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◆ カナヤマ徳川家康ガイドブック。
KANAYAMA’S TOKUGAWA IEYASU GUIDEBOOK.
(Kjhh)31442
カナヤマ 徳川 家康
ガイドブック
徳川 家康 年表。
No.10。
■ パソコン、 ネットブックPC、 タブレット端末(PC)、
スマートフォン, ネットテレビ用 電子書籍。
メ ニュー (目次) #jpmenu
■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。
□ 徳川家康 詳細年表。
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◆ 徳川 家康 ガイドブックの内容 :
■ 徳川 家康 ガイドブック。
■ 初心者用 オンライン 徳川 家康 ガイドブック (要覧)。
■ 徳川 家康 (とくがわ いえやす) 関連 初心者向 イン
ターネット用 オンライン書籍 (ブック)。
■ 徳川 家康 の 入門 ガイドブック。
■ この本1冊で (このホームページ1つで)、 徳川 家康
のこと(概略) が、一通り、 わかります。
■ 徳川 家康 は、 戦国時代(室町時代後期、1467〜
1573年)、 安土桃山時代 (1573〜1603年)、 江
戸時代(1603〜1868年)の初期 の 武将で、 三河国
(みかわのくに、現在の愛知県東部)の国主、戦国大名 で、
後に、 関が原の戦いで勝利し、 江戸幕府を創立し、日本
全国を統治する。
■ パソコン、 携帯情報端末(PDA) 用 電子書籍。
■ TKKI カナヤマ 著 徳川 家康 ガイドブック (要覧)。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
◆ (Kjhh) 徳川 家康
ガイドブック。
( 徳川 家康 要覧 )
#tokugawaieyasudetailedchronology
■ 徳川 家康 詳細年表
(とくがわ いえやす しょうさいねんぴょう)。
◆ 徳川 家康 詳細年表。
□ 徳川家康 画像 NO.1。
■ 徳川家康 (とくがわいえやす) の詳細な内容に関し
ては、 『 徳川家康 ガイドブック (要覧) 』 を参照
して下さい。
■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』
を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本
歴史詳細年表 』 も参照して下さい。
■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本
直江兼続 年表、 お江(おごう) 年表、 大奥 年表 』
も参照して下さい。
■ 当年表は、 徳川 家康 (1542年〜1616年)が
生きた時代の詳細年表 である。
■ 徳川 家康 (とくがわ いえやす、 生没年 1542年
〜1616年) の時代の日本へタイムスリップして、 徳
川 家康 の足跡・活動を見てみましょう。
■ 歴史学の立場から、 年代を追って、 徳川 家康 の
実像 (歴史的有名な人物には、虚像と実像があります
が) を見てみよう。
■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。
● 当年表の日付(年月日)は、一般的な歴史書籍で使
用されているのと同じように、1872年(明治5年)12月
2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も
数え年を用いている。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 12136。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
◆ 徳川 家康 詳細年表。
● では、徳川 家康 (とくがわ いえやす)に関係する出来
事を、 年代順に、見てみよう。
#tokugawaieyasudetailedchronology-1532
■ 1532年 ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。
(天文 元年) 1532年7月29日に、和暦の「享禄」(きょ
