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―― 市史「地籍集成図」からの復元地図で見る明治中期の藤井寺 ―― |
藤井寺市域の旧大字(旧村)区分図 |
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(注) 1) 大字(おおあざ)境界は「地籍集成図」に基づいており、現在の「藤井寺市管内図」(藤井寺市作成)や市販地図、Web地図サイト等の市域境界 とは異なる部分があります。 2) 大和川・石川を表す線は、堤防上の道路の位置で表示しています。また、大和川・石川の河川敷部分は、船橋村・津堂村の一部を除いては 耕地利用の小字(こあざ)は無く、宅地等もありませんが、各大字区分の形がわかりやすいように区域全体に彩色しています。 3) 古墳の形状は、「地籍集成図」では古墳単独の形では表示されていない小古墳も多く、たいていは小字の形(字切図)と小字名でかかれてい ます。この大字区分図では、他の古市古墳群資料に基づいて、当時存在した古墳の形状で表示しています。従って、現存しない小古墳がいく つもあります。 4) 池の表示は「地籍集成図」に基づいています。ごく一部、省略した小さい池があります。昭和期、特に戦後に開発によって埋め立てられた 池が多く、大小を問わず現存しない池がたくさんあります。 5) 水路も「地籍集成図」に基づいていますが、他の表示内容が見づらくなるため省略した小規模水路も多くあります。ただし、古代条理が多 く残っている場所では、小規模水路も他よりも多めに表示してあります。また、境界線と重なる部分などでは、意図的に水路の位置をずらし ている場合があります。 6) 各大字の区域内で濃い色になっている部分は集落範囲を表しています。これは、「地籍集成図」で「宅地」として表示された部分と、寺・ 神社の敷地を合わせ範囲です。ただし、津堂村・津堂八幡神社と野中村・野中神社は、古墳上に置かれいるので除外しています。 7) グレーの細線で表示している現在の道路は、実際の縮尺比例では細すぎて見にくいため、道路幅を強調して表してあります。 |
14の大字(旧村)があった藤井寺市域 | ||||||||
上の「旧大字区分図」は、『藤井寺市史第10巻・史料編8上』(1991年 藤井 寺市発行)に掲載の「地籍集成図」を基にして、旧大字境界・集落範囲・古墳・ 池・水路・寺社を1枚の地図に集成・復元したもので、そこに現在の地区境界と 主要道路、鉄道・駅を重ねてみました。 市の「地籍集成図」作成の基となったのは、各旧村が明治16〜19年(一部は 年不詳)の間に作成した各村別地籍図(字切図)です。この時期は、最初の町村合 併が行われた明治22年以前であり、現在の藤井寺市域を構成していたのは14 の大字(旧村)でした。この14ヵ村は後の合併によって一つの自治体となります が、実は当時は、志紀郡・丹北郡・丹南郡という三つの別々の郡に属している村々 だったのです。現在では、「郡」は行政区域名として形式的に用いられるだけで すが、「郡制」という行政形態があった当時、三つの郡にまたがって合併が行わ れるというのは珍しいことでした。 ![]() 市域の北西部に「小山村」と「丹北小山村」とがありますが、これらが別々の 郡に属していたことを表しています。丹北小山村はその名の通り丹北(たんぼく)郡 に属し、小山村は志紀郡に属していました。ずっと以前の時代には同じ郡だった のかも知れません。 分割された後、区別するために「丹北」を付けて呼ぶよう になったと思われます。対応して、志紀郡の小山を「志紀小山」と言うこともあ ったようです。 |
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藤井寺市域旧村の郡区分 明治22(1889)年3月 | ||||||||
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なお、丹北郡と丹南郡は、古代には一つの郡で、「丹比 郡(たじひのこおり)」と言いました。平安時代後期に分割されて 丹北郡・丹南郡となり、さらに丹北郡が分割されて「八上 (やがみ)郡」ができました。 「志紀」は地名・駅名・学校名で、「丹南」は地名で、 「丹比・八上」は学校名で、現代にも生き続けています。 |
