古武道 武蔵円明流会―私達は宮本武蔵(武蔵円明流)の精神と圓明剣(剣術・居合術)を未来へ伝えます―
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武蔵円明流・宮本武蔵 │
「巌流島(舟島)の決闘」
「巌流島(舟島)の決闘」 慶長17年(1612年)
出典:
「史料考證 勧進・宮本武蔵玄信」 谷口 覓 著
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で、武蔵は兵道鏡円明流の一刀流剣術で闘った。
註:武蔵円明流では、円明流(流祖:俊乗房重源)と武蔵の円明流を分けている。兵法書「兵道鏡」を落合忠右衛門光経に与えた、慶長10年(1605年)以降を兵道鏡円明流という。兵道鏡円明流には、二刀流と一刀流がある。
■小倉藩と時代背景
この決闘は裏面から観察すると、藩の政治決闘劇であり、武蔵門弟対小次郎門弟の対立劇であった。武蔵は藩の主流派代表、小次郎は反主流派代表であった。
当時の小倉藩主は細川忠興である。天下無双流剣術の達人・小次郎は、藩剣術指南役の一人で、忠興お気に入りの剣客であった。武蔵の養父・宮本無二之助一真は、藩内で当理流十手術を教授、武蔵は兵道鏡円明流を教授していた。忠興の三男・忠利(元和6年/1620年家督を継いだ後、豊前小倉から熊本に移封)は、小次郎よりも武蔵を信頼していた。
↑松井興長肖像(財団法人松井文庫蔵)
藩は、門司城・岩石
(がんじゃく)
城・杵築城・高田城・香春城・竜王城・一ツ戸城の七城をもっていた。小次郎は豊前の名族・佐々木一族である。岩石城は代々佐々木一族の本拠地で、背後には修験道の聖地・彦山の強い勢力が控えていた。岩石城は秀吉九州入りの時の緒戦地で、秀吉が自ら采配を取って攻撃した名城である。
その岩石城で不穏の動きがあった。秀吉の「一地一作人」法に反対した百姓一揆を、豊前では山伏が支持して藩政を批判し、小次郎の専横が増長した。忠興忠利の側近同士の対立ともなり、藩は佐々木一族をなんとか鎮圧しようとした。時に、藩家老・松井康之のもとに寄属していた無二之助一真と武蔵は、小次郎一門の専横を聞き、試合という名分のもと、これを弾圧しようとする藩の意向を知った。無二之助一真は、その試合に武蔵を推薦した。慶長16年(1611年)康之は隠居し、次男・佐渡守興長(長岡佐渡興長)が家督を相続、父と共に武蔵を保護した。興長は無二之助の当理流の門人である。
※岩流(流祖・伊藤左近祐久)という流派は古くからあり、鳥取池田藩に連綿として伝承されていたが、岩流剣脈図には佐々木小次郎の名はない。俗説では、佐々木岩流・巌流・岸柳・眼柳などと呼ばれていた。佐々木岩流を分析すれば、姓名と流派を一緒にした名前なのである。「二天記」では岩流小次郎、「兵法先師伝記」では津田小次郎巌流とあるも吟味を要する。北陸出身と中年剣客を、十八歳の美少年にしたのはうわさ話の産物である。
※舟島は小次郎の流派(俗説)にちなみ、巌(岩)流島と呼ばれるようになったが、文献では次のとおりである。
「小倉碑文」=舟島、「沼田家記」=ひく島・引島、「二天記」=向島、「武芸小伝」=舟島、「兵法先師伝」=舟島、「有方録」=岸柳島
下関海峡の小島は多く存在しているが、長門国(本州側)から見た時と豊前国(九州側)から見た時とで、島の名前が異なっていたものと考えられる。明治27年以前は巌流島は明記されていない。現在の表記は船島(巌流島)となっている。
■史 実
決闘は公式決闘とした。次の順序で実施された。