うろく、享禄元年〜5年) が、 「天文」 (て
んぶん、てんもん、 天文元年・1532年・7
月29日〜 天文24年・15 55年・10月23
日) に改元される。
■ 1534年 ● 家康の盟友となる、 織田 信長 (おだ の
(天文 3年) ぶなが、幼名:吉法師)が、 尾張国(おわ
りのくに、現在の愛知県西部)の戦国武将、
織田信秀(おだのぶひで)の子として、 誕生
する。
■ 1536年 ● 家康の競争相手となる、 豊臣秀吉 (と
(天文 5年) よとみ ひでよし、幼名:日吉丸?)が、 尾
張国(おわりのくに、現在の愛知県西部)の
農民の弥右衛門の子として、 誕生する。
秀吉の誕生日は1537年(天文6年)説も有
力である。
■ 1539年 ● 織田信長 (吉法師) は、 幼少で(数え
(天文 8年) 年6歳で)、那古野城主 となる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1541年 ● 北条家の北条氏綱が死去し、 北条氏康
(天文10年) が、 家督を継いで、北条氏の第3代当主
となり、 1541年に、北条家の実権(15
41〜71年)を持つ。 一説には、1538年
(天文7年)に氏綱が、隠居し、氏康に家督
を譲り後見していたとも言われている。
■ 1542年 ● 徳川家康 (とくがわ いえやす、幼名:
(天文11年) 竹千代) が、 三河国(みかわのくに、現
在の愛知県東部)の、戦国武将で岡崎城主
の、 松平広忠 (まつだいら ひろただ)の
子として、 誕生する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1546年 ● 家康の盟友となる、 織田信長 は、 尾
(天文15年) 張の、古渡(ふるわたり)城にて、元服し、
織田信長 (織田上総介、おだかずさのす
け)と称す。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1547年 ● 徳川家康 (竹千代) が、 織田信秀の
(天文16年) 織田家の人質 (1547〜48年) となる。
■ 1548年 ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉
(天文17年) 藤道三との和睦が成立し、信長は、 美濃
(現在の岐阜県)の戦国大名、斉藤道三の
娘、帰蝶(濃姫)と政略結婚する。
■ 1549年 ● 1549年11月に、 徳川家康 (竹千代)
(天文18年) が、今川義元(いまがわよしもと)の今川家
の人質 (1549〜60年) となる。
1549年11月に、三河の松平領が、今
川義元の支配下となり、徳川家康 (竹千代)
が、今川家の人質として、駿府に出る。
■ 1551年 ● 織田信長の父・信秀が急死し、 織田信長
(天文20年) が、織田家の織田信秀の家督を継ぐ(継承
する)。
■ 1554年 ● 家康の競争相手となる、豊臣秀吉
(天文23年) が、織田信長に仕える。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1555年 ● 弘治(こうじ)改元。
(弘治 元年) 1555年10月23日に、和暦の「天文」
(てんぶん、てんもん、天文元年〜24年)
が、 「弘治」 (こうじ、弘治元年・1555
年・10月23日〜 弘治4年・ 1558年
・2月28日) に改元される。
■ 1558年 ● 永禄(えいろく)改元。
(永禄 元年) 1558年2月28日に、和暦の「弘治」
(こうじ、弘治元年〜4年) が、 「 永禄」
(えいろく、 永禄元年・1558年・2月28
日〜 永禄13年・ 1570年・4月23日)
に改元される。
■ 1559年 ● 織田信長 は、 尾張一国を統一する。
(永禄 2年)
■ 1559年 ● 相模国 (さがみのくに、現在の神奈川県)
(永禄 2年) の 北条家の北条氏康 (1515〜71年)
が、 1559年に、隠居し(実権は1571年
まで保持し)、 氏康の子、北条氏政(153
8〜90年) が 北条家の家督を継承し、
小田原北条氏(後北条氏)の第4代当主と
なる。
■ 1560年 ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間
(永禄 3年) (おけはざま)の戦いで、今川義元を破る。