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残された大字名と新しい地区名 現在の地区名と比べてみると、「丹北小山」以外の旧村名はそのまま残っていることがわかります。丹北小山も本来同じ「小山」と併合さ れています。江戸期の大字(おおあざ)名が全市的にそのまま残っているというのは、かなり珍しいことだと思います。 旧村のうち、村域が単独の地区として引き継がれているのは、船橋・北條・林・沢田・道明寺・津堂の6ヵ村ですが、それらの村も現在 の地区境界と比べると、少しずつ変わっていることがわかります。つまり、旧村の区域が昔のまま残っている所は無いということです。 地図で境界線の様子をよく見ると、近代以降にできた鉄道や幹線道路(現国道・府道)に合わせて、旧村境界から地区境界に変更されてい る箇所があちこちにあることがわかります。また、戦後の住宅増加に伴う地区分割による地区新設も、鉄道や幹線道路で区切られている箇 所の多いことがわかります。一方で、昭和30年代からの集中的住宅地開発によってできた新地区が各地にあることも見て取れます。 藤井寺市の現在の各地区の住居表示は、二通りに分かれます。比較的面積が大きい、または居住世帯が多い地区は、丁目区分が設けられ ています。逆に面積が小さい、または居住世帯が比較的少ない地区は、丁目区分は無くて、地区名に「町」が付いています。 |
人口の多かった藤井寺市域の村−明治期の町村別人口を見る 現在の藤井寺市域がすべて「村」であった頃、そこに居住している人の数、つまり人口はどれだけだったのでしょうか。別ページ「藤井 寺市ができるまで」で紹介していますが、藤井寺市域の村々は明治期の中頃に2度の合併によって、14あった村(大字)が三つの村に再編さ れました。藤井寺村・小山村・道明寺村の3ヵ村です。この内、道明寺村は志紀郡に属していた9ヵ村の内の8ヵ村が合併しており、人的 規模としてはかなり大きな村となりました。その頃の周辺地域と比較できる人口統計を見たかったのですが、明治期の「大阪府統計書」で は、町村別人口が確認できるのは明治38年統計書からでした。それまでは郡別の人口統計しか載っていません。 以下に、『大阪府統計書(明治38年)−町村別人口及戸数』から抽出した明治38年調査の南河内郡内町村の人口を紹介します。 |
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明治後期の南河内郡内町村別人口 | 《 明治38年12月31日現在 》 |
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※1 大田村・柏原村・国分村・玉手村は、後に合併を経て中河内郡に移管となる。 ※2 丹比村の一部は旧南大阪町(現羽曳野市)を経て旧美原町(現堺市美原区)に合併。 |
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※3 丹南村は旧美原町を経て松原市へ合併。 ※4 北八下村の一部は松原市へ合併。 ※5 南八下村の一部は旧美原町へ合併。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明治38(1905)年12月31日現在 『大阪府統計書《明治38年》−町村別人口及戸数』(国立国会図書館デジタルコレクション)より |
上記で述べたように8ヵ村が合併した藤井寺市域の道明寺村は、当時の南河内郡内では唯一4千人台の人口を有する村だったことがわか ります。人的規模では当時の南河内郡で最大の村だったのです。「藤井寺村」と「小山村」は、この10年後に合併して新「藤井寺村」とな りますが、この表の2村の人口を合計すると約3,400人で、新しい藤井寺村も人口規模の大きい村であったことがうかがえます。表の藤井 寺市域3ヵ村の合計人口は7,651人で、この人数は村域面積を考えると相当多いものと言えるでしょう。現在でも、藤井寺市の人口密度は 南河内地区では最も高く、大阪府内でも8番目(2020年国勢調査)です。 |
