江戸時代は14の村 現在の藤井寺市域には、江戸時代の終わり頃には14の村がありました。これらの村は河内国内の三つの郡に属する村でしたが、その支配 関係は複雑でした。江戸時代になってから大坂の町は幕府の直轄地となり、現在の大阪府である摂津・河内・和泉の国でも、幕府領と藩領 ・旗本領などが入り組んだ状態になっていました。他の地方の国のように一つの藩が広い地域を一括支配するような形態ではなかったので す。これは、それまで大坂の地を根拠地としていた豊臣氏の勢力を排除すると共に、経済的・軍事的に重要な都市であった大坂や堺を直接 支配することを目指したものでした。 藤井寺市域にあった14の村では、野中・岡が幕府領で、大井・国府・林・古室が和泉国伯太藩領、船橋・藤井寺が相模国小田原藩領、 沢田が上野国沼田藩領、津堂・志紀小山・丹北小山・北條が旗本知行地となっていました。また、道明寺村は一村まるごと道明寺の寺領で あり、古室の一部も社領として誉田八幡宮(羽曳野市)の支配を受けました。 三つの別々の郡に属するこれら14ヵ村は、明治時代になってからも、しばらくの間はそのまま郡の区分が引き継がれていきました。 明治22(1889)年に全国に市町村制度が施行され、全国各地で最初の大合併が行われました。その時に、14の村が、まず四つの大きな村 に合併・統合されました。その後、旧郡の区域を越えて合併がくり返され、70年後には現在の藤井寺市域が初めて一つの行政区となりまし た。さらにその7年後、市制施行によって藤井寺市が誕生したのです。 14ヵ村の支配と管轄 明治元年、14ヵ村の内、藩領以外の幕府領・旗本知行地・寺社領の7村は大阪府司農局(後に南司農局)の管轄となりました。明治2年 1月には司農局が大阪府から分離して河内県となり、道明寺・北條・船橋・古室・藤井寺・野中・岡の7ヵ村は河内県の管轄となりました。 大井・国府・沢田・林・小山・丹北小山・津堂の7ヵ村は藩領のままでした。 明治2年8月には河内県が堺県に併合され、所属の7ヵ村は堺県の管轄に変わりました。翌明治3年3月には、宇都宮藩預所となってい た志紀小山・丹北小山・津堂の3ヵ村も堺県の管轄に入りました。そして、明治4年7月に廃藩置県が行われると、伯太藩領となっていた 大井・国府・林の3ヵ村は伯太県に、沼田藩領となっていた沢田は沼田県(後群馬県)の管轄となりました。さらに同年11月の府県の整理 併合により伯太県の3ヵ村と群馬県の沢田も堺県に編入されました。これにより、14ヵ村の全てが堺県に属するところとなったのです。こ の時の堺県は和泉・河内の旧2ヵ国全域がその領域でした。 明治9年4月には奈良県が一度廃止されて、旧大和国全域が堺県に併合され、大変広域な堺県となりました。この堺県も明治14年2月に 廃止となって大阪府に併合され、その後、明治20年11月に奈良県を分離して今日に至っています。 「郡」の区分 複数の村をまとめる単位として「郡」がありますが、明治政府は郡に替えて戸籍法にもとづく「区制」を導入しました。堺県では明治 5年2月に施行されました。藤井寺市域では、旧志紀郡の9ヵ村が第18区、旧丹北郡の2ヵ村が第19区、旧丹南郡の3ヵ村が第21区とな りました。さらに、明治7年1月には「大区・小区制」が施行されましたが、従来の村の単位や習慣を否定する制度が不評で、政府は明治 11年に「郡区町村編制法」を制定しました。堺県では明治13年4月に施行されています。郡や町村の名称は江戸時代のものを継承するこ とが定められました。その後、明治29年の再編で旧河内国の郡は「北河内郡・中河内郡・南河内郡」に再編成されました。現在の藤井寺市 域が属する「南河内」という地区のくくり方はこの時に始まったと思われます。 |
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*** 地図で見る 藤井寺市のできるまで *** | ||
@ 江戸時代の終わり頃〜明治時代中頃 14の村は、志紀郡・丹北郡・丹南郡の三つの郡に分 かれて属していた。(大字(おおあざ)名はすべて「村」) 明治22年以前の大字名(『大阪府史第7巻 付図』を基に作図) |
A 明治22(1889)年4月1日の合併 14の村は、合併によって四つの大きな村に再編され た。津堂村・丹北小山村は小山村として志紀郡に編入さ れた。 |
