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◆◆◆◆ 市野山古墳 ◆◆◆◆ |
《 允恭天皇恵我長野北陵(いんぎょうてんのうえがのながののきたのみささぎ) 》 |
《 いちのやまこふん 》 第19代允恭天皇陵 別表記:市之山・市の山 大阪府藤井寺市国府(こう)1丁目地内 宮内庁サイト「天皇陵-允恭天皇惠我長野北陵」 ユネスコ世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」〔2019(令和元)年7月登録決定〕構成資産No.25 |
近畿日本鉄道南大阪線・土師ノ里(はじのさと)駅より北へ約
500m(拝所まで)徒歩約8分 約180m(後円部南側外周道路まで)徒歩約3分 駐車場無し 国道旧170号・惣社南交差点から南50mに拝所入口(拝所まで約100m) 拝所への参道北側(惣社南交差点から東約80m)にコインP有り(コインPからは南側の拝所に入れない) 府道12号堺大和高田線・土師の里交差点の東西にコインP有り |
推定築造時期 | 5世紀後半 | 出 土 品 |
埴 輪 | 円筒埴輪 形象埴輪(家・蓋(きぬがさ)・盾・靫(ゆぎ)形、人物形、馬・犬・鶏形) |
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古 墳 形 | 前方後円墳 | |||||
墳 丘 規 模 (m) |
墳 丘 長 | 230 | ||||
前方部 | 幅 | 160 | 土 器 | 須恵器蓋坏(すえきふたつき)(5世紀中頃のもの) | ||
高さ | 23.3 | そ の 他 | 江戸時代の古図に、墳丘から多数の勾玉(まがたま)の出土したことの注記 あり。 内堤部分から円筒埴輪棺や土壙墓などの墓地を確認。 |
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後円部 | 径 | 140 | ||||
高さ | 22.3 | |||||
頂高 | 45.3 | 埋葬施設 | 不明 | |||
その他の造り | 三段構成の墳丘、二重の濠と堤、くびれ部の前方部両側に方壇状の造出し(つくりだし)がある。 |
市野山古墳(允恭天皇陵)は、藤井寺市内に在る4基の巨大前方後円墳の中では、墳丘長が3番目となる規模の古墳です。市野山古墳その ものも様々な特徴を持っていますが、この古墳が位置する国府台地上にはたくさんの小古墳も分布しています。古市古墳群の中でも最も多 くの古墳が集中している場所です。また、古代律令体制の時代まで遡ってみると、市野山古墳周辺の一帯はたいへん重要な位置付けをする ことができる地域です。市域の狭い藤井寺市にあって、このような歴史的要素の密度の高い地域のあることが不思議なくらいです。 市野山古墳とそれを取り巻く地域の様子を紹介していきたいと思います。 |
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① 市野山古墳の遠景(東より) 左側の盛り上がりが後円部。右が前方部。 2013(平成25)年5月 |
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② 市野山古墳の前方部(北西角部より) 2011(平成23)年6月 周濠は空堀の状態で草地となっている。 合成パノラマ |
③ 市野山古墳の後円部(南西より) 2016(平成28)年10月 水が無いので周濠の形状や深さがよくわかる。 合成パノラマ |
常緑広葉樹の森と草地の周濠 写真①~③は、市野山古墳の東側面、北西前方部、南西後円部の様子 です。そして、写真④は北東から見下ろした鳥瞰写真です。これらの写 真からわかるのは、墳丘が常緑広葉樹でおおわれている様子です。写真 ④は、左下の寺や神社の紅葉の様子から晩秋に近いと思われますが、墳 丘には紅葉した木が見られません。つまり、全体が常緑樹でおおわれて おり、その樹形から広葉樹であることもわかります。上から見た写真④ では、まるでブロッコリーを寄せ集めたような、モコモコとした広葉樹 林の特徴がよく現れています。 これらの様子は、他の大型陵墓古墳でも見られる景観なのですが、実 は4,50年前までの様子は今とは異なっていました。多くの陵墓では明 治中頃以降に大量の針葉樹の植樹が行われました。その結果、昭和期の 前半頃までは墳丘は針葉樹林の景観を見せていたのです。これについて は、別ページ「誉田御廟山古墳」を参照してください。昔の様子につい ては下の方で紹介しています。 ![]() 市野山古墳は周濠にも特徴があります。写真①~③で周濠の構造を見 ることができます。内堤の部分から法面を造って落ち込んでいる様子が わかります。この周濠は常時水を貯えていることはなく、雨の多い時期 に一部に浅く水が溜まる程度です。普段はいわゆる空堀の状態で、その ため周濠の構造がよく見えるわけです。 畑作にも利用された陵墓 市野山古墳は、古市古墳群の中では4番目、全国では19番目の大き さとなる規模の大型前方後円墳です。