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◆ カナヤマ徳川家康ガイドブック。

     KANAYAMA’S TOKUGAWA IEYASU GUIDEBOOK

 

   (Kjhh)31442

 カナヤマ 徳川 家康

 ガイドブック

 徳川 家康 年表

 No.10

 

■ パソコン、 ネットブックPC、 タブレット端末(PC)、

  スマートフォン, ネットテレビ用 電子書籍。

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu 

■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。

□ 徳川家康 詳細年表

 

 

徳川 家康ガイドブックの内容

 

■ 上位のWEBサイト。 

□ (KOH) カナヤマ オフィシャル ホームページ   >

□ (Cse)  国際理解総合サイト (われら地球市民 >          

□ (Ke)   百科事典                     >

□ (Khh)  歴史学 ハンドブック                  > 

□ (Kjhh) 日本史 ハンドブック               > 

□ (Kjhh)  徳川 家康 ガイドブック (要覧)       > 

□ (Kjhh)  この日本語ページ 。

 

■ カナヤマ 主要 公式ホームページ 略語

  一覧表。         

 KOH  CSE   UCF   KHAS (KASH)  CCF  

 KBIH   KPH    HCF  KANH  QGN  KWDB  

 TTFW  TTWH  AWM  KGJ   KJHH  KH H 

 KCB  KCTS  I MB  KHIB  RH  KIOS  KE  

 LKOH  GIMEH  ETCSS  GIMJH JTCSS EP      

 

□ 主要サイト の略語・説明表 。          

 

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#jpcontentsofthisbook

 

◆ 徳川 家康 ガイドブックの内容 :

■ 徳川 家康 ガイドブック。

■ 初心者用 オンライン 徳川 家康 ガイドブック (要覧)。

■ 徳川 家康 (とくがわ いえやす) 関連 初心者向 イン

 ターネット用 オンライン書籍 (ブック)。

■ 徳川 家康 の 入門 ガイドブック。

■ この本1冊で (このホームページ1つで)、 徳川 家康

 のこと(概略) が、一通り、 わかります。

■ 徳川 家康 は、 戦国時代(室町時代後期、1467〜

 1573年)、 安土桃山時代 (1573〜1603年)、 江

 戸時代(1603〜1868年)の初期 の 武将で、 三河国

 (みかわのくに、現在の愛知県東部)の国主、戦国大名 で、 

 後に、 関が原の戦いで勝利し、 江戸幕府を創立し、日本

 全国を統治する。

■ パソコン、 携帯情報端末(PDA) 用 電子書籍。

■ TKKI カナヤマ 著 徳川 家康 ガイドブック (要覧)。

 

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◆ (Kjhh) 徳川 家康

   ガイドブック。

        ( 徳川 家康 要覧 )

 

#tokugawaieyasudetailedchronology

 

徳川 家康  詳細年表

    (とくがわ いえやす  しょうさいねんぴょう)。

 

徳川 家康  詳細年表。

 

□ 徳川家康年表 1532年〜 1565年

□ 徳川家康年表 1566年〜 1589年

□ 徳川家康年表 1590年〜 1602年

□ 徳川家康年表 1603年〜 1623年

□ 徳川家康 画像 NO.1

 

■ 徳川家康 (とくがわいえやす) の詳細な内容に関し

 ては、 『 徳川家康 ガイドブック (要覧) 』  を参照

 して下さい。

■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』

 を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本

 歴史詳細年表 』  も参照して下さい。

■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、 『 戦国時代 年表、 安土桃山時代

 年表、 江戸時代初期 年表、 織田信長 年表、 豊臣

 秀吉 年表、 武田 信玄 年表 武田 勝頼(かつより)

 年表、 上杉 謙信 年表、  上杉 景勝(かげかつ) 年表 

 直江兼続 年表、 お江(おごう) 年表、  大奥 年表 』

 も参照して下さい。 

■ 当年表は、 徳川 家康 (1542年〜1616年)が

 生きた時代の詳細年表 である。

■ 徳川 家康 (とくがわ いえやす、 生没年 1542年

 〜1616年) の時代の日本へタイムスリップして、 徳

 川 家康 の足跡・活動を見てみましょう。

■ 歴史学の立場から、 年代を追って、 徳川 家康 の

 実像 (歴史的有名な人物には、虚像と実像があります

 が) を見てみよう。

■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。

● 当年表の日付(年月日)は、一般的な歴史書籍で使

 用されているのと同じように、1872年(明治5年)12月

 2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も

 数え年を用いている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 12136。

 

□ 徳川 家康  詳細年表の先頭へ戻る

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。     

 

 

