更新記録と日記

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2007/12/30

 さて今年も余すところ二日となってしまいましたが皆様如何お過ごしでしょうか。私は14日の演奏会以来まったく気の抜けた状態で碌にピアノも弾かずに専ら読書と飲酒にふけっておりました。このままではイカンと、そろそろ2008年に向けて練習も新たに開始しました。

 今年は新たにレパートリーとした作品にプロコフィエフ「トッカータ」、バッハ「フランス風序曲」「イタリア風アリアと変奏」「ヴァイオリンとクラヴィアのソナタ第4番」、ドビュッシー「前奏曲第2集」、トゥール「ソナタ」、ブラームス「2台のピアノのためのソナタ」、林光、ブリュルの作品などがありますが来年はどのような作品とめぐり合う事が出来るでしょうか?今年取り上げる事の出来なかった悔いの残る作品は没後150年を迎えるカルル・ツェルニー「トッカータ」でした。弾く機会はこれからは皆無でしょう…(^^;

 今年読んだ本は自作オーディオ関連のものが多かったのですがそれに絡んで物理、数学読みものも幾つか読みました。その反動でこの10日間ほどは「新古今和歌集」「大鏡」を飛ばし読みしておりました。基本的に私は古典文学の方が好きなのかもしれません。来年も楽しい本、映画に出合えるでしょうか。

 自作オーディではTDA1552Qを使ったパワーアンプを作ったくらいです(こちらを参照)。年末になってフォノイコライザを作ろうと色々資料や部品を集めていたのですが部品が集まりきらず来年に持越しです。来年は真空管アンプに挑戦か?

 財団法人日本漢字能力検定協会による今年の漢字は「偽」だったそうな。まぁあらゆる業界で「偽」の多い年でした。演奏の方も「偽」でなかったか、厳しく自省したいと思います。また来年も新たな曲との出会い、名曲のレパートリー化、知られざる作曲家の発掘と頑張って行きたいと思います。よろしくお願いします。

 それでは良いお年をお過ごし下さい。

2007/12/22

 今日は忘年会、仕事に出て終電で帰ってきました。忘年会はバカバカしくも楽しいもので毎日忘年会でもいいものです。

 帰ってくるとアーンの「Le rossignol eperdu」の楽譜が届いていました。楽譜を少し見ましたがアーンはまさにベル・エポック、古きよき時代の音です。願わくば楽譜の入手がもう少し楽ならいいのですが。

 明日は加藤英雄さんの演奏会が世良美術館であります。楽しみです。

2007/12/16

 イグナツ・ブリュルの演奏会終了。アンコールは今年没後20年のチェイシンズ「24の前奏曲」から4曲。なかなかコアなピアノ好きの方々に集まっていただき熱気のある演奏会でした。オタッキーさん曰く「100分間オール・ブリュルなんて誰もしないで」、確かに誰もしないでしょう…(^^;でもこういうコンサートがあっても面白いと思います。来年も通常のコンサートと平行してこのような演奏会をやっていこうと思いました。聴きに来て頂いた方々に感謝申し上げます。

 ネット時代になり楽譜の流通が変わりスキャナでデータ化された楽譜がやり取りされるようになりました。それは別に法的な問題を除いては便利になったと思うのですが反面楽譜に対する奏者の思い入れが急激に薄れたような気もします。私も図書館で数百枚に及ぶ楽譜を学生時代からコピーして来ましたがその頃の楽譜は大事にしています。片やネット上ではクリック保存で一瞬です。中には持っていても一度も開いた事のない楽譜のファイルがあるかも知れません。今回ブリュルの演奏会を行うにあたっての楽譜の収集、整理は私自身楽譜に対する姿勢というものを考えさせられました。来年も良い作品と出会えるといいものです。

2007/12/8

 カールハインツ・シュトックハウゼン氏が死去されました。享年79歳。私が始めてシュトックハウゼンの音楽を聴いたのは中学の頃に買った「コンタクテ」のLPでした。Wergoの見本盤、真っ白なジャケットにシュトックハウゼンの名前と「コンタクテ」と殴り書きされた怪しいものでしたがパーカッションとピアノと電子音による「三重奏」に興奮したものです。「テレムジーク」やジェフスキによる「ピアノ曲]」など愛聴したものです。私はシュトックハウゼンの作品は「ピアノ曲\」しか弾いていないのですがその音使いはノーノともブーレーズとも違ういかにもドイツ系の作曲家らしさを感じました。個人的にはベートーヴェンに通ずるところがあります。近年のシュトックハウゼンの作品はあまり聴いていないし、またあまり好きでもないのですが初期の作品は素晴らしいものが多いと思います。
 謹んでご冥福をお祈りします。

2007/11/26

 世良美術館での演奏会終了。演奏はうまくいった方ではないかと思います。トゥールのソナタがなかなか評判がよかったのが意外でした。アンコールはドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」、チェルカスキー「悲愴前奏曲」、ブリュル「9つの練習曲」から第1番、ファジル・サイ「アッラ・トルコ・ジャズ」。チェルカスキーが一番受けていました(^^;
 聴きに来て頂いた皆様に感謝申し上げます。

 さて12月のイグナツ・ブリュルに向けて明日から練習です。これも結構体力勝負です。

2007/11/19

 久しぶりにYou Tubeで見つけた驚きのナニです。今回はおかしなものを見慣れた私も久しぶりに度肝を抜かれた作品エルヴィン・シュルホフの「ソナタエロチカ」。シュルホフはダダイズムの下、先鋭的な実験作品を書いており「五つのピトレスケ」などを残していますが、中でもスキャンダラスな内容によって知られているのがこの「ソナタエロチカ」です。録音は存在していましたが実際の映像を見る事ができるとは驚きました。「ここまでやっていいのか」と賛否両論、毀誉褒貶の激しい問題作ですがシュルホフ本人は真面目に作ったのではないでしょうか。シュルホフは後にナチスによって強制収容所に送られそこで亡くなっています。ジャズ風の作品も知られており、演奏頻度はあがりつつあるようですがこの作品は日本ではさすがに上演される事はほぼないといえるでしょう。同じ作品ですがこちらはもう少し楽しそうな(?)雰囲気です。

2007/11/16

 先日新聞の広告欄でちくま学芸文庫からサルトルの「存在と無」が出るという記事を見ました。勿論初の文庫化です。かつて人文書院から出ていた訳とは違うようです。私がこの手の思想書を読みはじめた頃は既にポスト構造主義の流行も落ち着いた頃でした。しかし相変わらずサルトル(更にはヘーゲル)は「古い」という風潮でフーコーやデリダが人気の思想家でした。私の母の若い頃は「実存」大流行でサルトルやボーヴォワールは流行の書だったそうです。レヴィ=ストロースによって厳しく批判されたサルトルはその後急速に人気をなくしていくのですが私が特に印象的だったのは晩年のサルトルが毛沢東主義の学生運動に賛同し街頭でビラ配りをしている写真です。ノーベル文学賞に選ばれた(サルトル自身が辞退)ような世界的な思想家が信念によって社会的に活動する姿はかっこよくもありまた同時にどこか悲しい姿に感じました。そこまでサルトルを追い詰めた思想とそれを実行する行動力を改めて見直そうという風潮が最近あるようで今回の文庫化に繋がったのではないでしょうか。私は「実存主義とは何か」しか読んでいないのですが「存在と無」に挑戦してみようかとも思います。読みきれるかどうか怪しいものですが。

