◆ TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。
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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。
KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
◆ カナヤマ武田 信玄ガイドブック。
KANAYAMA’S TAKEDA SHINGEN GUIDEBOOK.
(Kjhh)31441
カナヤマ 武田 信玄
ガイドブック
武田 信玄 年表。
No.10。
■ パソコン、 ネットブックPC、 タブレット端末(PC)、
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■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。
□ 武田信玄 詳細年表。
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◆ 武田 信玄 ガイドブックの内容 :
■ 初学者・初心者用 オンライン 武田 信玄 ガイドブック
(要覧)。
■ 武田 信玄 (たけだ しんげん) 関連 初学者・初心者向
インターネット用 オンライン 書籍 (ブック)。
■ パソコン、 ネットブックPC、 タブレット端末(PC)、
スマートフォン, ネットテレビ用 電子書籍。
■ 武田 信玄 ガイドブック。
■ 武田 信玄 の 入門 ガイドブック。
■ この本1冊で (このホームページ1つで)、武田 信玄の
こと(概略) が、一通り、わかります。
■ 武田 信玄 は、 戦国時代(室町時代後期)の、武将で、
甲斐(かい、現在の山梨県)の守護、戦国大名 で、 後に、
甲斐、 信濃(現在の長野県)、 駿河(現在の静岡県中部)
の支配者となった。
■ 日本史書、 日本史の電子書籍。
■ パソコン、 携帯情報端末(PDA) 用 電子書籍。
■ TKKI カナヤマ 著 武田 信玄 ガイドブック (要覧)。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
◆ (Kjhh) 武田 信玄
ガイドブック。
( 武田 信玄 要覧 )
◆ 武田 信玄 年表。
#takedashingendetailedchronology
■ 武田 信玄 詳細年表。
(たけだしんげん しょうさいねんぴょう)。
◆ 武田 信玄 詳細年表。
■ 武田信玄 (たけだ しんげん) の詳細に関しては、
『 武田信玄 ガイドブック (要覧) 』 を参照して下
さい。
まがわよしもと) 』 の項目 も参照して下さい。
■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』
を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本
歴史詳細年表 』を参照して下さい。
■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本
吉 年表、 徳川家康 年表、 お江(おごう) 年表、 大
奥 年表 』 も参照して下さい。
■ 当年表 は、 武田信玄 (1521年〜1573年) が生
きた時代の詳細年表 である。
■ 武田 信玄 (たけだ しんげん、 生没年 1521年〜
1573年) の時代の日本へタイムスリップして、 武田信
玄 の活動を見てみよう。
■ 歴史学の立場から、年代を追って、 武田信玄 の実像
(歴史的有名な人物には、実像と虚像がありますが) を
見てみよう。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 22315。
■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。
● 当年表の日付(年月日)は、一般的な歴史書籍で使
用されているのと同じように、1872年(明治5年)12月
2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も
数え年を用いている。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
◆ 武田 信玄 詳細年表。
● では、武田信玄 (たけだ しんげん) に関係する出来
事を、年代順に、見てみよう。
#takedashingendetailedchronology-1521
■ 1521年 ● 大永(だいえい、たいえい)改元。
(大永 元年) 1521年8月23日に、和暦の「永正」(えいし
ょう、永正元年〜18年) が、 「大永」 (だ
いえい・たいえい、大永元年・1521年・8月
23日〜 大永8年・1528年8月20日) に
改元される。
■ 1521年 ● 1521年11月、 武田 信玄 (たけだ し
(大永 元年) んげん、太郎) が、誕生する。
甲斐の戦国大名となる、武田 信玄 (たけ
だ しんげん、幼名:太郎) が、 甲斐(現在
