国連本部にむけてニューヨーク市内をデモ行進する被爆者(5月2日)
原爆展会場で(左から)高須国連大使、佐野外務省軍縮不拡散科学部長、福山外務副大臣、木戸代表団事務局長、田中代表団副団長
5月3日からニューヨークの国連本部で開かれたNPT再検討会議に合わせ、日本被団協は52人の代表団を派遣。本隊は4月30日に出発し、5月7日に帰国しました。
核兵器廃絶を訴え
4月30日〜5月1日にリバーサイドチャーチで開かれた国際平和会議では、田中熙巳副団長が発言(2面参照)。2日にタイムズスクウェアで開かれたNGO共同集会では、木村緋紗子さん(宮城)が被爆者の訴えを行ないました(2面参照)。集会後のデモは、真夏のような蒸し暑さの中、核兵器廃絶を訴えて全員で行進しました。4日にペース大学で開かれたシンポジウム「生存者の叡智」では、坪井直団長、谷口稜曄副団長、田中副団長、岩佐幹三事務局次長が発言。7日のNGOプレゼンテーションでは、谷口副団長が発言しました(3面参照)。
国連原爆展
3日、被団協主催の原爆展が国連本部ロビーのメインギャラリーで始まりました。様々な国の人びと、教師が引率する児童・生徒の集団など、途切れることなく見学者が訪れ、パネルに見入り、被爆者の証言に耳を傾けました。4日には潘基文国連事務総長も見学。英語版の「被爆者からのメッセージ」1800部と神奈川の詞画集500部の配布も好評でした。
政府代表部に要請
7カ国の代表部で大使に面会し、会議の成功に努力するよう要請しました。
学校などで証言
約40カ所に及んだ学校などでの証言は、被爆者全員が分担してあたり、行く先々で感動を呼びました。日本生協連の代表とともに14班に分かれての行動で、ニューヨーク在住のボランティアが同行し、通訳を担当。被爆者は口々に「生協とボランティアの皆さんにお世話になった」と感謝の言葉を述べていました。
核のない世界を求めての核兵器廃絶は、人類の重い重い悲願です。
被爆者は核戦争体験者として、生々しい証言に拍車をかけ、核兵器の絶対悪を強力に訴えるべきです。被爆という縁で一丸となっている、全国的な組織としての日本被団協は、平和を希求する諸活動に全力を投じています。純粋な初心を今後も忘れてはなりません。
5年に一度のNPT再検討会議の開催に際し、日本被団協は全国から五十余人が渡米を決意しました。5月3日から6月22日まで、国連本部での原爆展を実施。小学校、中学校、高校、大学などの児童、生徒ほか、多様な人々への証言活動で感動を呼び、核被害の実態の理解に寄与し、核廃絶への思いを伝えました。
NPT再検討会議は5月28日までです。私たちは帰国後、その行方を見守ることになりました。
核軍縮問題では、核廃絶にむけての行程検討に注目しました。核不拡散問題では、非核地帯拡大の難航に不安を覚えています。原子力の平和利用では、IAEA査察の強化を求めたい。
このような一事一事を確かめつつ、私たちは何があっても「ネバー・ギブアップ!」。
リバーサイドチャーチで開かれた国際平和会議で、4月30日、日本被団協の田中熙巳事務局長(代表団副団長)が発言しました。(以下発言全文)
日本被団協
日本被団協は広島と長崎に投下された原爆の生き残りが、全国的に結集し、核兵器の非人道性、違法性を告発し、原爆被害に対する国の補償と核兵器の廃絶を求めて運動を続けている国内唯一の全国組織です。
日本被団協は結成されてから54年目を迎えようとしています。広島、長崎の原爆投下から65年、被爆後10年にわたる被爆者に対する援護の空白は、7年にわたるアメリカ占領軍の隠蔽政策とその後の日本政府の放置政策によるもので、国民からも顧みられることなく苦難を強いられました。この間に多くの被爆者が国の援護を一切受けることなく放射線の後遺症によって死んでいきました。
被爆体験
私は65年前の1945年8月9日、13歳になったばかりの時、アメリカが長崎に投下した原子爆弾を被爆しました。爆心地から3・2キロあまりの自宅の2階にいた私は、突然、真っ白い閃光に包まれ、閃光の色が白、青、だいだい、赤とめまぐるしく変わるのを感じながら、階下に駆け下り、体を伏せると同時に気を失いました。母が私を捜し求める声で気が付いたときは、爆風で飛んできた数枚のガラス戸の下敷きになっていました。奇跡的にガラスが割れておらず、ほとんど怪我もなく、その後の被爆者としての苦しみも悲しみものり越え、65年近くを生き抜いて、こうして生き証人として原爆の真実を話すことができます。