2007/11/12

 さて、久しぶりの更新ですがこの間何をしていたかというと、何もしていなかった訳なのですがドビュッシーについて少し。
 今回11月24日の演奏会で演奏する「前奏曲集第2集」ですが私は個人的にドビュッシーの最高傑作であると思っています。勿論「第1集」も素晴らしい出来ですし(むしろ全体の構成はこちらの方が完成度が高いかもしれません)、その後の「12の練習曲」も傑作であると思いますがこの「第2集」はドビュッシーのピアノ音楽の中でも最も洗練された作曲技法とピアノ書法を兼ね備えた作品であると言えます。例えば第1曲「霧」。左手の白鍵の和音とそれを打ち消すような右手の黒鍵のアルペジオ、この極めて単純な音型によって生み出される響きの綾は言葉では言い表せません。これだけの切り詰めた素材によって作られた響き、その音響的実験はまさに天才的としか言いようがありません。比較として適格かどうかわかりませんがフロラン・シュミットの「影」第1曲の冒頭と比べて見るとそのシンプルさはわかっていただけるでしょう。

 勿論、シュミットにはシュミットらしい響きがあるのですがドビュッシーは最もシンプルな音づかいで深く複雑な響きを創造しています。このシンプルな音づかいは「前奏曲集第2集」の顕著な特徴です。技巧的な難度の高い第12曲「花火」にしても実際に楽譜を分析するとその素材の少なさ、音型の単純さに驚かされます。作曲上の創造力の印象さえ削ぎ落としたような洗練されたピアノ書法と作曲技法、これは楽譜の美しさそして演奏が極めてデリケートな部分での難しさに繋がっていると言えます。私は常々「前奏曲主第2集」は技巧的には難易度は低いもののそれとは違う次元でかなり難しさがあると考えていました。今回の演奏会で取り組んでみて改めてそのことを実感しました。

 12月14日に演奏するイグナツ・ブリュルについて。
 ほとんど資料がない作曲家なのですが最近Wikipediaに項目が出来ていました。もっとも翻訳のようですが。
 ブリュルは現在ハイペリオンのロマンティック・ピアノ協奏曲シリーズの一巻にピアノと管弦楽の作品が収められています。私は東京の友人Mさんからかつてジェネシスから出ていたLP(やはり協奏曲が収められている。ピアニストはクーパー)の解説のコピーを頂きゴルトマルクの証言などを読んだのですが、当時の評価は非常に高い人物であったことが伺えます。しかし最後の作品番号101が出版されたのが1907年、この年はドビュッシーは既に「前奏曲集第2集」を書き進め、シェーンベルグも無調的作品(「3つのピアノ曲」など)を書いた頃です。それに比べるとやはりブリュルの作品は保守的であり時代遅れと言われるような作品です。更にその死後ナチスにユダヤ人であったためその存在を消されたというのも非常に不運であったと思います。私は何故かブリュルの作品を弾くとある種同情的な気持ちを強く感じます。彼の人生を反映したように非常に親しみやすく平易な曲調でありますが、全く忘れ去られてしまったというのはあまりに気の毒だと思います。勿論それだけでブリュルの演奏会を開催する決意をした訳ではありませんが私の感情的な面がないとは言い切れません。

 今年はオイラー生誕300年という事でささやかなコーナーが設けられている本屋さんもあるようです。私も少し前見かけて何か素人向けの読み物はないかと物色したのですがふと目に止まった「数学ガール」という本、調べて見ると評判もなかなか良く買ってみました。ただ買う際「帯」に書かれた「ミルカさん、テトラちゃん、僕」というのにやや引っ掛ったのですがあまり考えずに買ってしまいました。この本で扱われている数学の問題については私はどうのこうの言えるほどの知識もないのですが、この本のファンの方には申し訳ないのですが私のセンスが悪いのか古くさいのか、正直この小説のようなものを読み通すのに非常に難儀した事を告白せねばなりません。筋運び、文体、すべて何か神経を逆撫でされているような気がしました。私はいわゆる「現代文学」という物をほとんど読まないので、まぁ頭の硬い人間なのかもしれませんが何か美学に反する事が書かれてあるような気がして読み通すのに多大な努力を必要としました(勿論本文中に出てくる数学的内容にも難儀したのですが)。星新一氏はそのエッセイ「文体」(「気まぐれ暦」に収録)の中で「文章は人柄を表す」と書いています。私は例えば中森明夫氏や橋本治氏のいわゆる「軽薄文体」もあまり気になりません。別に中森、橋本両氏が軽薄であるとは思いませんが、少なくともその軽妙な文体によって難解、晦渋になりがちな話題を軽く扱う「技」として読む事が出来ます。実際両氏とも普通の文章を書けばその人柄を髣髴とさせる真摯な文章を書かれています。ただファンの方には誠に申し訳ないのですが美を追求するようなスタンスでありながらそれを感じられないような文章を書かれる作家が現代多いように思うのです。勿論言語は共時的なもので刻一時、変化するものです。しかし文体の格調と言うか品格はまさに人柄のような気もするのです。
 名作「虚無への供物」を書いた中井英夫氏は「文学賞などは文体だけで決めるべき」と過激な発言をされていますがある意味これは正しいことであると思います。同じ内容でも谷崎潤一郎の描く世界と私が下手に要約する世界とは誰が見ても似て非なるどころか、全く別次元のものでしょう。美とは極めて表面的な美しさを必要としているのです。
 まぁ私のような軽佻浮薄な文章をネット上に書き散している輩には何も言えない訳ですが…。

2007/10/23

 リンクにぷーれんさんによる「ドビュッシーとラヴェル」を追加。ドビュッシーとラヴェルの本質をつく評伝、音源紹介も一筋縄ではいかない名演を採り上げていらっしゃいます。また「アングラ作曲家」の発掘など実に充実した内容です。その作曲家の作品表を見るだけでも勉強になります。

 11月2日に大阪十三のスロースペースYMOでヴァイオリンのミロワさんとヒーリングコンサートに出演します。内容はバッハの「G線上のアリア」やカッチー二の「アヴェ・マリア」など耳に馴染んだ綺麗な曲ばかりです。生誕150年をむかえるエルガーの作品も「愛の挨拶」ほか「夜の歌」「朝の歌」も演奏します。