の山梨県)で、 甲斐国守護・武田信虎(のぶ
とら)と信虎・正室の大井夫人(おおいふじん)
との間の子として、 生まれる。
信玄(太郎)の父の、武田信虎は、甲斐源
氏 の名門・武田氏の第18代当主であり、信
虎期には、甲斐統一が達成されていた。
■ 1528年 ● 享禄(きょうろく)改元。
(享禄 元年) 1528年8月20日に、 和暦の「大永」(だい
えい、たいえい、大永元年〜8年) が、 「享
禄」 (きょうろく、 享禄元年・1528年・8月
20日〜 享禄5年・1532年7月29日)に改
元される。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1530年 ● 越後の戦国大名となる、上杉 謙信 (うえ
(享禄 3年) すぎ けんしん、幼名:虎千代) が、 越後で、
越後守護代・ 長尾為景の子として、春日山城
で、 誕生する。
■ 1532年 ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。
(天文 元年) 1532年7月29日に、和暦の「享禄」(きょう
ろく、享禄元年〜5年) が、 「天文」 (てん
ぶん、てんもん、 天文元年・1532年・7月2
9日〜 天文24年・1555年・10月23日)に
改元される。
■ 1534年 ● 織田 信長 (おだ のぶなが、幼名:吉法師)
(天文 3年) が、 尾張で、 織田信秀の子として、 誕生
する。
■ 1536年 ● 武田信玄(太郎)は、 元服(成人)し、 武
(天文 5年) 田 晴信(はるのぶ)と称す。
■ 1536年 ● 豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし、幼名:日吉
(天文 5年) 丸?)が、 尾張で、弥右衛門の子として、誕
生する。
■ 1541年 ● 1541年6月に、武田家の武田信玄(武田
(天文10年) 晴信) が、父、武田信虎を 、甲斐から追放し、
自立する。 信玄(晴信)が、武田家の 当主と
なる (武田家の実権をもつ)。
● 北条家の北条氏綱が死去し、北条氏康が、
家督を継いで、北条氏の第3代当主となり、
1541年に、北条家の実権(1541〜71年)
を持つ。 一説には、1538年(天文7年)に
氏綱が、隠居し、氏康に家督を譲り後見して
いたとも言われている。
■ 1542年 ● 徳川家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千
(天文11年) 代) が、 三河で、松平広忠の子として、 誕
生する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1543年 ● 上杉 謙信(虎千代) は、元服(成人)して、
(天文12年) 長尾 景虎(ながおかげとら) と名乗り、 栃
尾城に入る。
■ 1546年 ● 武田勝頼 (たけだ かつより) が、甲斐
(天文15年) の戦国大名の武田信玄の子として、 生ま
れる。
■ 1548年 ● 上杉 謙信 (長尾景虎)は、 19歳で、長
(天文17年) 尾家の家督を相続し、長尾氏の本拠地で
ある春日山城に入り、 越後守護代となる。
■ 1550年 ● 上田長尾家当主の長尾政景(まさかげ)が、
(天文19年) 上杉 謙信(長尾景虎)の長尾家の相続に
不満を持って、反乱を起こす。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1551年 ● 上杉謙信(長尾景虎) は、長尾政景の反
(天文20年) 乱を鎮圧する。
● 上杉謙信(長尾景虎)の(実)姉の桃(仙桃
院)が、 長尾政景に嫁ぐ (政略結婚)。
● 上杉謙信(長尾景虎)は、越後を統一し、名
実共に、越後国主となる。
■ 1551年 ● 織田信長の父・信秀が急死し、 織田信長
(天文20年) が、織田信秀の家督を継ぐ。
#takedashingendetailedchronology-1552
■ 1552年 ● 第1次川中島の戦い。 5回の川中島
(天文21年) の戦いの最初の戦い、 即ち、武田信玄と
上杉謙信と間の、信濃における5回の戦い
のうちの最初の戦い。 その後、今回を含
め信濃で両者が、5回戦ったが、結局、勝
敗つかず。
■ 1554年 ● 豊臣秀吉(木下藤吉郎) が、織田信長に
(天文23年) 仕える (家臣として仕え始める)。
● 武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、
互いに婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟
が成立する。
■ 1555年 ● 弘治(こうじ)改元。
(弘治 元年) 1555年10月23日に、和暦の「天文」(てん
ぶん、てんもん、天文元年〜24年) が、 「弘
治」 (こうじ、弘治元年・1555年・10月23
日〜 弘治4年・ 1558年・2月28日) に
改元される。
■ 1555年 ● 上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ、 幼名・
(弘治 元年) 長尾 卯松(うのまつ)、が、 誕生する。 上