幕末の陵墓修補の時に第19代允恭 天皇の陵に治定され、明治政府の陵墓行政に引き継がれました。幕末の 修陵によって管理体制が整うまでは陵墓としての管理はきちんとなされ ていなかったようで、江戸期後半にこの辺りで綿作りが盛んになると、 市野山古墳の墳丘も綿畑に利用されていたようです。もともと周濠が空 堀だったことから人の出入りがしやすく、ちょっとした里山の入会地の ような扱いだったのかも知れません。 1795(寛政7)年4月に葛井寺や道明寺に参詣した俳人・小林一茶は、允 恭天皇陵にも立ち寄っており、「市野山は綿毛で墳丘一帯は真っ白であ った」とその時見た様子を著書『西国紀行』に記しています。河内木綿 の産地であったこの地域では、大王陵でさえ綿畑と化していたのです。 〔この段落内容は『文久山陵図』(新人物往来社 2005年)の「山陵図」 図版解説・允恭帝(西田孝司氏)によります。〕 市野山古墳は、従来5世紀後半に造られた古墳だと考えられていまし たが、近年の円筒埴輪の編年では、5世紀中頃の築造であると推定され ています。今まで、市野山古墳が允恭天皇陵に治定されていることを疑 問視する説も少なくなかったのですが、築造時期の推定が早まれば、允 恭天皇陵である可能性は高まることになります。 |
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④ 市野山古墳の鳥瞰写真(北東より) 2010年頃と見られる 周濠の落ち込んでいる形状がよくわかる。左下が潮音寺と国府 八幡神社、宮の南塚古墳。 『古市古墳群を歩く』(古市古墳群 世界文化遺産登録推進連絡会議 2010年)より |
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⑤ 真上から見た市野山古墳〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より 市街化が進んで建物で埋まり、堤の形状がわかりにくくなった。 文字入れ等一部加工 |
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二重の周濠と堤 この古墳は、古墳や遺跡が多く存在する国府(こう)台地の北端近くに造られています。墳丘は三段構成になっており、前方部はやや開き気 味で、くびれ部の前方部両側に方壇状の造出しがあります。 この場所はゆるやかに北東へ下がっていく地形のため、内堤の北辺部分と東辺部分は盛り土をして南側の高さに合わせています。現在で も、内堤部分の北側と東側では、その盛り土の段差をはっきりと見ることができます。内堤の上は拝所と参道を除いてほとんどが民有地と なっており、現在は住宅などが建ち並んでいます。外見上は古墳の堤であるようには見えない様子になってしまいました。 周濠は現在は内濠だけですが、近年までは内堤の北東側に外濠の遺構の一部が池として存在していました。今までの調査によって、二重 の濠と堤を備えていたことがわかっています。発掘調査により、外濠は幅約20m、深さ約2m、外堤の幅が10mであることがわかりまし た。外濠の幅は、後円部の南側部分では他の部分よりも狭くなっています。 この古墳は国府台地上にあり、周辺の土地との高低関係から見て周濠に水を貯えることは難しく、当初からほとんど空堀だったと思われ ます。周囲から流入するような水路もありません。元の地形の名残か、北東部を中心とした部分で降雨期に水溜りができる程度です。市野 山古墳の南西側に位置する仲津山古墳(仲姫命皇后陵)も同じように国府台地にあり、やはり水の無い空堀の周濠です。 古市古墳群にある陵墓古墳の内、周濠が現存する陵墓は9基ですが、市野山古墳・仲津山古墳以外の陵墓古墳の周濠には常に水が貯えら れています。江戸期までは、多くの陵墓の周濠がため池も兼ねていて、普通に灌漑用水に利用されていたようです。現在でもほとんどの陵 墓で、周濠の水利権は所在する地区に帰属しているそうです。 ![]() |
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拝所と変則的参道 允恭天皇陵に治定されている市野山古墳には、北側の前方部前の内堤上に拝所が設けられています。上で述べたように、北側の内堤は盛 り土をして造成しているため、基盤となる地面よりも2,3m高くなっています。そのため内堤上に造られた拝所は、奥行きが内堤の幅の分 しかありません。しかも、正面から向かう参道は造ることができないため、内堤の北西部に入口を設けて内堤上を進み横から拝所に向かう という変則的な配置となっています。地図で見ると、内堤部分のすぐ北側に市道が通っているため、この道路からすぐに拝所に入れるよう に思ってしまいます。知らずに来ると、拝所は見えているのにどこから拝所に入るのかわからない、ということになります。 下の写真⑥が正面から見た拝所です。昔は松の高木が並んでいたようですが、今は参道沿いに松が見られます。写真⑦が拝所入口で、西 側の専用駐車場を通り抜けて参道に入ります。入口には「允恭天皇恵我長野北陵」という陵の正式名を示す標石が建っています。参道に入 ると、内堤の北西角に立つことになり、写真②の景観を見ることができます。参道を東に進むと、いったん北側に廻って拝所の正面入口か ら入るようになっています。この参道の配置は、他の陵墓に比べるとかなり変則的なものと言えるでしょう(⑧図参照)。 |