一、両者決闘願を藩主へ提出する。
二、召文
(めしぶみ)
で召され対面する。
三、申文
(もうしぶみ)
で決闘を申渡される。
四、施行状で時刻、場所、立会人、検死人、決闘場警固の要領決まる。
五、触状
(ふれじょう)
で藩中に通知される。
六、廻状
(まわしじょう)
で本人、関係人全員に知らされる。
七、藩領各所の高礼場に掲示される。
八、決闘場が土工関係人などで準備される。
[決闘の掟]
一、公 開
二、公 平
三、公 正
四、武士道にもとづき正々堂々で飛道具禁止され、時刻厳守し示された決闘場で行う。
五、卑怯な行為をすれば関係役人から斬り殺される。
六、決闘で逃げるのは許されない。しかし参った発言しなければ死ぬまで決闘が続くのである。
七、勝敗決したらすべて関係役人の指示に従って行動する。
■巌流島の決闘
一、藩内豊前佐々木一族は、藩政に反抗的であった。
一、小倉藩家老・長岡佐渡興長は、無二之助一真と協議して、小次郎の決闘の相手として武蔵を選定し指名した。
一、決闘は公式決闘とした。
一、小次郎は細川忠興の舟で小倉から巌流島へ、武蔵は細川忠利の舟で下関から巌流島の決闘場に到着した。共に早鞆瀬戸を渡った。
一、決闘は、辰の刻両雄同時に相会して実施され、武蔵の遅刻はなかった。
一、武蔵は武者わらじをはいて海辺に降りたのであり、素足で降りたのではない。
一、武蔵は愛用の大木刀を使用した。船頭の櫓を削った速成の木刀ではなかった。
一、決闘は水際の砂場ではなく、警固された区域内の決闘場で役人立会で実施された。
■定刻の決闘と武士道
決闘場には置時計がなかった。
・辰之上刻=七時より七時四十分まで
・辰之中刻=七時四十分より八時二十分まで
・辰之下刻=八時二十分より九時まで
↓江戸の時刻表・時刻は二時間
ごとに一刻と数える十二刻制
「二天記」では、決闘開始は辰之上刻と明らかで、辰之上刻とは七時から七時四十分である。史家説による午前八時とするのは辰之中刻となり、正確ではない。
もちろん、東経135度子午線の標準時間であり、舟島では若干差があるのは当然である。いずれにしても、史家・作家の共通する見解の、武蔵は故意に遅刻し、決闘は十時とか十一時とするのは適当ではない。
藩命で決闘開始の時刻を知らせる大太鼓が打鳴らされる。打鳴らされているときに現場到着しなければならず、控席に双方出席していなければならない。不参なら敵前逃亡となり、生涯汚名を覚悟しなければならない。臆病な武士となる。個人の意志で遅刻するのは武士の掟に反し、恥知らずの行為となる。
巌流島の決闘は定刻を守った。両者は正々堂々と、立会人ほか諸役人の前で公明正大な雌雄を決し、武士の掟を守ったのである。決闘時刻を守らず、策略を行使した武蔵の遅刻を礼讃する、史家・作家の見解は誤りである。
武蔵が小次郎に止めを刺さなかったことを不思議だと、とかく非難するものがある。しかしそれは、公式決闘と私闘を一緒にした誤った観察である。公式決闘は、公式立会人が勝敗を明らかにするわけで、殺すことを目的としない。したがって結果として、斬殺されたり或いは不具者となり、あるいは武士を捨て、仏門に帰依したり、あるいは切腹して自決する場合を生じる。止めを刺さない。
宮本武蔵
佐々木小次郎
真
実
・時刻を守る
・門弟が隠れて来ていた
・大木刀
・下関から舟
・決闘は陸上
・手拭鉢巻
・辰の刻決闘
・武者わらじ
・時刻を守る
・門弟同行せず
・真剣 備前長光
・小倉から舟
・決闘は陸上
・壮年の武芸者
・辰の刻決闘
・武者わらじ
・倒れても生きていた
ま
ち
が
い
・太陽に向う不合理