徳川 家康  詳細年表。

● では、徳川 家康 (とくがわ いえやす)に関係する出来

 事を、 年代順に、見てみよう。

 

#tokugawaieyasudetailedchronology-1532

 

■ 1532年   ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。   

 (天文 元年)  1532年7月29日に、和暦の「享禄」(きょ

           うろく、享禄元年〜5年) が、 「天文」 (て

           んぶん、てんもん、 天文元年・1532年・7

           月29日〜 天文24年・15 55年・10月23

           日) に改元される。  

 

■ 1534年   ● 家康の盟友となる、 織田 信長 (おだ の

 (天文 3年)  ぶなが、幼名:吉法師)が、 尾張国(おわ

           りのくに、現在の愛知県西部)の戦国武将、

           織田信秀(おだのぶひで)の子として、 誕生

           する。

 

■ 1536年   ● 家康の競争相手となる、 豊臣秀吉  (と

 (天文 5年)  よとみ ひでよし、幼名:日吉丸?)が、 尾

           張国(おわりのくに、現在の愛知県西部)の

           農民の弥右衛門の子として、 誕生する。

           秀吉の誕生日は1537年(天文6年)説も有

           力である。

 

■ 1539年   ● 織田信長 (吉法師) は、 幼少で(数え

 (天文 8年)  年6歳で)、那古野城主 となる。              

             ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1541年   ● 北条家の北条氏綱が死去し、 北条氏康

 (天文10年)  が、 家督を継いで、北条氏の第3代当主

           となり、 1541年に、北条家の実権(15

           41〜71年)を持つ。 一説には、1538年

           (天文7年)に氏綱が、隠居し、氏康に家督

           を譲り後見していたとも言われている。

 

■ 1542年   ● 徳川家康 (とくがわ いえやす、幼名:

 (天文11年)  竹千代) が、 三河国(みかわのくに、現

           在の愛知県東部)の、戦国武将で岡崎城主

           の、 松平広忠 (まつだいら ひろただ)の

           子として、 誕生する。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1546年   ● 家康の盟友となる、 織田信長 は、 尾

 (天文15年)   張の、古渡(ふるわたり)城にて、元服し、 

            織田信長 (織田上総介、おだかずさのす

            け)と称す。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1547年   ● 徳川家康 (竹千代) が、 織田信秀の 

 (天文16年)  織田家の人質 (1547〜48年) となる。

 

■ 1548年   ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉

 (天文17年)  藤道三との和睦が成立し、信長は、 美濃

           (現在の岐阜県)の戦国大名、斉藤道三の

           娘、帰蝶(濃姫)と政略結婚する。 

 

■ 1549年   ● 1549年11月に、 徳川家康 (竹千代) 

 (天文18年)  が、今川義元(いまがわよしもと)の今川家

           の人質 (1549〜60年) となる。

             1549年11月に、三河の松平領が、今

           川義元の支配下となり、徳川家康 (竹千代) 

           が、今川家の人質として、駿府に出る。

 

■ 1551年   ● 織田信長の父・信秀が急死し、 織田信長 

 (天文20年)  が、織田家の織田信秀の家督を継ぐ(継承

           する)。

 

■ 1554年   ● 家康の競争相手となる、豊臣秀吉 

  (天文23年)      が、織田信長に仕える。

             ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 1555年   ● 弘治(こうじ)改元。    

 (弘治 元年)  1555年10月23日に、和暦の「天文」

           (てんぶん、てんもん、天文元年〜24年) 

           が、 「弘治」 (こうじ、弘治元年・1555

           年・10月23日〜  弘治4年・ 1558年

           ・2月28日) に改元される。 

 

■ 1558年   ● 永禄(えいろく)改元。    

 (永禄 元年)  1558年2月28日に、和暦の「弘治」 

           (こうじ、弘治元年〜4年) が、 「 永禄」 

           (えいろく、 永禄元年・1558年・2月28

           日〜 永禄13年・ 1570年・4月23日) 

           に改元される。 

 

■ 1559年   ● 織田信長 は、 尾張一国を統一する。

 (永禄 2年)

 

■ 1559年   ● 相模国 (さがみのくに、現在の神奈川県) 

 (永禄 2年)   の 北条家の北条氏康 (1515〜71年) 

            が、 1559年に、隠居し(実権は1571年

            まで保持し)、 氏康の子、北条氏政(153

            8〜90年) が 北条家の家督を継承し、 

            小田原北条氏(後北条氏)の第4代当主と

            なる。

 

■ 1560年   ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間

 (永禄 3年)  (おけはざま)の戦いで、今川義元を破る。 

                  今川義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。

           ● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の

           兵を撤退し、 三河へ戻り、今川家から独立

           する。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 1562年   ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康) 