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⑥ 允恭天皇陵拝所(北より) 2014(平成26)年11月 本来の内堤の上にあるので、奥行きが短い。両側には民家が 建っている。 合成パノラマ |
⑦ 拝所入口(西より) 拝所の西側から進入する。 2014(平成26)年11月 |
周辺に多くの小古墳-陪冢の存在 国府台地には大小たくさんの古墳が築かれていました。中で も市野山古墳の周辺にはとりわけ多くの小古墳が存在しました。 ⑧図は市野山古墳と周辺に分布する小古墳を表した地図です。 緑色に表示したものが現存する古墳(部分)ですが、その内の2 基は宮内庁によって允恭天皇陵の陪冢に治定されています。以 下に各小古墳の名称等を紹介します。 まず、現存する古墳は、 ◆衣縫塚(いぬいづか)古墳《允恭天皇陵ろ号陪冢》 ◆宮の南塚古墳《允恭天皇陵は号陪冢》 ◆唐櫃山(からとやま)古墳《国史跡》 ◆鍋塚(なべづか)古墳《国史跡》 の4基です。 墳丘が消滅している古墳は、以下の通りです。 1赤子塚(あかごづか)古墳 2折山(おりやま)古墳 3長持山(ながもちやま)古墳 4小具足塚(こぐそくづか)古墳 5高塚山(たかつかやま)古墳 6御曹子塚(おんぞうしづか)古墳 7志貴縣主(しきあがたぬし)神社南古墳(惣社1号墳) 8長屋1号墳(惣社2号墳) 9長屋2号墳(惣社3号墳) 10兎塚1号墳 11兎塚2号墳 12潮音寺北古墳 〔名称は『古市古墳群を歩く』(古市古墳群世界文化 遺産登録推進連絡会議 2010年)掲載の一覧表による〕 現存する4基の古墳はいずれも墳形が変形しており、本来の 形ではありません。1~12の古墳は、すでに墳丘が失われてい るものです。その内、1~6と唐櫃山古墳の一部は戦後の昭和 3,40年代の市街化が進んだ時期に姿を消しました。民有地と |
市野山古墳と周辺の小古墳 | |
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⑧ 市野山古墳と周辺の小古墳 周辺には、允恭天皇陵の陪冢に治定された古墳を含む多くの小古墳が築かれていた。 ※ 色凡例は小古墳について表示したもの。市野山古墳の現在の形状はグレーの 線で表示している。復元古墳の位置・形状等は『藤井寺市文化財報告第38集』 (2015年)掲載の図による。 |
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なっていた古墳も多く、道路建設や建物建設のために次々と取り崩されていきました。 昔この辺りには、“沢田の七つ塚”という呼称が存在したそうです。それだけ小古墳がかたまって存在していたことを表しています。七 つ塚とは、⑧図の1~5と鍋塚古墳・唐櫃山古墳です。沢田は大字・沢田(旧沢田村)のことですが、厳密に言うと、長尾街道の北側にあっ た1・2の古墳は旧林村に存在しました。語呂よく“沢田の七つ塚”と呼んだのでしょう。 ![]() 近年に内堤から外側の周辺地が宅地化したことに伴って、内堤・外濠・外堤などの調査が数多く行われ、いくつかの消滅古墳が見つかっ ています。7~12の古墳は、近年の住宅建設の事前発掘調査によって確認された消滅古墳です。ずっと以前の時代に消滅していて、住居や 農地の地下に埋没していた古墳の遺構です。こういう埋没古墳は、今後も新たな発掘調査によって発見されることが増えると思われます。 内堤部分では、円筒埴輪棺1基、石槨木棺墓2基、土壙墓(どこうぼ)5基などで構成される墓地が確認されています。内堤部分は民有地になっ ていて、陵墓治定区域には入っていないので発掘調査が可能だったのです。 允恭天皇陵の陪冢は、もう1基、「い号陪冢」に治定された八王子塚古墳が前方部の北西側にありますが、最近の周辺の発掘調査の結果 から、八王子塚古墳は古墳ではない可能性が高いとみなされています。『古市古墳群を歩く』の一覧表からも除かれています。また、折山 古墳は、調査がちゃんと行われないまま住宅地となったため、墳形については未だに不明です。 なお、現存古墳の一つである鍋塚古墳と消滅した高塚山古墳は、4世紀末頃の築造と推定されており、築造時期の近い仲津山古墳(仲姫命 陵)の陪冢と考えられています。 |
古 墳 名 | 墳 形 | 大 き さ | 主 な 出 土 品 | 治定・指定・備考 | ||
現 存 古 墳 |
衣縫塚古墳 | 円 墳 | 直径 20m | 円筒埴輪、形象埴輪(家・太刀・人物等) | 允恭天皇陵ろ号陪冢 | |
宮の南塚古墳 | 円 墳 | 直径 40m | 円筒埴輪、衣蓋形埴輪 | 允恭天皇陵は号陪冢 | ||
唐櫃山古墳 | 前方後円墳 (帆立貝形) |
墳丘長 59m 後円部径 44m 前方部長 17m 前方部幅 24m |