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B 明治23(1890)年3月31日の合併 Aの合併の1年後に道明寺地区が一つになった。こ の後、明治29年に長野村は藤井寺村に名称を変えた。 明治29年からは南河内郡に属することになった。 |
C 大正4(1915)年11月10日の合併 藤井寺村と小山村の合併で藤井寺地区が一つになっ た。この後、昭和3年に藤井寺村が藤井寺町、昭和26 年に道明寺村が道明寺町と、町制を施行した。 |
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D 昭和34(1959)年4月20日の合併 藤井寺町と道明寺町が合併して、現在の藤井寺市域 が初めて一つの行政区域となった。1年後には公募に より「美陵町」に町名を変更した。 |
E 昭和41(1966)年11月1日市制施行 周りが既にすべて市になっていた美陵町が、人口4 万人を越えて、やっと市制を施行することとなった。 新しい市名はアンケート調査によって制定された。 |
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合併の歴史と新しい市町名 |
郡をまたいだ合併 上の表や地図でわかるように、現在の藤井寺市域となっている地域は、江戸時代以前からある「郡」の区分で見ると、三つの別々の郡に 属する14の村が基になっています。明治22年、市町村制度施行によって全国で最初の大合併が行われますが、この時の合併と大正4年の 合併では、旧郡の区分を越えた合併が誕生しました。村の人々は、古くからの地図上の区分よりも社会生活や農業用水利、街道のつながり などの利便性を考えた合併を選んだと思われます。もともとこの地域は支配関係が複雑で、幕府領・藩領・旗本知行地・寺社領が入り組ん だ形態となっていました。志紀小山・丹北小山・津堂の3村は二つの郡にまたがっていますが、同じ宇都宮藩戸田家の領地でした。同じ例 は周辺の村々でもあちこちで見られます。しだがって、郡の区分を越えて他の村とのつながることには、そんなに抵抗感はなかったのかも 知れません。 2つの寺を中心に 明治22年〜大正4年の合併の流れを見ると、藤井寺村と道明寺村を中心として二つのブロックが形成されてきたことがわかります。どち らも寺の名前がついていますが、古くから藤井寺村には「葛井寺」、道明寺村には「道明寺」がありました。 道明寺村は江戸時代は村全体が道明寺の寺領であり、文字通り「道明寺の村」でした。道明寺は菅原道真ゆかりの寺として知られており、 元の寺名は「土師寺」と言って、菅原氏の祖先・土師(はじ)氏の氏寺でした。また、平安時代以降の神仏習合の中で、土師氏の氏神であった土 師神社(後の道明寺天満宮)と一体となって人々の信仰を集めていました。この道明寺を中心として近くの村々が合併した地域ブロックが後 の道明寺町です。この地域ブロックの状態は約70年間続き、今でもこの地域のことを「道明寺地区」とか「道明寺側」などと言い表すこと があります。 同じような形で市の西側に形成された地域ブロックが、「藤井寺地区」「藤井寺側」と呼ばれる旧藤井寺町の地域です。こちらは藤井寺 村を中心とした合併でできました。藤井寺村には、古刹として知られる「紫雲山・葛井寺」があります。葛井寺は古くは「剛琳寺」と称し て、大阪府内4ヵ所ある西国三十三所観音霊場の第五番札所として知られており、遠方からも多くの参拝者が訪れます。村名の「藤井寺」 は寺名と同じ「ふじいでら」ですが、葛井寺の「葛」が単純に同じ音の「藤」に変わったわけではありません。11世紀末に葛井寺の伽藍の 大修理に大和の藤井安基(やすもと)が尽力したことから「藤井寺」とも呼ばれるようになったと伝えられています。それがもとになって村名に も「藤井寺」がついたものです。 道明寺と葛井寺という二つの名刹がたまたまこの地域に存在し、寺を中心としてできた村がさらに拡大発展して、今日の藤井寺市へとつ ながっていったわけです。ちなみに、全国で131体(2020年)ある国宝の仏像が大阪府内には4体だけ存在しますが、その内の2体が藤井寺 市にあります。葛井寺の「千手千眼観音菩薩座像」と道明寺の「十一面観音菩薩立像」です。由緒ある二大名刹の存在があってこその藤井 寺市という地域なのです。二つの寺の存在と歴史を抜きには、藤井寺市という地域ブロックの形成は成立し得なかったことでしょう。 ![]() ![]() 1つの町へ 現在の藤井寺市の区域が一つの自治体になったのは、1959(昭和34)年4月20日の「藤井寺道明寺町」の発足が最初です。その前の昭 和32年3月には大阪府総務部から、南大阪町(現羽曳野市)・藤井寺町・道明寺町の3町で合併をするよう勧告がありましたが、藤井寺町・ 道明寺町とも消極的で、時期尚早との態度表明をしました。その後2町合併の方向に進み、昭和34年3月5日に両町の町議会で合併申請案 が可決され、大阪府知事に申請されました。そして、4月20日に新しい町が発足したのです。 明治22年から合併が始まり、大正4年以来約44年間に渡って藤井寺・道明寺という二つの地域ブロックの体制が続いていましたが、昭 和30年代に入ってからの人口急増で、ついに一つの地域ブロックが誕生しました。この時期から、日本社会は高度経済成長の道を突き進ん で行くことになります。 新しい町名 「藤井寺道明寺町」という寺の名前が二つも並ぶ町名は、全国的にも大変珍しいものです。そもそも、村の時代から「道明寺」「藤井寺」 と寺名の付く町が隣り合って存在したこと自体が、極めて珍しいことです。こんな例は、おそらく後にも先にもここだけでしょう。寺名の 付く市町村名そのものが少なく、現在は藤井寺市以外では、国分寺市(東京都)、永平寺町(福井県)、善通寺市・観音寺市(香川県)の4ヵ所 だけです。10年余り前までは11ヵ所ありましたが、平成の大合併により次々と消えて行きました。 市町村が合併する時に、新しい市町村名をめぐって旧自治体が自分たちの地域の名前を守りたくて、なかなかまとまらないという例は数 多く見られます。藤井寺町と道明寺町の場合も、どちらも由緒ある寺院の門前町としての町名に愛着が強く、行き着いたところが「藤井寺 道明寺町」というものだったのです。どちらの名前も消えなかったという点では公平だったわけです。しかしながら、文字で書くにも口で 言うにも、いかにも長くて語呂が悪く、使いにくい町名でした。合併後1年を経ずして、新しい町名に変更されます。もっとも、この変更 は合併する時点で予定されていました。 昭和39年8月7日付で当時の美陵町長から大阪府南河内地方事務所長に提出された報告文書『市町村合併の結果について』の中で、新町 名については次のように書かれています。『…、町名については共に古来由緒深き土地柄名称保存するにつき藤井寺道明寺町とし、発足後適 当な時期に公募により町名変更を考慮するものとしたものである。…』。かくして、取りあえずは「藤井寺道明寺町」で、となったわけで す。ちなみに、どちらの町名を前に付けるかは、両町長による抽選の上で決めたそうです。 再び新しい町名へ 当初の予定通り、新町名案の公募と市民投票、町議会決議を経て昭和34年12月25日に『町の名称を変更する条例』が公布され、「美陵 町(みささぎちょう)」の名前が決まりました。そして、翌昭和35年1月1日に、新しい「美陵町」が発足しました。 「美陵」とは、「美しい御陵(ごりょう)」を表します。藤井寺市内にたくさん点在する大型前方後円墳の中には、天皇・皇后陵として治定され ている「陵(みささぎ)」がいくつもあり、一般に「御陵」と呼ばれています。この町のそうした景観を象徴する名前として「美陵町」が選定され たのです。 新町名の決定で落ち着いた美陵町では、昭和40年6月に「町章」を制定します。これも公募で図案を募り、選定されました。市制に移行 してからもそのまま市章として引き継がれ、現在に至っています。 ![]() 市制施行に向けて 1966(昭和41)年6月、町の人口が4万人を越えたとして、美陵町議会で美陵町を市とすることを促進する議案が満場一致で承認されまし た。町は市制施行の準備として、正確な人口を確定するための「美陵町常住人口統計調査」を実施しました。8月15日現在の調査で、9月 に総理府(当時)統計局が発表した集計結果では、人口40,781人でした。8月27日、町議会で『美陵町を市にすることについて』という 議案が可決され、8月29日には美陵町長より大阪府知事に『美陵町を市にすることについて(申請)』という申請書が提出されました。その 中には『11月1日付で美陵町を市にしたい』旨が記されていますが、新市名は未定で空白となっていました。 町は新市名について選択式アンケートを実施することにし、9月27日に町内10,457世帯に往復はがきが発送されました。市制施行後の 11月10日に発行された『広報ふじいでら』第1号に、その結果が掲載されています。 