 元モーニング娘。の弟さんが機材窃盗の容疑で逮捕されたそうです。14歳で華々しく芸能界にデビューしてその後「不祥事」で引退、その後は居酒屋店員や鳶職をしてこの事件に及んだという事です。刺青もしているという報道もあり流行りのタトゥーではなく本式の刺青らしいです。そのスジの人と関係があるのではないかと察しられます。若くしてアイドルになってそれなりに人気もあって何が不満なのかと私なんかは思いますが、諸事情があるのでしょう。人間の欲望は全くわからないものです。

2007/10/17

 さて、随分更新をサボっていたのですが色々書きたいことはあるものの書くのに時間がかかるので少々反省している次第です。HP内の各記事もブログにして「アレを読んだ、この映画を見た」という感じで軽く書いていけばいいのでしょうがつい力んで書いてしまうのは悪い癖です。

 最近随分熱心に物理学を勉強…というと大袈裟ですが、いわゆる科学読み物としてはなかなか面白いものです。私は高校の頃進路で音楽の方に行ってしまい物理はほとんどやっていません。次いで書くと数学も微積分、三角関数を少しやったところで終わっています。これが結構私の中で引っ掛っていまして科学読み物に滅法弱いのです。「新しい高校物理の教科書」を読んでなんとなくわかった気になっているのですが、物理学だけにいえることではないのですが理数系の学問は極端に言えば「正しくはかる」という事が出来るかと思います。この「正しく」と言うのが実はかなり曲者でして、正しいとは何かと問うとこれは哲学の問題になります。1メートルがなぜあの長さなのかという事は「そう決まっているからそうなのだ」としか言いようがなく「地球の円周の云々」とか「真空中を光が進む速度の云々」というのは実は人間が勝手に作ったものです。地球の大きさが違えば1メートルの長さも違ってたでしょうから「正しい」というのは人間が作った単位、基準において「正しい」のであり絶対的真理に基づいて正しい訳ではないのです。
 脱線しますが先日グラム原器が0.05ミリグラム軽くなったとかいうニュースを読みました。こういうのを読むと我々の規準というものがいかに「作られた」ものであるか考えさせられます。

 音楽においても例えば「あの演奏は速過ぎる」とか「グールドみたいに遅く弾いた」等と普通に交わされます。しかしよく考えてみると「正しい」テンポや「正しい」速度などというものが存在するとでもいうのでしょうか?速いとか遅いとかいう場合我々は「何かと比べて」速いとか遅いとか判断する訳でその比べる「何か」を考える事は無駄な作業ではないと思います。そう考えてみると、それが作曲者の指定した速度であったり一般的に演奏されている常識的な速度であったりと意外にあやふやなものであることに気がつきます。感覚的に速いとか遅いとかいうのは人間のもつリズムとしてあるのですが、近年の研究によるとそのリズムさえ人によって相当のばらつきがあるそうです。
 私は芸術作品はあらゆる解釈というものを許容するのではないかと思います。ある人間の思考と解釈そして感性を駆使したものは速すぎようと遅すぎようと説得力を持つものであると考えます。もし「正しい」テンポなどというものを考えるならありとあらゆる演奏の録音の演奏時間を調べ上げ平均値をとり、それに近づければいいでしょう。しかしそんな馬鹿な事をする人はおそらくいないと思います。理性的にものをはかるという事は意外なほど難しいのではないでしょうか、などと思ってみたりしました。

2007/10/4

 12月14日(金)豊中市のアクア文化ホール2階音楽室でイグナツ・ブリュル(1846−1907)のピアノ作品による演奏会を行います。ブリュルはモラヴィアの裕福なユダヤ人の間に生まれ、ウィーンで活躍した作曲家。15歳で発表したピアノ協奏曲1番は高い評価を得たということです。アントン・ルビンシュタインにも高く評価され、ブラームス、批評家のハンスクリックやマーラーとも親交のあった人物です。しかしその作品の大半がピアノのためのサロン的小品であったことや、死後ユダヤ人であったためナチスによって音楽史から追い出されてしまったため忘れ去られてしまった音楽家です。没後100年にあたる今年、彼の魅力的なピアノ作品を少しですが紹介してみたいと思います。詳しいプログラムは演奏スケジュールから。

2007/9/28

 友人のお誘いで明石へ飲みに行く。旨い魚に旨い酒、おまけに女性二人といいこと尽くめの数時間。堪能させていただきました。帰りに神戸の友人のバーへ。女性を誘って二人で…と言いたいところですが夜もおそいので一人、おまけに終電を逃して朝まで飲んでしまいました。情けない(^^;

 さて私はなんら政治的理念を持ち合わせていないのでそのつもりで読んでいただきたい話を少し。

 アレクサンドル・ソクーロフの「太陽」を見る。イッセー尾形が昭和天皇を演じた映画です。日本公開も関西では第七芸術劇場でされ、見に行きたいと思ってましたがいけずじまい、WOWOWで放送されたのを見ました。前評判の高い映画でしたがイッセー尾形の迫真の演技もさることながら脇役人も素晴らしく見ごたえのある映画でした。私は政治的な内容、人間天皇、といった事を抜きにしてこの映画は見るべきものだと思います。勿論現実にはそれだけではすまない部分がありますが、まず映画芸術としての美しさを堪能するべきでしょう。中でも印象に残るのが昭和天皇が疎開先から帰ってきた皇后に会うシーン。この静かな愛情表現は昨今の日本映画にはないものです。天皇、しかも昭和天皇を描くという事は非常に難しいことであると思います。政治的、思想的な問題はもとより「菊のタブー」に触れる問題です。しかしこの映画は政事映画というよりむしろ「疲れた君主」を描いた映画であると感じました。ソクーロフの清澄な映像はこの疲れと癒し、悲しみを描き出していたと思います。
 ところで昭和天皇は生物学者として幾ばくかの書を執筆され、また「雑草と言う名の植物はない」といった発言をされております。更には「アメフラシ」を調理し食した事もあり(後年「あれはまずかったと」述懐)なかなか興味深いエピソードです。皇居内に現れたミスジコウガイビルを観察されたであろう話も伝わっています。

 安倍晋三首相の後を継ぎ福田康夫氏が新首相となられました。世間の評判は積極性がないといった「守り」のイメージが強いようですが私の印象は少し違い、押し出しはないものの決して信念を折られない方だと感じておりました。「そうでしょうか?」「かもしれませんね」といった「福田節」、それは相手をはぐらかし、のらりくらりと目的に向かって確実に進めるといった「したたかさ」を感じさせます。それが凶と出るか吉と出るかはこれからの話ですが個人的に好感を持っていた方なので頑張っていただきたいものです。
 ところで官房長官は「上品」なイメージがあるのは私だけでしょうか?失礼ながら故渡辺美智雄氏や麻生太郎氏が官房長官というイメージがわかないのですが…(繰り返しますがなんら政治的な意味はありません)。