 (永禄 5年)  は、 織田信長と清洲同盟(織徳同盟) を

           結ぶ。 

 

■ 1563年   ● 徳川家康(松平元康) は、名を、元康か

 (永禄 6年)  ら家康に改める。

 

■ 1564年   ● 徳川家康(松平家康) は、 西三河を平

 (永禄 7年)  定し、 一向一揆(いっこういっき) の鎮圧

           にも成功する。

 

□ 徳川 家康  詳細年表の先頭へ戻る

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#tokugawaieyasudetailedchronology-1566

 

■ 1566年   ● 徳川家康(松平家康)は、三河国 (み

 (永禄 9年)  かわのくに、 現在の愛知県東部)を統一

           した。

           ● 徳川家康(松平家康)は、 三河守(み

           かわのかみ)となり、 徳川(とくがわ)に改

           姓した。 松平より、徳川へ改姓した。

 

■ 1567年   ● 1567年 (永禄10年) 10月に、家康

 (永禄10年)  の同盟者の、織田信長 は、美濃国(みの

           のくに、現在の岐阜県南部) の斉藤氏を

           滅ぼす。 ここに、 信長は、33歳で、尾張、

           美濃の2か国を領する大名となる。 

             この頃から、 信長は、天下布武の朱印

           を用いるようになる。

 

■ 1568年   ● 徳川家康 は、 今川領分割に際して、 

  (永禄11年)     駿河を武田領、遠江を徳川領とする協定

            を、 武田信玄と結んだ。

           ● 徳川家康 は、1568年末から、今川領

           である遠江国へ侵攻する。

 

■ 1568年   ● 1568年11月に、 織田信長 は、足利

 (永禄11年)  義昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、足

           利義昭を将軍位に就(つ)ける。 この戦いに、

           家康は、 信長へ援軍を派遣した。

             その後、 信長が、 足利義昭の行動をコ

           ントロールしようとしたため、義昭との関係が

           悪化する。 義昭が計って、武田氏、朝倉氏、

           延暦寺、石山本願寺(いしやまほんがんじ)

           などからなる信長包囲網が結成される。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1569年   ● 徳川家康は、 遠江国((とおとうみ、現

 (永禄12年)  在の静岡県西部)の大半を攻め獲り、 今川

                    氏真(うじざね)のいる、掛川(かけがわ)城

           も包囲し、氏真を降伏させる。

            ● 徳川家康 と 武田信玄は、 敵対関係

            となる。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 1570年   ● 元亀(げんき)改元。    

 (元亀 元年)   1570年4月23日に、 和暦の「永禄」  

            (えいろく、永禄元年〜13年) が、 

             「元亀」 (げんき、 元亀元年・1570

            年・4月23日〜元亀4年・ 1573年・

            7月28日) に改元される。

 

■ 1570年   ● 1570年4月に、 織田信長は、 軍を、

 (元亀 元年)  越前(えちぜん、福井県東部)に侵攻した

           が、信長の妹婿の北近江(きたおうみ、滋

           賀県北部)の浅井長政に背後をつかれ、 

           命からがら、 京(都)へ逃れた。

 

■ 1570年   ● 1570年6月に、織田信長は、近江国

 (元亀 元年)   の姉川(あねがわ)で、浅井・朝倉連合軍

            を破る (姉川の戦い)。 この戦いに、家

            康は、信長と共に参戦し、信長を助けた。

            ● 石山合戦の始まり。

              1570年9月に、 本願寺は、織田

            信長に対抗する。 石山合戦(1570年

            ー1580年)が、始まる。

 

■ 1570年   ● 徳川家康は、本城を、三河(みかわ、愛

 (元亀 元年)  知県東部)の岡崎から、遠江(とおとうみ、

           静岡県西部)の曳馬に移し、浜松城を築い

           た。

 

■ 1571年   ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)

 (元亀 2年)  の北条家の、 北条氏康(うじやす、1515

           〜71年)が、死去する。  氏康の子、北条

           氏政 (うじまさ、1538〜90年)が北条家

           の実権(1571〜90年)を握る。

 

■ 1572年   ● 1572年10月に、 武田軍が上洛を開

 (元亀 3年)  始する (武田信玄は、 上洛の軍を起こす)。

           ● 1572年12月に、 遠江(とおとうみ、

           静岡県西部)の、  三方ヶ原(みかたがは

           ら)の戦い で、 徳川・織田連合軍は、 武

           田軍に大敗する。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 1573年   ● 1573年2月に、足利義昭  は、 武田氏、