家形石棺、円筒埴輪列、家形埴輪、短甲2、 肩甲2、衝角冑2、頸甲2、眉庇冑2、刀1、 剣1、鉄鏃50、鹿角製刀装具1、鉄地金銅張 くつわ1、金銅三輪玉1、ガラス丸玉、ガラス 小玉937、銀製小飾金具1 など |
5世紀後半の築造と推定 幅7m深さ1.7mの周濠跡 石棺は九州・阿蘇溶結 凝灰岩製 国史跡 |
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鍋塚古墳 | 方 墳 | 一辺 63m | 円筒埴輪、形象埴輪(家・衣蓋・盾・靫形) | 国史跡 4世紀末頃築造 | ||
消 滅 古 墳 ・ 埋 没 古 墳 |
1 | 赤子塚古墳 | 円 墳 | 直径 34m | 須恵器、形象埴輪(家・盾・衣蓋・靫・甲冑・船・ 鶏・水鳥・犬・馬・人物等) この古墳の下層から、より古い埴輪円筒棺の 埋葬施設がいくつか出ている。 |
造出し付 5世紀末頃の築造と推定 |
2 | 折山古墳 | 不 明 | ― | 允恭陵から離れている | ||
3 | 長持山古墳 | 円 墳 | 直径 40m | 家形石棺2、短甲1、挂甲1、肩甲1、襟甲1、 膝甲2、衝角付冑2、刀、鉄鏃、矛、くつわ、 鉄地金銅張鞍金具、鍬、鎌、須恵器、ガラス 小玉、神人画像鏡、金銅三輪玉1、金銅帯 金具 など |
竪穴式石槨(せっかく) 5世紀後半の築造と推定 石棺は九州・阿蘇溶結 凝灰岩製 |
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4 | 小具足塚古墳 | 方 墳 | 一辺 20m | 5世紀後半の築造と推定 | ||
5 | 高塚山古墳 | 円 墳 | 直径 50m | 円筒埴輪列、割竹形木棺、刀7、剣7、鉄鏃約 400、矛11、鍬19、斧38、鑿3、銛4、 革楯3、碧玉製管玉1、ガラス小玉8 など |
4世紀末頃の築造 | |
6 | 御曹子塚古墳 | 円 墳 | 直径 30m | 5世紀後半の築造と推定 | ||
7 | 志貴縣主神社南古墳 (惣社1号墳) |
方 墳 | ― | |||
8 | 長屋1号墳(惣社2号墳) | 不 明 | ― | |||
9 | 長屋2号墳(惣社3号墳) | 不 明 | ― | |||
10 | 兎塚1号墳 | 円 墳 | 直径 36m 造出し幅17m 墳丘長 43m |
円筒埴輪、形象埴輪(家・衣蓋・人物・馬等) | 5世紀後半の築造と推定 周濠を含む推定全長は 約50m 造出し付 |
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11 | 兎塚2号墳 | 方 墳 | ― | |||
12 | 潮音寺北古墳 | 円 墳 | 直径 22m | 円筒埴輪、形象埴輪(巫女・盾等)、 子持ち勾玉3 など |
5世紀末の築造と推定 |
二重濠を示す遺構-長池跡地 今までの調査の結果から市野山古墳は二重の濠を持つ古墳であることがわかりましたが、⑧図でわかるように、国道旧170号が西側外濠 と内堤北西部分を潰して造られています。昭和10年代に建設された道路なので、当時としては天皇陵に掛からないようギリギリの近接位 置に通したつもりの設計だったのでしょう。南東側の小古墳も潰さないように通しています。これより西に通すと、今度はいくつもの小古 墳や仲津山古墳に掛かってしまうのです。 実は、二重濠の存在はずっと以前から推定されていました。と言うのも、外濠そのものの一部と思われる遺構が残っていたからです。そ れも、水を貯えた濠の姿そのままに、ため池として存在していたのです。L字形の細長い池だったことから「長池(ながいけ)」と呼ばれていまし した。L字形の短辺と長辺が、それぞれ内堤の北辺と東辺に平行になっており、外濠の北東角部分であると見られたのです。ため池として は変則形ですが、この形だったからこそ、外濠の遺構であることがわかったわけです。長池のあった古墳の北東側はもともと低い土地だっ たので、外濠が自然消滅していった時に最後まで水が残っていて、やがて池として維持されてきたのだと思われます。近年、外濠部分の何 ヵ所かの発掘調査によって、その存在や規模などが確認されていますが、既述の通り南側後円部の外濠は少し細くなっていたようです。 残念ながら、外濠の存在と位置・規模等を示す貴重な遺構であった長池は、現在はもうありません。古墳の全体像を知る上で重要な手掛 かりとなる長池でしたが、昭和48~49年にこの池を埋め立てて保育所を造る工事が行われました。現在の市立第5保育所です。ところが、 この長池を埋め立てて建設することについて、事前の届け出がなかったというので、藤井寺市は文化庁からお叱りを受けることとなってし まいました。そんなこともあってなのか、第5保育所は年度初めではなく、昭和49(1974)年7月1日に開所しています。 保育所の南に続く部分には地区の集会所がつくられましたが、残る北側部分には何も構造物は造られていません。公園の名目でそのまま 残され、当初は出入り自由の広場で「長池広場」と地元では呼んでいました。その後安全管理上の問題もあってか周囲が鉄柵で囲まれて半 分近くが舗装され、臨時の駐車場に使用される場所となっています。 ![]() |
