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《 つどうしろやまこふん 》 藤井寺陵墓参考地(後円部頂指定範囲のみ) 大阪府藤井寺市津堂1丁目地内 墳丘内に津堂八幡神社・津堂児童遊園が存在 国史跡〔1958(昭和33)年1月21日指定 1966(昭和41)年3月14日追加指定 2015(平成27)年3月10日追加指定 2001(平成13)年1月29日指定名称変更「古市古墳群」〕 ユネスコ世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」〔2019(令和元)年7月登録決定〕構成資産No.22 |
近鉄南大阪線・藤井寺駅より北へ約1.5km(津堂八幡神社入口まで)徒歩約23分 駐車場無し 古墳南東角より南東約300mのふじみ緑地内に市立ふじみ緑地駐車場(コインP)有り (古墳まで徒歩約5分) |
推定築造時期 | 4世紀後半 | 出 土 品 |
埴 輪 | 円筒埴輪 形象埴輪 (家・衝立・衣蓋(きぬがさ)・盾・囲(かこい)形、水鳥・鶏・猪・馬形、壺形) |
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古 墳 形 | 前方後円墳 | |||||
墳 丘 規 模 (m) |
墳 丘 長 | 208 | 銅 製 品 類 | 鏡 (三神三獣鏡、二神二獣鏡、獣帯鏡、盤竜鏡、変形神獣鏡 計8面以上) 巴形銅器4以上、皿状銅製品、平板状銅製品、金銅製櫛(くし) |
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前方部 | 幅 | 117 | ||||
高さ | 12.7 | 玉・石製品類 | 硬玉(こうぎょく)勾玉(まがたま)、 滑石(かっせき)勾玉、碧玉(へきぎょく)管玉(くだたま)、 硬玉棗玉(なつめだま)、滑石白玉、滑石刀子(とうす)、滑石剣、滑石鏃(やじり)、 車輪石、鍬(すき)形石、石釧<(いしくしろ)(腕輪) |
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後円部 | 径 | 128 | ||||
高さ | 16.9 | |||||
頂高 | 28.3 | 武具・武器 | 三角板革綴短甲(たんこう)、刀、剣、環頭大刀(かんとうのたち)、素環頭大刀、鉄鏃、 金銅弓弭(ゆはず)、銅製矢筈(やはず)、木製刀装具 |
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その他の造り | 二重の濠と堤 造出し(つくりだし) 内濠内に島状の 遺構(2ヵ所) |
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そ の 他 | 朱 | |||||
埋葬施設 | 竪穴式石槨(せっかく)(長さ6.1m 幅2.1m) 長持形石棺 (蓋石に亀甲文の陰刻) |
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1) 津堂城山古墳の遠景(南東の府営藤井寺小山藤美住宅より) 2013(平成25)年5月 |
藤井寺市の代表的古墳 津堂城山古墳は藤井寺市内においては、「城山古墳」或いは単に「城 山」と呼ばれることも多いのですが、考古学的には所在地名の「津堂」 を付けた古墳名で扱われます。それは、同じ古市古墳群の中に「高屋城 山古墳」と呼ばれた高屋築山古墳が存在しているからです。こちらも地 元では以前から「城山古墳・城山」と呼ばれてきました。どちらの古墳 も、その名の通り中世・室町時代の応仁の乱などで墳丘に城が築かれた ことから、「城山」の呼称が伝えられたものです。明治前期の地籍図で は、津堂城山古墳の部分には「本丸・二の丸・三の丸・四の丸」という 小字(こあざ)名が見られます。長年に渡って、古墳ではなく「かつて城があ った山」として扱われてきたことを示しています。 城が築かれていたことで、古墳としてはずいぶん崩れた形状になって しまっています。大きな前方後円墳であるのに、墳丘の形は見るも無惨 なほどの崩れようです。周濠の跡地はとうの昔に埋まってしまい、周囲 の土地よりわずかに低い程度の地面となっています。 このような津堂城山古墳ですが、文化遺産・史跡として見る限りでは 藤井寺市域を代表する古墳だと私は思います。古代遺跡の代表「国府遺 跡」、三ツ塚古墳出土遺物の「修羅」と並んで、藤井寺市の三大古代文 化遺産だと言ってよいと思います。市内には他にも大型前方後円墳があ り、天皇・皇后陵に治定されているものも4基ありますが、現在のとこ ろでは、津堂城山古墳の方が文化遺産としての重要性では優っていると 言えるでしょう。というのも、天皇・皇后陵とされる前方後円墳は、形 も整っていて管理も行き届いていますが、文化財として見たときには、 |
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2) 真上から見た津堂城山古墳 内堤・外濠・外堤の部分は完全に市街化している。 〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より 文字入れ等一部加工 |
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今一つ“お役立ち感”が乏しいのです。それは、天皇・皇后陵とされる古墳については本格的な発掘調査が行われておらず、古墳としては “よくわかっていない”からです。つまり、文化財として学術的に得られるものがまだ少ないということなのです。その点、津堂城山古墳 は今までに何度も発掘調査が行われており、古墳としての研究・考察が進んできています。様々なことがわかってきており、また、多種多 |
様な遺物についても調査が行われてきました。 大阪平野南部に広がる世界文化遺産の「百舌鳥・古市古墳群」 には、数々の天皇陵が存在していますが、津堂城山古墳はそれら に匹敵する規模を持つ大型前方後円墳です。つまり、大王級の古 墳であるとも言えるのですが、この規模の古墳で津堂城山古墳ほ どの調査が行われた古墳は他にはあまりありません。津堂城山古 墳では、竪穴式石槨やその中に在った大型石棺についても調査が 行われ、記録が残されています。それらの調査資料は、同じよう な規模の天皇陵とされる古墳について考察する時に、大いに参考 となる貴重なものです。宮内庁管理の陵墓についての発掘調査が |
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3) 梅園越しに見た墳丘の様子(南東より) 2016(平成28)年2月 写真中央から左側が前方部。右側の後円部は樹木にかくれている。 |
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できない現状においては、津堂城山古墳調査資料の価値は大変大きなものがあります。 |