2007/9/17

 ドビュッシーについての文献を色々読む。読みなおしも含めなかなか面白いものです。前々から感じていたのですがはっきり言ってドビュッシーは天才ですがイヤな奴です。ドビュッシーが自ら編集した評論集「クローシュ氏=アンチ・ディレッタント」はドビュッシー没後3年後1921年に限定版として刊行されます。そして1971年ガリマールから「クローシュ氏、その他」が刊行、これはフランソワ・ルジュールの詳細な校訂、編集でドビュッシーの発表した文章が全て年代順に収録されています。この2冊を読み比べると実に興味深い。私は「クローシュ氏、その他(邦訳「音楽のために」)」を先に読んだのですが、ドビュッシーがいかに緻密に全てをコントロールし演出しようとしたのかが感じられます。「クローシュ氏=アンチ・ディレッタント」は実に巧妙に編集を施しています。尤もドビュッシーは文筆家としては音楽ほどではなかったようで、はっきり言って「クローシュ氏、その他」で読む方が面白いのですが、それでも「クローシュ氏=アンチ・ディレッタント」で自ら行った編集の軌跡はなかなか興味深いものがあります。ここにはドビュッシー=クローシュ氏を軸とし完全な自己演出がなされています。勿論文章を書くという行為は自己演出が伴いますがドビュッシーはかなりのナルシズムと共に強烈な個性を見せています。なかなかイヤな奴です(^^;
 なおドビュッシーはグリークがあまりお好きではなかったようで散々な書きようで、思わず笑ってしまいます。
 マルグリット・ロン著「ドビュッシーとピアノ曲」は作曲者と懇意であった人物によるいわゆる「裏話」ですが、奏法上の問題についての解決法(小さな手のアルペジオでなく大きな和音をつかむ時の代案)などなかなか興味深い内容です。ここでもロン女史によるドビュッシー像はいささか意地悪な男です。シェークスピアの「きたないはきれい、きれいはきたない」とは正にドビュッシーをよく言い表しています。実際ドビュッシーはイギリス贔屓だったそうですが。

 私が聴いた中でドビュッシー「前奏曲第2集」のお気に入りの録音。ミケランジェリ、カシオーリ、フー・ツォン、リュビモフ、ジェイコブズ。どれも個性的ですがフランス人が一人も入っていないのは不思議です。イタリア人が二人入っているですが…。

2007/9/11

 「親子ネズミの冒険」読了。これは重い話です。映画では薄められていた部分がありますが「児童文学」というには非常に重い内容です。まずこれは残酷な死の物語です。そして、こういった読み方は大人のいやな読み方なのですが全体にわたって象徴的な物語です。中でも中軸となる親子ねずみと宿敵ドブネズミの「マニーラット」の対比は示唆にとんでいます。物語の終盤、マニーラットが親子ねずみを見て、自分の姿を映して見るシーンは思わずハッとさせられるシーンです。正義と悪という構図によって読み進んでいた読者はここでその両者が実はよく似た姿をしていたことに気付かされます。
 児童文学というと「子供の読むもの」といった気がしますが優れた児童文学は大人が読んでも感銘を受けるものがあるのでしょう。英語の多読勉強法で推薦図書にに挙がっている児童文学も実に味わい深いものがあります。私は不勉強でそんなに優れた児童文学を知りませんが、この「親子ネズミの冒険」は子供のためというよりは大人のためのファンタジーではないかと思いました。

2007/9/1

 酷暑の8月後半も終り9月になりました。大阪のうだるような暑さもややましになりましたが、日中は相変わらずの暑さです。表へ出るのも億劫なのでよく練習をするのかと言えばそういう訳でもないのですが…。

 11月24日午後2時より世良美術館で演奏会を行います。内容は

 「20世紀のピアノ音楽U」
林光 第2ピアノソナタ「木々について」(1981)
ヤン・シベリウス 5つの小品 作品75(1914)
エルッキ=スヴェン・トゥール ソナタ(1985)
クロード・ドビュッシー 前奏曲集第2集(1910−1913)

 1910年代の作品と80年代の作品になってしまいましたが、たまたまです。シベリウスは今年没後50年、何か採り上げてみたいと考えていました。シベリウスには結構な数のピアノ曲が残されています。小品ではありますが綺麗な作品が多いです。比較的演奏されるのは今回演奏する作品75通称「樹の組曲」、「3つのソナチネ」「キュリッキ」くらいでしょうか。シベリウスのピアノ曲があまり演奏されない原因の一つがその楽譜の出版事情にあります。作品番号でくくられた作品のほとんどがピースとして売られているので楽譜の収集がちょっと面倒なのです。「樹の組曲」は全音から出版されていますが編集を手がけた舘野泉氏によると合本されたのはこの版が初めてとのことです。最近では作品24「10の小品」がブライトコプフから合本になったようです。以前のメトネルの状態に近いです。これはおそらく版権の問題から合本に出来なかったのではないかと思いますが、もう少しピアニストの一般的なレパートリーになってもよい作品であると思います。
 ドビュッシーの「前奏曲第1集」は何回か弾いているのですがどうも「交代する3度」「花火」の譜読みが面倒そうだったので「第2集」は敬遠していました。最近久しぶりにポール・ジェイコブズの前奏曲集のCDを聴き返したり、クロード・エルフェのドビュッシーのLPを買ったりと聴く機会が多かったので譜読みをしてみました。予想に反して譜読みは早く終りほとんど暗譜も出来ました。おそらく「音を鳴らして弾く」というレベルではドビュッシーの最難曲ではないです。上記2曲も簡単だとはいいませんが、指使いも非常によく考えられていて練習すれば予想以上に手に馴染みやすい作品です。しかし、この「第2集」は別の次元で恐ろしく難しい作品のように思います。第1曲からして明確な主題や展開のない音響の実験作ともいえるもので、特別難しい作品ではありませんが捉えどころがなく、よっぽど弾き込んでいなければならない作品でしょう。弾いている本人が判っていないのであれば、聴衆が理解出来るはずがありません。そういう意味でこの「第2集」はかなり勉強するべきことの多い作品であると思います。更に抽象度が高く、技術的にも高度な「12の練習曲集」はもっと難しいと思います。

 連日紙面を賑わしている世界陸上ですが、日本の選手の活躍があまりパッとしないので色々批判も出ているようです。私は陸上競技のことは何もわからないのですが、結果が残せなかった選手に「日本の恥」「情けない」等と言うのはかわいそうな気がします。勿論プロであれば技術的なことはもとより、メンタルな部分の管理も必要なのはわかりますが、人間はロボットではないのでその瞬間に何が起こるかはなかなか予測出来ないのではないでしょうか。音楽をやっていてもどれだけ家で練習しても、リハーサルで完璧に演奏出来ても本番で失敗すればそれでおしまいです。ただ、音楽家がスポーツ選手と違うのは1曲ダメでも他の曲で挽回できるチャンスがあることや、純粋に音の間違いや速さなど数値的に評価されないところがあります。極端な話、開き直って「私の芸術がわからないのか」といえば、それはそれで通ってしまうところがあります。その点で明確に数値で評価のでるスポーツ選手は非常に酷であると思います。ニコライ・ペトロフのように「ミスタッチは最悪の事態で幾ら音楽的によくてもミスがあれば全然ダメ」というのは、自分の演奏に厳しくしておかなければ、前述にように「私の芸術」に流れていってしまう事を警告しているように思います。

