被団協新聞

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「被団協」新聞2009年 1月号(360号)

2009年1月号 主な内容
2面原爆症認定問題 非核水夫の海上通信
3面「日本被団協50年史」発刊
4〜5面“戦争に反対できる大人に”―中学1年生、肥田医師の講演に感銘
7面フィリピン平和団体代表と交流 静岡県被団協50周年
8面相談のまど ツボはここ 文芸

燃え上がる人間賛美

ヒロシマ・ナガサキから生まれた「明日の神話」

 岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」(縦5.5b幅30b)が昨年(08年)11月、東京・JR渋谷駅と京王井の頭線渋谷駅の連絡通路で公開されました。
 「明日の神話」は1967年から約2年をかけてメキシコで制作されましたが、 その後行方不明となり、壁画が見つかったのは2003年でした。
 発見から日本への移送までプロジェクトの中心となった岡本敏子さん(岡本太郎記念美術館長・05年4月死去)は、第五福竜丸展示館での「明日の神話」原画展(04年4月)のオープニングで、製作意図をこう話しました。
 「原爆の炸裂はすごいけれども、太郎のガイコツはばらばらになりながらも美しく燃え上がってる。原爆は凶悪だけれど、人間はもっと大きな力で原爆に立ち向かう。その瞬間に『明日の神話』がうまれるということなのね」
 映画監督の新藤兼人さんは同展に寄せたメッセージの中でこう述べました。
 「『明日の神話』には岡本太郎の怒りがこめられています。とうとう人殺しの武器はここまできたのです。/岡本太郎はこうした人間の悪行に対して、人間が持つエネルギーを賛美してきました。人間の力は偉大だから水爆に対抗できると岡本太郎は考えたのです」
 「燃える人」(55年)のテーマを拡大し、原水爆と人間を描いた大作「明日の神話」は、1日約30万人が往来する都心の街で、ヒロシマ・ナガサキ、福竜丸を語り、人それぞれに核時代の「明日の神話」を問いかけています。

年頭所感 牛の一散  坪井 直

 立ち会えないのか、どうなのか。核兵器廃絶の悲願達成の日は遠い。年月は容赦なく過ぎ去り、焦燥・憤怒・怨念が残照となり、いつまでも消えない。我思う。故に我時を嘆く。歳月は人を待たず、光陰矢の如しだ。
 原爆症認定に関わる訴訟から、何を学んだのか。原告団、弁護団、支援の会等の努力の跡を冷静に評価し、明日への糧としなければなるまい。
 さて、非核三原則の「持ち込ませず」は、米空母の日本寄港時に破られていた。米国の報道で明らかになった。日本政府よ、怒れ!
 防衛省高官のゆがんだ歴史観による国防論。さらに自衛隊の文民統制を不服とし、戦時についての政府見解を逸脱・否定する等、言語道断の行動は断じて許されない。核兵器の保有を力説し、報復手段としての使用を公然と断言している。彼にはぜひ被爆地を訪ねて欲しい。また、国民の税金支給で成り立っている公務員は、憲法尊重擁護の義務(憲法99条)が示されている。地位の悪用は追及されるべきだ。
 金融パニック、不況による弱い者いじめ、続出の失業者、強盗、殺人、詐欺、横領…世はまさに絶望の巷か。いやいや。“憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力ためさん”
 ところで、私は7回りめの干支(丑)にいう年男です。人生の節目として年間を有意義に過ごしたく、年頭に老牛の一散を誓いました。皆様のご多幸、ご健勝を、新春の慶びとともに心から祈念いたします。

原爆症認定申請の滞留に対し”不作為の申立て”