古くて巨大な古墳 津堂城山古墳は、4世紀後半に古市古墳群の中で最初に造られた前方後円墳です。この古墳の位置は、羽曳野丘陵の低位段丘上にあり、 古市古墳群の中では最も北側にある古墳です。これより後に築かれた大型前方後円墳は、もっと南側の国府台地などの台地上にあり、最初 の津堂城山古墳がなぜこの場所に築かれたのか、興味が持たれるところです。 ![]() 墳丘の長さ208m、前方部の幅117m、後円部の直径128mで、くびれの部分には造出し(つくりだし)と呼ばれる出っ張りがあります。現存す るのは、墳丘と内濠跡地だけですが、これまでの調査や研究により、二重の濠と堤をめぐらせた総長436mにも及ぶ巨大古墳であったこと がわかっています。これは、古市古墳群の中では、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳、仲津山(なかつやま)古墳に次ぐ、3番目の大きさです。同じ時期 に造られた古墳の中では、最も大きなものの一つでもあります。 戦後になって、航空写真による古墳の研究を進めていた故末永雅雄氏が、この古墳の周濠の外側に、幅80mにも及ぶ付属地があることを 指摘し、この部分を「周庭帯(しゅうていたい)」と命名しました。この周庭帯の部分は、後の調査により、内濠の堤と外濠、さらに外濠の堤であっ たことがわかってきたのです。 |
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現在の写真や地図からも、その周庭帯の形状を見つけることができますが、 住宅地化する以前の航空写真を見ると、はっきりとその姿を見ることができ ます。ぎりぎりで古墳に接して造られたと思われていた府道は、実は古墳の 中を縦断していたことがわかります。下の写真が末永氏の著書に掲載された 航空写真の1枚です。1958(昭和33)年撮影のものです。 ![]() |
津堂城山古墳の推定復元図 | |
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4) 60年ほど前の津堂城山古墳の様子(北西より) 後円部を除く墳丘の大部分と周濠跡は農地として利用されていた ことがわかる。写真下方の集落は、旧津堂村時代から続く津堂地区の集落。 1958(昭和33)年1月8日 『日本の古墳』(末永雅雄著 朝日新聞社 1961年)より |
5)築造時の津堂城山古墳を現況地図に復元した図 『津堂城山古墳−古市古墳群の調査研究報告W−藤井寺市 文化財報告第33集』(藤井寺市教育委員会 2013年)より 着色、文字入れ等一部加工。 |
複数の堤と周濠が墳丘を囲む形は、これ以後の大王級の古墳に多く見られる特 徴で、津堂城山古墳が最古の例です。他の大型前方後円墳の多くが陵墓に治定さ れている中、津堂城山古墳は後円部頂だけが陵墓参考地に治定されているだけな ので、それ以外の部分を考古学の専門家が発掘調査をすることができます。この 古墳以後の前方後円墳の発展の仕方を研究する上で、津堂城山古墳は大変貴重な 存在です。 一方で、陪冢(ばいちょう)と考えられる小古墳が周辺に一つも存在しないという、こ のクラスの大王級古墳としては、逆に珍しいと思える要素も見られます。この古 墳以後、5世紀にかけて造られた大王級の大型前方後円墳には、陪冢と考えられ る古墳が必ずと言っていいほど存在しています。この点から津堂城山古墳は大王 古墳ではないとする説もかなり有力です。また、「古事記」や「日本書紀」「延 喜式」に書かれている天皇陵の中に、津堂城山古墳の築造時期にあてはまる天皇 で該当する場所の記述はないということです。 わすれられた大王級古墳 この津堂城山古墳は、実は明治が終わる頃までは、前方後円墳であること自体 が地元の人々にもよく認識されていなかったようです。名前のとおり、室町時代 に三好氏の砦として城が築かれたことで墳丘の形が大きく崩れてしまい、見た目 にはただの小山にしか見えない姿になってしまいました。しかも、周濠部分の多 くは農地として利用されていて、残った部分もよくある小さな池にしか見えない 様子でした。全体が大きいために、横から見ただけでは古墳だとは気づきにくい 姿です。いつしか、ここが古墳であったことさえ忘れ去られていったようです。 明治時代中頃までに作成された地籍図を見ると、古墳域内の土地には城跡であ ったことを示す小字名が載っています。つまり、この場所は、古墳としてではな く、「城跡」のままそのイメージが長年伝承されてきたことがわかります。 右の6)図は、百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議が資料作成の ために2011年に実施した、航空機によるレーザー測量で記録された精密な等高線 |
津堂城山古墳の推定復元図 | |
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6) 津堂城山古墳墳丘図(レーザー測量図) 『津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会)より トリミングの上、着色、枠線・文字入れ等、一部加工。 |
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を表す図です。レーザー測量は近年実用化された技術で、樹木が茂っていても地表の標高を正確に測定することができます。この技術が開 発されたことで、地形の凹凸を調べるための測量が、短時間で正確に行えるようになりました。6)図を見ると、津堂城山古墳の墳丘がいか に崩れてしまっているのかがよくわかります。大雑把には前方後円墳の形が辛うじて見て取れますが、近くで見たときにはおそらくよくわ からないことでしょう。 航空機のない時代、上空から見て前方後円墳であることを知る手立てはなく、農地や子どもの遊ぶ山として利用されてきました。また、 ここに津堂八幡神社が置かれて、お参りや祭りの場所ともなりました。そんなことから、明治の初めに全国の陵墓調査が行われた時にも、 きちんとした調査対象にはならなかったようで、明治18年測量の「2万分の1仮製地形図」では、前方後円墳どころか、ただの草地として の表示しかありません。古墳として認知されていなかったのです。次の「明治41年測量地図」でも同じです。このような実態が、その後こ の古墳に様々な運命を与えていくことになるのです。 |
よみがえった巨大古墳 (1) 陵墓治定から外れる 明治初期から明治20年頃にかけて、陵墓治定の作業、つまり、どの古墳がどの天皇の陵であるかの選定考証が進められました。この時 巨大な前方後円墳でありながら、陵墓治定からもれた古墳がありましたが、他の陵墓との比較から全く別物として陵墓から外すわけにもい かず、「陵墓参考地」という治定が行われました(例・河内大塚古墳〈松原市・羽曳野市〉など)。ところが、津堂城山古墳はこの陵墓参考地 の選定からも洩れました。墳丘が変形し濠や堤の形もわからない状態で、大型の前方後円墳であること自体が認定されなかったのかも知れ ません。 現在では、河内平野に最初に造られた大王級の古墳だと考えられている津堂城山古墳ですが、この明治期の治定作業では、全く陵墓の対 象外として扱われたのです。 (2) 巨大石棺の発見 1912(明治45)年、一大事件が起こります。地元津堂村の人々が、この古墳の後円部頂から石材を掘り出したときに、その下から巨大な 石棺が現れて、人々を驚かせました。 その前年の明治39年に神社合祀(ごうし)の勅令が出され、全国で約8万社の神社が廃社となりました。現在の藤井寺市域でも、津堂八幡神社 をはじめ、国府(こう)八幡神社、大山咋(おおやまぐい)神社、志疑(しぎ)神社、野中神社、長野神社が近隣の神社に合祀されて廃社となりました(長野神 社以外の元村社であった神社は戦後に元の場所で復社)。 ![]() 津堂八幡神社は明治40年11月から隣接する小山村の産土(うぶすな)神社に合祀されましたが、津堂村では村社であった八幡神社が存在していた ことの記念として石碑を建てることが決まり、その石材を城山の山頂部から掘り出すことになりました。以前から地元の人たちには、この 城山の頂上部(後円部頂)の土中に大きな石のあることが知られていたらしく、それを神社の記念碑に利用しようというので掘り出したとこ ろ、その下から大きくて立派な石棺が現れたのです。掘り出された石材は、後円部頂にある竪穴(たてあな)式石槨(せっかく)(古墳の埋葬施設)の天井 石だったのです。 |