しかし、爆心地近くに住んでいた祖父、叔父、2人の伯母、それに東京の学校から帰省していた大学生のいとこ、合わせて5人の身内の命を一挙に奪われました。彼らは熱線で直接焼き殺されたり、倒壊した家屋の下敷きになり、生きながらにして焼き殺されたり、あるいは、外傷1つ負わなかったのに放射線によって体中の細胞が破壊され、高熱にのたうちながら死んでいきました。大やけどを負い数日間生きながらえた伯母の遺体を、13歳の少年の手で、遺骸が散乱する野原で荼毘に付しました。つらく、悲しい体験をしました。原爆が作り出した地獄の有様は64年過ぎた今日もありありと思い浮かんでくるのです。
原爆被害
アメリカが広島と長崎に相次いで原子爆弾を投下したのは、第2次世界大戦の終結も間近、日本の全面降伏が時間の問題になっていた1945年8月でした。2つの原爆は、2つの都市を一瞬にして壊滅させ、数十万の市民を灼熱の坩堝に叩き込み、二十数万人の人々をこの上なくむごたらしいやり方で虐殺しました。2発の原爆で生きる希望を一瞬に奪われ無残に殺された20数万の死者は、生き残ったものにとって、親であり、子であり、兄弟であり、友人・知人であり、かけがえのない愛すべき人々だったのです。
原爆は、かろうじてこの「地獄」を生き延びた数十万人の人たちに放射線の後障害と深い心の傷跡を残しました。64年余を経た今日もなお、多くの被爆者を苦しめ続け、死に追いやっています。
アメリカ政府が占領下に開始した数万人に及ぶ被爆者の追跡調査は現在も継続しており、それらの調査は放射線の被害が今日も続いている深刻さを明らかにしています。
「報復」否定
被爆者は生涯いえることのない傷跡の痛みに耐え生きつづけ「二度とこの苦しみを世界の誰にも味わわせてはならない」と「核兵器なくせ!」と片時も休むことなく訴え続けてきました。この間、被爆者は決して「報復」することを唱えたことはありません。もしも3発目の核兵器が使われるようなことがあれば、それは地球と人類と、もろもろの生命の終焉を意味するであろうことを被爆者は体験を通して知っているからです。
核兵器は即座に廃絶を
どんなことがあっても核兵器を許してはなりません。それは即座に廃絶しなければなりません。核兵器は悪魔の兵器であり、人類と共存することはできません。被爆者の訴えにもかかわらず、地球上にはいまなお、2万発以上の核兵器が存在しています。このことに被爆者は耐え難いのです。じっとしていることができません。
近年、テロリストに核兵器が渡ることへの脅威から安全を保つねらいから「核兵器のない世界」を求める世界の世論が大きくなり、核軍縮への流れが広がっています。オバマ大統領の登場、プラハでの演説はアメリカの核政策を大幅に転換させつつあります。核兵器国を含む政府が核兵器の削減に対する政策を明らかにし、米ロの新たな戦略核兵器削減に対する合意も得られました。これらの動きは被爆者にとっての大きな励ましです。
しかし、核兵器国をはじめその同盟国は、核兵器の抑止力というドグマに染まり、核兵器の反人道性をみとめた核兵器廃絶への強い意志を明らかにしようとはしません。オバマ政権のアメリカでさえ、イランや北朝鮮に対する先制的な核攻撃の選択肢さえ残しています。核兵器が使用される危険はけっして遠ざかってはいません。
核兵器廃絶への明確な道筋を
被爆者は、世界のすべての国がNPTの遵守条項を誠実に実行し、2000年NPT再検討会議での13項目合意とりわけ、核保有国が自国の核兵器を廃絶するとの明確な約束を誠実に実行することを強く求めます。さらに、2010年NPT再検討会議で一層具体的な道筋が明確にされることを求めます。
被爆者は核兵器は人類と共存できない兵器だと主張しています。明確な道筋に沿った、すみやかな核兵器の廃絶に足を踏み出すことを強く求めます。