選択肢の候補名は、「藤井寺市」「道明寺市」「阪南市」「大南市」で、6,266通の回答が寄せられています。内訳は以下の通りです。 藤井寺市:3,830通 阪南市:1,573通 道明寺市:124通 大南市:83通 美陵市:65通 南大阪市・南河内市など:54通 無効:537通 この結果を受けて、10月13日の臨時町議会で「藤井寺市」を新市名とすることが決定されました。選択肢以外の記入も1割以上あったよ うで、候補名から除外されていた「美陵市」を敢えて望む人もいたことがわかります。 「美陵」が候補から外された理由として、「びりょう」と読み間違えられやすいこと、カナ文などで「ミサキ」と間違えられることなど のほかに、他府県の人に大阪府にある市であることが通じないということが大きかったようです。「藤井寺市」への支持が多かったのは、 近鉄藤井寺駅が南大阪線の主要駅の一つであること、近鉄藤井寺球場が知られていること、名刹・葛井寺も知られていることなどで、ほか の土地の人に通じやすいことが考えられた結果のようです。言わば、「藤井寺」の圧勝と言える結果でした。ついでながら、「阪南市」は 後に大阪府南部の泉南郡で誕生する市名です。 自治体名の変更では、首長が発議した新名称案を議会の議決だけで決定し、住民の意見を無視していると問題になるケースも度々見られ ますが、全世帯を対象にしたアンケート調査で新市名案を選定するという美陵町の方針は、今の時代から見ても画期的な進め方だったと思 います。現在の住民投票と実質的には同じとなる、“民主的な手法”だったと言えるでしょう。それも、首長提案への賛成・反対を問うの ではなく、複数の選択肢を用意しての意見集約でした。住民投票の実施を首長や議会がかたくなに拒む例が各地でありましたが、その結果 として後々にしこりを残すこととなってしまいます。 旧藤井寺町と旧道明寺町の合併で成立した美陵町では、一つの町となった後でも、旧村時代からの地域意識が強く残っていました。しか し、市制施行に当たっての新市名制定では、「藤井寺市」に決まったことに対する目立った批判や問題は見られませんでした。民主的な手 続きとして実施されたアンケート調査の結果を、多くの市民が素直に受け入れた成果として評価されてよいでしょう。 「藤井寺市」の誕生−一瞬だけの「美陵市」 昭和41年10月15日、次のような美陵町条例が制定されました。 『名称を変更する条例(昭和41年10月15日条例第20号) 地方自治法(昭和22年法律第67号)第3条第3項の規定に基づき、この条例を制定する。美陵町が市となる日から「美陵市(みささぎし)」 を「藤井寺市(ふじいでらし)」に変更する。 附則 この条例は、この町が市となる日から施行する。』 昭和41年10月17日の『大阪府公報』で、『昭和41年11月1日から南河内郡美陵町を市とする』『市となる日から名称を藤井寺市に変 更することを許可する』旨の大阪知事による告示が発表され、ここに美陵町の市制施行と新市名「藤井寺市」が決定しました。 次いで10月25日、自治省(当時)から次のように告示が出されています。 『町を市とする処分(昭和41年10月25日自治省告示第148号) 地方自治法第8条第3項の規定により大阪府南河内郡美陵町を美陵市とする旨、大阪府知事から届出あった。右の処分は、昭和 41年11月1日からその効力を生ずるものとする。 市の名称変更(昭和41年10月25日自治省告示第149号) 地方自治法第3条第3項の規定により昭和41年11月1日から大阪府美陵市の名称を藤井寺市に変更することを許可した旨、同法 同条第4項の規定に基づき、大阪府知事から報告があった。』 ( ![]() こうして、1966年(昭和41年)11月1日、待望の藤井寺市が誕生しました。 美陵町条例や大阪府公報、自治省告示の内容を見ると、二つのおもしろい事実がわかります。それは、行政手続きとしては、まず11月1 日に美陵町が市制施行して「美陵市」となったということです。そして、次には即日名称変更して「藤井寺市」に改称したということです。 つまり、法的手続きにおいては、「市制施行」と「市名変更」は別物なのです。したがって、法的手続きの過程では、一旦は「美陵市」が 誕生していたということになります。即日(同時)改称なので、実際には「美陵市」の名称が市の公文書や施設名などに使用されることはな く、言うなれば「条文上のペーパー市名」だったことになります。一瞬だけ存在した「美陵市」でした。 ![]() |