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武蔵円明流・宮本武蔵 │ |
「剣聖 宮本武蔵」 |
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「剣聖 宮本武蔵」 出典:「剣豪番付異考」 稲垣 史生 著
■剣豪を選ぶ
「剣豪番付」だが、200流もあった武芸者をランクづけることはむずかしい。 (中略) 剣豪を選ぶとすれば、戦国末期から江戸初期へかけての、1対1の勝負に強い者、または武士道観念の変革期に、精神練磨の方途として道を切り開いた者ということになる。例えば上泉伊勢守で、新陰流を編み出して諸国を漫遊、将軍足利義輝にまで、その護身用として秘術を伝授している。塚原卜伝も新当流を創始し、1対1の剣の秘術を多数の門弟に教えた。いずれも剣豪というべきだが、はたして剣聖または名剣士といえるだろうか。
“剣”の意義をさらに深め、精神的にその秘奥に達した者こそ真の剣豪ではなかろうか。さらにそれを自身だけでなく、広く門弟に教授し、治国・修身の糧とした者でなければならない。
■宮本武蔵・柳生宗矩こそ適格
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↑霊厳洞(熊本市) |
その條件にかなう剣豪として、私はやはり宮本武蔵をまずあげたい。
武蔵は天正12年(1584年)播磨国宮本村に生まれ、13歳で新当流の有馬喜兵衛と試合をして勝ち、以来、諸国を遍歴して各地の剣士と戦ったが、一度も敗れたことがなかった。相手は槍術宝蔵院胤栄の一門、鎖鎌の名手伊賀の宍戸梅軒、江戸ではタイ捨流剣士波多野二郎左衛門、および神道流棒術者夢想権之助らで、武蔵はどんな種類の武術にもりっぱに対抗できたことを証している。横綱の一人に武蔵をあげたのは、実はすべての勝負に勝ったことではなく、いかなる武器、いかなる流儀にも対抗できた技術の独創性にある。
その果て編み出したのが二刀流であり、寛永17年(1640年)修行の旅をおえて熊本の細川家に客分として招かれてから、多くの門弟を育てたことでも横綱格として申し分がない。何より彼が名人たる所以は、寛永20年(1643年)60歳の時、岩戸山観音の霊巌洞にこもって「五輪書」を書きあげたことである。その中で武蔵は、剣の一生をふりかえって、
「太刀の徳は世を治め、身を治むる事」
と結論づけている。その境地に達したことと、それに剣の哲学を創始したことに、まず横綱の資格じゅうぶんということができよう。
次に柳生但馬守宗矩をあげたい。(中略 )
宗矩を偉大にしているのは、名僧沢庵との交わりであり、その沢庵から禅の要諦を学び取り、“剣禅一如”を唱えたことである。さらにそのエキスを惜しむことなく、「兵法家伝書」を書いて門弟に教えたことによる。
その内容を要約すれば、常に白刃の下にある兵法者は、禅における無の境地に達せよというのだ。物事に執着したり、勝負にこだわったりしては破綻のもとである。
宗矩作和歌
兵法はふかきふち瀬の薄水
渡るこころのならいなりけり
(100304)
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