被爆者は、核兵器全面禁止条約の締結を提案した世界平和市長会議による2020ビジョンを歓迎し強く支持しています。しかも、核兵器禁止条約モデル案もすでにNPT再検討会議、国連総会に提案されています。核兵器の廃絶を一貫して求めつづけてきた、新アジェンダ連合、非同盟諸国会議などがイニシアティブを一層強めて、人道に反する核兵器のすみやかな廃絶に道筋を開らかれることを求めます。
被爆者は、2010年NPT再検討会議が核軍縮を優先課題とし、核兵器廃絶へ向けた確かな道筋と目標を明確にして、その実現をめざす多国間交渉を開始することを求め、日本の反核運動と手をたずさえて、2010年NPT再検討会議の成功のために努力します。
被爆者は、日本の政府に対して、アメリカの核の傘から離脱し、核兵器廃絶の国際的なイニシアティブをとることを求めると同時に、被爆者が受けた原爆の被害に対する国の補償を求めてたたかってきました。とりわけ、この7年間にわたって、306人の被爆者が原告となり、17の地方裁判所に提訴してたたかわれた原爆症認定にかかわる集団訴訟で、原爆の被害を小さく、軽く見せようとする政府の姿勢が司法によって厳しく指弾されました。すべての判決で勝訴しました。2008年4月から大幅な認定基準の改善策が取られ始めています。
原爆被害の真実を伝えて
核兵器が現実に使用されてから65年。日本の国の内外を問わず、核兵器が実際に使用された事実をも知らない人々が多くなっています。
すべての国が、ヒロシマ、ナガサキの原爆の被害の真実をとおして、核兵器の非人道性、悪魔性を自国の国民に教育し、核兵器廃絶への意思を醸成することを求めます。高齢化がすすむ被爆者にとって時間はそれほどありません。できる限り被爆者の証言に耳を傾け、被爆者の体験を人類の遺産として伝えられることを願ってやみません。
ふたたびヒバクシャをつくらないために、人類の生存のために
ノーモア ヒロシマ
ノーモア ナガサキ
ノーモア ヒバクシャ
ノーモア ウォー
5月2日日曜日の午後核兵器廃絶のためのNGO集会が開かれ、ニューヨークのタイムズスクウェアは1万人余りの人で埋まりました。
被爆者代表として登壇した木村緋紗子さん(宮城・広島被爆)は、8才で被爆したことを語り、「命を取り留めたものの、私のその後の人生は、幼いときから他人に話すことが出来ない苦痛な生活を強いられました。父9日、祖父12日、伯父・伯母・いとこたちは即死!次々と死んでゆく身内の姿を見ながら、なぜ、この様な状態で死に至らしめなくてはならないのか、当時、私には理解出来ませんでした」「8歳で突然父親を奪われた気持ちは、ずっと私の胸の中に残っています。73歳になった今でも、私は父に会いたい。父を返せ!」と証言。「戦争のない21世紀を求めて私は生き叫びます。原爆は受忍できない!核兵器を作るな!核兵器をなくせ!再び被爆者をつくるな!」と、力強く訴え、満場の拍手を浴びました。
5月7日のNGOプレゼンテーションで、各国政府代表を前に、谷口稜曄さん(代表団副団長・長崎)が演説しました。約300人の出席者は総立ち、鳴り響く拍手で谷口さんを讃えました。発言全文を紹介します。
議長、ならびにご列席のみなさま、長崎の被爆者、谷口稜曄でございます。
日本の被爆者23万と平和を愛する世界のNGOを代表して、ここで発言するという栄誉をお与えくださいまして、ありがとうございます。
被爆
私は1945年8月9日、16歳の時、長崎の爆心地から北方1・8キロの所を自転車で走っていて被爆しました。3千度、4千度ともいわれる強烈な熱線と放射線によって背後から焼かれ、次の瞬間、猛烈な爆風によって自転車もろとも4メートル近く飛ばされ、道路に叩きつけられました。
突風が過ぎ去ったので顔をあげて見ると、建物は倒され、近くで遊んでいた子供たちが、挨のように飛ばされていたのです。私は、近くに大きな爆弾が落ちたと思い、このまま死んでしまうのではと、死の恐怖に襲われました。でも、私はここで死ぬものか、死んではならないと、自分を励ましていたのです。暫くして、騒ぎがおさまったので起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっていました。背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ、手に黒い物がベットリついてきました。
それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっていました。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていました。吹き飛ばされた子供たちは、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいました。
女の人が、髪は抜け、目は見えないように顔が腫れふさがり、傷だらけで苦しみもだえていました。今でも、昨日のことのように忘れることはできません。苦しみ、助けを求めている人たちを見ながら、何もしてやれなかったことを、今でも悔やまれてなりません。
多くの被爆者は、黒焦げになり、水を求め死んでいきました。
生きのこった私
私は、夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着きました。女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取って貰いました。そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだけ拭いてもらいました。工場では新たな攻撃に備えて他の所に避難するように言われました。力をふりしぼって立ち上がろうとしましたが、立つことも歩くことも出来ません。元気な人に背負われて山の上に運ばれ、木の陰の草むらに寝かされました。周りに居る人たちは、家族に伝えて欲しいと自分の名前と住所を言い、「水を、水を」と、水を求めながら死んでいきました。夜になると米軍の飛行機が機銃掃射して来ました。その流れ弾が私の横の岩に当たって、草むらに落ちました。
夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくをしゃぶって一夜を過ごしました。夜が明けてみると、私の周りはみんな死んで、生きている人は見当たりませんでした。そこで2晩過ごし、3日目の朝、救護隊の人達に救助され、27キロ離れた隣の市に送られました。病院は満員で収容できず、小学校に収容されました。
それから3日後(被爆して6日目)、傷から血がしたたり出るようになり、それとともに痛みがジワジワと襲ってきました。一カ月以上治療らしき治療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけでした。9月になって、爆風で窓が吹き飛ばされたままの長崎市内の小学校で、大学病院が治療をしているとのことで、送られました。そこで初めて医学的な治療を受けました。まず輸血でした。でも、私の血管に輸血の血液が入っていかないのです。内臓が侵されていたのでしょう。貧血が激しくて、焼けた肉が腐り始めました。腐った物がドブドブと、体内から流れ、身体の下に溜まるのです。身体の下にはボロ布を敷き、それに体内から流れ出る汚物を溜めては、一日に何回も捨てなければなりませんでした。
その当時、火傷や怪我をした被爆者の身体に、蛆虫が湧いて、傷の肉を食べていました。私には一年過ぎてから、蛆虫が湧きました。蛆虫が傷口を齧るのがたまらなく痛いのです。
「殺してくれ」
この写真は約半年後の1946年1月31日に撮影されたものです。
私は身動きひとつできず、腹這いのままで、痛みと苦しみの中で「殺してくれ!」と叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想する人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては「今日も生きてる、今日も生きてる」とささやいておられました。家の方では、いつ死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。
身動きひとつできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。いまでも、胸は肋骨の間がえぐり取ったような深い溝になり、肋骨の間から、心臓が動いているのが見えます。