2007/8/27

 「My favourite pianists」にカール・リヒターを追加。リヒターは御存知の通りピアニストではありませんが私が最も敬愛する鍵盤楽器奏者です。

 たまりにたまったNHK−BS、CSで録画したDVD−Rを整理。最近すっかり記憶力が落ちたようで録画した映画を再度録画してしまうことも珍しくありません。という訳でエクセルでデータベースを作成しました。データは邦画に限り監督名、題名、製作年度を入力しましたがこれが大変な労力で…。現在の所694作品入力してあります。プラス20枚ほどありますが手持ちの邦画はほとんど網羅しているはずです。これを多いと思うか少ないと思うかは微妙なところですが私的には鈴木清順日活コンプリート、川島雄三ほぼコンプリートというのが結構ポイントであったりします。鈴木清順では初期の「暗黒街の美女」、日活解雇の原因となった「殺しの烙印」等が印象に残りますが赤木圭一郎主演の「素っ裸の年令」や野川由美子主演による「女三部作」などなかなか曲者ぞろいです。「野獣の青春」「花と怒涛」をみて川地民夫ファンになってしまうのは私だけではないでしょう。川島作品はやはり後期の大映、若尾文子と組んだ「女は二度生まれる」「雁の寺」「しとやかな獣」が素晴らしいです。私は「青べか物語」「縞の背広の親分衆(冒頭浪曲による『ベ〜サメ』が秀逸)」等の森繁久弥と組んだ作品も結構好きなのです。「昭和軽佻派」と称した川島ならではのバカバカしさが魅力です。意外に多かったのがが鈴木英夫。サスペンスものはまさに現代のTVでのサスペンスを先取りしたものです。また鈴木清順が助監督としてついた野口博志の作品も僅かに6作品ですが印象深い作品です。

2007/8/24

 久しぶりの更新です。猛暑のためバテていた、という訳ではなく仕事が立て込んでいたのと、今後の演奏会の準備で忙しかったためです。前回の更新でも少し書きましたが「弾くかどうか未定」の曲の譜読みは楽しくもあり、また量が増えると大変でもあります。主にロシアもの、フランスもの、その他と分類わけしてざっと譜面を読んでいき、面白そうな曲や取り上げて見たい曲をぬいていきます。その全てを演奏会にあげる訳ではありませんが、とりあえず「手持ちの駒」を用意しといてプログラムを作る際に利用する訳です。しかし、正直極度に難しい曲はゆっくりでも譜読みするのはしんどいです。録音があればそれを聴いてすますのですが、録音がなかったり手に入らない場合は楽譜を実際弾いてどんな感じか確かめるしかありません。最近譜読みで難儀したのはフローラン・シュミット。大変なのは知っていましたが「影」「幻影」はなかなか手の込んだ作品です。「幻影」はオグドンの録音がありますが「影」は録音を持っていないため弾いてみましたが、難しい!ドビュッシーやラヴェルが簡単に思えます。これは逆にドビュッシーやラヴェルが極めてシンプルな音型によってあれだけの音響効果を創り上げたという天才性の証明でもあるのですが、それにしてもシュミットの作品は音が込み入ってます。勿論シュミットの作品にも魅力があり「幻影」のオグドンの演奏を聴くと正に狂気と紙一重の危うい魅力に溢れています。しかし演奏はかなり大変です。

 映画「親子ねずみの不思議な旅」を見る。この映画は実に想い出深い映画で、私が生まれて初めて自分で見に行きたいと言ってつれて行ってもらった映画です。当時私は3歳、サンリオが巨費を投じた映画でテレビでのCMを見て見に行きたいと言ったようです。正直映画の内容などは覚えておらずただ映画館が凄い人で混雑していたというぐらいしか記憶に残っていません。併映の「チリンのすず」に至っては同時上映だったことすら忘れていました。しかし今回実に30年ぶりに再見(?)してみると当時の記憶が所々霧が晴れたように思い出されました。なぜかこの作品私の中では「かわいそうな」印象が強かったのですが映画はハッピーエンドです。途中ゼンマイ仕掛けのおもちゃ「親子ねずみ」がバラバラに壊れて修理されるシーンがあります。このシーンを見た瞬間当時の私がこの映画の親子ねずみを生きたねずみの親子の物語だと思いこんで見ていた事をはっきり思い出しました。このシーンにショックを受けたために「かわいそうな」印象が強く残ったようです。私を映画に連れて行ってくれた父は「親子ねずみより『チリンのすず』の方がショックだった」と言ってましたが当時の私の中では「チリンのすず」より親子ねずみのバラバラシーンの方がショッキングだったようです。
 内容は改めていい映画と思いました。子ねずみがドブネズミにコインを持って行くシーンでは本当に感動しました。半分は私の感傷でしょうが、それを抜いてもいい映画だと思います。今原作のラッセル・ホーバンの「親子ネズミの冒険」を読んでいますが、大人になるというのは寂しいことです。素直に物語を楽しむ事が出来ません。親子ねずみが親と子であり子供が世の中を認識する物語であり、彼等をいじめるドブネズミが実は「ねずみ」という同じ姿をしたものであったとか読み過ぎてしまいます。映画を見た当時の私の物語を無視した「驚き」を改めて懐かしく思います。

2007/8/14

 某日、田中聖子さん(チェンバロ)と小林千晃(オーボエ)の演奏会へ。デュオも聴き応え十分でしたが、中田さんのソロによるバッハ「パルティータ6番」がこの日一番聴きたい演目でした。私はバッハをピアノで演奏することに違和感はありませんし、ヴァイオリン、フルート、チェロとの合奏もピアノで行うことは音楽的になんら問題ないと考えています。しかし、ピアノにしかできない事があるようにチェンバロでしか出来ない事もあります。そういう点で中田さんの演奏は非常に面白いものでした。演奏の可能性を追求するという点で、古楽器の演奏を聴くのは私は好きです。ただなんでもかんでもオリジナルでないといけないと言うのは疑義がありますが。

 池谷裕二著「進化しすぎた脳」を読む。これまで哲学や心理学、「心」の問題、メンタルなとんか等ひっくるめて脳科学から解説した本で驚きの内容。フッサールもサルトルもメルロ・ポンティも脳科学で分析されてしまう…。記憶の問題も扱われていてなかなか興味深い。人間の脳はあいまいにしか記憶出来ないようになっているそうです。あいまいさは応用、融通性の幅が広いことに繋がる。これがないと人間は「りんご」を綜合的に「りんご」と認識出来ないそうな。完璧に記憶されてしまうと世界中のありとあらゆるかたちのりんごを記憶しなければ「りんご」を認識出来ないということになるそうだ。「世界は脳が創り出している」「自我とは」「自分と他者との認識は一致しているか」「言語」等哲学が長年問題としてきた問題を脳科学から説明される。アメリカの高校生への講義を基に構成されているので非常に読みやすい本です。