今川義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。
● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の
兵を撤退し、 三河へ戻り、今川家から独立
する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1562年 ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康)
(永禄 5年) は、 織田信長と清洲同盟(織徳同盟) を
結ぶ。
■ 1563年 ● 徳川家康(松平元康) は、名を、元康か
(永禄 6年) ら家康に改める。
■ 1564年 ● 徳川家康(松平家康) は、 西三河を平
(永禄 7年) 定し、 一向一揆(いっこういっき) の鎮圧
にも成功する。
#tokugawaieyasudetailedchronology-1566
■ 1566年 ● 徳川家康(松平家康)は、三河国 (み
(永禄 9年) かわのくに、 現在の愛知県東部)を統一
した。
● 徳川家康(松平家康)は、 三河守(み
かわのかみ)となり、 徳川(とくがわ)に改
姓した。 松平より、徳川へ改姓した。
■ 1567年 ● 1567年 (永禄10年) 10月に、家康
(永禄10年) の同盟者の、織田信長 は、美濃国(みの
のくに、現在の岐阜県南部) の斉藤氏を
滅ぼす。 ここに、 信長は、33歳で、尾張、
美濃の2か国を領する大名となる。
この頃から、 信長は、天下布武の朱印
を用いるようになる。
■ 1568年 ● 徳川家康 は、 今川領分割に際して、
(永禄11年) 駿河を武田領、遠江を徳川領とする協定
を、 武田信玄と結んだ。
● 徳川家康 は、1568年末から、今川領
である遠江国へ侵攻する。
■ 1568年 ● 1568年11月に、 織田信長 は、足利
(永禄11年) 義昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、足
利義昭を将軍位に就(つ)ける。 この戦いに、
家康は、 信長へ援軍を派遣した。
その後、 信長が、 足利義昭の行動をコ
ントロールしようとしたため、義昭との関係が
悪化する。 義昭が計って、武田氏、朝倉氏、
延暦寺、石山本願寺(いしやまほんがんじ)
などからなる信長包囲網が結成される。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1569年 ● 徳川家康は、 遠江国((とおとうみ、現
(永禄12年) 在の静岡県西部)の大半を攻め獲り、 今川
氏真(うじざね)のいる、掛川(かけがわ)城
も包囲し、氏真を降伏させる。
● 徳川家康 と 武田信玄は、 敵対関係
となる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1570年 ● 元亀(げんき)改元。
(元亀 元年) 1570年4月23日に、 和暦の「永禄」
(えいろく、永禄元年〜13年) が、
「元亀」 (げんき、 元亀元年・1570
年・4月23日〜元亀4年・ 1573年・
7月28日) に改元される。
■ 1570年 ● 1570年4月に、 織田信長は、 軍を、
(元亀 元年) 越前(えちぜん、福井県東部)に侵攻した
が、信長の妹婿の北近江(きたおうみ、滋
賀県北部)の浅井長政に背後をつかれ、
命からがら、 京(都)へ逃れた。
■ 1570年 ● 1570年6月に、織田信長は、近江国
(元亀 元年) の姉川(あねがわ)で、浅井・朝倉連合軍
を破る (姉川の戦い)。 この戦いに、家
康は、信長と共に参戦し、信長を助けた。
● 石山合戦の始まり。
1570年9月に、 本願寺は、織田
信長に対抗する。 石山合戦(1570年
ー1580年)が、始まる。
■ 1570年 ● 徳川家康は、本城を、三河(みかわ、愛
(元亀 元年) 知県東部)の岡崎から、遠江(とおとうみ、
静岡県西部)の曳馬に移し、浜松城を築い
た。
■ 1571年 ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)
(元亀 2年) の北条家の、 北条氏康(うじやす、1515
〜71年)が、死去する。 氏康の子、北条
氏政 (うじまさ、1538〜90年)が北条家