多くの古墳が存在 地図でわかる通り、藤井寺市域には9基の大・中型前方後円墳をはじめ、たくさんの古墳が存在します。隣接する羽曳野市にある古墳と 共に、「古市古墳群」と呼ばれる我が国有数の一大古墳群です。もともと面積の小さい藤井寺市域では、これらの多数の古墳が占める面積 の割合は、決して小さくはありません。 ![]() 大型前方後円墳のうち、4基は天皇・皇后陵であり、他の大・中型前方後円墳も多くが国史跡に指定されています。小型古墳でも国史跡 指定のものが多く、保存・保護の措置が取られています。つまり多くの古墳が占める土地の部分は、市街化の開発ができない、言い換えれ ば、人が住めなくて利用のできない土地なのです。 しかし一方で、里山などの自然の山林が存在しない藤井寺市域にあっては、これらの古墳は貴重な緑の存在となっています。里山と違う のは、数箇所の公園化された古墳以外は人の立ち入りができない、ということです。しかしながら、このことによって古墳内の植生が守ら れることになり、野鳥などの住みかとして貴重な存在となっています。 里山も無く、市域の大部分が市街化している藤井寺市で、けっこう多くの野鳥を見ることができるのは、こうした古墳群の存在があって のことです。野鳥の生息については、水場や餌場としての大和川・石川やため池の存在も大きな要因の一つと言えるでしょう。 大和川・石川の河川敷 藤井寺市域は、北に大和川、東に石川という大きな川に接しています。そのため、旧14ヵ村のうち7ヵ村の村域が河川敷の部分を含ん でいます。これら河川敷部分の合計面積はかなりのもので、古墳の合計面積よりは多いと思われます。市域全体に占める割合も、古墳と同 様に小さくはありません。この河川敷も、人の住めない場所です。また、耕作地としの利用もできない土地です。せいぜいが、グラウンド やテニスコートといった公営の施設に利用するぐらいです。これらの施設は、増水時には水没することを前提に造られています。 村々のうち、特に船橋村と北條村は、村域に占める河川敷の割合がたいへんなものとなっています。つまり、住居や耕作地として利用で きる土地が、地図上の見かけの面積よりもずっと少ないのです。船橋村の場合は、昔には河川敷のかなりの部分が畑地として利用されてい ましたが、増水時には流されてしまう場所でもあるのです。 ![]() ![]() 大井村・小山村・北條村の場合は、村地が川の両側にまたがっています。村の中を大きな川が横切っているのです。これらの河川敷の部 分は、田畑の面積として換算してみると、かなり大きな耕作地面積となります。このように大きな川にまたがって村地が広がることは、普 通はほとんどありません。橋が極端に少なかった江戸時代以前では人馬の往来が大変困難であり、農業水利や舟運の権利なども絡んだ領地 支配者間の調整もあって、自然と川の中央で境界となっているものです。石川の場合がその例に当たります。東側に隣接する現在の柏原市 域との境界が、石川のほぼ中央部分となっています。この境界は、村の境界であると共に、郡の境界でもありました。東側の郡は、明治29 (1896)年に南河内郡ができるまでは安宿部郡(あすかべぐん)と言いました。 では、大井村・小山村・北條村の場合は、なぜこのような村地の形態となっているのでしょうか。実は、これは村が先に存在していて、 後で川ができたことによるものなのです。つまり、この部分の大和川は昔からあった自然の川ではなく、人の手によって造られた人工の川 なのです。船橋村の北東部に大和川の折れ曲がっている部分がありますが、この場所から西側の大阪湾までの大和川が人工の川なのです。 村の境界に関係なく直線的に川を通せば、その結果として村地が二分されてしまうのも当然のことです。大和川付け替えの事業は、今から 300年余り前、江戸時代中頃より少し前の時期に行われました。 ![]() 船橋村から津堂村にかけての境界をよく見ると、川の中央部で境界となっている部分があります。これは、元からの村の境界ではなく、 新しい大和川が造られる時、または後の時代に、村どうし或いは支配領主、行政機関の間で協議され、等積交換などによって決め直された ものと思われます。これらの明治初期までの境界は、基本的には現在の市と市の境界に引き継がれており、藤井寺市・松原市・八尾市・大 阪市の4市に、川をまたいだ区域が存在しています。 南に多いため池 上の区分図では、藤井寺市域には大小たくさんの「ため池」のあったことがわかります。それも、岡村から野中村にかけての地域に集中 しています。津堂村と丹北小山村にもありますが、南側の地域の方がずっと多く、小さい池がたくさん見られます。また、大・中型古墳の 周濠にも水が貯えられており、ため池と同じような働きをしていました。ところが、市域の東部にある大・中型古墳には水面の表示は見ら れません。ほとんど空堀状態で、大雨の時に濠底に少し水が溜まる程度です。一方、市域の中央部、古室村から小山村・大井村にかけての 地域は、藤井寺村・野中村などより広いにも拘わらず、ため池がありません。しかし、この地域はほとんどが当時は水田でした。