 (元亀 4年)  浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信長討

           伐を謀(はか)る。

           ● 1573年4月に、  武田信玄 が、病状

           悪化し、武田軍は、徳川領の三河や遠江

           から、 軍を返し、甲斐へ帰国した (信玄

           は帰国途中、信濃・駒場で病死)。 

           ● 1573年5月に、徳川家康  は、三河の

           長篠(ながしの)城を攻め、武田軍より奪回

           し、武田軍の再侵攻に備えた。

                     ● 1573年7月に、織田信長は、信長を裏

           切った、足利 義昭(よしあき)を京都より追

           放し、室町幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。

           ● 1573年7月に、秀吉の主君の、信長は、

           元号を元亀から天正へ と改めることを朝廷

           に奏上し、これを実現させた。

 

■ 1573年   ● 天正改元。    

 (天正 元年)  1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ

           んき、元亀元年〜4年) が、 「 天正」 (て

           んしょう、天正元年・1573年・7月28日〜

           天正20年・ 1592年・12月8日) に改元

           される。 

 

■ 1573年   ● 1573年8月に、信長は、朝倉・浅井両

 (天正 元年)  氏を滅ぼす。

             ● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡

           後、その旧領の北近江三郡の経営を織田

           信長より任され、 北近江の長浜城の城主

           となる。

 

■ 1574年   ● 1574年5月に、徳川家康は、高天神

 (天正 2年)   城を、武田勝頼に奪われる。

 

■ 1575年   ● 長篠の戦い。

 (天正 3年)    1575年5月に、信長・家康連合軍は、

            三河・長篠(ながしの)で、 武田勝頼の

            率いる軍に大勝する。 

           ● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、

           本願寺門徒の軍を破り、再び、織田領に、

           越前を柴田勝家に経営させる。

 

■ 1576年   ● 1576年2月に、信長は、 琵琶湖湖岸

 (天正 4年)  に、安土城の築城を開始する (1579年

           完成)。

 

■ 1577年   ● 信長軍 は、北陸で、 上杉謙信の率い

 (天正 5年)  る上杉軍に敗れ (手取川の戦い)、 撤兵

           する。

           ● 1577年10月に、秀吉は、織田信忠の

           指揮下で、松永久秀を滅ぼし、功績をあげ

           る。

            ● 家康のライバルとなる、 石田 三成 (石

           田佐吉) が、 1577年、18歳で、 豊臣秀

           吉(羽柴秀吉) に仕官する。

           ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1578年   ● 信長軍 は、 上杉領の能登、加賀の攻

 (天正 6年)   略を開始する。

            ● 1578年11月に、 織田水軍が、鉄甲

           船を用いて、毛利水軍を破る。

 

■ 1579年   ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛

 (天正 7年)  (ごうかけんらん)な安土城を完成させる。

■ 1579年   ● 1579年に、徳川家康 は、 松平信康

 (天正 7年)  事件(= 松平信康自害・築山殿殺害事件)

           で、 家康の嫡男・松平信康(のぶやす)

           を自害(自刃、切腹)させ、 家康の正室

           夫人で松平信康の生母の築山殿(つきや

           まどの)を殺害する。 

 

■ 1580年    ● 石山合戦の終り。

 (天正 8年)     1580年4月に、織田信長 は、石山

            本願寺を屈服させる。 石山合戦(15

            70年ー1580年)が、終わる。

 

■ 1581年   ● 1581年2月に、織田信長 は、 京都

 (天正 9年)  の内裏(だいり)東の馬場で、 京都御馬

           揃え (馬揃えは、現在の軍事パレードに

           相当)を行う。

 

■ 1582年   ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田

 (天正10年)  領への攻撃開始し、3月 11日に、 武田

           勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏

           は滅亡する。 

           ● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳

           川軍も、武田領の駿河に侵攻して、駿河を

           占領する。 家康は、 同年に、この戦功に

           り、 織田信長から駿河 (すぐが、現在の

           静岡県中部)一国を与えられる。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1582年   ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光

 (天正10年)  秀に、備中国にいる秀吉軍への援軍を命

             じ、 信長は、6月に、京都へ上洛した。

           ● 1582年6月に、秀吉の主君・信長は、

           本能寺の変で自刃。

             明智光秀 が、1582年6月に、京都の

           本能寺にいた織田信長を攻め、自害させる

           (本能寺の変)。 信長、49歳で死す。

           同年6月に、秀吉は、 明智光秀を討つ 

           (山崎の戦い)。

           ● 1582年6月27日に、秀吉は、に、清洲

           城にて、他の織田家の重臣と信長の後継

           者と遺領の分割を決める (清洲会議)。

           ● 1582年12月に、秀吉は、 北近江へ侵

           攻し、長浜城を降伏させ、 美濃へ侵攻、平

           定する。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1582年   ● 織田信長死後、 織田領の信濃(しなの、