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(3) 1912(明治45)年の発掘調査 石棺が発見されたことは、大きなニュースとして新聞でも報道され、多くの 考古学者が駆け付けました。東京帝国大学・坪井正五郎博士や京都帝国大学・ 梅原末治博士などによる調査で、竪穴式石槨内からは長持形石棺や勾玉・鏡・ 刀剣など多くの副葬品が出土しました。この長持形石棺は、それまで知られて いた石棺の中でも最大で、しかも非常に精巧な造りのものでした。 この時の調査で明らかになった資料は、他の巨大古墳(その多くは陵墓)の内 部がほとんど調査されていない中で、今なお貴重な学術的価値を持つものです。 (4) 陵墓参考地に追加指定 精巧な造りで大型の石棺が出土した城山古墳ですが、それまで全く陵墓調査 の対象外として扱っていた宮内省(当時)は、この発掘調査結果に対して急きょ 対応策を迫られ、城山古墳の後円部頂だけを「藤井寺陵墓参考地」に追加しま す。全体を指定するには、余りにも陵墓からほど遠い姿だったからでしょう。 石棺は埋め戻すこととし、出土した副葬品は全て国が買い上げることになりま した。 後円部頂だけという変則的な陵墓参考地の指定でしたが、こうして、ようや |
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7) 発掘された石棺と坪井正五郎博士 1912(明治45)年 博士と比較すると、石棺の巨大さがわかる。 『津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会)掲載・ 「國學院大學学術資料館所蔵 大場磐雄写真資料1」より |
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くこの地は前方後円墳として世に知られ、しかも大王級の古墳規模であることも明らかになってきたのです。下に、津堂城山古墳に埋設さ れていた長持形石棺の記録図と、宮内庁所蔵の副葬品の一部を紹介します。出土遺物の一部は、宮内省以外でも所持されていたようです。 |
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8) 津堂城山古墳出土石棺の記録図 着色のうえ縮尺文字拡大 『ふじいでらカルチャーフォーラム[ 津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会 2001年)掲載の「長持形石棺復元図」(梅原末治氏 1920年)より |
9) 津堂城山古墳出土遺物(宮内庁所蔵) 玉・石製品・石製模造品集合(玉は抜粋) 『津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会)より |
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10) 津堂城山古墳出土遺物(宮内庁所蔵) 巴形銅器集合 10)・11)とも『津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会)より |
11) 出土遺物(宮内庁所蔵) 半三角縁二神四獣鏡(宮内庁鏡番号72) |
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12)「藤井寺陵墓参考地」治定の後円部頂(南西より) 中央の柵で囲まれた樹林の部分が指定範囲。左端に津堂 八幡神社の玉垣が見える。 2016(平成28)年12月 |
13) 南東の前方部上より 2016年12月 南東側と北東側の柵が見えている。 |
写真12)〜14)は後円部頂の陵墓参考地に治定された部分の様子です。正式には「藤 井寺陵墓参考地」という名称です。現在は何本もの樹木が繁る林のようですが、この 林の下に古墳の中心施設である竪穴式石槨が埋まっています。 (5) 国指定史跡となる 1958(昭和33)年1月21日に、墳丘と内濠部分が国史跡に指定され、文化財として 法的な保護が加えられることになりました。その後、周庭帯部分の宅地化が進み出し、 住宅建設に先立つ発掘調査が行われるようになりました。 (6) 1980(昭和55)年の調査 大阪府教育委員会による後円部西側、周庭帯での発掘調査が行われ、内濠の堤と外 濠が見つかりました。内堤の外側斜面には葺石(ふきいし)が施されており、その斜面下部 からは大型の衝立(ついたて)形埴輪が出土しました。 この時の調査によって、「周庭帯」といわれた部分には内濠の堤と外濠、外濠の堤 |
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14) 北東の後円部麓より 2012(平成24)年6月 改修工事が行われ、現在は新しい柵に変わっている。 |
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のあったことが分かりました。つまり、津堂城山古墳は二重の濠と堤を持つ巨大な前方後円墳であることが明らかになったのです(5)図)。 (7) 1983(昭和58)年の調査 藤井寺市教育委員会による東側内濠部分の発掘調査では、墳丘・内堤・内濠がが検出され、造出しも確認されました。また、円筒埴輪や 蓋(きぬがさ)形、盾(たて)形、 衝立(ついたて)形(翳(さしば)形説も)、家形の埴輪が出土しました。さらに、南東側内濠の中で、一辺17mの方墳状の施設 (島状遺構)が見つかり、これの南側傾斜面上部には、大きな3体の水鳥形埴輪がありました。後の調査で、反対側の南西側内濠にも対とな るような同様の施設のあることが確認されています。 写真 17)が、南東側島状遺構から発見された水鳥形埴輪です。2006年6月に国の重要文化財に指定されました。市立生涯学習センター「ア イセル・シュラホール」で展示されています。 |
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15) 衣蓋(きぬがさ)形埴輪 | 16) 衝立(ついたて)形埴輪(翳(さしば)形埴輪) | 17) 水鳥形埴輪(左から2号・1号・3号) |