 最近爆笑したのが「サザエさん」の逆再生映像です。以前からTVで逆再生で普通に喋るおばさん、つまり普通の状態で逆再生の発音、を非常に面白く思っていたのですがこのサザエさんの映像はかなりコジツケもあるものの字幕が出て相当笑いました。日本語では「八木良平(やぎりょうへい)」は普通に逆から読むと「いへうょりぎや」ですがこれでは逆再生しても「やぎりょうへい」にはなりません。「yagiryouhei」を逆さに「iehuoyrigay」と読まなくてはいけません。「イエフォユリガユ」(「ユ」は実際には子音のみの「y」)という感じでしょうか。ここで登場人物が「バリアフリー!」とか「あいっしょん」とか言ったと書いても全然面白くありません。実際に登場人物の声でなくては、そのバカバカしさは伝わらないでしょう。逆再生されるBGMも「なんとなく原曲を思わせる」もので不思議です。
 逆再生と言えばバルトークも録音の逆再生を作曲に利用出来ないかと考えていたそうです。

 譜読みも数が多くなるとさすがにしんどいものです。金澤攝さんは毎日2曲新曲を譜読みされているとのことですが、私にはまね出来ません。しかし演奏会で曲を選ぶ際、自分の趣旨に沿う内容を作ろうとすれば知っている曲が多ければ多いほど選択肢は広がります。現実演奏できるものとしてピアノソロ、連弾、2台ピアノ、多楽器とのデュオだけに絞り込んでも膨大な数の作品がある訳ですから大変なものです。ぼちぼちやって行くしかないですね。

2007/8/7

 某日、あるコンクールにいってきました。えー、出場するためではなく…審査員としていってまいりました。私がコンクールの審査員をするのもなんなのですが、極めてマジメに審査して来ました(あたりまえですが)。人が人を審査、評価するのは非常に難しいものです。音のミスだけを取り出して点数化するのであれば簡単ですし、別に音楽に関係ない人や機械でも可能でしょう。こんなコンクールは誰も受けないでしょう。だからといって間違いだらけでもいいかと言えばそういう訳でもありません。人間である以上ミスはあります。まして採点されているコンクールとなれば緊張からミスが起こりやすくなることは容易に想像できます。そのミスに対する厳しさは人によって違うでしょう。ニコライ・ペトロフの如きはおそらくミスに対する厳しさは相当なもので「罪悪」ですらあるかもしれません。一方ミスに対して寛大なピアニストもいるのも事実です。価値観の違いはあるものの不思議なことに大抵はある程度の均衡が保たれるのですが。
 また選曲の難しさもあります。極言すれば近現代の作品の方がミスは気になりませんし、雰囲気、ムードが即音楽的なものにすりかえられる事が出来ます。ベートーヴェンやショパン等はムードだけで弾ききれませんし、どうしても審査員の聴き方も厳しくなるのでやはり難しいと言えます。ただ近現代の作品に詳しい審査員がいれば結局同じことなのですが、「自由曲でシュトックハウゼンの10番」とか持って来られると、ベートーヴェンやショパンと同じレヴェルでの審査が可能なのかどうか難しいところでしょう(今回そういう曲を弾かれた方はいませんでしたが)。
 私はコンクールは嫌いで、まず「採点されている」というだけで弾く気がうせてしまうタイプです。これまで幾つかは受けたこともありますが大した結果も残せていません。しかし今回審査していて受ける方々の一生懸命な姿を見ているとこれはこれでなかなか清々しいものがあるような気もします。甲子園ではありませんが勝負の清々しさというのもあるような気がしました。私も若い頃もう少しコンクールを受けてみてもよかったかもしれません。
 普通プロフィールに「落ちたコンクール暦」は書きませんし(^^;

 某日、淀川花火大会へ。沿線に住んでいるのですが人出の多さと暑さで行ったことがなく、初めて行ってきました。新大阪方面から見ていましたが花火は見ていて飽きません。花火というより人間は「火」を見ていて飽きないのではないでしょうか。正月明け神社で焚かれるどんど焼きに見入った人も多いのではないでしょうか。バタイユではありませんが全てを焼き尽くす炎には魅力があります。花火の後は一緒に見に行った方々と飲み会へ。クラシック音楽だけではなくいろんな方面の話になり楽しい飲み会でした。帰りしな梅田近辺で別の友人から携帯に連絡があり終電を逃して飲んでしまいました(^^;

 近所のブックオフが潰れてしまい最近は専ら新刊書を買っていたのですが地元の商店街にマイブックスというローカルなチェーン店が新装開店したのでのぞきに行ってきました。昔ながらの狭い店内に所狭しとマンガ、文庫が並べられ新刊書店さながらのブックオフとは全然違います。一通り店内の本を物色して赤江瀑の文庫を買いました。7冊で600円弱。まぁ買い得といっていいでしょう。
 赤江瀑という作家は私が中学生の頃に中井英夫関連の本の中で知ったのですが、今まで手にしたことはありませんでした。赤江瀑のファンの方には申し訳ないのですがどこか「胡散臭い」匂いがして敢えて避けていたのです。審美的、耽美的なものはどこか「胡散臭い」匂いが付きまとうものです。谷崎潤一郎は「胡散臭い」を通り越した感じがありますがそれでも初期の「悪魔」や「痴人の愛」のモダンさ(おそらく当時の最先端だったのでしょうが)等は十分に「胡散臭い」ものがあります。戦後推理小説を牽引した横溝正史も初期は耽美派と言われ、その「真珠郎」の単行本の題字を谷崎が書いたというのはなんとも「胡散臭い」ものです。世間ではどうなのか知りませんが私は川端康成は十分に「胡散臭い」と思いますし三島由紀夫も「憂國」などはこの系譜に乗っています。勿論この「胡散臭い」のが耽美派の魅力であるのですが赤江瀑の印象はあまり良いものではなかったのです。はっきりいうと「同性愛者の特権意識」を感じさせるのです。こんな事を書くと偏見があると思われるかもしれませんが80年代に映画化された代表作「オイディプスの刃」からして大抵の人はその匂いを感じたのではないでしょうか(その点では同様に江戸川乱歩が戦後に書いた「少年探偵団」ものも濃厚な同性愛的な雰囲気が強くあまり好きな作品ではありません)。私は別に同性愛を描いたり、同性愛者の作家がダメだという訳ではありません。そこに「特権意識」、普通の人間とは違う感覚によって美的な感覚の鋭さがある、という雰囲気が好きではないのです。橋本治が言うように「豊饒の海」第二部「奔馬」はまさに三島の「愛」によって書かれたようなところがありますがこれは傑作だと思いますし三島の中では好きな作品の一つです。しかしここには「特権意識」は前面に出てきません。一方赤江瀑や中井英夫の「とらんぷ譚」中の短編などはどうもこの「特権意識」が立ちこめて苦手です。「特権意識」は簡単に「一人よがり」になり、それは安っぽいものになってしまいます。今回赤江瀑の小説をまとめて読んで見ましたがまさに私のイメージ通りでした。
 まぁこれは人の好き々々、そこが魅力といえばそうなのですが。