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右の写真⑨が長池跡地の様子です。中央から右側 に並ぶ住宅が北側の内堤上に建つ民家です。数年前 にコンクリートの擁壁が造られましたが、それまで は土の崖のままでした。これが内堤を造るために盛 り土をした高さです。住宅後方の上部に少しだけ見 える緑が市野山古墳の墳丘です。中央道路の左側が 第5保育所で、L字の長辺の部分です。右側の鉄柵 と擁壁に囲まれた場所が長池広場で、北辺の部分で す。この広場の手前側の半分近くが舗装された駐車 場で、奧側は草地のままです。写真の手前側後方に は志貴縣主神社があります。 |
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⑨ 外濠であった長池の跡地の様子(北より) 2013(平成25)年7月 左側フェンス内が第5保育所。道路右側の柵内が長池広場。中央の住宅地の擁壁の高さが、 盛り土で造った内堤の高さである。 合成パノラマ |
交叉する古代の官道-河内国の要地 市野山古墳の東側には、古代の官道とされる「東高野街道」が通っています。東高野街道は石清水八幡宮(現・京都府八幡市)付近から淀 川の東側を通り、生駒山地に沿って山麓を南下し、現在の藤井寺市域を通過します。そして、石川の西側をさらに南下して河内長野市で堺 市方面から南下して来た西高野街道と合流し、金剛山地と和泉山脈の間の紀見峠を越えて和歌山県に入り、高野山へと向かいます。名前の 通り、京の都から高野山へ参詣に向かう人々が利用した参詣道の一つです。当然のことですが、参詣道として人々に認識されたのは、高野 山に空海によって寺院が開かれてから後のことです。それ以前から河内平野には生駒山麓を通る主要道があったらしく、河内国内を南北に つなぐ幹線道路だったようです。 |
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現在の東高野街道は、市野山古墳の東側で 東方の石川の堤防を通るルートになっていま すが、これは江戸時代の大和川付け替えの後 にできた新しいルートだと思われます。古代 から近世までのルートは、市野山古墳の東側 をほぼ南北に通るルートだったようです。こ のルートは、市野山古墳の北東部に位置した 衣縫廃寺の横を通っていたと推定されます。 ![]() 河内の国というのは、古代の河内湾(河内 湖)だった河内平野が中心ですが、淀川と大 和川の堆積作用によって形成された、文字通 り「河の内」に当たる場所です。その河内平 野と南部の羽曳野丘陵・金剛山地などが連な って成り立っていたのが河内国です。したが って、河内国は南北にたいへん長い形となり ました。現代に至って、北河内・中河内・南 河内という区分や名称が用いられるようにな ったのも、この南北の長さ故のことです。 この河内国の中で、重要な位置を占めてい たと考えられるのが、市野山古墳の近くに展 開する一帯です。この地域にはもう1本古代 |
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⑩ 藤井寺市域と長尾街道・東高野街道・竹内街道の様子 ※ ○の地名は旧村名で、現在も地区名として存在する。他の街道との交叉地点であった。 ※ 市町村名及び境界はすべて現在のもの。 |
の官道が通っていました。現在の堺市がある大阪湾岸から真っ直ぐ東へ進み、 藤井寺市域を通過してから南東へ向きを変えて飛鳥の都へ至る街道で、現在は 「長尾街道」と呼ばれています。長尾街道という呼称は明治中頃からのもので、 元は日本書紀にある古代の「大津道」だと考えられています。奈良時代からは 大和川に沿って北東方向に進み奈良の都に至る「竜田道(奈良街道)」にもつなが る重要路でした。 ![]() この長尾街道が市野山古墳のそばを通って、東高野街道と交叉しているのが この地域です。と言うより、厳密に言うと長尾街道が市野山古墳の上を通過し ています。上の⑧図にある通り、現在の長尾街道である市道は、市野山古墳後 円部の内堤の上を通っているのです。もちろん、古墳の内堤や外濠が存在した 時には、こんなルートで街道が通っていたはずはありません。おそらくは、朝 廷の支配力が衰え陵墓管理が衰退してきた中世以降ではないかと思われます。 古代の官道「大津道」は現在の長尾街道よりも北の方を通っていたようで、 |
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⑪ 長尾街道と交差する東高野街道(南より) 府道12号の北側。直進すると国府遺跡方面に行く。写真 中央が長尾街道との交差点。右へ行くと国府台地から下っ て行く。 2011(平成23)年4月 |