杉 景勝 は、上杉謙信の姉の男子で、謙信
の甥(おい)であり、 後に、上杉謙信の養子
となり、 後に、直江 兼続が仕える主君・大
名である。
■ 1556年 ● 上杉 謙信(長尾景虎)が、出家すると宣言
(弘治 2年) して、高野山へ向かう。 越後国主の地位を
放棄する。
■ 1557年 ● 第3次川中島の戦い。
(弘治 3年)
■ 1558年 ● 永禄(えいろく)改元。
(永禄 元年) 1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こうじ、
弘治元年〜4年) が、 「 永禄」 (えいろく、
永禄元年・1558年・2月28日〜 永禄13年
・ 1570年・4月23日) に改元される。
■ 1559年 ● 1559年2月に、武田信玄 (武田晴信)は、
(永禄 2年) 出家して、 徳栄 軒信玄 と号し、 武田信
玄 となる。
■ 1559年 ● 織田信長 は、 尾張一国を統一し、 尾張
(永禄 2年) 国主となる。
■ 1560年 ● 直江 兼続 (なおえ かねつぐ、幼名・樋口
(永禄 3年) 与六) が、誕生する。
● 直江 兼続は、 越後の坂戸(さかど)城主
(現在の新潟県南魚沼市六日町坂戸)・長尾
政景(ながおまさかげ)の家臣、樋口 兼豊(ひ
ぐち かねとよ、樋口 惣右衛門(そうえもん))
の長男として、生まれる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1560年 ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間(お
(永禄 3年) けはざま)の戦いで、今川義元を破る。 今川
義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。
● 義元の部下として信長と戦っていた、徳川
家康(松平元康)は、尾張より、松平軍の兵を
撤退し、三河へ戻り、今川家から独立する。
● 駿河の戦国大名、今川 義元が、上洛途中
で、死去(敗死)する。 今川 氏真(うじざね)
が、駿河・今川家(氏)の家督を継ぐ。
● 今川 義元が敗死し、今川家が衰退の兆しを
見せ始めたので、武田信玄は、今川氏との同
盟を破棄し(甲駿同盟を破棄し)、今川領の駿
河に侵攻しようと計画する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1561年 ● 1561年3月に、 北条氏攻め(小田原城
(永禄 4年) 攻め)。 上杉謙信(長尾景虎) は、 関東
管領上杉憲政を擁して、 旧上杉家家臣団
10万人の大軍で、 北条氏康の北条氏を攻
め、 小田原城を包囲する。
● 1561年3月に、 上杉謙信(長尾景虎)は、
鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政より、山内上
杉氏の家督を継承(相続)し、 関東管領に就
任し、上杉政虎と称す。 その後、1561年12
月に、上杉輝虎と称す。
#takedashingendetailedchronology-1561
■ 1561年 ● 1561年8〜9月に、第4回川中島の戦い。
(永禄 4年) 1561年8〜9月に、武田信玄軍2万人と上杉
謙信(上杉政虎)軍1万3000人が、信濃(現在
の長野県)の川中島で、決戦を行うが、 勝敗
がつかず、互いに撤退する。
■ 1562年 ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康) は、
(永禄 5年) 織田信長と清洲同盟 (織徳同盟)を結ぶ。
■ 1564年 ● 直江兼続 (樋口 与六) が、 小姓・近習と
(永禄 7年) して 上杉 景勝に仕える (家臣として仕え始
める)。 通説だが、これを立証しえる史料はな
い。
■ 1564年 ● 謙信(上杉輝虎)の姉婿で上杉景勝の父の、
(永禄 7年) 長尾政景が、 舟遊びの最中、溺死する。
● 謙信(上杉輝虎)が、長尾政景の次男の、上
杉景勝を養子とする。
● 第5次川中島の戦い (最後の川中島の戦
い)。
■ 1565年 ● 室町幕府の13代将軍の足利 義輝 (よして
(永禄 8年) る、(将軍在位1546〜65年))が、 松永
久秀(まつながひさひで)に殺される。
● 義輝の弟の足利 義昭 (あしかが よしあ
き)は、 僧であったが、 還俗(げんぞく)し、
室町幕府の再興(さいこう)をめざす。
■ 1567年 ● 1567年10月に、信長 は、 美濃(現在
(永禄10年) の岐阜県)の斉藤氏を滅ぼす。
● 1567年10月に、武田信玄 は、 嫡男
の武田義信を廃嫡し、自害させる (病死
説もあり)。
■ 1568年 ● 1568年11月に、織田信長は、足利義
(永禄11年) 昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、 義
昭を将軍位に就(つ)ける (将軍在位15
68〜73年)。 この戦いに、 家康は、信
長へ援軍を派遣した。
#takedashingendetailedchronology-1568
■ 1568年 ● 1568年12月、武田信玄 が、駿河 に