 日本被団協と、原爆症認定集団訴訟全国弁護団などは、原爆症認定申請が長期にわたって滞留している問題で、行政不服審査法に基づいて、厚生労働省に対する「不作為の不服申立て」をすすめていくことにしました。
 これは「申請に対し回答しないのはおかしい」と異議を申し出る制度で、申立てを受けると20日以内に何らかの回答をしなければなりません。原爆症認定申請の滞留は、厚労省によると08年10月末で7553件。この申立てをすることで滞留の現状を打開し、さらに認定行政の抜本改善を迫ろうというものです。
 12月9日には兵庫県を中心とした近畿で50人、三重で1人が申立てを行ないました。
 日本被団協などは、申請後6カ月以上を経て回答のない申請者を対象に呼びかけて、当面3月まで、全国で日を決めていっせい申立てを行なうことにしています。

厚労省と第9回協議 認定申請滞留7553件

 被団協、全国原告団および弁護団の3者と厚生労働省との第9回協議が12月2日ありました。
 被団協側は、原爆症認定申請者の審査の滞留の問題、新方針のもとで初めて出された却下処分(旧基準での最後の却下から15カ月ぶり)の問題など厳しく追及しました。
 厚労省側は却下となった9人について、5人が爆心地から7・5〜9`の直接被爆者、4人が8日目〜11日目までの入市被爆者であり、申請疾病は、脳出血、脊椎カリエス、胆管がん、胃がん、骨粗鬆症、腰痛、全身倦怠感、慢性気管支炎、糖尿病、高血圧、変形性頸椎症、甲状腺良性腫瘍、高トリグリセライド血症、脂肪肝、変形性脊椎症、前立腺肥大、胸椎圧迫骨折であったと説明。被爆条件と疾病との関係の手がかりになる情報は明らかにしませんでした。
 申請者の処分滞留については、10月末で7553件に及んでいることが明らかにされました。書類の不備が多いことを滞留のおもな理由としていますが、この大量の審査をどのような体制と日程で処理しようとしているのか、明確な方針は示されませんでした。

非核水夫の海上通信 核廃絶へ  川崎哲(ピースボート)

 核兵器廃絶への追い風がいま吹いている。
 もっとも注目されているのは、キッシンジャーら4人の元米国務長官が07年以来続けている「核兵器のない世界へ」の提言だ。これは、その後の国際軍縮交渉で必ず引用されるほどの影響力をもった。また先月には米ロなど保有国の政・軍元トップが「グローバル・ゼロ」という核廃絶運動を開始した。こうしたなか、「核兵器の究極的な廃絶」を掲げたオバマ政権が始動する。
 一方マレーシアやコスタリカによる核兵器禁止条約の提案も活発化している。禁止条約案には潘国連事務総長も積極姿勢を示した。NGOのキャンペーンも元気だ。平和市長会議は、NPTを強化して20年までに核廃絶する「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を提案し広がりをみせている。
 まず保有国が行動するのか、それとも非核国が条約を作るのか。アプローチは異なれど、風は確かに吹いている。2009年は歴史的に重要な年になる。

「ふたたび被爆者をつくるな―日本被団協50年史」

 日本被団協の運動の歴史をまとめた『ふたたび被爆者をつくるな――日本被団協五〇年史』が、今春刊行されます。B5判2冊組み箱入り、本巻490n、別巻310nで、定価12000円(税別)です。
 日本被団協史編集委員会委員長・藤平典さん(被団協代表委員)に話をききました。

 

被爆者運動50年の歩みを生き生きと

 本書の中身の大きな流れは、下にご紹介している「目次」を見ていただければわかります。原爆投下から被爆者運動の観点で時代を区切り、記述しました。別巻は資料と年表です。年表に120ページを割き、見開きで被爆者運動と政治の対応、日本の動きと世界の動きが一覧できます。
 執筆にあたっては、その時々の被爆者の運動の息吹を生き生きと伝えることを目指しました。
 被爆者のみなさんは本書を読んで、自らの半世紀を超える運動をたどってほしいと思います。そうすることによって、被爆者運動の世界史的意味をおさえ、自分たちの運動に確信を持つことができると思います。
 そして運動を支えてくださった多くの人と、次の世代に受け継いでもらいたいのです。