2007/7/30

 世良美術館での演奏会終了。今回は演奏以外にもトークが非常に長く大変でした。リハーサルまで暗譜演奏のつもりでしたが結局楽譜を置いての演奏。ヴァイオリンの松浦梨沙さんも熱演で好評だったようです。アンコールは松浦さんとクライスラー「愛の哀しみ」「美しきロスマリン」、最後に私のソロでファジル・サイ「アッラ・トルコ・ジャズ」でした。ご来場いただいた皆様に感謝します。

 私にはプログラムの曲目を決めるのが最も大変な作業です。いわゆる「リサイタルもの」はほとんどやりません。演奏会に「題名」が付けられるようなものを考えるのですがこれがなかなか難しい。幾ら名曲だからといってマイナーな曲ばかりという訳にもいきませんし、難易度の問題もあります。また一人の作曲家の個展というのも結構聴く方はしんどいものです。今回の演奏会は私の演奏会の中では異色といえるものかもしれません。逆にプログラムが決まってしまうと後は練習して暗譜してしまうだけです。それがまた大変といえば大変なのですがプログラムを考える事から比べるとやるべき事がレールに乗っているので「後は練習のみ」という訳で比較的スムーズに行きます。
 さて次の演奏会の内容はどうするか…。

2007/7/25

 オリ・ムストネン編曲によるバッハ「ガヴォット」の楽譜が到着。ラフマニノフも編曲している無伴奏ヴァイオリンパルティータの中の「ガヴォット」です。自演のCDは随分前に出ましたが楽譜を見るのは今回が初めて。なんとも滅茶苦茶な転調というのか複調というのか、7度の和音の連続など個性的な編曲です。演奏は結構大変そうです。28日のアンコールにはちょっと無理ですね(^^;

2007/7/24

 JEUGIA梅田ハービスENT店でのライヴ終了。ここでのライヴは毎回あまり上手く行かない事が多いのですが今回もかなり荒い演奏でした(^^;フリースペースでの演奏のため雑音の多さなどありますがまだまだ精進が足りないと反省。アンコール曲はファジル・サイ「アッラ・トルコ・ジャズ」。

 今週土曜の演奏会、ソロの曲も魅力的なものですが、それにもまして「クラヴィアとヴァイオリンのためのソナタ第4番」が本当に名曲です。ピアノとヴァイオリンによる演奏はほとんど行われず録音もグールドの2種(ヴァイオリニストはラレードとメニューイン)くらいしか聴いた事がありません。しかしトリオソナタという性質上各声部(ヴァイオリン、鍵盤奏者の右手、左手)の分離感などを汲むとピアノとモダン楽器による演奏が全くダメであるという訳ではないと思います。この曲の美しさは「楽器を越えた」ところにあると思います。ヴァイオリストの松浦梨沙さんとも「合奏室内楽的なトリオソナタ」のアプローチを試み、理解を示してくださり練習では素晴らしい演奏をしていただきました。是非この機会に最後の曲だけでも聴きに来ていただきたいです(勿論ソロの方も頑張ります)。

2007/7/17

 本日(16日)は私の誕生日だったのですが風邪をひいてダウン。友人の演奏会も行きたかったのですが、自分の演奏会も近いので大事をとって一日寝ていました。夜には大分気分もよくなったのでモシュコフスキの作品を譜読み。金澤攝さんが非常に評価されていたので楽譜を集めていましたが結構な量の曲があります。作品番号は97までありそのほとんどがピアノ曲です。「15の練習曲」や「スペイン奇想曲」ホロヴィッツのアンコールピースだった「花火」くらいしか有名なものはありませんが、なかなか魅力的な作品も多くあります。意外なものでは「ヴァイオリン協奏曲」があります。「様々な作曲家の様式による変奏曲」ではショパン風変奏曲の中で無理やり英雄ポロネーズと合体させているのはかなり強引な力技で笑っていまいました。この中にもルビンシュタイン風が入っているのですが当時の音楽界での存在の大きさを感じます。

2007/7/10

 局所的に人気の高いボルトキエヴィチのピアノ協奏曲1番から3番までの楽譜と夭逝したスクリャービンの息子ジュリアン・スクリャービンのピアノ曲の楽譜を入手。ボルトキエヴィチは昔結構集めたのですが入手出来なかったものもいくつかありました。その中の一つがこの一連のピアノ協奏曲。内容はまぁいつものアレなんですが、ボルトキエヴィチフリークにはたまらない内容であるかと思います。2番は手書き譜で読みづらい。
 一方11歳の若さで夭折したジュリアン・スクリャービンの作品はかねてから見てみたいと思っていたものでした。10歳から11歳にかけて書かれた僅かな数の前奏曲は既に父アレクサンドル・スクリャービンの後期作品のスタイルです。出発点が後期スクリャービンとは末恐ろしいですが船の転覆事故により死去。ジュリアン・スクリャービンといいスタンチンスキーといい世の中にはおそるべき「夭折の天才」がいるものです。

2007/7/9

 JEUGIA梅田ハービスENT店でのライヴの曲目を若干変更。
 バッハ エゴン・ペトリ編 羊は柔らかに草を食み
 ワイルド プーランク頌
 バッハ イタリア風協奏曲
 バッハ グレンジャー編曲 トッカータとフーガ BWV565
 マルチェロ−バッハもいいのですがバッハの編曲とオリジナルに統一して見ました。マルチェロの「オーボエ協奏曲」2楽章はワイルドも編曲しています。こちらの方が原曲に近いです。

 この1ヶ月ほどで自分でも驚くほどの量を暗譜しています。今回の演奏会関連以外にも新しい曲や仕事先の楽器店でのデモ演奏など暗譜で挑んでいます。中にはジブリなども含まれているのですが我ながらよく覚えたものだと思います。とにかく暗譜嫌いなものですので…。しかし暗譜も数をこなすと少し感ずるところがあります。暗譜は習慣なのだと。覚えるのに「なれ」はありませんが習慣にはなります。「暗譜演奏」は全面的に賛成は出来ない部分はありますが、暗譜はやはり演奏上絶対必要なのではないかと確信を深めています。

 金澤攝さんからお手紙を頂きました。金澤さんはパソコンも携帯も持たれず世俗とは無縁の孤高の芸術家といった風情でかろうじて電話かお手紙で連絡を取り合っています。しかし電話でもなにか実際に会って喋るような感じは薄れむしろ手紙の方がお互いを理解しあえるような気がします。現代において手紙やハガキなどはアナログの極み、ボタン一つでメールが送れる時代です。だからといって「手紙やハガキのような手書きの方が心が通じる」というような心理的側面はあるかもしれませんが私はそういった発想は好きではありません。しかし、アナログでしか表現できない事があるように手紙やハガキならではのコミュニケーションはあると思います。そのもどかしさ故に文章に人柄を含めたもの、過剰なものがあるように思います。これは瞬時に送信されるメールにはないものです。「伝わってなければ送りなおせばいい」という安易な考えではない過剰なメッセージが手紙やハガキにはあります。これは内容の長い、短いに関係なく感じられることです。
 最近手紙やハガキを出した事がありますか?