1年9カ月経ってようやく動けるようになり、3年7カ月経って、全治しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し、1960年まで休みなく治療を続けてきました。1982年頃から、ケロイドの所に腫瘍ができて手術を受けました。その後も医学的に解明できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。
あの日から半世紀が過ぎました。過去の苦しみなど忘れ去られつつあるように見えます。私はその忘却を恐れます。忘却が、新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます。私は、かつて自分をその一コマに収めたカラーの原爆映画を見て、当時の苦痛と戦争に対する憎しみが、自分の身体の中によみがえり、広がって来るのを覚えます。
目をそらさないで
私はモルモットではありません。もちろん、見世物でもありません。でも、私の姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで、もう一度みてほしい。私は奇跡的に生き延びることができましたが、「生きる」とは「苦しみに耐える」ことに他なりませんでした。
かつて最大38万人いた日本の被爆者は、いま、23万に減りました。私たち被爆者は全身に原爆の呪うべき爪跡を抱えたまま、苦しみに耐えて生きています。
核兵器は絶滅の兵器、人間と共存できません。どんな理由があろうとも絶対に使ってはなりません。核兵器を持つこと、持とうと考えること自体が反人間的です。最初の核戦争地獄を生身で体験した私たちは、65年前のあの8月、核兵器の恐ろしさを本能的に学びました。核攻撃に防御の手段はなく、「報復」もあり得ません。もしも、3発目の核兵器が使われるならば、それはただちに人類の絶滅、地球とあらゆる生命の終焉を意味するでしょう。人類は生き残らねばなりません。平和に、豊かに。
そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。
私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。
長崎を最後の被爆地とするため、私を最後の被爆者とするため、核兵器廃絶の声を全世界に。
ノーモアヒロシマ
ノーモアナガサキ
ノーモアヒバクシャ
谷口さんの演説は、日本の新聞でも、中央紙、地方紙で大きく取り上げられました。
朝日新聞のウェブサイトでは、演説の全文(日本語)を掲載しています。アドレスは、http://www.asahi.com/special/plus/SEB201005080009.htmlです。
また、国連のウェブサイトで、英訳の全文と動画をみることができます。アドレスは、http://www.un.org/en/conf/npt/2010/ngopresentations.shtmlで、「Taniguchi Sumiteru」の項です。
被団協代表団は、会議や集会への参加、国連原爆展での証言のほか、約40カ所に及ぶ小学校、中学校、高校、大学、日本人学校、老人施設、個人宅での集まり、教会などでの証言に、全員で分担して臨みました。その一端を写真で紹介します。
1万人の人で埋まったタイムズスクウェアでの集会(2日)
コロンビア大学での証言(3日)
国連原爆展
パネル前での証言活動(5日)
ワシントン広島長崎平和委員会のスタインバック氏(手前左)も見学者に折り鶴を指導(3日)
被爆者の証言をもとに表現するプレイバックシアターのメンバーたち(3日)
シンポジウム「生存者の叡智」で発言する岩佐幹三さん(4日、ペース大学)
セントルークススクールで証言する木戸李一さんと証言をきく高校生(4日)
ニューヨーク市内デモ行進(2日)
先頭から連なる人波
日本被団協・日本生協連合同代表団の横断幕
潘基文国連事務総長(右)
ロシア(3日)
ブラジル(4日)
マレーシア(4日)
日本(4日)
ニュージーランド(4日)
フランス(6日)
スウェーデン(7日)
昨年11月急逝された前座良明長友会会長の遺志を継ぐ思いでNY行きを決意しました。前座会長はよく「今日の聞き手は明日の語り手」と話しておられました。
