▼原爆と原発
広島市・長崎市爆災害誌編集委員会編『原爆災害──ヒロシマ・ナガサキ』岩波現代文庫
 原爆被害の実態に関する調査・研究の集大成として知られる『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店、1979)の要約・普及版。データも豊富で、手元に備えたい一冊。
肥田舜太郎、鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』ちくま新書
 体内に取り込まれた放射性物質による内部被曝について論じた書。広島・長崎の被爆者から、イラクの劣化ウラン弾被害者までを見つめ、メカニズムと危険性に迫る。
郷地秀夫『被爆者医療から見た原発事故』かもがわ出版
 約2000人の被爆者を診療してきた医師が、その視点から今回の福島原発事故を見つめる。今こそ被爆者から学び、放射線被害について学習してほしいと著者は願う。

▼原発の知識と事故対策
ニュートン別冊『きちんと知りたい 原発のしくみと放射能』ニュートンプレス
 多くの写真や図表類を使い、原子力発電の仕組みを解説した科学雑誌「ニュートン」の別冊。原発・エネルギー問題などの議論に活用したい。
安斎育郎『福島原発事故 どうする日本の原発政策』かもがわ出版
 日本の原発問題をその最初期から知り、問題点を指摘し続けてきた著者が、3月の福島原発事故の問題点、今後の課題などを指摘している。
日本科学者会議福岡支部核問題研究委員会編『原発事故緊急対策マニュアル』合同出版
 科学者らが執筆した原発事故対策の手引き書。原発事故を見る視点と対策とともに、市民が身を守るために必要な知識などについても解説。

▼データ・資料集
野口邦和監修『原発・放射能図解データ』大月書店
 原発と地震、発電コストやエネルギー需給、世界の原発、人体への影響、自然エネルギーの可能性など、原発と放射能に関する最新のデータをまとめている。学習会、証言活動などの資料に好適。

相談のまど
被爆者健康手帳の「入市日」を訂正したいのですが

 【問】私は広島で被爆しました。この度、肺がんになったので、原爆症の認定申請をしました。
 8月8日に広島市内に入市しましたが、被爆者健康手帳には10日入市となっています。原爆症の申請にあたって実際には8日に入市したことを記載しましたが、申請は却下されました。
 異議申立てをしたいのですが、入市日の訂正はどのようにしたらよいのでしょうか。

*  *  *

 【答】被爆した事実と被爆者健康手帳の記載が違っている場合は、都道府県知事に申請して記載事項の訂正をすることができますが、このとき場合によっては、当時のことを知っている証人が必要になります。
 原爆症の認定申請書に記載するだけでは、手帳に記載されている入市日を訂正したことになりません。異議申立てをすると同時に、被爆者健康手帳記載事項訂正申立てを行なってください。
 なぜ入市日が違っているのか、何か事情があったと思いますが、証人に限らず、8日に入市した事実を証明するものを示してください。何もなければ、本人が事情を書いて提出することも検討してください。
 入市日が訂正されないと、原爆症認定却下処分の取り消しは、難しいと思います。

被爆者手帳取得の証人さがし

 山形清人さん 昭和3年10月生まれ、大分県豊後高田市(当時・西国東郡出身)。
 山形さんは、昭和18年4月12日から20年8月15日まで、長崎三菱造船所に勤めていました(在籍証明あり)。会社の寮(寮名は覚えていません)に入り、はじめは電気関係の勉強のため養成所に通いました。生徒は200人程でした。上位6番の成績で卒業し、働いていました。
 8月9日の被爆時のことは、今は詳しく思い出せませんが、終戦を迎えて実家に帰ってから頭髪が抜けたことは兄弟が覚えており、現在も右足の向こう脛にケロイドが残っています。また、一緒に働いていた長崎県西松浦郡出身の松野よしあきさん、大分市東大道出身の宗昭三さんの名前を覚えています。
 連絡先(家族)=北九州市門司区原町別院8‐2 Tel093‐381‐5592