 金澤攝さんにお手紙で「そろそろ作曲、編曲をなされては」としきりに勧められているのですが私のようなかろうじてピアノを弾いているような者にはなかなかキツイ言葉です。作曲は最終的には「自分のメロディーが書けるか」というところに帰結するのではないでしょうか。「メロディー」のない無調の作品や12音音楽などありますがこれらの技法は想像以上に創造力を問われるものです。ジャズやポピュラーのすごいところはこれらのメロディーの創作をいとも簡単に行える人物がいることです。宮川泰、すぎやまこういち、渡辺宙明、筒美京平、中村八大といった日本のポピュラーを支えた人物の才能はおそるべきものであると思います。創作とは自らの才能を如実に表すもので、私にはなかなか踏み切れません。

 最近は家でばかり飲んでいますがビアガーデンの季節なので表で飲んで見たいものです。7月中はおあずけでしょうが8月に入ったら飲みに行きませんか?(誰を誘ってるのだか…)

2007/7/4

 久しぶりの更新です。まずいつもお世話になっているJEUGIA梅田ハービスENT店でライヴを行います。曲目は
 マルチェロ バッハ編曲 オーボエ協奏曲から2楽章
 ワイルド プーランク頌
 バッハ イタリア風協奏曲
 バッハ グレンジャー編曲 トッカータとフーガ BWV565
 の予定です。時間的な問題で変更の可能性もあります。

 大学の頃の友人からメールでこのようなニュースが届きました。「銅純度99.9999999%、日鉱金属が作製」。オーディオ用ケーブルとして8N銅は存在するそうで、オーストラリア製の低価格8N銅ケーブルもあるということです(アメリカのSPACE&TIME社のPrism3-8N/Prism5-8Nのことでしょうか)。この9N銅によるオーディオケーブルが出現するのかどうかわかりませんがなかなか気になる話です。ところでエドガー・ヴァレーズに「密度21.5」という作品(白金製フルートのための作品で題名は白金の密度に由来)がありますがケーブル商品名「純度99.9999999」なんていうのはインパクト大だと思うのですが…。

2007/6/21

 最近何故かよくモーツァルトを聴く。大体よく聴くのは有名なもので「交響曲40、41番」や「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「ディベルティメント」などですが特にグールドが毛嫌いしていた「40番」はお気に入りです。数種類聴き比べるのですがクーベリック(ソニー盤)ケルテス(ロンドン盤)ベーム(2回目の録音DG盤)が特に好きで繰り返し聴いています。ベーム盤は数年前レコード特価市で手に入れたLPですが1楽章のそのゆっくりのテンポに少々ついていけなかったのですが、こうして様々な盤を聴き比べると音の整合性、緊張感など味わい深い演奏であると思います。一方ケルテスは同じくモーツァルトの「エクイエム」「交響曲25番」等もよく聴きますが40番のキビキビした感じは好きです。中学生の頃に読んだ小林秀雄の「モオツアルト」は確かに名著であると思いますが私は実はああいったモーツァルトの聴き方はあまり好きではありません。「疾走する悲しみ」といは実に詩的な表現ですが私はモーツァルトはイージーリスニングのような雰囲気とロココ的な軽さ、短調の曲でもチャーミングである演奏が好きです。おそらく音楽史上モーツァルトほど音楽に哲学を持ち込まなかった音楽家も稀であるかもしれません。このことはモーツァルトの天才性を示しこそすれ、彼の音楽を貶める因にはならないと思います。モーツァルトの音楽は深刻さはないものの誰も手の届かないような所があります。よくモーツァルトの演奏は「天才か子供の演奏がいい」などと言われますが彼の音楽の前では小賢しい「解釈」などは奏者の愚昧さを露わにするだけなのかもしれません。確かにモーツァルトを弾くのは難しい。

 ティエンポによって初演されたマタロンの「Dos Formas Del Tiempo」を譜読み。随分以前に買った楽譜ですがほったらかしにしていたので最近譜読みを始めましたが結構難しい。一応一定の規則はあるのですが暗譜するのは大変だろうなぁ…(^^;

2007/6/17

 ここしばらく行っていなかった大阪の中古レコード屋をのぞきに行く。一応予算は2000円。入るとすぐ150円特価コーナーが(^^;掘り出し物もあるかもしれませんがあまりに数が多いのでとりあえず分類してある商品のコーナーへ。現代音楽コーナーを見ていると朝比奈隆が服部良一に委嘱した「おおさかカンタータ」のLPを発見。これは買いと思いましたが価格が8000円。この中古レコード店は廉価で知られる店なのですが、破格の値がついていました。非常に欲しかったのですが諦めてピアノコーナーへ。グールドコーナーが妙に充実していて「ヒンデミットピアノソナタ全集」と「20世紀カナダのピアノ音楽」の二枚を確保。意外と見かけないLPです。何故かアシュケナージのコーナーにニレジハージのリストアルバムが入っておりこれも確保。ジュリア・タマムジェバのリサイタル盤、ショパン「舟歌」スクリャービン「練習曲8−10、42−5」タネエフ「前奏曲とフーガ」バルトーク「戸外にて」ババジャニアン「ポエム」という曲目で思わず確保。後ケルテスのモーツァルトの「交響曲35、40番」を加えて合計4000ほど。予算オーバーでしたが買ってしまいました。中古LPは例えグールドのようなメジャーで再発も多いレコードでもいざ欲しいとなると手に入らなかったり、予想以上の価格だったりします。予算が許せばその場でおさえておくべきですが、そういっていると予算が幾らあっても足りませんが…(^^;

 日本映画専門チャンネルで1985年製作のアニメーション「銀河鉄道の夜」が放送されました。私は小学生の頃この作品をロードショーで見ているのですが当時は「暗い映画だなぁ」ぐらいの感想でした。今回実に22年ぶりに再見しましたが、感動しました。ありがちですがジョバンニとカムパネルラの別れのシーンでは思わず涙がこぼれそうになりました。脚本は別役実。細野晴臣の音楽も秀逸です。
 この作品傑作にはまちがいないのですが、注意が必要であると思います。まずこの映画は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を基にしていますが賢治の作品とは別のものとして鑑賞するべきです。そしてこれはアニメーションについて廻る問題ですが、この作品は断じて子供向きの作品ではありません。子供に見せるなとはいいませんがこの映画を見せて宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」であると言うのは早計の極みです。原作とは切り離された次元で鑑賞するべき作品でこの映画を見て夏休みの読書感想文を書いたりするととんでもない恥をかくことになります


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