“被爆者運動史”として初の刊行

 日本被団協は1956年8月10日に結成されました。今年2009年は53周年になります。ここにきて年史を刊行することができ、本当にうれしく思っています。
 結成30周年(87年)のとき、被団協の運動の歴史をまとめようという話がでたのですが、「年表・日本被団協三十年」をまとめることで精一杯でした。
 今回の刊行につながる「日本被団協史」編集委員会が発足したのは96年1月でした。各都道府県被団協に依頼しそれぞれの会史をまとめた「都道府県被団協史(抄)」を同年に発行し、翌97年には「年表・日本被団協四十年のあゆみ」と、「日本被団協史―時代のあらまし」を発行しました。
 今回完成の50年史は、全国規模での被爆者運動史として、初めての刊行物となります。

編集作業13年

 当初「40年史」刊行をめざして進めていた編集作業でしたが、結成50周年を迎え、書名を『ふたたび被爆者をつくるな――日本被団協五〇年史』と確定してから急ピッチで作業を進め、ようやく完成にこぎつけました。
 話が出てから20年、編集作業を始めてから13年が経ちました。完成を待ちながら亡くなった方々のことを思うと、無念でなりません。

私たちの「遺産」

 この本は、被爆者のたたかいの記録です。私たち被爆者の遺産として、世代を超えて受け継いでほしいと思っています。

 「日本被団協50年史」の内容―目次から
 B5判2冊組み(箱入り)12000円+税
 本巻490ページ 別巻310ページ
 本巻
 第1部 「日本被団協50年史」
 刊行にあたって
 写真でたどる日本被団協の50年
 〔本編〕
 T原爆地獄     1945年8月
 U日本被団協前史  1945年─1955年
 V日本被団協の結成 1956年─1970年
 W「要求骨子」をかかげて  1971年─1976年
 X七七国際シンポから「基本要求」へ  1977年─1984年
 Y「基本要求」をかかげて  1985年─1989年
 Z被爆四五周年運動と「援護に関する法律」  1990年─2000年
 [ふたたび被爆者をつくるな、核兵器なくせ戦争のない世界を  2001年─2006年
 〔特別稿〕
 1被爆者中央相談所の活動
 2日本被団協国際活動の五〇年
 3被爆者援護と補償をめぐる裁判の歩み
 第2部・各県被団協史
 全都道府県被爆者組織の歩み

 別巻 資料と年表
 ◇資料編
 ポツダム宣言 トルーマン「原子爆弾に関する声明」 広島・長崎原爆についての大本営発表 原爆投下についての日本政府の抗議文 ラッセル・アインシュタイン宣言 第一回原水爆禁止世界大会・広島宣言 日本被団協結成大会宣言「世界への挨拶」 原爆被害者大会の決議 日本被団協結成時の規約・活動報告 初期の被爆者援護法案要綱 東京地裁原爆裁判判決 原爆被害の特質と被爆者援護法の要求(つるパンフ)
 ……など、63編収録
 ◇「年表・日本被団協のあゆみ」(123ページ)
 「被爆者の運動」「政治の対応」「国内の動き」「世界の動き」を見開きで一覧できます。

”戦争に反対できる大人になりたい”

 埼玉県朝霞市の朝霞第一中学校で10月24日、肥田舜太郎さん(日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長)が広島被爆の実相を語り、「戦争に反対する大人になってほしい」と訴えました。1年生300人が1時間余、身じろぎもせず聴き入りました。感想文「肥田先生への手紙」240通から、生徒たちが受けた感動の一端を紹介します。一中の中條克俊先生に事前学習などの報告、肥田さんに講演の要点と感想を寄せていただきました。

