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武蔵円明流・宮本武蔵 │ |
「鳥取藩武道の概要」 |
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「鳥取藩武道の概要」
出典:「鳥取藩武道の概要」 武蔵円明流11世宗家師範 鈴木卓郎 著
(鳥取放送局・郷土文化史講座/昭和15年(1940年)7月12日放送)鳥取県立図書館
鳥取藩の武道について極概要をお話いたします。
元来武道流派の起源はずっと古い時代でありますが、段々と変遷を経て各種の諸流派がたくさん創始せられ且つ確立するに至りましたのは、戦国時代の後豊臣時代から徳川時代の初期ということになりますから、鳥取藩政時代の武道諸流派を語ることは即ち郷土の武道史を語ることになると思います。
徳川時代鳥取藩は山陰の大藩として重きをなして居まして、武備を整える目的の為に武道にすぐれたる武士を優遇抜擢する途を講じ、時々藩主の武芸の御覧というようなことも行われて居ました。
藩士に文武両道を教える為の藩の学校・尚徳館は宝暦6年(1757年)の創立でありますが、文場と武場とがありまして、武場が完全に建築の出来ましたのは嘉永5年(1853年)であります。
武術諸流派の数もすこぶる多く、各々それぞれ隆盛を極め達人名人もたくさん出て居りますことは全国でも鳥取藩は屈指の中に属して居りました。年代からいえば嘉永安政の年代が一番の隆盛期でありました。
先ず弓について述べます。(中略)
次に藩の槍術は、かの講談などにも有名な上泉伊勢守の高弟の一人疋田豊五郎景兼の編み出した新陰疋田流が寛永年間(1624〜43年)に猪多伊織佐重能によって鳥取に伝えられひろく藩内に行われまして、その末流諸派が多く道場の数もすこぶる多かったのですが、ほかに天保年間(1830〜43年)に至って幾田伊俊によって伝えられた種田流が相当広く行われました。(中略)
次に藩の剣術は、これも流派が十数派ありまして、各々その流派の真髄を伝えて錬磨し特長を発揮して非常に隆盛を極めて居ります。
これら諸流派の中で寛永年間に藩士・深尾角馬重義によって創められた雖井蛙流(せいありゅう)というのは、深尾角馬その人が世に稀なともいうべき達人であったのみならず、従来の諸流は形の鍛錬を主としていた時代に雖井蛙流は率先して竹刀を使う試合によって技量を錬ることをはじめ、藩の武道向上進歩の上に絶大の貢献をしたのであります。そういうわけでこの流派は一時藩中で大変広まりましたが、しかし他の地方には伝わって居りません。なお、これ以外に雖井蛙流から出た兌山流(ださんりゅう)、兌山流から更に分かれた神刀兌山流、武蔵円明流から出た一貫流、今枝流から出た理方得心流はいずれも鳥取藩独特のものであります。
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↑岡本勘兵衛正誼の墓(鳥取市大杙)
宝暦8年(1758年)1月、享年57歳 |
武蔵円明流というのはかの有名な宮本武蔵の流派でありますが、宮本武蔵政名の6代の孫・岡本勘兵衛正誼(かんべえまさよし)が元文(1736〜40年)寛保(1741〜43年)の年代に鳥取に来て伝え、相当広く当地に行われるに至ったのであります。この事はあまり世間には知られていない所でありまして、流派の業(わざ)や口伝等も他の地方に伝わっている所と相違している点もあるようです。一例を言いますと、有名な「五輪の巻」というのが当地では「五蘊(ごうん)の巻」となっています。五蘊とは五蘊皆空(ごうんかいくう)などという五蘊で、蘊の字は草かんむりの下に糸へんをしてつくりに囚皿を書いた蘊です。宮本武蔵の肖像も世間によくある袖なし羽織に二刀を下段に提げたものでなくて、烏帽子水干姿のものが伝わって居ります。
それからよく人々に尋ねられるのは荒木又右衛門のことでありますが、あれはあの仇打が藩と幕府との間にむずかしい経緯があったので、藩の歴史として大切な事柄でありますが、何にいたせ又右衛門は鳥取に帰参して間もなく死去したのでその流派は一向伝わって居りません。
次に居合のことについて述べますとこれも沢山の流派があり、又剣術の諸流にはたいがい皆居合が附属していたのです。
安心流及び化顕流の二つの居合は前に述べました雖井蛙流流祖・深尾角馬の編み出した所であります。
因に居合術という名称について一言しますが、居合といえば世間一般では刀を抜く術ということに考えられて居りますが、これは互いに居合って相対して居る間に敵の気を観破するを主眼とするので居合という名称が起って居るというのであります。又、居合術諸流の大部分は剣術の系統のものであり、刀を抜いて刀の術に移ることを主としてあるようですが、玄に面白いことは、水野流並びに水野流一貫派の居合は「居合柔(いあいやわら)」と呼びまして柔即ち今日でいう柔道を基調とした居合術で刀を抜く業は極少ないのです。
柔術体術の流派も数々あります。(中略)
次に遊泳術のことです。(中略)
終りに、薙刀術のことについて述べておきます。鳥取藩に行われて居た薙刀術はほとんどすべてが新陰疋田流槍術に附属して居た薙刀であって、他の地方のように薙刀だけの流派の独立したものではありません。
この流派の薙刀は、太刀に対する業と槍に対する業とがあります。太刀に対するものは形の修行を行い、槍に対するものは形による修行のほかに試合の修行を行い、薙刀の反(そ)りの部分を巧みに使って長い優勢な武器たる槍の業を封じて敵の手許に入り込み勝を制するという試合振りを練習したのです。
薙刀といえばすぐに婦人専用のものという考え方は当たらないのです。
以上ほんの極大略、鳥取藩時代の武道一般についてのべましたが、これらは各個の武術訓練でありまして、藩の武備としては部隊訓練とか野外演習とかいうことが必要なわけですが、これは当時の実情は充分に実施することが出来ませんので、対策としては時に浜坂や湖山の巻狩を武士の間に奨励しました。
(最終更新:121012)
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