(永禄11年) 侵攻を開始する。 今川氏 真(うじざね)
が、駿河を離れ、 遠江(とおとうみ)・掛
川城へ逃れる。
1568年12月、 武田信玄 が、駿河
に侵攻を開始し、今川氏真軍 や 今川
氏への北条氏康の援軍 と戦う。 甲相駿
三国同盟(1554〜68年)は、ここに、崩
壊する。
■ 1569年 ● 上杉家の上杉謙信(上杉輝虎)は、 武
(永禄12年) 田家の武田信玄を牽制(けんせい)する
ため、 宿敵である北条家の北条氏康 と
同盟を結ぶ (越相同盟、1569〜71年)。
● 戦国大名としての駿河・今川家(氏)が滅
亡する(統治権の喪失)。 駿河・今川家の
今川氏真(うじざね)が、 徳川家康と和睦
し、遠江・掛川城を開城する。
■ 1570年 ● 1570年3月に、上杉謙信 (上杉輝虎)
(永禄13年) は、法号を、「不識庵謙信」と称し、 上杉
謙信 となる。
■ 1570年 ● 元亀(げんき)改元。
(元亀 元年) 1570年4月23日に、 和暦の「永禄」(え
いろく 、永禄元年〜13年) が、 「元亀」
(げんき、 元亀元年・1570年・4月23日〜
元亀4年・ 1573年・7月28日) に改元さ
れる。
■ 1570年 ● 1570年4月に、織田信長は、 軍を、越
(元亀 元年) 前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江の
浅井長政に背後をつかれ、 京(都)へ逃
れた。 金ヶ崎の退き口(かながさきのし
りぞきぐち)。
■ 1570年 ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の
(元亀 元年) 姉川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の
戦い)。 この戦いに、家康は、信長と共に
参戦し、信長を助けた。
● 1570年7月に、武田信玄は、駿河にい
た北条の守備隊を撃破し駿河(現在の静
岡県中部)を完全に平定した。
● 1570年9月に、本願寺は、信長に対抗
する(石山合戦の始まり)。
■ 1570年 ● 上杉謙信(上杉輝虎) は、北条氏康の男
(元亀 元年) 子(越相同盟での北条氏の人質)、北条三
郎を養子とし、 景虎という名を与える (上
杉三郎景虎)。
■ 1571年 ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)
(元亀 2年) の北条家の、 北条氏康 (1515〜71年)
が、死去する。 氏康の子、北条氏政(15
38〜90年) が 北条家の実権(1571〜
90年)を握る。
■ 1571年 ● 1571年9月に、信長 は、 比叡山延暦
(元亀 2年) 寺を焼討ちする。
● 1571年10月に、 北条氏康が死去する。
● 1571年12月に、 北条家の家督を継承
(相続)した、北条氏政は、 上杉謙信の上杉
家との同盟を破棄し(越相同盟 を破棄し)、
武田家の武田信玄と同盟を結ぶ(甲相同盟
を結ぶ)。
■ 1572年 ● 1572年10月に、武田信玄は、上洛の軍
(元亀 3年) を起こす (上洛を開始する、 西上作戦を
開始する)。
● 1572年12月に、遠江の三方が原(みか
たがはら)の戦いで、徳川・織田連合軍 は、
武田信玄の武田軍に大敗する。
■ 1573年 ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、浅
(元亀 4年) 井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信長討
伐を謀(はか)る。
● 1573年4月に、 武田信玄が、上洛途中で、
死去(病死)する。 武田信玄が、病状悪化し、
武田軍は、徳川領の三河や遠江から、軍を返
し、甲斐へ帰国した (信玄は帰国途中、信濃
・駒場で病死)。
● 1573年7月に、室町幕府滅亡。 織田信長
が足利義昭を追放する。
織田信長は、信長に反旗をひるがえした、
足利 義昭(よしあき)を京都より追放し、室町
幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。
● 1573年7月に、 信長は、元号を元亀か
ら天正へ と改めることを朝廷に奏上し、これ
を実現させた。
● 1573年に、 武田信玄死後、 武田勝頼
(たけだ かつより)が、武田家の家督を継
承(相続)する。
■ 1573年 ● 天正改元。
(天正 元年) 1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ
んき、元亀元年〜4年) が、 「 天正」 (て
んしょう、天正元年・1573年・7月28日〜
天正20年・ 1592年・12月8日) に改元
される。
■ 1573年 ● 1573年に、織田信長 は、朝倉・浅井両
(天正 元年) 氏を滅ぼす。
● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡後、
その旧領の北近江三郡の経営を織田信長
より任され、 北近江(きたおうみ)の長浜城
の城主となる。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上