3体の水鳥形埴輪については、藤井寺市発行の『広報ふじいでら』2020年10月号掲載の『ふじいでら歴史紀行 No.165』で、「藤井寺の文 化財C−重要文化財城山古墳出土水鳥形埴輪−」として紹介されています。わかりやすく説明されているので、その主要部分を引用紹介さ せていただきます。 『(前略) 形象埴輪は、4世紀後半以降、器財埴輪(盾・甲冑(かっちゅう)・大刀などの武器・武具類や貴人にさしかける傘である衣蓋(きぬがさ) など)や水鳥などの動物埴輪が出現し、5世紀前半頃からは動物埴輪の種類が増え、5世紀中頃には人物埴輪も登場します。すなわち水鳥形 埴輪は、動物埴輪や人物埴輪が増えていくきっかけとなった埴輪なのです。 ここで、城山古墳出土の水鳥形埴輪の詳細を見てみましょう。それぞれがだ円筒形の台にツバをまわし、その上に足を載せた形をしてい ます。それぞれの大きさは、1号水鳥形埴輪が高さ106p、2号水鳥形埴輪は頸部の一部が欠けているため正確にはわかりませんが、1号と 胴体の大きさがほぼ同じであることやプロポーションが似ていることから、1号とほぼ同じ高さでしょう。3号はほか2体よりも小型で、 高さが80pです。しかし、大きさを言ってもこれらが大きい埴輪なのか小さい埴輪なのかイメージをしづらいでしょう。例えば、誉田御廟 山(こんだごびょうやま)(応神天皇陵)古墳出土の水鳥形埴輪は、高さ60p程度で、城山古墳の水鳥形埴輪が見つかるまではこれが最大クラスの大き さの水鳥形埴輪でした。いかに城山古墳出土の水鳥形埴輪が大きいかがわかるでしょう。そして、この大きさと形から、城山古墳出土の水 鳥形埴輪は、1号と2号がコハクチョウ、3号がハクガンをモデルにつくられたのではないかと推測されます。 このように、城山古墳出土の水鳥形埴輪3体は、現在国内で出土している水鳥形埴輪のなかでは最大のもので、かつ、古い時期に位置付 けられ、写実性にも優れているということから、平成18年に重要文化財に指定されました。 (後略)』 |
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(8) 1987(昭和62)年の調査 後円部北側で、内堤・外濠・外堤が検出されました。円筒埴輪などが出土しています。 |
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津堂城山古墳の被葬者は?−大王墓なのか 今までの調査・研究から、津堂城山古墳は二重の濠と堤を備えた巨大な前方後円墳であり、出土物などから4世紀の末頃に造られたこと が分かってきました。津堂城山古墳以後の大王の古墳とされる巨大前方後円墳の多くに、二重の濠と堤が造られていることや、その他の資 料などから考えると、津堂城山古墳は、河内平野に初めて造られた大王級の古墳であると考えられるのです。ただ、天皇陵の一つとして位 置づけられるのかどうかについては、依然として諸説が並存しており、今一つ決め手に欠ける状況です。仮に天皇陵である可能性が高いと 認められたとしても、では被葬者はどの天皇かについて、またまた諸説が展開されます。それによって、他の天皇陵の見直しへと議論が拡 大していくことになります。当分の間、古墳、特に陵墓と見なされる古墳についての謎は、互いにからみ合って続くことでしょう。 一方で、津堂城山古墳の中心部は宮内庁によって「藤井寺陵墓参考地」に治定されています。「陵墓参考地」ということは、歴代の天皇 や皇族の誰かの陵墓の可能性があることを認めていることにほかなりません。その可能性がまったく無いのであれば、わざわざ「参考地」 などに治定する必要はないはずです。しかし、宮内庁はその先まで踏み込んで調査する意向は微塵も見せていません。陵墓の治定替えにつ ながるようなことには、一切手を着けるつもりはないのです。「陵墓参考地」には、「誰の陵墓として参考にするのか」という宮内庁の定 めた対象があります。戦前の宮内省時代から受け継がれたものです。「藤井寺陵墓参考地」の対象者は「第19代允恭(いんぎょう)天皇」となって います。現在允恭天皇陵に治定されているのは、同じ藤井寺市内に存在する「市野山古墳」です。 ![]() 古墳時代専門の博物館である大阪府立近つ飛鳥博物館の元館長・白石太一郎氏は、津堂城山古墳を大王墓(天皇陵)と見ることには否定的 な見解を著書や講演で表明されています。詳しくは著書でご覧いただきたいと思います。一方、津堂城山古墳の発掘調査や保存整備事業に 長年携わってこられた天野末喜氏(元藤井寺市教育委員会文化財保護課長)は、津堂城山古墳は西暦370年前後に築かれた大王墳であるとい う見解を示されています。洋泉社発行の『古代史研究の最前線 天皇陵』(洋泉社編集部 2016年)に掲載の天野氏の論文から、「城山古墳の被 葬者像」を紹介しておきます。なお、当サイトの「誉田御廟山古墳」のページには、天野氏が提示された「古市古墳群主要古墳編年表」を 掲載しています。参照してみてください。 ![]() 『城山古墳の被葬者像 城山古墳は、370年前後に築造された大王墳であると考えた。次の課題はその被葬者の特定ということになろ う。これまでの見解としては、大道弘雄(だいどうひろお)が志貴県主(しきあがたぬし)(大道1912)、梅原末治(うめはらすえじ)が允恭天皇(梅原1920)、藤井利章(ふ じいとしあき)と水野正好(みずのまさよし)が仲哀天皇(藤井1982)を被葬者と想定している。また、宮内庁の『陵墓参考地一覧』(昭和24年)では該当御方 允恭天皇、考証意見第二類とする。しかし、いずれの候補者も城山古墳の築造年代と齟齬(そご)をきたす。もっとも接近する仲哀天皇にあって も一世代ほどのズレが観察される。 古市古墳群には370年前後に城山古墳、390年前後に仲津山(仲姫(なかつひめ)陵)古墳(藤井寺市)、410年前後に誉田御廟山古墳が築かれた。 これらは三代に連なる大王の墳墓と考えられる。誉田御廟山古墳に応神天皇が葬られたと考えると、仲津山古墳は仲哀天皇、城山古墳には 日本武尊(やまとたけるのみこと)が被葬者の候補にのぼってこよう。ただ、仲哀天皇や日本武尊はその実在性に疑問符が付されていることを考えると 城山古墳の被葬者として日本武尊という個人名を挙げることに躊躇せざるをえない。しかしながら、応神天皇の二代前の大王が存在し、そ の大王が城山古墳に葬られた可能性まで否定することはないように考える。ただ、城山古墳、仲津山古墳、誉田御廟山古墳の被葬者が系譜 的に結ばれていたことを考古学的に実証あるいは論証することは容易ではない。』 |
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市民の公園として 津堂城山古墳の土地所有については、国有地の後円部頂の陵墓参考地、津堂八幡神社の社地、ごく一部の民有地(2018年)を除く大部分が 市有地化されています。古墳域のほとんどが市の事業として公園化されており、今後も整備が続けられていく予定です。 かつて農地に利用されていた内濠部分や墳丘は、市の保存整備事業によってちょっとした古墳公園となっています。全体の規模が大変大 きく、墳丘の変形も著しいので、形状的な復元を目指すのではなく、市民が自由に出入りして楽しめる「古墳公園」としての整備が行われ てきました。現在、内濠部北側には「史跡城山古墳ガイダンス棟・まほらしろやま」が設置されており、展示や掲示によって津堂城山古墳 についていろいろと知ることができるようになっています。衝立形埴輪や円筒埴輪も展示されています。 また、墳丘の樹木の周囲は様々な園芸植物や桜が育てられており、季節の彩りとして市民の目を楽しませてくれます。整備が始まって以 後多くの桜の木が育てられ、現在では市内でも有数の桜名所となっています。また、内濠跡部分には、菖蒲園(しょうぶえん)や草花園(そうかえん)、梅園 が造られ、四季折々の花が古墳を彩ってくれています。写真マニアにとっても格好の撮影場所となっています。ただ、コスモス・アブラナ という連作障害を起こしやすい1年草の草花園では、最近は生育状況が悪く、以前ほどの迫力ある光景が見られなくなっており、少々残念 に思います。南西側の周濠跡地が草地状態なので、この場所も草花園に利用して輪作による場所転換を行ってはどうかと思います。 |