の実権(1571〜90年)を握る。
■ 1572年 ● 1572年10月に、 武田軍が上洛を開
(元亀 3年) 始する (武田信玄は、 上洛の軍を起こす)。
● 1572年12月に、 遠江(とおとうみ、
静岡県西部)の、 三方ヶ原(みかたがは
ら)の戦い で、 徳川・織田連合軍は、 武
田軍に大敗する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1573年 ● 1573年2月に、足利義昭 は、 武田氏、
(元亀 4年) 浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信長討
伐を謀(はか)る。
● 1573年4月に、 武田信玄 が、病状
悪化し、武田軍は、徳川領の三河や遠江
から、 軍を返し、甲斐へ帰国した (信玄
は帰国途中、信濃・駒場で病死)。
● 1573年5月に、徳川家康 は、三河の
長篠(ながしの)城を攻め、武田軍より奪回
し、武田軍の再侵攻に備えた。
● 1573年7月に、織田信長は、信長を裏
切った、足利 義昭(よしあき)を京都より追
放し、室町幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。
● 1573年7月に、秀吉の主君の、信長は、
元号を元亀から天正へ と改めることを朝廷
に奏上し、これを実現させた。
■ 1573年 ● 天正改元。
(天正 元年) 1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ
んき、元亀元年〜4年) が、 「 天正」 (て
んしょう、天正元年・1573年・7月28日〜
天正20年・ 1592年・12月8日) に改元
される。
■ 1573年 ● 1573年8月に、信長は、朝倉・浅井両
(天正 元年) 氏を滅ぼす。
● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡
後、その旧領の北近江三郡の経営を織田
信長より任され、 北近江の長浜城の城主
となる。
■ 1574年 ● 1574年5月に、徳川家康は、高天神
(天正 2年) 城を、武田勝頼に奪われる。
■ 1575年 ● 長篠の戦い。
(天正 3年) 1575年5月に、信長・家康連合軍は、
三河・長篠(ながしの)で、 武田勝頼の
率いる軍に大勝する。
● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、
本願寺門徒の軍を破り、再び、織田領に、
越前を柴田勝家に経営させる。
■ 1576年 ● 1576年2月に、信長は、 琵琶湖湖岸
(天正 4年) に、安土城の築城を開始する (1579年
完成)。
■ 1577年 ● 信長軍 は、北陸で、 上杉謙信の率い
(天正 5年) る上杉軍に敗れ (手取川の戦い)、 撤兵
する。
● 1577年10月に、秀吉は、織田信忠の
指揮下で、松永久秀を滅ぼし、功績をあげ
る。
● 家康のライバルとなる、 石田 三成 (石
田佐吉) が、 1577年、18歳で、 豊臣秀
吉(羽柴秀吉) に仕官する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1578年 ● 信長軍 は、 上杉領の能登、加賀の攻
(天正 6年) 略を開始する。
● 1578年11月に、 織田水軍が、鉄甲
船を用いて、毛利水軍を破る。
■ 1579年 ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛
(天正 7年) (ごうかけんらん)な安土城を完成させる。
■ 1579年 ● 1579年に、徳川家康 は、 松平信康
(天正 7年) 事件(= 松平信康自害・築山殿殺害事件)
で、 家康の嫡男・松平信康(のぶやす)
を自害(自刃、切腹)させ、 家康の正室
夫人で松平信康の生母の築山殿(つきや
まどの)を殺害する。
■ 1580年 ● 石山合戦の終り。
(天正 8年) 1580年4月に、織田信長 は、石山
本願寺を屈服させる。 石山合戦(15
70年ー1580年)が、終わる。
■ 1581年 ● 1581年2月に、織田信長 は、 京都
(天正 9年) の内裏(だいり)東の馬場で、 京都御馬
揃え (馬揃えは、現在の軍事パレードに
相当)を行う。