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市野山古墳のもう少し北側を東へ直進していたと推定されています。時代が下ってから現在の道筋に変わったと思われます。 河内国の中心地-「河内国府」所在地 このように、東高野街道と長尾街道(大津道)という古代の幹線道路が交叉する当時の交通の要地であったのが、市野山古墳の付近一帯な のです。河内国の要地であったことを示す象徴が、「国府」の存在です。市野山古墳とその北側、東側の一帯の現在の地区名は、「藤井寺 市国府(こう)」です。明治中頃までは「国府村」と言いました。「国府」の地名が伝承されてきたことや古代の書物の記述などから、この地域 に「河内国府」が置かれていたと推定されています。下の写真⑫は、河内国府の所在地であったことを示すために建てられた「河内國府址」 |
の標柱です。大正8年に大阪府が建てましたが、現在は志貴縣主神社の境内にあります。国府は地方統治のために各国に置 かれた朝廷の出先機関で、トップとして国司が派遣されました。現在で例えるなら、都道府県庁と知事と言ったところでし ょうか。古代の各国に国府が置かれていた名残となるのが、現在も全国各地に存在する「国府」の付く地名です。 河内国府とは河内国を統治する国の役所であり、国府のあった場所は河内国の行政上の中心地であったことになります。 現在なら都道府県庁の所在地です。近くには東高野街道と長尾街道の交叉点があり、東方には大和川水運のポイントである 大和川・石川の合流点もあります。この旧国府村一帯は、まさに河内国の中心となっていた場所だったのです。残念ながら 河内国府の建物施設である国衙(こくが)跡を示す遺構はまだ発見されていません。その存在推定地については、多くの研究者に よって諸説が提示されていますが、未だ決め手となる考古学的成果は得られていません。 市野山古墳近くという推定でも、もっと北方の現在は大和川の川床となっている船橋(ふなはし)遺跡を推定地に挙げる研究者 もいます。しかしながら、多くの研究者の間で国府地区一帯がその候補地とみなされています。 ![]() 市野山の「市」とは? 市野山古墳という古墳名は、「市野山」という江戸時代からの伝承名に基づいています。市野山は「市の山」のことだと 思われます。では、市の山の「市」とは何を表すのでしょうか。研究者の中には、この「市」は古代の「河内の市」のこと だとする説があります。「大和の市」として「海柘榴市(つばいち)」などが知られていますが、河内の市とされたのは「餌香市 (えがのいち)」という市です。餌香市は日本書紀などに記述のある古代律令時代の市の一つです。この餌香市が旧国府村またはそ |
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⑫「河内國府 址」の標柱 |
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の近辺に在ったと推定する研究者も多く、その立場からすると餌香市のそばに在った山(山陵)なので「市の山」と呼ばれるようになったと いうことです。この説については、『大阪文化誌 第14号』(大阪文化財センター 1982年)掲載の西口陽一氏論文『「河内国餌香市跡即船橋遺 跡説」-ある地方「市」の歴史-』を参考にさせていただきました。別ページで紹介しているので参照してください。 ![]() 一方で、「市野山」の地名が伝承されてきたことを、旧国府村近辺に餌香市が在ったことの証左の一つに挙げる人もいます。いずれにし ても、「市の山」の名が「市」の存在とまったく無関係にできたとは考えにくく、餌香市との関係性が存在した可能性はかなり高いと言え るのではないでしょうか。 河内国府が置かれ、その近くに餌香市が開かれていた、ということを前提に想像を働かせると、当時の旧国府村やその周辺地域は、河内 国の中で最も多くの人が集まり、最も賑わっていた場所ではなかったかと推測されます。東西方向に幹線道路が交わり、沿道には衣縫廃寺 や船橋廃寺などの古代寺院、近くには大和川舟運の津もあって、河内国府や河内の市に出入りする人は絶え間なく、といった様子が浮かん できます。その頃の人々には、市野山古墳はどのように見えていたのでしょうか。 |
フォト・ライブラリー 《 市野山古墳 》 | ||
写真⑬⑭は、1931(昭和6)年に撮影されたものですが、現在とは かなり異なった景観が見られます。 写真⑬は上方の写真②とほぼ同じ位置から撮ったと見られます が、墳丘の様相が②とはかなり違います。②で見える墳丘は、モ コモコとした広葉樹のかたまりですが、⑬の墳丘はほとんどが針 葉樹で覆われています。それもかなりの密度の樹林です。これは 明らかに人の手による植樹であることがわかります。 『天皇陵の近代史』(外池昇著 吉川弘文館2000年)の中に「明治 年間の墳丘の伐採・植樹」という表があり、古市古墳群内の6基 の陵墓についての記録が紹介されています。允恭天皇陵について は、『かしわ(原文は漢字)が多かったのを明治18,9年頃に悉く伐採 し檜(ひのき)の苗数千本を植樹(「御陵沿革取調書」)』という記録が紹 介されています。この時に植樹されたのが写真⑬の針葉樹林だと |