 (天正10年)  長野県)、甲斐(かい、現在の山梨県)、上

           野(こうずけ、群馬県)へ上杉景勝の軍、北

           条氏政の軍、 徳川家康の軍 が侵攻した。 

             その後、戦いの結果、 北信濃(きたしな

           の、長野県北部)は、上杉領になり、 また、

           徳川家康と北条氏政は和睦し、 信濃(北

           信濃を除く)、甲斐は、徳川領に、 上野は、

           北条領 となった。

             ここに、 徳川家康 は、 三河(みかわ、

           愛知県東部)、 遠江(とおとうみ、静岡県

           西部)、 駿河(するが、静岡県中部)、 甲

           斐、 信濃 の 日本の中部5カ国を領有す

           る大大名 (1582〜90年) になる。

 

■ 1583年   ● 相模国 (さがみのくに、現在の神奈川県) 

 (天正11年)  の 北条氏政 (1538〜90年) が、 15

           83年に、隠居し(実権は1590年まで保持

            し)、 氏政の子、北条氏直 が北条家の家

           督を継承し、 後北条家の第5代当主となる。

           ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1583年   ● 1583年4月に、秀吉は、 賤ヶ岳(しず

 (天正11年)  がたけ)で、柴田勝家の兵を破り(賤ヶ岳の

           戦い)、 追撃された、勝家は、越前(えちぜ

           ん、福井県北部)の北ノ庄城で、自害する。

           ● 秀吉は、 さらに、 加賀国と能登国(か

           がのくにとのとのくに、現在の石川県)へ侵

           攻し2国を平定して、それらを前田利家に与

           えた。 

           ● 1583年8月に、秀吉は、石山本願寺の

           跡地に、大阪城の築城を開始する (158

           8年大阪城完成)。

 

■ 1584年   ● 1584年4月に、徳川家康 は、 秀吉

 (天正12年)  の兵を長久手で破り (小牧・長久手の戦

           い)、 同年12月に秀吉と和睦する。

           ● 1584年8月に、 秀吉は、 大阪城に

           移る。

 

■ 1585年   ● 1585年3月に、秀吉は、正ニ位・内大

 (天正13年)  臣に叙位・任官される。

           ● 1585年3月に、秀吉は、紀伊へ侵攻し

           て、平定する(紀州征伐)。

           ● 1585年7月に、秀吉は、関白となる。

           ● 1585年8月に、秀吉は、 長宗我部元

           親 (ちょうそかべもとちか)を降伏させ、 四

           国を平定する (四国征伐)。

           ● 1585年8月に、 秀吉 は、 越中国(え

           っちゅうのくに、富山県)の佐々成政(さっさ

           なりなさ)を降伏させ、北陸を平定する (北

           陸平定)。

 

■ 1586年   ● 豊臣秀吉 は、 徳川家康を臣従させる。

 (天正14年)  ● 1586年12月に、秀吉 は、 太政大臣

            に就任し、 豊臣の姓を賜(たまわ)り、 豊

            臣政権が確立する。

 

■ 1587年   ● 1587年5月に、秀吉は、島津義久を降 

 (天正15年)  伏させ、九州を平定する。 

            ● 1587年6月に、秀吉は、 バテレン追

            放令をだす。

            ● 1587年9月に、秀吉は、 聚楽第(じゅ

            らくだい)を完成させ、大阪城より移る。

            また、天正通宝を鋳造する。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1589年   ● 茶々(淀殿)は、 秀吉の男子、鶴松  

  (天正17年)     (つるまつ)を生む。

 

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#tokugawaieyasudetailedchronology-1590

 

■ 1590年   ● 1590年7月に、 秀吉 は、 北条氏を

 (天正18年)  降伏させ、関東を平定する (関東平定)。  

           北条氏政が、 自刃(じじん、自害)する。

           ● 1590年7月に、秀吉 は、 奥州も制圧

           した (奥州制圧)。

           ● 1590年7月に、秀吉 が、 天下を統一

           した (日本全国を統し た)。

           ● 1590年8月に、 秀吉の命(命令)により、 

           徳川家康が、 関東に移り、 江戸城に入る 

           ( 家康が中部5か国を秀吉に譲り家康が、 

           約250万石の関東を領有する )。

 

■ 1591年   ● 秀吉の正室のねねの元で育てられていた、 

 (天正19年)  鶴松 (淀殿(お茶々)の男子)が、 死亡する。

           ● 1591年12月に、秀吉は、 関白の職を、

           甥(おい)の豊臣秀次(ひでつぐ)に譲る。 秀

           吉は、 太閤(たいこう、前関白の尊称) と呼

           ばれるようになる。

 