わたしは1歳4カ月の時広島で被爆し、爆心地近くで直爆を受けた女学校1年の姉を亡くし、被爆15年後に生まれた甥を小学1年の冬白血病で亡くしました。原爆は執拗にわが家族を襲っています。
原爆は絶対に人類と共存できない、抑止力という愚かな思考を即刻やめるよう世界の人々に訴えたい。国連本部ロビーでの被爆展、日系人のつどい、高校生、小学生との交流で前座さんの遺志を語りかけました。どこでも“どうしたら明日の語り手になれるか”と質問を受け嬉しかったです。
今日見聞きし心が動いたことを周りの人に話して欲しい、話し足りなかったら日本被団協のホームページを開いて勉強してほしいと訴えました。前座会長の遺志がいま世界に広がろうとしている…、NYに来たかいがあったと思いました。
成田での集合時、積み上げられた荷物の山と報道陣のカメラの放列に、覚悟を決めて参加したはずなのに、改めて緊張感を覚えた。
しかしニューヨークで温かく迎えてくださった多くのボランティアの皆さんと、10人のグループで至れり尽くせりのケアをしてくださった生協の皆さんに支えられて、なんとか任務を果たし終えた今、満足感で一杯だ。
パレードのとき、他の様子が知りたくて隊列を離れた。様々な服装、様々な横断幕、歌声、叫び声、笑い声…いいな、いいな、みんなの心が溶け合っている、大きなうねりになっている…そして署名に込められた熱い思いをどうかしっかり受け止めてくださいと祈らずにはいられなかった。
それぞれの証言の場で人々はほんとうに真剣に受け止めてくださった。私たちがニューヨークの人々の胸に蒔いた一粒の種が大きく育って、核兵器のない地球を実現するエネルギーになってほしいと切に願う。
最初に、ご支援いただいた皆様への感謝です。家族、八千代市民、千葉県友愛会、八千代市原爆被爆者の会、被団協事務局、全国の生協さん、現地のボランティア、米国の平和団体の方々に感謝。今回は、人は人のサポートで生かされている事を肌で感じました。
現地では神の配慮か同室の土屋さん(岡山)、証言活動でご一緒した中山さん(熊本)が素晴らしい方でした。お二人から多くのことを学びました。ご一緒できた時間は嬉しくて楽しくて幸せの時間の連続でした。
証言活動は今回が初めてで、緊張の連続でしたが、中山さんほか皆様のお陰で無事に終えることが出来ました。印象深いのは、アメリカの若い人達も私ども被爆経験者が直接お話しすることにより核兵器廃絶、戦争のない世界の重要性を理解してくれた事です。中山さんから学んだのは、日本の被害だけを声高に叫ぶだけでなく日本の戦争責任も認める事から証言に入ること。自分の証言に心を込めれば言葉は違っても必ず相手に届くと思いました。
個人の力は小さいかもしれませんが、神様から与えられたこれからの時間を、核兵器廃絶活動に使う覚悟が出来ました。
事前学習で原爆を語る
修学旅行の行き先に広島を選んだ中学校で、事前学習に地元の被爆者を招き、体験を学ぶことが恒例になりつつあります。静岡県原水爆被害者の会西遠支部の大和忠雄支部長(70)が案内を送ったことで、学校からの要望が増えました。
3月11日には、東陽中学校で杉山秀夫さん(86)=同会顧問=が証言。被爆後も放射能によって多くの人が苦しみ亡くなったことを語りました。
4月15日には曳馬中学校で渡邊明さん(84)=同会員=が証言。全滅した学徒のなかで我が子を探す親の苦しみを語りました。
支部長の大和さんは、両中学に同行し、原爆症認定の問題や、核兵器廃絶への願いなどを語りました。
話をきいた生徒からは「想像より被害がひどくて驚いた」「目をそむけたくなるけど、しっかりと見つめなければならないと思う」などの感想が出されました。
被爆者を招いた学校では、廊下や空き教室でのパネル展示、書籍・署名コーナーの設置、学年通信への戦争体験連載など、様々な工夫を凝らしています。東陽中学校では被爆者への配慮から、いちばん暖かい3階の音楽室を会場とし、4人の男性教諭が杉山さんを車椅子ごと抱えて階段を登りました。曳馬中学校では、渡邊さんがケロイド写真の切抜きを顔に当てたり、垂れ下がった皮膚に見立てた毛糸を指先に着けて再現を試みたほか、渡邊さんの描いた絵をスクリーンに大写しして見せました。