信じたくない、でも本当にあったこと

 ▽私は今まで「赤い背中」、「サダコ」、映画「はだしのゲン」などを見て来ました。実を言うと全てピンと来ていませんでした。こんなの現実ではありえないと思ってしまう部分も少なくありませんでした。今回やっと理解したというか、この話は本当なんだと実感しました。肥田先生のあつい思いが伝わったからだと思います。本当にあったという恐怖が今も心に残っています。
 ▽ビデオなどで見るよりも、実際に話してくれるのはちょっとちがう感じで、その時のつらさなどが伝わってきました。爆発後の数十秒間後に病院にいた597人の人達がそく死してしまうなんて、建物の中にいた人達までも亡くなるのはとてもおそろしかったです。
 ▽証言の中で心に残った言葉は「青いヒロシマの空が赤い火の輪になって、真ん中の白い雲がどんどんふくらんでゆく…」、奈落へ、残酷に、無残…、こんな言葉が思いつきました。
 ▽「人間の形をしていて全体が真黒で裸のおばけのような人々が歩いてこっちに向かってきた」と言っていたときに、とても怖い気持ちになりました。今、この町に原爆が落ちたら、私もおばけのようになるんだと思うと、今も、とても、とりはだがたちます。
 ▽人の肌がくさって真っ黒になるなんて、想像ができませんでした。原爆が落とされて、一瞬にして亡くなった人も多いですが、生き残った人は白血病などで血をはいて亡くなってしまうという事は、信じたくない現実でした。でもこれは63年前本当におこった事で、うけとめないといけない事で、絶対に忘れてはいけない事です。

僕らに伝えようとする気持ちに感動

 ▽原子爆弾が落ちる前から、原子爆弾の落ちた後までの話を、すわらずに、ずっと立って語る姿を見ると「戦争はやめよう」「原子爆弾をなくそう」という気持ちを、僕たち朝霞一中の生徒に伝えようとする気持ちがすぐわかりました。
 ▽肥田さんは91歳ということもあり、歩くのもすごくゆっくりなのに、2時間ずっと立ち続け、熱く語ってくれました。私はまずそこで肥田さんの気持ちが強く伝わり、とても感動しました。
 話の内容は、今では想像もできないほどのお話でしたが「人間がこんなに苦しんで死んでいく」とリアルに伝わり、現地で手あてしていた肥田さんの必死な気持ちも、すごく伝わってきました。
 ▽91歳にもなるのに、約62年間も前の事を覚えているということは、戦争はおそろしいものなんだという事がよく分かりました。私だったらいやな戦争の事を思い出したくなく、話さないと思うのに、肥田さんは警察に捕まってしまっても、世界の人々にも知ってほしいと、62年間で33カ国も外国に行ったなんて、とてもすごい人だなと思いました。
 ▽改めて戦争、原子爆弾のむごさ、そして馬鹿馬鹿しさを感じました。
 それ以上に、自分の考えを誇らしげに話す肥田さんの姿を見て、そして今でも世界中、全国各地で語り続けているということを聞き、自分の考えを強く持ち、それをたくさんの人に伝えていくことの素晴らしさを感じ、とても感動しました。
 ▽肥田さんは、被爆者で、今生きている人がいなくなっても、全世界、全国に、戦争はやってはいけないということを伝えていく!!と言ってましたよね!? 私は、その強い気持ちがすごく胸にひびきます。

私にもできることを実行したい

 ▽原爆は、人の形、人の心をこわすとてもおそろしいものだと分かりました。肥田さんが私たちに伝えたいことは、「戦争はしてはいけない」という気持ち、あと、戦争で亡くなった人々がいるということを忘れず生きていってほしいことだと思ったので、このことを心にしまい生きていきます。そして未来の子供たちに伝えていきます。
 ▽肥田さんが言った、「また戦争がおこるとなった時に、まちがっていると言える大人になってほしい」という言葉がすごく心に残っています。戦争は犠牲者がたくさんでるし、決して正しいことではないので、誰が何と言おうと「戦争は間違っていることだ」とはっきりいえるような、強い大人になりたいです。
 ▽最後に肥田さんが必死で「戦争は絶対にいけない」と話してくれて、私たちの子供たちにも、肥田さんのような体験をした人のことを伝えていかなければいけないなぁと思いました。
 ▽「正しい知識をもって、戦争をやらず平和を守ってほしい。人を殺さない、自分も殺されない」。この事をしっかり頭に入れ、自分が大人になったとき、本当に平和な世の中を作り上げて行きたいです。
 ▽私は、実際に戦争というものを目に見たことがありません。いいえ、絶対に見てはいけないと思います。戦争は、絶対にあってはならないのです。現在イラクなどで戦争が続いていますが、何のためにやっているのかさっぱり分かりません。世界は、戦うことではない、別の方法で物事をすることを学ばなければいけないと思います。肥田さんのお話を聞いて私にもできることはないのかを考え、どんどん実行していこうと思います。