■ 1592年   ● 1592年(天正20年)4月に、 秀吉により、 

 (天正20年)  朝鮮出兵が開始される (文禄の役(ぶんろ

           くのえき)、1592〜93年)。

 

■ 1592年   ● 文禄改元。   の「天正」 (てんしょう、

 (文禄 元年)  1592年12月8日に、 和暦天正元年〜2

           0年) が、 「 文禄」 (ぶんろく、文禄元年・

           1592年・12月8日〜文禄5年・ 1596年・

           10月27日) に改元される。 

 

■ 1593年   ● 秀吉の側室(妻)の、 淀殿(茶々) 

 (文禄 2年)     は、 秀吉の男子、拾(ひろい、後の

              豊臣秀頼)を生む。

 

■ 1595年   ● 1595年7月に、 秀吉は、 関白秀次

 (文禄 4年)  を自害させる。

 

■ 1596年   ● 慶長改元。   

 (慶長 元年)  1596年10月27日に、 和暦の「文禄」  

           (ぶんろく、文禄元年〜5年) が、「慶長」 

           (けいちょう、 慶長元年・1596年・10月

           27日〜 慶長20年・ 1615年・7月13

           日) に改元される。 

 

■ 1597年   ● 1597年1月に、 秀吉により、再度、朝

 (慶長 2年)  鮮出兵が開始される(慶長の役、1597〜

           98年)。

           ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1598年   ● 1598年7月に、秀吉が、 五大老・五

 (慶長 3年)  奉行の制度を定める (秀吉の後継者で

           ある豊臣秀頼の体制を磐石にするため)。

           家康が五大老の一人となる。

           ● 1598年8月に、秀吉が、 死去する 

           (享年63歳)。

            豊臣家の秀吉の跡継ぎの豊臣秀頼 は、

           まだ、数え年6歳だった。

           ● 1598年に、秀吉死去後、 徳川家康、

           前田利家 が、 朝鮮撤兵を命じる (同年

           12月にほぼ撤兵完了する)。

           ● 1598年に、 秀吉が死去すると、 秀吉

           の遺言により、 淀殿(茶々)と豊臣秀頼は、

           伏見城より、 大阪城の本丸に移る。

           ● 1598年に、 豊臣秀頼 が、 豊臣宗家

           の当主となり、 淀殿(茶々)は、 幼い豊臣

           秀頼の後見人となる。 淀殿(茶々)は、淀

           殿(茶々)の乳母(うばの、大蔵卿局 (おお

           くらきょうのつぼね、大野治長の母) や饗

           庭局 を重用する。

           ● 1598年より、淀殿(茶々)が推(お)す

           三成派の豊臣家臣団 とねね(おね)が推

           す家康派の豊臣家臣団 とが、豊臣家内

           での対立が始まる。

 

■ 1599年   ● 1599年に、 淀殿 (茶々、近江出身)

 (慶長 4年)  が信頼する、石田三成をはじめとする近

           江派(おうみは、近江出身の武将)の豊臣

           家臣 が、豊臣家で、大きな勢力となる。

           ● 1599年に、秀吉の正室のねね(おね)

           は、 淀殿(茶々)が信頼する、石田三成

           をはじめとする近江派の豊臣家臣に対抗

           して、 徳川家康に、石田三成をはじめと

           する近江派の豊臣家臣の勢力を 減少さ

           せるように依頼し、 豊臣家の将来を託す。

             1599年に、 ねね は、 豊臣家の家

           臣で大老の家康を擁して、石田三成派の

           豊臣家臣を牽制(けんせい)ため、 自分

           の住む大阪城の西の丸を引き払い、家康

           に引き渡し、 孝蔵主などわずかな女中達

           を引き連れて、 京(都)(三本木の屋敷)

           に移り住む。 

 

■ 1599年   ● 1599年3月に、豊臣政権の実力者の、

 (慶長 4年)  前田利家が、病死する。 

             ● 1599年3月に、石田三成 は 奉行職

            を解任され、 佐和山城で蟄居(ちっきょ)

            させられる。

            ● 1599年10月に、加賀の前田家が、家

                       康の支配下に入る。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1600年   ● 1600年に、 関が原の戦い。  豊臣