狭い市域 の範囲の中で、どうしてこのように地域によって様子が違うのでしょうか。それは、市域全体の地形に関係しています。 藤井寺市市域の地形は、人工である古墳の墳丘を除けば、高低差の小さいほとんど平坦に近い土地です。しかし、等高線を細かく取った 微地形図を見ると、南側が少し標高が高く、北へ行くほど少しずつ低くなっています。南部の最も高い標高が36mぐらいで、北部の最も 低い部分が13mぐらいです。この辺りは、南から延びている羽曳野丘陵と呼ばれる丘陵地の先端部分に当たり、わずかに北へ下がって行 く緩やかな斜面とも言える地形です。従って、市域の南の高い土地である野中村や藤井寺村、岡村では、水量のある川もないので、農業水 利としてのため池が必要となるのです。古墳の周濠の水も、ため池と同様に利用されてきました。江戸期の古地図では、「○○池」という 池の名前が書き込まれた周濠も見られます。当時の人々にとっての古墳は、天皇や豪族のお墓としての存在よりも、ため池の一つとしての 存在価値の方が大きかったのかも知れません。 ![]() 上の区分図では当時あった多くのため池が見られますが、この後の時代、特に昭和時代以降に埋め立てられて姿を消した池が多く、数と しては現存する池の方が少なくなっています。大きなため池もいくつも埋め立てられ、住宅地や商業地、学校、保育所、公共施設などに利 用されてきました。 ![]() 北へ流れる水路 羽曳野丘陵の先端部は、ちょうど藤井寺市域の中でV字形になって終わります。Vの字の部分が少し高い土地で、低位段丘・下位段丘と 呼ばれる地形です。Vの字の中央部に当たる部分は氾濫平野と呼ばれる堆積地形で、V字の段丘部分よりも低い土地です。この土地が、市 域の中央部のため池が無い地域なのです。低い土地なので水田に利用しやすく、戦後の昭和30年代になるまでほぼ全面が水田でした。地 図の水路が巡っている様子からも、この一帯が水田地帯であることが読み取れます。 この低地一帯には、石川から取り込まれた水路による水も多く供給されていました。このV字平野で水路の巡る様子を見ると、ある特徴 が見つかります。あちこちに正方形を描くような水路の分布が見られますが、これは古代条理の跡を物語る水路と水田の姿なのです。この 辺りから北の八尾市などにかけての一帯は、古代条理の跡を示す地形が多く残っている地域でもあります。古代から多くの水田があったと いうことは、それだけ昔から水田に利用しやすい土地であったということです。当然、ため池など必要としない土地だったのです。 なお、藤井寺市域の水路は、上述のような地形であることから、全体的には南から北へ向かって流れて行き、余分な水や排水は最終的に は落堀川へ流れ込みました。落堀川は西へ流れて行き、やがて大和川に流入します。 ![]() 大井村の環濠集落 大井村の集落の部分を見ると、集落を囲む形でやや大きめの水路の巡っているのがわかります。一つの輪のような形で囲む濠となってい ることから、こういう水路を「環濠」と言います。この環濠に囲まれて位置する集落を「環濠集落」と言います。規模は小さいですが、大 井村も一つの環濠集落の形態だったことがわかります。環濠集落は日本全国のあちこちに存在しましたが、規模の大きい場合は、軍事的な 防衛という役割で設けられるものもありました。最も代表的なのが、中世から近世の堺の町です。当時国内最大の貿易港であった堺の商人 町をすっぽりと囲む大規模な環濠でした。環濠の川幅もかなり広く、他の環濠集落の例と比べても群を抜く大規模なものです。他には、寺 院を中心とする寺内町の例もあります。 藤井寺市の地籍集成図を見ると、この環濠と大井村の集落部分との間に、10ヵ所ほどの「垣外」という小字名が載っています。「垣外」 は、一般に「かいと」と読まれますが、これは「集落や宅地を囲む垣の外側」を意味します。「垣」は石垣であることが多く、たいていは、 低地の中で盛り土をした部分を囲んだ石垣を表しました。そうして造られた宅地や集落地のことを「垣内(かいち・かいと)」と言いました。「垣 外・垣内」を含む地名は全国に無数にあります。人の苗字にもなっています。低地の水田地帯の中に宅地や集落地を造る方法として、広く 用いられたことがわかります。家は田に近い方が良いが、水の害からは守りたい、そういう人々の智恵がよく示されています。 大井村の場合も、上述のV字平野の最も低い土地に村地があります。このような村の中に集落地を確保しようと思えば、必然的に垣内の 形態にせざるを得ません。こうして、大井村の水田地帯の中に島が浮かぶが如く、垣内の集落ができあがっていったことでしょう。