中1に「原爆」を語って 肥田舜太郎

 中学1年生に理解できるように原爆と戦争の話をしてほしい、と頼まれ、難しいと思ったが、事実を話そうと考えて引き受けた。
 生徒は300人。直接被爆者や入市した人たちが次々に死んでいった、実際の“死に様”を話した。被爆直後、3日後、1週間後、半年後から1年、5年、30年後と時を追って、原爆が今も被爆者を殺し続けている実情を話した。
 今では広島・長崎とは比べものにならない核兵器がつくられていて、いったん核戦争が起これば、勝つ者も負ける者も、人類全部が放射線で死に絶えてしまう危険があることを訴えた。
 戦争はテレビや漫画で見るようなカッコいいものではなく、相手より先にどれだけ早く、より多くの人間を殺すかで勝負が決まることを知ってほしい、と語った。
 最後に――みなさんが大人になるころ、核兵器を持とうとか、国を守るためには戦争すべきだ、という意見にぶつかるときが来るだろう。その時には今日の私の話を思い出して「核兵器は持ってはいけない」「戦争してはいけない」のふたつを、勇気を持って言える大人になって欲しい、と結んだ。
 中学1年生がどう受け止めてくれるか、私は緊張していた。が、初めから終わりまで、全員の目が私に集中して、横を向いたりうつむいたりした生徒はひとりもいなかった。終わって、感謝の言葉をのべてくれた女生徒が、涙まじりのとぎれとぎれの言葉で「先生の話を両親や祖父母に話します」と言ってくれたとき、私も思わず目頭が熱くなった。
 何千回も話した体験語りの中でも画期的な経験でした。

今こそ平和学習を

埼玉県朝霞市立朝霞第一中学校教員(社会科担当)中條克俊(52歳)

 2007年、当時の防衛大臣が「原爆投下はしょうがない」と発言したことは忘れることができません。平和学習の原点に立ち戻る必要性を強く感じました。今こそ平和学習を体系的にできないかと考えました。そこで「総合的な学習の時間」の3カ年計画(08年〜10年)を作成し、今年度より学年教員集団でその実践に取り組むことにしました。3カ年通してのテーマは「平和・人権・民主主義」にしました。
 1年総合学習では、@平和学習入門(NHKスペシャル『赤い背中―原爆を背負い続けた60年』と『サダコ―ヒロシマの少女と20世紀』の視聴)A平和学習連続講座(学年教員が講師)Bアニメ『はだしのゲン』鑑賞C被爆医師肥田舜太郎さんの証言に学ぶ集いD平和アピール作成E平和学習フィールドワーク(原爆の図丸木美術館と埼玉県平和資料館)Fピース・リポート08の7段階の学習を設けました。私たち教員も子どもたちと一緒に学ぼうと、プログラムを作成しました。
 この間に『赤い背中』の谷口稜曄さんと手紙で交流し「二度と戦争が繰り返されないよう皆さんが平和な社会をつくっていってください」と励ましの言葉をいただきました。アニメ『はだしのゲン』では、多くの生徒が原爆の恐ろしさ、平和の大切さをそしてゲンのたくましさを述べてくれました。
 ゆたかな事前学習を経て「被爆医師肥田舜太郎さんの証言に学ぶ集い」を開きました。子どもたちのみならず、保護者と私たち教員も肥田さんの話に驚き、おびえそして核兵器廃絶の大切さを学びとることができました。すぐに子どもたちはお礼の手紙を書きました。後日、子どもたちへのエール「命を大切にして、日本の国を支える大人に成長するよう、よく遊びしっかり勉強してください」の返信をいただき感激しました。そして「朝霞一中平和アピール」を作成し、11月18日の平和学習フィールドワークに向かいました。
 今後の課題は、1年生300人が現実の学校生活の中で平和とは何かをどこまで追求できるかです。そして、世界を見据えた平和認識をどこまで獲得することができるかです。みんなの成長が楽しみです。