 (慶長 5年)  家臣団の間の戦い。

             ● 豊臣家臣団の間に、 徳川家康派と石

           田三成派の内紛が 起こり、戦争となり、徳 

           川家康派の豊臣家臣団 が、 戦いに勝つ。

            ● 勝利後、 家康が、大阪城に出向き、家

           康の主君の豊臣秀頼とその後見人の淀殿

           (茶々、秀頼の生母) に、 徳川家康派の

           豊臣家臣団の戦争の勝利を報告する。

            ● 戦後処理で、 豊臣家大老の家康 は、 

                       豊臣家の主君の許しを得ず、 全国の大名

            の所領を、勝手に、処理(移動分配)する。

            家康 は、 豊臣家宗家の所領も、処理(分

                       配)し、 豊臣家宗家は、 65万石の一大

            名へ転落する。

 

■ 1600年   ● 1600年4月に、 家康が、会津の、上

 (慶長 5年)  杉景勝からの直江状(なおえじょう)を受け

           取り激怒し、 家康は、 景勝が豊臣家(豊

           臣政権)に謀反(むほん)ありとして、同年

           5月に、 上杉景勝討伐を宣言する。

           ● 1600年6月に、家康は、 親家康派の

           大名で組織した、上杉景勝討伐軍を率い

           て、会津へ向かい、大阪を出発する。

           ● 1600年7月に、石田三成が、挙兵し、

           全国の大名へ呼びかけ、反家康の軍を集

           める。

           ● 1600年9月15日に、 関が原の戦い

           が起こり、 徳川家康の率いる大名の東

           軍が勝つ。 

             石田三成の率いる反家康派の大名の

           西軍 と 徳川家康の率いる親家康派の

           大名の東軍が、 関が原で衝突し、戦いは

           1日で終わり、西軍が敗北し、東軍が勝つ。

           ● 関が原の戦い後、 徳川家康が、 東軍

           に与(くみ)した大名の加増(かぞう)や 西

           軍に与(くみ)した大名の改易(かいえき)、

           減封の処分を行う。

           ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#tokugawaieyasudetailedchronology-1603

 

■ 1603年   ● 徳川家康が、 征夷大将軍となり、 江

 (慶長 8年)  戸幕府を開く。 家康が江戸幕府の初代

           将軍となる。

            ● 1603年に、 豊臣家の家臣で大老の、

            徳川家康が、 主君の豊臣家の許可を得

            ず、勝手に、 征夷大将軍となり、徳川家

            が江戸幕府を開く。 

            ● この出来事に、 淀殿(茶々) や ねね 

            が、 豊臣家への裏切りと、驚く。 

                      ● 結果、 徳川家が、 豊臣家に代わって、 

           日本を支配する。 

 

■ 1605年   ● 徳川家康が、 江戸幕府の将軍職を、家

 (慶長10年)   康の男子、徳川秀忠に譲る (将軍職の徳

            川家世襲)。 家康は、 引き続き、大 御所

            (おおごしょ)として、 江戸幕府の 実権を持

            ち、1916年まで、政治に関与する (徳川

            家康の大御所政治(1905〜16年))。

 

■ 1607年   ● 徳川家康は、 駿府に隠居(いんきょ)す

 (慶長12年)  る。 家康は、 引き続き、大御所として、 

           江戸幕府の実権を持ち、 政治に関与する。

 

■ 1611年   ● 京都・二条城で、 家康 が、 成長し立

 (慶長16年)  派になった、豊臣秀頼に会う。  

            ● 1611年に、 会見時、 家康は、 立派

            になりカリスマ性をもつ豊臣秀頼に驚き、

            内心で、 全国の豊臣恩顧の大名が立派

            になった豊臣秀頼に将来参陣し徳川家の

            支配がひるがえることを恐れ、 豊臣秀頼

            を排除する決心をする。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1614年   ● 1614年7月に、 方広寺鐘銘(ほうこう