・辰の刻にわざと遅れる
・小次郎敗れたりの発言
・櫓を削った
・素足水中に立つ
・巳の刻決闘
・袴の裾ももだち
・鞘を水中に捨てた
・18歳の青年
・水際に立つ
・富田勢源の弟子
・燕返し
・巳の刻決闘
・武蔵に打たれ即死
・越前浄教寺の出生
定刻を遵守するというのは、次のとおり武士だけでなく、公卿階級を含めて江戸時代の最低限の掟なのである。
一、登城時刻
二、軍議時刻(寄合・集会・召集)
三、出陣式時刻
四、決闘時刻(真剣)
五、試合時刻(木刀)
六、作戦移動時刻
七、幕閣召集時刻
八、主君下命時刻
九、下知状時刻
十、江戸城廊下お錠口開閉時刻
十一、関所開閉時刻
十二、その他
定刻に遅刻したときは処罰をされるのである。武士道の真理、本質を理解している史家・評論家・作家たちなら「二天記」の舟島の決闘描写は虚構であることを見抜くことができよう。
決闘時刻は「沼田家記」「武芸小伝」「兵法先師伝記」「撃剣叢談」「古老茶話」などすべて遅刻描写は無い。
武士道は少なくとも元禄時代までは赤穂義士の例の如く健在であった。藩に離れ禄を失った牢人でかくのとおりである。浪人と牢人は厳格にはちがうのである。浪人とは郷土を離れ浮浪している者であり、牢人とは大名改易により禄を失い落ちぶれ、家宅に牢獄生活している武士である。
慶安4年(1651年)由井正雪・丸橋忠弥一党の倒幕慶安の変以後幕府は、武術諸流派の他流試合を厳禁した。この時代になるまでの慶長年間は、武者修行は全国的に隆盛であり、他流試合も盛んに行われた。また主君の死にともなって藩士の切腹殉死も多かった。武蔵の第一養子酒造之助は姫路城に出仕していたが、藩主・本多忠刻病死により殉死している。細川藩でも藩主・細川忠利の死去により家臣が殉死している。武蔵の存命中は最も士魂の充実した時代であり、武士の掟は生きており、約束を守り卑怯な生き方を否定する武士気質を第一としていたのであり、武蔵が舟島の決闘で決闘時刻を破り策略を用いて遅刻したとする「二天記」の記録は誤りである。
注:文献として真実性の高いものは武蔵死後四十五年目の細川藩家老・沼田延元の「沼田家記」で、決闘当日、門司の城代として駐在し事件の目撃者であった。その次は死後六十九年目の「武芸小伝」である。有名な「二天記」は死後百年以上を経過し、武蔵の宣伝的性格が濃く、「兵法先師伝記」もまた同様である。
■「沼田家記」
沼田家は舟島の決闘当時は門司城の城代で、武蔵を支援していた。「沼田家記」は実際に舟島の決闘に立ち会った藩士や警固した沼田家中の目撃記録であり、武蔵死後一世紀経過してからの曾孫弟子の作である「二天記」より真実性が高い。
多くの史家・作家は「沼田家記」の研究不足のために、武蔵を美化した「二天記」の虚構を真実とている。「二天記」の主な虚構は、舟島の決闘に遅刻したこと。決闘描写がまちがいであること。佐々木小次郎は前髪の美青年でなく、壮年で冨田勢源や鐘巻自斉とは関係ないこと。そのほか養子伊織は実兄の息子が正しく、奥州生まれの少年でないこと。武蔵は火葬されているのに事実に反し甲冑着用した土葬としてことなどである。
何故「沼田家記」が軽視され、陽の目があてられなかったのかといえば、「沼田家記」を認めることは武蔵一門にとってははなはだ都合が悪いのでこれを無視した。武蔵一門の曾孫的弟子たちが、武蔵を剣聖化するため「二天記」を発表したのである。