■ 1582年 ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田
(天正10年) 領への攻撃開始し、3月 11日に、 武田
勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏
は滅亡する。
● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳
川軍も、武田領の駿河に侵攻して、駿河を
占領する。 家康は、 同年に、この戦功に
より、 織田信長から駿河 (すぐが、現在の
静岡県中部)一国を与えられる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1582年 ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光
(天正10年) 秀に、備中国にいる秀吉軍への援軍を命
じ、 信長は、6月に、京都へ上洛した。
● 1582年6月に、秀吉の主君・信長は、
本能寺の変で自刃。
明智光秀 が、1582年6月に、京都の
本能寺にいた織田信長を攻め、自害させる
(本能寺の変)。 信長、49歳で死す。
同年6月に、秀吉は、 明智光秀を討つ
(山崎の戦い)。
● 1582年6月27日に、秀吉は、に、清洲
城にて、他の織田家の重臣と信長の後継
者と遺領の分割を決める (清洲会議)。
● 1582年12月に、秀吉は、 北近江へ侵
攻し、長浜城を降伏させ、 美濃へ侵攻、平
定する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1582年 ● 織田信長死後、 織田領の信濃(しなの、
(天正10年) 長野県)、甲斐(かい、現在の山梨県)、上
野(こうずけ、群馬県)へ上杉景勝の軍、北
条氏政の軍、 徳川家康の軍 が侵攻した。
その後、戦いの結果、 北信濃(きたしな
の、長野県北部)は、上杉領になり、 また、
徳川家康と北条氏政は和睦し、 信濃(北
信濃を除く)、甲斐は、徳川領に、 上野は、
北条領 となった。
ここに、 徳川家康 は、 三河(みかわ、
愛知県東部)、 遠江(とおとうみ、静岡県
西部)、 駿河(するが、静岡県中部)、 甲
斐、 信濃 の 日本の中部5カ国を領有す
る大大名 (1582〜90年) になる。
■ 1583年 ● 相模国 (さがみのくに、現在の神奈川県)
(天正11年) の 北条氏政 (1538〜90年) が、 15
83年に、隠居し(実権は1590年まで保持
し)、 氏政の子、北条氏直 が北条家の家
督を継承し、 後北条家の第5代当主となる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1583年 ● 1583年4月に、秀吉は、 賤ヶ岳(しず
(天正11年) がたけ)で、柴田勝家の兵を破り(賤ヶ岳の
戦い)、 追撃された、勝家は、越前(えちぜ
ん、福井県北部)の北ノ庄城で、自害する。
● 秀吉は、 さらに、 加賀国と能登国(か
がのくにとのとのくに、現在の石川県)へ侵
攻し2国を平定して、それらを前田利家に与
えた。
● 1583年8月に、秀吉は、石山本願寺の
跡地に、大阪城の築城を開始する (158
8年大阪城完成)。
■ 1584年 ● 1584年4月に、徳川家康 は、 秀吉
(天正12年) の兵を長久手で破り (小牧・長久手の戦
い)、 同年12月に秀吉と和睦する。
● 1584年8月に、 秀吉は、 大阪城に
移る。
■ 1585年 ● 1585年3月に、秀吉は、正ニ位・内大
(天正13年) 臣に叙位・任官される。
● 1585年3月に、秀吉は、紀伊へ侵攻し
て、平定する(紀州征伐)。
● 1585年7月に、秀吉は、関白となる。
● 1585年8月に、秀吉は、 長宗我部元
親 (ちょうそかべもとちか)を降伏させ、 四
国を平定する (四国征伐)。
● 1585年8月に、 秀吉 は、 越中国(え
っちゅうのくに、富山県)の佐々成政(さっさ
なりなさ)を降伏させ、北陸を平定する (北
陸平定)。
■ 1586年 ● 豊臣秀吉 は、 徳川家康を臣従させる。
(天正14年) ● 1586年12月に、秀吉 は、 太政大臣
に就任し、 豊臣の姓を賜(たまわ)り、 豊
臣政権が確立する。
■ 1587年 ● 1587年5月に、秀吉は、島津義久を降
(天正15年) 伏させ、九州を平定する。