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18) 周濠跡地で見られるお花見風景(南より) 2019(平成31)年4月 合成パノラマ![]() |
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19) 早春の北側梅園(東より) 2016(平成28)年2月 | 20) 菜の花の草花園(北より) 2019(平成31)年4月 | |
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21) 見頃の菖蒲園(東より) 2018(平成30)年6月 | 22) コスモスの草花園(南西より) 2003(平成15)年10月 |
津堂八幡神社歴 一、天正3年(1575年)織田信長の河内攻めの時、小山城(城山)落城の際、 現藤井寺高校付近に所在していたと言われる神社も、同時に焼失したと思われる。 一、享保5年(1720年)津堂城山古墳後円部頂の西端に八幡社を設ける。 新記念碑建立協力者 一、明治42年(1909年)1月小山村産土神社に合祀。 (財)朝日新聞文化財団 一、明治45年城山古墳発掘時、竪穴式石室天井石の一枚で記念碑建立。 市教育委員会文化財保護課 一、昭和23年津堂村氏神として復社。 津堂地区・八幡神社氏子会 一、平成23年8月、保存の為に 右天井石の記念碑を提供、新記念碑建立。 石留石材株式会社 |
写真 23)が新しく建てられた津堂八幡神 社の社号標です。天井石の記念碑が立って いた場所と同じ位置に建てられました。右 の 24)が天井石を転用して造られた記念碑 です。よく見ると、記念碑の「八幡神社」 の書蹟がそのまま新社号標にも使用されて いることがわかります。「津堂」の文字だ けが、「八幡神社」に似せた書体で加えら れています。かつての記念碑の存在を新し い社号標にも生かし続けたいという、地域 の人々の思いが表れています。 展示された天井石 かつて津堂八幡神社の記念碑であった古 墳石槨の天井石は、保存処理を経て現在は 「まほらしろやま」の前庭で民家から寄贈 された石と共に展示されています。記念碑 の石は裏面を上にして展示されており、年 号と碑文の筆者名を見ることができます。 |
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23) 新しい津堂八幡神社の社号標 2011年10月 記念碑と同じ場所に建てられたこの石碑は、神社名 を示す社号標である。「八幡神社」の文字に旧記念碑 の書蹟の使われているのがわかる。左端に津堂八幡神 社の鳥居と拝殿が見えている。 |
24) 明治45年(大正元年)建立の記念碑 この時すでに廃社となっていた津堂 八幡神社が、かつてここに在ったこと の記念碑なので、一番下の文字は「址」 である。碑の下部が埋もれている。 |
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筆者名は、『大正元年壬子桂月南岳藤澤恒書』とあります。記 念碑の文字は藤澤南岳(なんがく)の書であることがわかります。「大正 元年壬子(じんし)の年の桂月(8月)に南岳・藤澤恒(恒は名)が書いた」 ということです。明治45(壬子)年7月30日に「大正」に改元となっ ています。記念碑の表の文字は『八幡神社舊(旧)址』です。 藤澤南岳は幕末に大坂の町で大きな漢学塾を営んでいた儒学者 で、「通天閣」の命名をしたことがよく知られています。大阪市 の旧清華小学校・旧集英小学校・旧愛日小学校などの命名もして います。大正9年没ですが、記念碑が造られた当時にあっては、 大阪で大変有名な文化人に碑文を書いてもらったということにな ります。ちなみに、南岳は同じ明治45年の5月には、道明寺天満 |
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25)「まほらしろやま」の前庭に展示されている天井石(北東より) 右側から、記念碑、民家にあった石、記念碑基礎に使われていた石、 記念碑周辺にあった石。 2017(平成29)年6月 |
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26) 藤澤南岳 (古希祝いの記念写真より) |
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27) 藤澤南岳の 署名と日付け |
28) 記念碑の実測図(「図116 天井石実測図1−A」) 『津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会)より 着色加工 |
宮の大きな注連石にも立派な書蹟を残しています。 ![]() 写真 25)の右端が記念碑だった天井石です。手前が上で、中央部に写真 27)の藤澤南岳の署名と日付けが刻まれています。 28)図は、 『津堂城山古墳』掲載の「記念碑の実測図1」のA部分です。この図で『八幡神社舊址』の正確な書蹟を見ることができます。「舊」の字 は現在では常用漢字では使用しない旧漢字なので、行書体だとなおのこと読みづらい書になっています。下部に見える「岡 石卯」は、旧 岡村に所在した石材店の屋号だと思われます。 古墳の石槨そのものはまだ築造当時のまま地下に存在しているのに、その天井石が何枚も展示されていること自体は大変珍しく、貴重な 展示でもあります。ただ、旧記念碑の表面『八幡神社舊址』の文字を見ることができないのは、ちょっと残念でもったいないという気がし ます。重量のある物ですが、展示の形態に何か工夫はできないものかと、この展示を見るたびに思います。 |
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「まほらしろやま」 津堂城山古墳の北側、本来は内堤の一部であった場所に、1999(平成11)年4月、「史跡城山古墳ガイダンス棟『まほらしろやま』」が開 設されました。古墳公園の形は整いつつあったのですが、来訪者が利用できるトイレや休憩施設が何もなかったのです。休憩所兼案内施設 として「まほらしろやま」が建設されました。藤井寺市Webサイトでは、「まほらしろやま」について次のように案内されています。 ![]() |
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29)「まほらしろやま」の全景(南西より) 2019年4月 棟瓦の両端には水鳥が置かれている。前庭右側は石棺のレプリカ。 |
30) 展示の一部 2017(平成29)年5月 右側は出土した衝立形埴輪の実物。 |