この垣 内を囲む環濠の場合は、用水路としてではなく、排水路として利用されたと考えられます。実際、環濠は北側の排水路である落堀川に接続 しています。 消えていった水路 現在の大井地区の地図や実際の水路の様子から、環濠の形跡を見ることはできません。ほとんどの水路が蓋を被せて暗渠(あんきょ)化され、 集落内の道路の拡幅に供されていったからです。昔からの集落内の道路は狭いものです。車社会になるにつれ、道路の拡幅は社会的要請と して避け難いものです。人家の密集した集落内で、唯一すぐにできる道路拡幅の手段が、道路沿いの水路の暗渠化だったわけです。 市域全体を見ても、上の区分図にある水路の多くは現在見ることができません。大井村の環濠のように暗渠化されたり、下水道整備に合 わせて管渠に変えられたりしたからです。幹線の役割をする水路でさえ暗渠化された部分があり、地図上では流路がよくわからない場所も あります。 実際に目にすることの少なくなった水路ですが、逆にその重要性は増してきています。水田が次々と埋められて宅地や商業地に変わり、 ため池も次々に埋め立てられてきました。一時的に水をためる場所が減り、降水時には市街地に降った雨水が一気に排水路に集中します。 最近各地で起きている「内水氾濫」という都市水害ですが、藤井寺市も決して例外となる地域ではありません。「あれだけたくさんあった 水路の水は、いったいどこを流れているのだろう?」、そんなことを考えていると、いささか心配になってきます。 寺と神社 区分図の中に記号で表示してある寺と神社が、旧村地籍図の作成当時に存在したものです。市の「地籍集成図」には表示されていない神 社を1ヵ所だけ書き加えました。というのは、後に廃社となって現存はしていないが、当時は存在した神社があるのです。「長野神社」と 言って、葛井寺境内の南西部分に存在した藤井寺村の氏神だった神社です。 長野神社は、明治時代の末期に「神社合祀令」によって岡村の辛國神社に合祀され、それまでの社は廃社となりました。現在藤井寺市に ある他の神社のいくつかも、同じ頃に長野神社と同じように近くの神社に合祀されて廃社となりました。しかし、戦後しばらくして、長野 神社以外の神社は元の場所に戻されて復社されました。長野神社だけが、合祀されたままで今日に至っています。辛國神社の参道で二の鳥 居の位置に建つ石鳥居は、元々は長野神社の鳥居で、神社合祀の時に移されたものです。鳥居の左右の柱の裏側には、「長野神社」「明治 27年9月再建」と文字が刻まれています。現在では、長野神社は唯一ここにだけその名を残しています。 昔からある村を地図で見るとき、寺や神社のある場所が昔からの村の中心かそれに近い所、などとよく言われます。実際、これは全国で 多くの旧村だった地域に当てはまっています。神社はともかく、寺の場合はほぼその通りと言ってよいでしょう。神社の場合は、鎮守の杜 が村はずれであったり、集落から離れていたりする例はよくあります。 ![]() 上の区分図で藤井寺市域の場合を見ると、4ヵ村の神社が集落から離れた場所にあります。津堂村と野中村は古墳の墳丘上に神社が建て られています。野中村の古墳は、ずばり「宮山」と呼ばれるようになりました。岡村の場合は、集落と辛國神社がかなり離れています。辛 國神社は式内社であり、古くから存在していたはずで、集落が大きく発達したのは後の時代だと思われます。 北條村の黒田神社も歴史の古い式内社で、昔は今の大和川の北側に続く広い範囲の氏地をかかえていたそうです。神社は現在よりもっと 北方にあったそうですが、江戸時代中前期の大和川付け替えによって氏地が分断され、その時に神社も移転したようです。氏神様が村地の 隅っこにあるというのは、そのような経過の結果だったわけです。 寺については、地図を見ると、どの旧村でも集落と寺が重なっています。集落の中心付近に寺が位置する村もあります。寺と人々の家々 が一体となって集落を形成してきたことが推察されます。 ![]() 実は、寺の場合にも廃寺となった例があります。明治初年に新政府によって「神仏分離令」が出され、それまで神社と一体となって存在 していた寺が強制的に神社と分離させられました。藤井寺市域では道明寺がその代表的な例ですが、その頃全国で「廃仏毀釈」の嵐が吹き 荒れ、この時に移転・再建もかなわず廃寺となった寺院が全国で相当数に上りました。藤井寺市域では、野中神社と同じ古墳内にあって宮 寺(神宮寺)だったと思われる「満願寺」という寺が廃寺となっています。 |