● 1587年6月に、秀吉は、 バテレン追
放令をだす。
● 1587年9月に、秀吉は、 聚楽第(じゅ
らくだい)を完成させ、大阪城より移る。
また、天正通宝を鋳造する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1589年 ● 茶々(淀殿)は、 秀吉の男子、鶴松
(天正17年) (つるまつ)を生む。
#tokugawaieyasudetailedchronology-1590
■ 1590年 ● 1590年7月に、 秀吉 は、 北条氏を
(天正18年) 降伏させ、関東を平定する (関東平定)。
北条氏政が、 自刃(じじん、自害)する。
● 1590年7月に、秀吉 は、 奥州も制圧
した (奥州制圧)。
● 1590年7月に、秀吉 が、 天下を統一
した (日本全国を統一し た)。
● 1590年8月に、 秀吉の命(命令)により、
徳川家康が、 関東に移り、 江戸城に入る
( 家康が中部5か国を秀吉に譲り、家康が、
約250万石の関東を領有する )。
■ 1591年 ● 秀吉の正室のねねの元で育てられていた、
(天正19年) 鶴松 (淀殿(お茶々)の男子)が、 死亡する。
● 1591年12月に、秀吉は、 関白の職を、
甥(おい)の豊臣秀次(ひでつぐ)に譲る。 秀
吉は、 太閤(たいこう、前関白の尊称) と呼
ばれるようになる。
■ 1592年 ● 1592年(天正20年)4月に、 秀吉により、
(天正20年) 朝鮮出兵が開始される (文禄の役(ぶんろ
くのえき)、1592〜93年)。
■ 1592年 ● 文禄改元。 の「天正」 (てんしょう、
(文禄 元年) 1592年12月8日に、 和暦天正元年〜2
0年) が、 「 文禄」 (ぶんろく、文禄元年・
1592年・12月8日〜文禄5年・ 1596年・
10月27日) に改元される。
■ 1593年 ● 秀吉の側室(妻)の、 淀殿(茶々)
(文禄 2年) は、 秀吉の男子、拾(ひろい、後の
豊臣秀頼)を生む。
■ 1595年 ● 1595年7月に、 秀吉は、 関白秀次
(文禄 4年) を自害させる。
■ 1596年 ● 慶長改元。
(慶長 元年) 1596年10月27日に、 和暦の「文禄」
(ぶんろく、文禄元年〜5年) が、「慶長」
(けいちょう、 慶長元年・1596年・10月
27日〜 慶長20年・ 1615年・7月13
日) に改元される。
■ 1597年 ● 1597年1月に、 秀吉により、再度、朝
(慶長 2年) 鮮出兵が開始される(慶長の役、1597〜
98年)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1598年 ● 1598年7月に、秀吉が、 五大老・五
(慶長 3年) 奉行の制度を定める (秀吉の後継者で
ある豊臣秀頼の体制を磐石にするため)。
家康が五大老の一人となる。
● 1598年8月に、秀吉が、 死去する
(享年63歳)。
豊臣家の秀吉の跡継ぎの豊臣秀頼 は、
まだ、数え年6歳だった。
● 1598年に、秀吉死去後、 徳川家康、
前田利家 が、 朝鮮撤兵を命じる (同年
12月にほぼ撤兵完了する)。
● 1598年に、 秀吉が死去すると、 秀吉
の遺言により、 淀殿(茶々)と豊臣秀頼は、
伏見城より、 大阪城の本丸に移る。
● 1598年に、 豊臣秀頼 が、 豊臣宗家
の当主となり、 淀殿(茶々)は、 幼い豊臣
秀頼の後見人となる。 淀殿(茶々)は、淀
殿(茶々)の乳母(うばの、大蔵卿局 (おお
くらきょうのつぼね、大野治長の母) や饗
庭局 を重用する。
● 1598年より、淀殿(茶々)が推(お)す
三成派の豊臣家臣団 とねね(おね)が推
す家康派の豊臣家臣団 とが、豊臣家内
での対立が始まる。
■ 1599年 ● 1599年に、 淀殿 (茶々、近江出身)
(慶長 4年) が信頼する、石田三成をはじめとする近
江派(おうみは、近江出身の武将)の豊臣
家臣 が、豊臣家で、大きな勢力となる。
● 1599年に、秀吉の正室のねね(おね)
は、 淀殿(茶々)が信頼する、石田三成
をはじめとする近江派の豊臣家臣に対抗
して、 徳川家康に、石田三成をはじめと
する近江派の豊臣家臣の勢力を 減少さ
せるように依頼し、 豊臣家の将来を託す。
1599年に、 ねね は、 豊臣家の家
臣で大老の家康を擁して、石田三成派の
豊臣家臣を牽制(けんせい)ため、 自分
の住む大阪城の西の丸を引き払い、家康