よみがえった巨大石棺 2017年春、史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」の前庭に、巨大な石棺が置かれました。明治末に偶然発見された、津堂城山 古墳の石槨内に在った長持形石棺のレプリカです。レプリカと言っても、その大きさや形状は実物そっくりに復元されています。そのよう な復元が可能になったのは、明治末に発見された時に調査に当たった梅原末治・坪井正五郎の両氏が残された図面や報告文、さらに発掘調 査時に撮影された写真などの資料が揃っていたからです。既述の通り、これだけの規模の石棺が埋設された古墳が詳しく調査された例は限 られており、その点からみてもこの復元レプリカは大きな意義を持っていると言えるでしょう。 記録でわかっている石棺の特徴は次のようなものです。石棺は6枚の板石を組み合わせて造られ、蓋石上面には格子状の彫り込みがあり ます。また蓋石、側石、底石には縄掛け突起が、小口石には方形突起が付け加えられています。この巨大で精巧かつ装飾性豊かな長持形石 棺は、古墳時代中期の大型前方後円墳に採用された棺の典型例と考えられています。 復元石棺に使用された石は、石槨の天井石と同じ兵庫県高砂市産の竜山石です。各地の古墳で発掘された石棺にも用いられています。復 元石棺の大きさ(突起部分を除く)は、長さ348cm、幅168cm、高さ188cmです。写真33)でわかるように、並の大人の身長を越える高さが ある巨大石棺です。石棺は6枚の板石を組み合わせて造られており、各板石の厚み(中央部)は、蓋石38cm、側石26cm(2枚)、小口石18cm (2枚)、底石50cmです。重さは、蓋石約4t、側石(がわいし)約2t×2枚、小口石(こぐちいし)約1t×2枚、底石約6tで、総重量は約16tにもなり ます。こんな巨大で立派な石棺に葬られた人は、いったいどんな人だったのでしょうか。興味は尽きません。 なお石棺は後円部の石槨(埋葬施設)に設置された段階で、赤色顔料で全体を彩色されたと推定されていますが、復元石棺ではその加工は 施されてはいません。 |
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31) 石棺のレプリカ(北西より) | 32) 石棺のレプリカ(北より) | 33) 石棺のレプリカ(南より) | 34) 石棺のレプリカ(北西より) |
石棺のレプリカは、縄掛け突起や蓋石上面の彫り込み模様も忠実に復元されている。見学者と比べると、石棺の巨大さがよくわかる。 2017(平成29)年6月 |
フォト・ライブラリー 《 津堂城山古墳 》 | ||
藤井寺市内の他の古墳もそうですが、かつては古墳を囲んでいた田園風景が、今ではすっかり市街化してしまいました。津堂城山古墳の 場合は、それに加えて古墳そのものが姿を変えてきています。40年ほど前までの津堂城山古墳は、陵墓参考地以外の墳丘や周濠跡地の多く は農地として利用されており、そのほかの場所も池や半湿地の草地で、およそ古墳とはかけ離れた状態でした。「古墳」として評価すれば まさに“荒れ放題”の古墳だったのです。国史跡の指定を受けてからも、古墳の土地が当時は公有地ではなく、すぐには整備が進められま せんでした。やがて年数をかけた公園化の整備事業が始まり、年々その姿を変えてきました。現在は殆どが公有地となり、公園としての形 も整ってきました。変わってきた津堂城山古墳の様子を、数々の写真で見ていただきたいと思います。 |
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@ 明治末期の津堂城山古墳(南より) 明治45(1912)年の発掘調査の時に撮影されたものと思われる。 左側後円部の墳頂に複数の人影が見える。墳丘手前側の周濠跡は、水田に利用されていたようである。 『津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会)掲載・「國學院大學学術資料館所蔵 大場磐雄写真資料3」より |
写真@は、明治45(1912)年に石棺が発見され、直後に行われた発掘調査の時に撮影されたものと思われます。左側の墳頂部に何人もの人 の姿を見て取れます。この頃の後円部には少数の樹木しか無かったことがわかります。前方部にも墳丘上には大きな樹木はありません。手 前の周濠跡地の部分は農地だったようで、畑作物の栽培の様子が見られます。これは水田利用地での冬場の裏作かも知れません。 |
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A 昭和初期の津堂城山古墳の様子(南より) 右側前方部の上に建物施設が見える。手前は水田裏作の冬作物と思われる。 |
B 前方部正面(南東より) 墳丘上左寄りに施設が見える。 |
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ABとも『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告 第五輯』〈大阪府 1934(昭和9)年〉〈1974(昭和49)年復刻版 大阪文化財センター〉より |
写真ABは、@から20年前後経った頃と思われるる写真 で、昭和9年に大阪府が刊行した『大阪府史蹟名勝天然記 念物調査報告 第五輯』に掲載されたものです。写真はその 前の数年間のうちに撮られたと思われます。他の資料とつ き合わせている中で、珍しい写真であることに気がつきま した。 写真では、前方部の上に何かの建物の在るのがわかりま す。私が当たってきた津堂城山古墳の写真の中では、この 本の写真だけにこの建物が写っていました。 右のC図も同書に載っているものですが、墳丘上にはっ きりと建物の形が描かれています。略図なので実測図ほど の正確さはありませんが、当時の古墳の様子がよくわかり ます。この建物施設については説明がありません。図中の 文字は「石室・碑」だけです。 建物は墳丘の高さと比べて、2階建て程度の高さがあり そうで、単なる農作業小屋とは見えません。下の昭和10年 撮影の写真Dには写っておらず、この建物は一定期間だけ 存在していたと思われます。写真Dの樹木の繁り具合から 考えると、写真ABは大正時代に撮影された可能性もあり ます。 |
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C「津堂城山古墳外形略圖」『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告 第五輯』より 左側と下部にあった断面図は省略。着色、文字入れ等一部加工。 |
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「津堂城山古墳外形略圖」を見ると、津堂城山古墳の土地の大部分は耕作地として利用されていたことがわかります。周濠跡地は一面の 水田となっています。墳丘もほとんどが果樹園として利用されています。後円部頂は陵墓参考地に治定されており、柵で囲まれています。 ただ、治定区域の形が現在とは異なっています( 5)図参照)。図の描き方の問題なのか、治定区域そのものが後の時代に変わったのか、その わけはよくわかりません。参考地区域の北東側には少しだけ笹林と針葉樹林の記号が見えます。おそらくは藪のような状態だったと思われ ます。前方部の平坦地の一部を利用して建物が設置されたようです。 略図には石室の位置も描かれていますが、古墳の中心線から少し北東側に寄っています。このことから、南西側にもう1基の石室(石槨) の存在を推測する研究者もいます。 既述の通り、陵墓参考地区域の北西側には明治末まで「津堂八幡神社」がありました。小山地区の産土(うぶすな)神社に合祀されたため、大 正年間から第2次大戦後になるまで、神社は廃社となって姿を消していました。神社跡地には、「八幡神社舊(旧)址」の記念碑が建てられ ていました(写真 24))。 |