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⑬ 昭和初期の市野山古墳前方部(北西より) 1931(昭和6)年7月28日 周濠は空堀状態の草地や湿地であることがわかる。この当時の墳丘は 大量の針葉樹でおおわれていたことがよくわかる。 『 陵墓古写真集Ⅱ-古市古墳群・磯長谷古墳群・宇土墓・三嶋藍野陵- 』(堺市 博物館 2011年)より 左右2枚掲載の写真を合成加工 合成パノラマ |
思われます。木の育ち具合から見ても年数的に合っているようです。 常緑針葉樹林だった墳丘が写真②のような常緑広葉樹林の景観に変わったのは 比較的最近のようです。戦後2,30年経った下の写真⑱⑲でも、まだ大部分が針 葉樹で覆われています。おそらくは意図的に樹種転換が図れてきたものと推察さ れます。針葉樹が順次伐採されて広葉樹の育成が進められたものと思われます。 現在の墳丘の樹林を周濠の縁や拝所から双眼鏡で観察してみると、高木で目立 っている木の多くは成長の早いクスでした。カシ類も多く中低木ではツバキやト ベラ、クロガネモチなども見られました。よく見るとそれらの広葉樹林の所々に ヒノキの大木も見えています。幹の太さから見て、おそらくこれが明治年間に植 樹されたヒノキの一部だと思われます。一定数のヒノキは残されているようです。 写真⑭は正面から見た拝所の様子ですが、そびえ立つ松の高木が目立ちます。 おそらく、「文久の修陵」で拝所が設けられた時に植えられたものと思われます。 約70年経っているので、黒松の木ならこの程度になっていてもおかしくはありま |
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⑭ 昭和初期の允恭天皇陵拝所(北より) 盛り土された堤の上に設けられたことがよくわかる。 1931(昭和6)年7月28日 『 陵墓古写真集Ⅱ』(堺市博物館 2011年)より |
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せん。拝所は内堤の上に造られていますが、北側内堤は盛り土をしてかさ上げして築かれています。その盛り土の高さがこの写真でよくわ かります。 |
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⑮ 多くの小古墳が存在していた頃 文字入れ等一部加工 この頃は 国府台地の周囲が水田地帯なので、段丘の形がよくわかる。 段丘の上は畑作地が多い。 〔米軍撮影 1948(昭和23)年9月〕より |
⑯ 小古墳が消滅し始めた昭和30年代 新設道路の現府道堺大和高田線が開通している。 〔国土地理院 1961(昭和36)年5月〕より 文字入れ等一部加工 |
写真⑮は、敗戦から3年後の昭和23年の様子です。昔の集落の形状がほぼそのまま維持されており、明治・大正の頃と大きくは違わない 様子を見ることができます。集落以外はほとんどが田畑なので、地形の特徴もよくわかります。市野山古墳のある国府台地の段丘の形がは っきりとわかります。段丘の下は水田なので色合いが台地上とは異なっており、国府台地の形が浮き上がるように見えています。この台地 上には市野山古墳のほかにも多くの小古墳が築かれていますが、この写真の頃にはまだそのほとんどが現存していました。現存古墳の名は 黄色文字で表示しています。この10年後の頃から少しずつ都市化の様相が見え始め、開発による古墳の消滅が始まります。 この写真の頃の内堤の部分は、上から見るとまだその形状がわかる状態でした。この写真で見ると、長尾街道が内堤の上を横切っている ことがよくわかります。内堤の北東角に接して外濠の遺構である長池もはっきりと見えています。これらの形状が今の時代まで維持されて いないことは、文化財として古墳を考えた時、たいへん残念に思います。上の写真⑤や下の写真⑲で見える現在の内堤部分は、びっしりと 内濠の縁まで建物で埋め尽くされています。これは、宮内庁(戦前は宮内省)の定めた允恭天皇陵の陵墓治定区域が、内堤の内側だけに限定 されていたからです。つまり、内堤部分は宮内庁の管理外の土地で、どう利用されようと関知せず、というのが宮内庁の姿勢でした。その 結果が現在の陵墓の周囲の様子です。現在、同様の事態はあちこちの陵墓で見られます。特に、市街化が進んでいる百舌鳥・古市古墳群に 存在する陵墓では、目を覆いたくなるような事例がいくつも見られます。世界文化遺産登録推進に当たっても懸念されていました。 写真⑯は写真⑮の13年後の様子ですが、早くも3基(白文字表示)の古墳が墳丘を失っています。高塚山古墳も府道の建設に伴って墳丘が 削られており、かろうじて円墳の形を残しているといった状態です。この後、高塚山古墳も完全に姿を消していくことになります。 |
時期が前後しますが、写真⑰は昭和30年代初め頃の市野 山古墳と周辺の様子です。写真⑯の3年前ですが、府道堺 大和高田線はこの時期はまだ建設中で、同じ年の10月に供 用が開始されています。それまで府道指定を受けていた長 尾街道(国分堺線)に代わって堺大和高田線が建設され、石 川橋も新しく付け替えられました。ちょうどその入れ替わ りの様子がよくわかる珍しい写真です。 市野山古墳を見ると、戦前から繁っていた針葉樹を中心 とする森の様子がよくわかります。現在とはかなりちがう 古墳の景観です。写真左側の前方部北東側には、水の溜ま っている様子も見られます。現在も雨が続いた後にはこの 部分に水の溜まった様子が見られます。もともと古墳築造 前のこの辺りの土地は、北東側へ下っていく地形なので、 その名残なのかも知れません。 |