に引き渡し、 孝蔵主などわずかな女中達
を引き連れて、 京(都)(三本木の屋敷)
に移り住む。
■ 1599年 ● 1599年3月に、豊臣政権の実力者の、
(慶長 4年) 前田利家が、病死する。
● 1599年3月に、石田三成 は 奉行職
を解任され、 佐和山城で蟄居(ちっきょ)
させられる。
● 1599年10月に、加賀の前田家が、家
康の支配下に入る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1600年 ● 1600年に、 関が原の戦い。 豊臣
(慶長 5年) 家臣団の間の戦い。
● 豊臣家臣団の間に、 徳川家康派と石
田三成派の内紛が 起こり、戦争となり、徳
川家康派の豊臣家臣団 が、 戦いに勝つ。
● 勝利後、 家康が、大阪城に出向き、家
康の主君の豊臣秀頼とその後見人の淀殿
(茶々、秀頼の生母) に、 徳川家康派の
豊臣家臣団の戦争の勝利を報告する。
● 戦後処理で、 豊臣家大老の家康 は、
豊臣家の主君の許しを得ず、 全国の大名
の所領を、勝手に、処理(移動分配)する。
家康 は、 豊臣家宗家の所領も、処理(分
配)し、 豊臣家宗家は、 65万石の一大
名へ転落する。
■ 1600年 ● 1600年4月に、 家康が、会津の、上
(慶長 5年) 杉景勝からの直江状(なおえじょう)を受け
取り激怒し、 家康は、 景勝が豊臣家(豊
臣政権)に謀反(むほん)ありとして、同年
5月に、 上杉景勝討伐を宣言する。
● 1600年6月に、家康は、 親家康派の
大名で組織した、上杉景勝討伐軍を率い
て、会津へ向かい、大阪を出発する。
● 1600年7月に、石田三成が、挙兵し、
全国の大名へ呼びかけ、反家康の軍を集
める。
● 1600年9月15日に、 関が原の戦い
が起こり、 徳川家康の率いる大名の東
軍が勝つ。
石田三成の率いる反家康派の大名の
西軍 と 徳川家康の率いる親家康派の
大名の東軍が、 関が原で衝突し、戦いは
1日で終わり、西軍が敗北し、東軍が勝つ。
● 関が原の戦い後、 徳川家康が、 東軍
に与(くみ)した大名の加増(かぞう)や 西
軍に与(くみ)した大名の改易(かいえき)、
減封の処分を行う。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
#tokugawaieyasudetailedchronology-1603
■ 1603年 ● 徳川家康が、 征夷大将軍となり、 江
(慶長 8年) 戸幕府を開く。 家康が江戸幕府の初代
将軍となる。
● 1603年に、 豊臣家の家臣で大老の、
徳川家康が、 主君の豊臣家の許可を得
ず、勝手に、 征夷大将軍となり、徳川家
が江戸幕府を開く。
● この出来事に、 淀殿(茶々) や ねね
が、 豊臣家への裏切りと、驚く。
● 結果、 徳川家が、 豊臣家に代わって、
日本を支配する。
■ 1605年 ● 徳川家康が、 江戸幕府の将軍職を、家
(慶長10年) 康の男子、徳川秀忠に譲る (将軍職の徳
川家世襲)。 家康は、 引き続き、大 御所
(おおごしょ)として、 江戸幕府の 実権を持
ち、1916年まで、政治に関与する (徳川
家康の大御所政治(1905〜16年))。
■ 1607年 ● 徳川家康は、 駿府に隠居(いんきょ)す
(慶長12年) る。 家康は、 引き続き、大御所として、
江戸幕府の実権を持ち、 政治に関与する。
■ 1611年 ● 京都・二条城で、 家康 が、 成長し立
(慶長16年) 派になった、豊臣秀頼に会う。
● 1611年に、 会見時、 家康は、 立派
になりカリスマ性をもつ豊臣秀頼に驚き、
内心で、 全国の豊臣恩顧の大名が立派
になった豊臣秀頼に将来参陣し徳川家の
支配がひるがえることを恐れ、 豊臣秀頼
を排除する決心をする。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1614年 ● 1614年7月に、 方広寺鐘銘(ほうこう
(慶長19年) じしょうめい)事件 が 起こる。
● 1614年に、徳川家康が、崇伝らと画策
して、 豊臣家の寺の方広寺の鐘に「国家
安康」、「君臣豊楽」という呪い文あり
という言いがかりをつけ(方広寺鐘銘事
件)、それを許すために豊臣家に、「秀頼
江戸参勤、 国替え(大阪城明け渡し)、
淀殿(茶々)人質」、のどれかの条件を要
求し、 豊臣家を怒らせ、戦争(大阪冬の