今後も証言の予定があり、打合せに調整にと地道な努力が続きます。
(静岡・杉山大)
原爆症認定集団訴訟千葉第2次訴訟の判決が、千葉地裁で5月25日にありました。原告4人のうちすでに認定された2人をのぞく2人について、1人を原爆症と認める勝訴判決でした。1人は認められませんでした。
今回認められた甲状腺機能低下症は、「新しい審査の方針」で積極認定の対象になりながら、今日まで認定されていなかったもの。
原告団・弁護団などは「声明」で、白内障の原告を認めなかった判断に強く抗議しつつ、「近時、認定申請の却下事案が増加傾向にあるが、本判決は、この『新しい審査の方針』の認定基準、運用について抜本的な見直しを迫るものである」と評価しています。
非核三原則の法制化を求める地方議会の意見書採択、4月17日以降5月26日までの報告分です。
北海道=奈井江町、千葉=香取市、東京=国分寺市 日野市、兵庫=宝塚市、福岡=八女市
非核宣言都市の議会で、まだ採択を行なっていないところがたくさんあります。各地の地元から働きかけて、採択をすすめましょう。
【問】先ごろ亡くなった父が、自分が死んだら広島の死没者名簿に名前を載せてほしい、と言い残しました。どうしたらいいでしょうか。
【答】原爆死没者名簿は、被爆地である広島と長崎にあります。
名簿に登載できる人は、広島と長崎、それぞれに投下された原爆によって被爆し死亡した人で、国籍や被爆者健康手帳の有無は問われません。
登載手続きは、広島市と長崎市在住の被爆者健康手帳所持者の場合は、死亡後、葬祭料申請手続きなどとあわせて申請できます。その他の地域に住んでいる人、また手帳を持っていない人の場合は、広島、長崎の市役所に問い合わせの上、申請書を送付してください。
問い合わせ先は、
広島=健康福祉局原爆被害対策部調査課 Tel:082ー504ー2191
長崎=原爆被爆対策部調査課総務係 Tel:095-829-1147
なお申請書は、広島市と長崎市のホームページから印刷することができます。
本紙361号(09年2月号)「証人さがし」掲載の玉井さんが、「掲載後2度ほど電話をいただいたが、よく聞き取れず連絡方法も聞けずじまいになってしまった」とのことです。再掲しますので、心当たりのある方はもう一度ご連絡をお願いします。
[再掲] 玉井 巖さん 昭和4年12月生まれ、愛媛県周桑郡丹原町出身。
昭和19年4月三菱重工長崎造船所に入社し、長崎三菱工業青年学校に入学しました。平戸小屋寮に入寮、後に飽ノ浦に移りました。寮では松山出身の沖原、八幡浜出身の萩森、高知県出身の高岡ほか2人と同室でした。工場は立神工場第2船台取付部で、小曾根初三郎組長、山下技師長、班長、同僚の向井、田中、高橋ほか1人と一緒でした。
20年8月9日は休みのため、沖原さんとふたりで諏訪神社に行く途中、馬町の食堂で被爆。17日に帰郷したまま家業を継ぐため退社しました。
連絡先(本人)=愛媛県西条市丹原町明穂乙97-1 Tel:0898-73-2380
◆4月19日、父が亡くなりました。82歳、悪性リンパ腫でした。父は1945年8月10日朝に、長崎の爆心地に着き、3〜4日その付近にいたと言っておりました。それ以外のことは何も話してくれず、ついに逝ってしまいました。
(福岡・48歳・男)
◆5月号“閃光”…井上ひさし氏の逝去は非常に残念でした。共に冥福を祈ります。“遊歩道の老人”も共感しました。
(千葉・79歳・男)
◆被団協から新聞が届くたび新たな思いにひたります。被爆者の声を読んで、頑張ろうと思います。のこされた人生、精一杯生きていこうと思っています。被爆者の苦痛の思いを語りながら。
(栃木・86歳・男)
◆65年忌が近づいてきました。あれから65年、非核三原則法制化こそ私たちの務めと思います。
(広島・68歳・女)
◆夫のライフワークは平和運動です。27歳の時から連続して出かける世界大会に、この2年は小学生になった孫たちも一緒に。私は小学校での読み聞かせに「おこりじぞう」や「ムッちゃん」などを取り上げています。私も戦争遺児として母の苦労を見て育ちました。孫たちに同じ思いをさせたくありません。
(愛知・65歳・女)
◆「世界へのメッセージ」の写真は何度見ても悲しい現実です。
(神奈川・66歳・女)