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D 昭和10年の津堂城山古墳(南より) 1935(昭和10)年谷村為海氏撮影 @から23年後の様子である。手前の周濠跡地は水田として利用されているのがわかる。 『津堂城山古墳−古市古墳群の調査研究報告W』(藤井寺市教育委員会)より |
写真Dは撮影時期がはっきりわかっており、昭和10年の様子です。陵墓参考地となった後円部は、植樹されたようで多くの樹木が繁って います。樹園地であった前方部は、写真では果樹は無くなっているように見られます。周濠跡地部分は依然として水田に利用されており、 夏場の撮影だとわかります。元が濠であっただけに水田利用はしやすかったと思われます。逆に畑作には向いていなかったでしょう。現在 の周濠跡地を見ても、相当広い水田の広がっていたことが想像できます。 |
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E 戦後の昭和23年の津堂城山古墳と周辺の様子 〔米軍撮影 1948(昭和23)年2月20日 国土地理院〕より 周庭滞の形がよくわかる。 文字入れ等一部加工 |
F 昭和36年の津堂城山古墳と周辺の様子 〔1961(昭和36)年5月30日 国土地理院〕より 後円部の中心部だけ樹木が繁っている。 文字入れ等一部加工 |
写真Eは戦後間もない昭和23(1948)年の撮影です。現在の藤井寺市域全体が撮影された水平空中写真では、最も古い時期の撮影だと思わ れます。当時の日本に占領駐留していた米軍が撮影したもので、1946〜1948年の3年連続で撮影が行われています。津堂城山古墳の周囲を 見ると、おそらくは明治の初めとほとんど変わらないであろう村々の集落の様子がわかります。近代以降の新しいものと言えば、古墳に接 して通る府道(大阪−古市線)と、その府道に沿って並ぶ工場や住宅群ぐらいです。周りは広々と水田が広がる完全な田園地帯です。 津堂城山古墳を見ると、現存している古墳部分の周りに、末永雅雄氏が指摘した周庭帯のあることがよくわかります。古墳全体は現存部 分に比べると、はるかに大きなものであることもわかります。古墳を壊さないようにぎりぎりで接して建設したと思っていた府道は、津堂 城山古墳の全体像から見ると、実は古墳の中を見事に縦断していたのです。この府道の建設は、戦前の昭和10年代のことでした。 写真Fは、Eから13年後のものです。わが国は高度経済成長期に入り始め、大阪府でも急速な人口増加が始まっていました。藤井寺市域 でも各地に公営住宅が建設されていきました。写真でも2ヵ所の府営住宅のできている様子が見られます。どちらの住宅も現在は高層化さ れています。津堂城山古墳を見ると、周濠部分の水田など、多くが農地に利用されていると見られます。 |
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G 昭和40年の津堂城山古墳(東より) 中央が後円部、左に前方部の一部が見える。 『津堂城山古墳−古市古墳群の調査研究報告W』(藤井寺市教育委員会)より 1965(昭和40)年石丸洋氏撮影 左右2枚の写真を合成 |
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H 昭和40年の津堂城山古墳(南より) Gの反対側から見た様子。右側が前方部。 『津堂城山古墳−古市古墳群の調査研究報告W』(藤井寺市教育委員会)より 1965(昭和40)年石丸洋氏撮影 |
写真Gは、Fの4年後の様子で、まだそんなに変化はありません。冬場の撮影のようで、刈り取りの済んだ水田の様子です。この光景だ けを見ると、どこの村にでもありそうな“田んぼと里山の風景”にしか見えません。昔の人々も、まさかあんな立派な石棺が埋まっている とは想像もしていなかったことでしょう。 写真HはGの反対側から撮影されたものです。国産カラーフィルムが普及し始めた頃で、この時期の古墳カラー写真はまだ珍しいと思わ れます。冬場で落葉樹は枝だけになっており、松の木だけが高くそびえています。墳丘下段部分には冬野菜が栽培されているようです。 |
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I 昭和46年の津堂城山古墳と周辺の様子 〔1971(昭和46)年5月9日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 |
J 昭和49年の津堂城山古墳と周辺の様子 〔1974(昭和49)年8月28日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 |
写真IはGHの6年後の様子です。前年の1970年には大阪で日本万国博覧会(大阪万博)が開催されています。それに備えて昭和40年代前 半には大阪府内の各地で幹線道路の建設が急ピッチで進められました。藤井寺市域では、主要地方道大阪外環状線(現国道170号)・府道堺羽 曳野線(31号)と西名阪道路(現西名阪自動車道)が新たに開通しました。写真Iの2年前から、津堂城山古墳のすぐ北側を西名阪自動車道が 通るようになったのでした。また、写真Fと比べると、津堂城山古墳の周辺や旧村落周辺に住宅の増えている様子が見えます。農地が減っ て住宅地が増える、という市全体で見られる変化がこの地域でも広がってきました。写真Iの頃からの約10年間が、藤井寺市で最も激しい 人口増加のあった時期でした。市内では、次々と市立の小・中学校や幼稚園、保育所が新設されていきました。 写真Jでは、小学校と幼稚園の新設に向けて用地造成が進んでいます。昭和51(1976)年4月開校園した藤井寺北小学校と藤井寺北幼稚園 がそうです。写真が撮影された昭和49年には、4月に津堂城山古墳から約700m西に大阪府立藤井寺高等学校が開校しています。 津堂城山古墳の域内を見ると、写真Fで整然としていた周濠跡の水田部分が草地のように変わり、写真Jでは北部に池状態の部分も見え ます。古墳整備に向けて、民有地の公有地化が始まっていたのではないかと思われます。また、周辺の住宅地拡大により、周庭帯の形が以 前ほど目立たなくなってきました。知っていなければわかりにくい様子になっています。 |
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K 昭和50年の津堂城山古墳 墳丘部の多くは畑として利用 されている。北側には池、南側には湿地が広がっている。 〔1975(昭和50)年1月24日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 |
L 昭和54年の津堂城山古墳と周辺の様子 周庭帯の大部分に建物ができ、形がわかりにくくなっている。 〔1979(昭和54)年10月13日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 |
写真KはJの翌年の現存古墳部分の様子です。上記の通り、周濠跡地の水田はなくなっており、草地や湿地の状態になっています。北東 部の府道横の周濠跡地には池ができています。墳丘部分は、陵墓参考地や八幡神社の範囲を除いて、まだ耕作地が多いように見えます。 写真LはJの5年後の様子です。藤井寺北小学校は開校から3年が経っています。Jの頃からさらに住宅が増えています。 |