フィリピン・ミンダナオ代表と交流

 日本被団協は11月24日婦人団体や原水禁運動団体、平和運動団体などの代表とともに、フィリピン・ミンダナオ地方の女性団体の代表と会談しました。田中熙巳事務局長と岩佐幹三事務局次長が参加しました。
 ミンダナオからは、市会議員や大学職員など5人。ミンダナオ地方での民主化への取り組み、女性の地位拡大、教育問題、雇用問題など、現状についての報告がありました。また、フィリピンの米軍基地と平和運動などについても話題にしました。
 ミンダナオ地方は、キリスト教徒が多いフィリピンの中でイスラム教徒が多い地域で、5人の代表のうち4人がイスラム教徒。武力独立派の問題が誇大に報道されていることへの憂慮を表明していました。
 06年11月に日本被団協代表として、石川県原爆被災者友の会の西本多美子さんがマニラを訪問した成果も話題になりました。そして次の機会には是非、被爆者にミンダナオ地方を訪問してほしいとの要請を受けました。

わが街の被爆者の会 兵庫県被団協

 兵庫県被団協には現在22の地域の会があり、会員数は2416人にのぼります。県内手帳所持者の約半数です。残念ながら、会長職を継ぐ人がいないのを理由に、07年と08年にひとつずつ地域の会が解散しましたが、まだまだ頑張っています。
 毎年秋に、泊り込みで相談事業研修会を行なっています。今年は11月に神戸で開催し、県内各地から43人が参加しました。東神戸診療所所長・郷地秀夫医師の講演のほか、各地域の会から現況報告と問題提起を受け、活発に意見交換。夜の懇親会も含め有意義な研修会になりました。

結成50周年式典・祝賀会 静岡県被団協

 静岡県原水爆被害者の会は11月23日結成50周年を記念して式典・祝賀会を開きました。来賓など約60人が参加しました。
 式典では、県被団協の活動に貢献した団体・個人に感謝状・表彰状が贈られました。DVDによる映像「静岡の50年」を上映し、50年にわたる被爆者運動を胸に刻みました。また、県知事表彰が川本司郎会長に授与されました。
 祝賀会では、来賓のあいさつに続いて、会員による「南京玉すだれ」などのアトラクションが披露されて盛り上がりました。最後には「原爆を許すまじ」の全員合唱で会を閉じました。

設立35周年迎える 第五福竜丸平和協会

 静岡県原水爆被害者の会は11月23日結成50周年を記念して式典・祝賀会を開きました。来賓など約60人が参加しました。
 式典では、県被団協の活動に貢献した団体・個人に感謝状・表彰状が贈られました。DVDによる映像「静岡の50年」を上映し、50年にわたる被爆者運動を胸に刻みました。また、県知事表彰が川本司郎会長に授与されました。
 祝賀会では、来賓のあいさつに続いて、会員による「南京玉すだれ」などのアトラクションが披露されて盛り上がりました。最後には「原爆を許すまじ」の全員合唱で会を閉じました。

相談のまど

有料老人ホームでの介護保険利用は?