巌流島の決闘は、藩の主流派の宮本武蔵と反主流派の豊前佐々木一族の佐々木小次郎と決闘が正しく、小次郎は四十歳前後の壮年だった。決闘は定刻の辰之上刻に開始された。武蔵は遅刻をしていない。約束の刻限を守ることは、武士の掟中最も厳格な教訓で、これを守らないのは、卑劣な行動で曲りたる振舞である。決闘の相手にも立会人にも検使役人に対しても、絶対遵守しなければならない。「小倉碑文」「沼田家記」「兵法先師伝記」では定刻に勝負のあったことを記録している。「二天記」だけ武蔵が詐術で遅刻したと記録している。
武器は、武蔵は大木刀、小次郎は真剣で、時刻同時に会した。勝負は、武蔵の一撃で小次郎を倒し、小次郎は気絶した。気絶後蘇生した小次郎を、武蔵の門弟が袋たたきにして殺している。つまり武士道にもとるのは、藩の主流派と武蔵の門弟であり、決闘は藩の政治的な目的の為であったと考えられる。退去後の武蔵を門司城へかくまったのは、門司城主の沼田延元(改名・長岡延元さらに長岡勘解由左衛門)であった。
したがって、この決闘は汚れた決闘であった。それは、門弟不参の約を守らなかった武蔵・門弟、守った小次郎・門弟。蘇生した小次郎を打殺した武蔵の門弟。武蔵をかくまった小倉藩。これらの史実のなかから真実を探究しなければならない。是は是、非は非、どちらが武士道的か判定されるべきで事実を詳しく公平に評価すべきである。武士道を守って散ったのは、反主流派側の佐々木小次郎であった。「沼田家記」は非常に重要なことを物語っている。
武蔵は、小次郎に対し無益の殺生をしたことに気がついた。この決闘は痛恨の勝利であり、そのしょく罪のため剣の道に精進する転換期を迎えた。武蔵は以後、真剣勝負をしていないことがこれを証明している。そして、剣客だけでなく哲人として剣禅一致を指向する動機となったのは、島原の乱(寛永14年/1637年)である。島原の乱では武蔵は、二天流を全く活用しなかった。
■巌流島決闘差異表 出典文献の信憑性の物差
文
献
小倉碑文
沼田家記
本朝武芸小伝
二天記
兵法先師
撃剣叢談
執
筆
者
宮本伊織
小倉藩家老
沼田延元他
日夏繁高
松井氏家臣
豊田景英
丹羽信英
備前岡山藩士
源徳修
年
号
承応3年
1654年
寛文12年
1672年
正徳4年
1714年
安永5年
1776年
天明2年
1782年
天保14年
1843年
武
蔵
死
後
9年
27年
69年
131年
137年
198年
情
報
源
舟島決闘見聞記録
武蔵門弟三代目より聞き取り
祖父・父の記録及び自分の聞き取り
立花峰均の記録及び自分の聞き取り
時
刻
武蔵、小次郎同時に会す
武蔵、小次郎同時に会す
武蔵、小次郎同時に会す
武蔵 遅刻
小次郎 先着
武蔵 遅刻
小次郎 先着
武
器
武蔵 木刀
小次郎 真剣
武蔵 木刀
小次郎 真剣
武蔵 木刀
小次郎 真剣
武蔵 櫓速成大木刀
小次郎 真剣
武蔵 櫓速成大木刀
小次郎 真剣
武蔵 二刀・棹・木刀
小次郎 真剣
勝
敗
武蔵、一撃で岩流を殺す。
武蔵、一撃で岩流を倒し、気絶後蘇生した岩流を武蔵門弟、袋叩きして殺す。
双方死力つくし、武蔵、木刀で岩流を撃ち殺す。
武蔵、岩流の頭、続いて脇腹を撃ち、倒れ気絶した岩流を捨て置く。
武蔵、岩流の眉間を二度撃ち殺す。皮袴の裾を斬られる。
武蔵、跳んで岩流の肩を撃ち砕く。皮袴の裾を斬られる。
内
容
武蔵、門司沼田城へ逃げ、更に豊前地方へ逃げ、無二之助と再会後本土に渡る。
決闘後、下関に逃れ後本土に渡る。
決闘後、武蔵は岩流の使用した大刀を分捕りする。
「宮本無三四佐々木岸柳仕合図」(公文教育研究会所蔵)
(100310)
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