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《 凡 例 》 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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古墳と川 藤井寺市の地理的特徴の一つに古墳と川が挙げられます。古墳は4基の天皇・皇后陵をはじめ、大小合わせて30基近くの古墳が現存し ています。これらの古墳は、「古市古墳群」と呼ばれる一大古墳群の約6割を占める存在です。かつては民有地となっていた古墳も次々と 公有地化され、保存・保護の行政的措置が講じられると共に、発掘調査による考古学的研究も進められています。津堂城山古墳・古室山古 墳・野中宮山古墳のように古墳公園として整備された古墳もあり、平地部での限られる公園を補う場所として、四季折々の市民の憩いの場 となっています。旧石器時代から続く複合遺跡として有名な「国府(こう)遺跡」も、近年公有地化の保存策がとられ、整備が進められています。 こられの古墳や遺跡の部分が、藤井寺市の面積に占める割合はかなりのもので、もともと面積の少ない藤井寺市にあっては、少々辛いと ころでもあります。しかも、宮内庁管理の陵墓については、行政も市民も立ち入ることが許されず、一切の手出しができない場所となって います。もっとも、人の入らない大型古墳があることで、都市化した藤井寺市でもけっこう多くの野鳥の姿を見ることができます。 地図の中でグレーになっている古墳は、同じ古市古墳群に属する古墳ですが、隣接する羽曳野(はびきの)市に存在しているものなので、無彩 色で表しました。市外のことですが、古墳の多さを見てもらえるよう敢えて地図に入れました。 古墳と並んで多くの面積を占めているのが、大和川・石川の河川敷や堤防の部分です。地図でわかるように、市の北部と東部が大きな川 に接しており、かなりの面積が河川敷となっています。航空写真で見ると、この河川敷の部分には小中学校などが何校分も入る広さである ことがわかります。貴重な市の面積をただただ河川として見ているだけではもったいない、というわけでしょうか。野球用グラウンドやテ ニスコートが何箇所も造られています。大阪府の造ったサイクルロードもあります。限られた土地の有効活用ということでしょう。 ![]() ![]() ![]() ![]() 地区名に残る昔の村 藤井寺市には現在31の地区があります。地図中で赤字で表示してあるのが各地区名です。広い地区や世帯数の多い地区は、さらに丁目 で区切られています。地図中の地区名で、「○○町」となっている地区は丁目区分のない地区です。 現在の藤井寺市域には、明治22年の最初の合併が行われるまでは、14の村(大字)がありました。その14の村の名前が、現在でも各地区 の名前の中に全て残っています。「津堂・丹北小山・志紀小山・岡・藤井寺・野中・大井・林・沢田・古室(こむろ)・北條・船橋(ふなはし)・国府(こう) ・道明寺(どうみょうじ)」が、昔の14の村です。この14の村が現在の藤井寺市という一つの市を構成していますが、もともとは、3つの郡に分か れて属していました。小山村は丹北(たんぼく)郡と志紀郡の両方にあり、1本の街道をはさんで隣接する存在でした。後に郡をまたいで合併し、 一つの小山村となって今日の小山地区につながっています。 14の村名以外の地区名は、合併をくり返して町制や市制を施行していく中で、人口の増加に合わせて新たにつくられてきたものです。 旧村の一部を分割する形で新しい地区名がつくられましたが、旧村の名前が消えることはありませんでした。 14ヵ村の時代から藤井寺市成立までの詳しい経過については、別ページをご覧ください。 ![]() ![]() 広がってきた交通網 現在の藤井寺市には、多くの市道のほかに、2本の鉄道路線と幹線道路として2本の国道、何本かの府道が通っています。これらの鉄道 や幹線道路は、近代日本となった明治の初めにはどれも無かったものです。最初にできたのは、1898(明治31)年の鉄道、現在の「近鉄道明 寺線」でした。この路線は、現在運行されている「近畿日本鉄道」の数ある路線の中で、最も古い歴史を持つ路線です。次いで、大正時代 には現在の「近鉄南大阪線」が開通しました。藤井寺駅や土師ノ里駅が開業したのもこの時です。この頃は、自動車輸送はまだ一般的な普 及は無く、物資輸送も人の移動も鉄道が中心でした。 産業発展のために自動車輸送の必要性が高まり、新しい広い道路が建設されてきたのは昭和に入ってからでした。大阪市の人口が東京市 (当時は東京府)を越えて日本一の大都市となったのもこの頃です。昭和13年(1938年)には、大阪府の「産業道路・八尾富田林線」(現・国道 旧170号)が開通し、新たに河内橋(大和川)も架設されました。また、同じ年に「府道八尾羽曳野線」(現・府道186号大阪羽曳野線)も開通 しています。この2本の道路が、藤井寺市域を通る最初の新設幹線道路でした。それまでは江戸時代からの馬車道程度の道路しか無かった 町や村に、南北に通り抜ける広い道路が登場したのです。日中戦争勃発の翌年のことでした。 ![]() ![]() 戦後次々と新しい幹線道路が 戦後の昭和30年代初めには「府道・国分堺線」(現・府道12号堺大和高田線)が開通し、そのために石川橋(石川)も新しい橋に替えられま した。この道路は、古代から続く長尾街道のバイパスとしてこの街道とほぼ並行して造られました。堺市の湾岸部と奈良県方面を結ぶ東西 向きの幹線道路として、現在も重要な役割を担っています。もともと幹線となる東西向きの道路が乏しかったからでもあります。 昭和40年代になると、大阪万博(日本万国博覧会 1970年)の開催に向けて、さらに新たな道路の建設が大急ぎで進められました。高速道 路が藤井寺市を通ることになり、「藤井寺インターチェンジ」が設置されました。南河内地方を初めて通る高速道路、一般有料道路「西名 阪道路」(4年後高速自動車国道として「西名阪自動車道」に改称)が昭和44(1970)年3月に開通しました。万博開催の1年前のことです。 次いで、この年の12月には主要地方道「大阪外環状線」(現・国道170号)の沢田交差点以北が開通しました。旧大井橋に代わる新大井橋 も開通しました。その後、大阪外環状線は順次延伸されて、昭和57(1982)年4月には「一般国道170号」に制定されました。関西空港建 設の決定に合わせ、当初の区間を変更して〈高槻−泉佐野間〉となりました。バイパスとしてのこの国道170号新線は、平成6(1994)年8 月に泉佐野市までの全線が開通しました。 昭和40年代にはもう1本の道路、「府道堺羽曳野線(府道31号)」も開通しています。この道路は、西へ進むと途中から府道2号大阪中 央環状線と重複して堺市に入ります。そして大阪湾岸までつながっています。 |
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