【問】私は現在有料の老人ホームに入所していますが、ここで介護保険は利用できるのでしょうか。今後のことを考えると不安です。
 *  *  *
【答】老人福祉法で定める有料老人ホームは、「常時10人以上の老人を入居させ、食事の提供とその他日常生活上必要な便宜を提供することを目的とする施設であって、老人福祉施設でないもの」となっています。最近では入居者が9人以下でも、また食事やその他日常生活に必要なサービスを他者に委託している場合でも、有料老人ホームとみなされています。
 このような有料老人ホームが、「特定施設入居者生活介護」の事業所となっていれば、入居者が介護保険の要介護認定をうけたとき、介護保険の給付が受けられます。
 あなたの入居しているホームが、「特定施設入居者生活介護」の事業所であれば、介護保険は利用できます。ホームに確認してください。
 ケアサービスと住居を合わせて提供する「ケア付き高齢者住宅(有料老人ホーム、高齢者向け賃貸住宅など)」への入居希望が、最近高まっているといわれます。このような施設への入居にあたっては、その施設の事業・サービス内容とともに利用できる公的制度など、十分な情報を得るようにしましょう。

ツボはここ 血液の循環に十宣

 新年が明けました。温暖化がいわれますが、寒暖の差が大きく、高齢者の身体には決してうれしいことではありません。
 高血圧や狭心症など循環器の病をもっている人は、特に気をつけましょう。
 夏は血液の流れは比較的順調ですが、寒さがつづく冬季は体内の血液の流れが悪くなり、脳梗塞や心筋梗塞の発症をまねきます。
 それを防ぐため「十宣(じゅうせん)」の刺激をしてください。 手の指の先端に左右合わせて10のツボがあります。反対の親指の爪を立てて強く押します。回数は各ツボに5〜6回。つまようじなどで刺激しても効果があります。
 身体の先端を刺激して、とどこおっている血液を呼ぶ気持で、1日に2〜3回を目安に毎日つづけてください。

被爆者手帳取得の証人さがし

 松岡 重義さん 昭和5年12月生まれ、佐賀県西松浦郡松浦村出身。
 昭和20年4月に長崎の三菱兵器製作所に就職、3カ月の研修後7月から浦上工場勤務となりました。寮は道ノ尾でした。
 8月9日、工場で3人一組の魚雷部品仕上げ作業中に被爆。工場が全壊し、負傷して意識不明となり、あとの2人に助けられて浦上天主堂に避難しました。夕方までに意識を回復し、3人で線路伝いに寮まで帰り、13日には佐賀の実家に戻りました。
 連絡先(本人)=大阪市西区南堀江2‐7‐17‐204 電話06‐6541‐8712
  *  *  *
 真田 知己さん 昭和3年1月生まれ、岡山県玉島市出身。
 昭和19年10月大竹海兵団に入団、20年1月館山海軍航空隊付になり、同年4月には呉海兵団所属となり、8月6日は呉の船上からきのこ雲を見ました。
 翌7日、広島市内にある軍の食糧庫から肉を運んでくるよう命じられ、4〜5台のトラックの荷台に分乗して広島に向かいました。途中からは徒歩で、大きな川があり、帰りもたくさんの死体が浮かぶ中、肉をかついで渡りました。近くで工場が燃えていました。
 連絡先(妻・洋子さん)=倉敷市玉島黒崎4764 電話086‐528‐1084
 *  *  *
 中西 順憲さん 大正15年11月生まれ、高知県高知市出身。
 昭和20年6月現役兵として船舶工兵第6聯隊補充隊第3中隊に入営し、7月船舶通信隊補充隊に分遣となり山口県柳井港にいました。
 8月9日、軍の命令でトラックに分乗し、広島に行きました。2人一組となり、タンカで死体の収容にあたりました。近くの学校に大きな穴があり、そこに運んで油をかけて焼きました。その学校の校舎内には負傷者が収容されていましたが、そこで亡くなった人も穴に運んで焼きました。
 14日ごろ帰隊命令があり、広島駅から兵隊専用の汽車に乗って柳井まで戻りました。
 連絡先(本人)=門真市千石東町3‐43‐201