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⑰ 昭和30年代初めの市野山古墳と周辺の様子(北西より) 針葉樹の繁っている様子や空堀となっている周濠のくぼんだ地形がよくわかる。 日本の古墳』(末永雅雄著 朝日新聞社 1961年)「図版第62・允恭天皇陵」より 1958(昭和33)年1月18日 部分切り出しの上、文字入れ等一部加工。 |
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市野山古墳の空中写真は南側から撮ったものが多く、写真⑰のように北西側から撮ったものはあまり見ません。南側からのように順光で 撮影できないせいかも知れません。いずれにせよ、珍しい方角からの写真なので、追加で掲載することにしました。 |
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⑱ 経済高度成長期に入った頃の様子(南西より) 1963(昭和38)年12月 民有地だった小古墳は次々と開発で消滅した。新しい住宅地も見える。 『古墳の航空大観』(末永雅雄著 学生社 1975年)より 文字入れ等一部加工 |
⑲ 人口急増後の様子 〔国土地理院 1979(昭和54)年10月〕より 市野山古墳の周囲には住宅が増え、長池も姿を消した。内堤部分はその 形状がわかりにくくなった。残る小古墳は4基である。 文字入れ等一部加工 |
昭和30年代の写真は、時期の順としては写真⑰→写真⑯→写真⑱となります。写真⑯の約2年半後の様子が写真⑱です。市野山古墳の周 濠を見ると、この写真でももともと土地の低い北側と東側に水の溜まっている様子が見えます。現在ではここまで水が溜まる様子はごくた まにしか見られません。墳丘を見ると、この頃でも依然として多くが針葉樹の樹林の景観です。また、周濠の外側周囲にも松らしき木の並 んでいる様子が見えますが、これらの木は現在はありません(写真③④)。この後、内堤の北側部分や東側部分には住宅が建ち並んでいくこ とになります。すでに写真右上には、新たに開発された住宅地が写っています。水田だけが広がっていた土地でした。ちなみに、この年は 東京オリンピック開催の前年でした。 写真⑲は写真⑱から16年後の様子です。この間、藤井寺市域では大変な人口急増がありました。そのため、市域の各地で住宅建設が急速 に進み、またたく間に多くの農地が住宅地へと変わっていきました。合わせて、学校・幼稚園・保育所などの施設も次々と新設されていき ました。5番目の市立保育所の建設が必要となり、長池を埋め立てた土地が利用されました。上で既述の通りです。 市野山古墳の周辺が市街化したことで、国府台地の地形もわかりにくくなりました。市野山古墳の内堤部分は建物で埋め尽くされ、初め から墳丘と内濠だけだったかのような姿を見せています。墳丘の樹林は、広葉樹が多い樹形に変わりだしたように見られます。 |
【 参 考 図 書 】 | 『 藤井寺市の遺跡ガイドブック No.6 新版・古市古墳群 』(藤井寺市教育委員会 1993年) | |
『 藤井寺市文化財報告第38集 』(2015年) | ||
『 古市古墳群を歩く 』(古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議 2010年) | ||
『 大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告 第五輯 』(大阪府 1934年)(1974年復刻版 大阪文化財センター) | ||
『 大阪文化誌 第14号 』(大阪文化財センター 1982年) | ||
『 日本の古墳 』(末永雅雄 朝日新聞社 1961年) | ||
『 古墳の航空大観 』(末永雅雄 学生社 1975年) | ||
『 陵墓地形図集成 』(宮内庁書陵部 学生社 1999年) | ||
『 天皇陵の近代史 』(外池 昇 吉川弘文館 2000年) | ||
『 文久山陵図 』(新人物往来社 2005年) | ||
『 歴史のなかの天皇陵 』(高木博志・山田邦和 思文閣出版 2010年) | ||
『 日本史リブレット97 陵墓と文化財の近代 』(高木博志 山川出版社 2010年) | ||
『 新・古代史検証 日本国の誕生2 巨大古墳の出現-仁徳朝の全盛 』(一瀬和夫 文英堂 2011年) | ||
『 陵墓古写真集Ⅱ-古市古墳群・磯長谷古墳群・宇土墓・三嶋藍野陵- 』(堺市博物館 2011年) | ||
『 天皇陵の誕生 』(外池 昇 祥伝社 2012年) | ||
『 天皇陵 』(矢澤高太郎 中央公論新社 2012年) | ||
『 古代史研究の最前線 天皇陵 』(洋泉社編集部 洋泉社 2016年) | 〈 その他 〉 |