陣)を引き起こさせる。
● 1614年10月に、大阪冬の陣 (1614
年10〜12月) が起こる。
豊臣家と徳川家との戦争。
● 大阪冬の陣の戦争の経過と結果。
豊臣方の軍と徳川方の軍が戦うが、 真
田幸村(信繁)など豊臣方の浪人の奮戦と
大阪城の周囲の外堀に阻(はば)まれて、
徳川方の軍が勝てず。 食糧・弾薬の欠乏
と大砲の損害で、豊臣方も戦争の継続を望
まず。
そして、大阪城の本丸以外の建物・柵を
壊し、大阪城の周囲の堀をすべて埋 めると
いう条件で、 豊臣方と徳川方の間に、16
14年12月に、大阪冬の陣の終戦の和議
が成立する。
交渉は、1614年12月18日より、徳川
方の使者の本多正純(ほんだまさずみ、家
康の側近)、阿茶局(あちゃのつぼね) と
豊臣方の使者の常高院(じょうこういん、淀
殿の妹、お江の姉)との間で行われ、12月
19日に講和条件が合意され、20日に誓書
が交換された。
● 1614年12月〜1615年1月に、徳川家
康の徳川方は、 大阪城の周囲の堀を埋め、
大阪城の本丸以外の建物・柵を壊す。
豊臣方と徳川方の間の和議の取り決め
で、 豊臣方と徳川方の両方で大阪城の堀を
埋め建物・柵を壊すことが決まった。
即ち、豊臣方と徳川方の両方で、大阪城
の周囲の堀をすべて埋め、大阪城の本丸以
外の建物・柵を壊すことが決まった。 そして、
大阪城の外堀と三の丸の建物・柵は、徳川方
が埋め壊し、 大阪城の内堀と二の丸の建物・
柵は、豊臣方が埋め壊 すという埋め立て・破
却の作業配分(受け持ち)も決まった。
ところが、 徳川方は、徳川方作業配分
の大阪城の外堀と三の丸の建物・柵を埋め
壊したあと、 豊 臣方作業配分の大阪城の内
堀と二の丸の建物・柵の埋め立て・破壊工事
が進んでいないのを見て、 さらに、徳川方
は、豊臣方に代わって、 大阪城の内堀と二
の丸の建物・柵も、埋め壊した (1615年
1月に完了した)。
■ 1615年 ● 徳川方は、豊臣方の大阪城の浪人が大
(慶長20年) 阪城を退城しないことに豊臣方に不信感を
抱(いだ)く。
大阪冬の陣の終戦の和議では、徳川方
は、大阪城の浪人に対し助命という意味で
不問にしたのに、 豊臣方は、大阪城の浪
人をこのまま 召抱(めしかか)えてもよいと
解釈したためである。
● 徳川家康は、 豊臣方に、更に、浪人の
解雇または豊臣家の移封、即ち、大阪城内
の浪人の総追放または国替え(大阪城明け
渡し)を要求した。それが受入れられないと、
4月に、家康は、諸大名に鳥羽・伏見に集結
するように命じ、戦争を再開 する。
● 1615年4月に、大阪夏の陣 (1615年
4〜5月) が起こる。 豊臣家と徳川家との
戦争。
家康は、豊臣方に、大阪城内の浪人の
退去、または、国替えによる大阪城退去を
求めたが、豊臣家に聞きいれられず。
その家康の更なる要求を警戒した豊臣
家が、 柵を作り、堀を元に戻すため掘り起
こし始める。 家康は、それを和議違反とし
(和議の条件違反を理由に)、戦争(大阪夏
の陣)を1615年4月に、再開する。
● 大阪夏の陣の戦争の経過と結果。
1615年に、豊臣方は、大阪城の外周部
で奮戦するが、徳川方が大阪城本丸に迫り、
豊臣軍の本拠地の大阪城は 本丸以外の建
物や柵もなく堀のない裸城(はだかじろ)の
ため、 徳川軍に容易に侵入され、1615年
5月に、炎上し、消滅する。
1615年に、 大阪城にいた、淀殿(茶々)
とその子・豊臣秀頼(享年23歳)は、自刃(自
害)する。
● 1615年5月に、大阪夏の陣で、豊臣氏
が滅亡する。 ここに、豊臣方と徳川方との
戦争は、終結した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1615年 ● 元和改元。
(元和 元年) 1615年7月13日に、 和暦の「慶長」
(けいちょう、慶長元年〜20年)が、 「 元
和」 (げんな、 元和元年・1615年・7月
13日〜 元和10年・1624年・2月30日)
に改元される。
■ 1616年 ● 1616年4月に、 徳川家康が、死去す
(元和 2年) る (享年75歳)。
■ 1619年 ● 直江 兼続(直江 重光)が、死去する。
(元和 5年)
■ 1623年 ● 上杉 景勝が、死去する。
(元和 9年)
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上