 (慶長19年)  じしょうめい)事件 が 起こる。 

             ● 1614年に、徳川家康が、崇伝らと画策

            して、 豊臣家の寺の方広寺の鐘に「国家

            安康」、「君臣豊楽」という呪い文あり

            という言いがかりをつけ(方広寺鐘銘事

            件)、それを許すために豊臣家に、「秀頼

            江戸参勤、 国替え(大阪城明け渡し)、 

            淀殿(茶々)人質」、のどれかの条件を要

             求し、 豊臣家を怒らせ、戦争(大阪冬の

            陣)を引き起こさせる。

           ● 1614年10月に、大阪冬の陣 (1614

           年10〜12月) が起こる。 

           豊臣家と徳川家との戦争。

           ● 大阪冬の陣の戦争の経過と結果。 

            豊臣方の軍と徳川方の軍が戦うが、 真

           田幸村(信繁)など豊臣方の浪人の奮戦と

           大阪城の周囲の外堀に阻(はば)まれて、

           徳川方の軍が勝てず。 食糧・弾薬の欠乏

           と大砲の損害で、豊臣方も戦争の継続を望

           まず。 

              そして、大阪城の本丸以外の建物・柵を

           壊し、大阪城の周囲の堀をすべて埋 めると

           いう条件で、 豊臣方と徳川方の間に、16

           14年12月に、大阪冬の陣の終戦の和議

           が成立する。

             交渉は、1614年12月18日より、徳川

           方の使者の本多正純(ほんだまさずみ、家

           康の側近)、阿茶局(あちゃのつぼね) と 

           豊臣方の使者の常高院(じょうこういん、淀

           殿の妹、お江の姉)との間で行われ、12月

           19日に講和条件が合意され、20日に誓書

           が交換された

           ● 1614年12月〜1615年1月に、徳川家

           康の徳川方は、 大阪城の周囲の堀を埋め、

           大阪城の本丸以外の建物・柵を壊す。

              豊臣方と徳川方の間の和議の取り決め

           で、 豊臣方と徳川方の両方で大阪城の堀を

           埋め建物・柵を壊すことが決まった。 

              即ち、豊臣方と徳川方の両方で、大阪城

           の周囲の堀をすべて埋め、大阪城の本丸以

           外の建物・柵を壊すことが決まった。 そして、 

           大阪城の外堀と三の丸の建物・柵は、徳川方

           が埋め壊し、 大阪城の内堀と二の丸の建物

           は、豊臣方が埋め壊 すという埋め立て・破

           却の作業配分(受け持ち)も決まった。 

              ところが、 徳川方は、徳川方作業配分

           の大阪城の外堀と三の丸の建物・柵を埋め

           壊したあと、 豊 臣方作業配分の大阪城の

           堀と二の丸の建物・柵の埋め立て・破壊工事

           が進んでいないのを見て、 さらに、徳川方

           は、豊臣方に代わって、  大阪城の内堀と二

           の丸の建物・柵も、埋め壊した (1615年

           1月に完了した)。                  

 

■ 1615年   ● 徳川方は、豊臣方の大阪城の浪人が大

 (慶長20年)  阪城を退城しないことに豊臣方に不信感を

           抱(いだ)く。

             大阪冬の陣の終戦の和議では、徳川方

           は、大阪城の浪人に対し助命という意味で

           不問にしたのに、 豊臣方は、大阪城の浪

           人をこのまま 召抱(めしかか)えてもよいと

           解釈したためである。

           ● 徳川家康は、 豊臣方に、更に、浪人の

           解雇または豊臣家の移封、即ち、大阪城内

           の浪人の総追放または国替え(大阪城明け

           渡し)を要求した。それが受入れられないと、

            4月に、家康は、諸大名に鳥羽・伏見に集結

           するように命じ、戦争を再開 する。

           ● 1615年4月に、大阪夏の陣 (1615年

           4〜5月) が起こる。 豊臣家と徳川家との

           戦争。

             家康は、豊臣方に、大阪城内の浪人の

           退去、または、国替えによる大阪城退去を

           求めたが、豊臣家に聞きいれられず。 

             その家康の更なる要求を警戒した豊臣

           家が、 柵を作り、堀を元に戻すため掘り起

            こし始める。 家康は、それを和議違反とし

           (和議の条件違反を理由に)、戦争(大阪夏

           の陣)を1615年4月に、再開する。                     

            ● 大阪夏の陣の戦争の経過と結果。 

             1615年に、豊臣方は、大阪城の外周部

           で奮戦するが、徳川方が大阪城本丸に迫り、

           豊臣軍の本拠地の大阪城は 本丸以外の建

           物や柵もなく堀のない裸城(はだかじろ)の

           ため、 徳川軍に容易に侵入され、1615年

           5月に、炎上し、消滅する。

             1615年に、 大阪城にいた、淀殿(茶々)

           とその子・豊臣秀頼(享年23歳)は、自刃(自 

           害)する。

            ● 1615年5月に、大阪夏の陣で、豊臣氏

            が滅亡する。 ここに、豊臣方と徳川方との

            戦争は、終結した。

           ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1615年   ● 元和改元。   

 (元和 元年)    1615年7月13日に、 和暦の「慶長」

           (けいちょう、慶長元年〜20年)が、 「 元

           和」 (げんな、 元和元年・1615年・7月

            13日〜 元和10年・1624年・2月30日) 

           に改元される。 

 

■ 1616年   ● 1616年4月に、 徳川家康が、死去す

 (元和 2年)  る (享年75歳)。

 

■ 1619年   ● 直江 兼続(直江 重光)が、死去する。

 (元和 5年)

 

■ 1623年    ● 上杉 景勝が、死去する。

 (元和 9年)

 

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