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M 昭和56年の津堂城山古墳(北より) 1981(昭和56)年6月 『大阪府立近つ飛鳥博物館図録18 百舌鳥・古市−門前 古墳航空 写真コレクション』(大阪府立近つ飛鳥博物館 1999年)より |
N 平成6年の津堂城山古墳と周辺の様子 〔1994(平成6)年5月8日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 家屋が建て込んで、周庭帯の形は注意深く見ないとわからない。 |
写真Mは、写真KLとほぼ同じ様子の鳥瞰写真です。写真Kで見られた池の部分はなくなり、周濠跡地の大部分は草地となっています。 初夏の撮影なので、草地や畑の状況がよくわかります。墳丘の北東側下段部分はまだ耕作地の形態を見せています。墳丘中心部は数十年育 った樹木が繁り、小さな森のようになっています。この後、津堂城山古墳の公園化事業が進められていくことになります。 写真Nは平成時代に入ってからの様子です。ますます増えてきた住宅などが建て込み、周庭帯の形はよくよく注意して見ないと気づかな いような状態となりました。かつての田園地帯に押し寄せた市街化の波です。大和川堤防の下にある落堀川に沿って小山雨水ポンプ場がで きています。藤井寺市内で度々起きる内水氾濫への対策として建設されました。 |
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O 平成11年の津堂城山古墳と周辺の様子 〔1999(平成11)年5月7日 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 津堂城山古墳は公有地化され、古墳公園として整備が進められた。 |
P 最近の津堂城山古墳衛星写真 〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より 文字入れ等一部加工 府営住宅が高層化し、右端に工場跡地の新しい住宅街が見える。 |
写真Oは、津堂城山古墳の整備が進み、現在とほぼ同じように公園化した姿です。 ガイダンス棟の「まほらしろやま」が設置され、草花園や菖蒲園も開園しています。 写真Pは最近の様子ですが、あれだけあった田畑がずいぶん少なくなっています。 津堂城山古墳の周囲は完全に市街化したと言えるでしょう。ますます周庭帯の形がわ かりにくくなりました。この中から探すのは、ちょっとしたパズルのようです。 大阪府営藤井寺小山藤美住宅が高層化され、敷地の南側半分が現在では「ふじみ緑 地」となっています。ここに設けられた時間駐車場が、今のところ津堂城山古墳見学 の代替駐車場として利用されています。少し歩くことで、すぐに津堂城山古墳に行く ことができます。 写真Qは、藤井寺市サイト『歴史遺産・観光』の中にある空撮の古墳写真アルバム にある1枚です。ちょうど桜が満開の時に撮られたもので春の津堂城山古墳の感じが よく表れています。撮影高度の低さやかなり広角なレンズで撮影されていることを考 えると、ドローン撮影による空撮と思われます。このWebページには他にも津堂城山 古墳の写真が何点か載っています。また、他の主要ないくつかの古墳の写真もいろい ろとあります。いずれも低い位置からの撮影なので墳丘上の様子がよくわかります。 |
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Q 最近の津堂城山古墳空撮写真(北西より) 藤井寺市サイト『歴史遺産・観光−世界遺産をめざして −空撮写真・動画』より 2016(平成28)年4月 左下隅の庭のある白い屋根の建物が「まほらしろやま」。 |
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なお、「津堂城山古墳」については、藤井寺市文化財保護課編集の『城山古墳物語』が市のサイトに掲載されています。石棺発見に始ま るたいへん詳しい津堂城山古墳解説となっています。津堂城山古墳に興味をお持ちの方は、ぜひ一読されることをお薦めします。また、さ らに詳しく専門的な調査・研究成果等についても知りたいとご希望の場合は、前掲の図書、『津堂城山古墳−古市古墳群の調査研究報告W −藤井寺市文化財報告第33集』(藤井寺市教育委員会 2013年)の熟読をお薦めします。ただし、書籍そのものは品切れとなっており、新規に 購入することはできません。藤井寺市立図書館などで利用することができます。 ![]() |
【 参 考 図 書 】 | 『 藤井寺市の遺跡ガイドブック No.6 新版・古市古墳群 』(藤井寺市教育委員会 1993年) | |
『 ふじいでらの歴史シリーズ3 探検・巨大古墳の時代 土・石・埴輪がつくる世界 』(藤井寺市教育委員会 1998年) | ||
『 ふじいでらカルチャーフォーラムY 古市古墳群の成立 』(藤井寺市教育委員会 1998年) | ||
『 藤井寺市の遺跡ガイドブック No.11 古市古墳群とその時代 王権の構造と社会の変化 』(藤井寺市教育委員会 2000年) | ||
『 ふじいでらカルチャーフォーラム[ 津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会 2001年) | ||
『 藤井寺市の遺跡ガイドブック No.15 巨大古墳の時代をめぐって −修羅と水鳥形埴輪の重要文化財指定記念− 』(藤井寺市教育委員会 2008年) | ||
『 津堂城山古墳−古市古墳群の調査研究報告W− 藤井寺市文化財報告第33集 』(藤井寺市教育委員会 2013年) | ||
『 古室山・大鳥塚古墳 附章 狼塚古墳 −古市古墳群の調査研究報告Y−藤井寺市文化財報告第41集 』(藤井寺市教育委員会 2017年) | ||
『 史跡古市古墳群整備基本計画(第1次) 』(藤井寺市教育委員会・羽曳野市教育委員会 2018年) | ||
『 古市古墳群を歩く 』(古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議 2010年) | ||
『 大阪府立近つ飛鳥博物館図録18 百舌鳥・古市 門前 古墳航空写真コレクション 』(大阪府立近つ飛鳥博物館 1999年) | ||
『 大阪府立近つ飛鳥博物館図録55 百舌鳥・古市の陵墓古墳 巨大前方後円墳の実像 』(大阪府立近つ飛鳥博物館 2011年) | ||
『 大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告 第五輯 』(大阪府 1934年)(1974年復刻版 大阪文化財センター) | ||
『 日本の古墳 』(末永雅雄 朝日新聞社 1961年) | ||
『 古墳の航空大観 』(末永雅雄 学生社 1975年) | ||
『 日本史リブレット97 陵墓と文化財の近代 』(高木博志 山川出版社 2010年) | ||
『 新・古代史検証 日本国の誕生2 巨大古墳の出現−仁徳朝の全盛 』(一瀬和夫 文英堂 2011年) | ||
『 古代史研究の最前線 天皇陵 』(洋泉社編集部 洋泉社 2016年) | 〈 その他 〉 |