古武道 武蔵円明流会―私達は宮本武蔵(武蔵円明流)の精神と圓明剣(剣術・居合術)を未来へ伝えます―
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武蔵円明流・宮本武蔵 │  宮本武蔵「一代記」 武蔵円明流・宮本武蔵6頁

宮本武蔵「一代記」


宮本家系図・宝塔寺の田原家貞夫妻(宮本武蔵の実父母)の墓碑や墳幕帳の点検考證(家貞・天正5年死去、妻・天正元年死去)により、年齢推定する。
※年齢=数え年(昭和24年5月24日法律96号以降は満年齢)

元号 西暦 年齢 通説
年齢
時 代 出 来 事
天正元 1573 1
播磨国 播磨国印南郡米堕村(現在高砂市米田)田原家貞の二男に生まれる。
天正4 1577 5
美作国 美作国吉野郡宮本村の剣客、宮本無二之助の養子となる。(「宮本氏歴代年譜」「宮本正総記」「泊神社棟 札」「宮本系図」)
天正12 1584 12 (1) 播磨国 ※「五輪書」の執筆開始60歳説より逆算、通説年齢では誕生年となる。
天正13 1585 13 (2) 播磨国 新当流有馬喜兵衛と決闘し勝利。(「五輪書」)
天正16  1588 16 (5) 但馬国 兵法者秋山某と決闘し勝利。(「五輪書」)
慶長5 1600 28 (17) 関ヶ原




豊後杵築
竹山城の新免伊賀守配下となり、養父・宮本無二之助と共に関ヶ原西軍宇喜多秀家の指揮下に入り奮戦す。
敗戦し、新免伊賀守は筑前黒田家を頼り九州へ入る。父と共に豊後杵築細川家家老松井康之の庇護を受ける。(「筑前新免系図」「沼田家記」「甘木市史無二之助免許状」)
慶長8 1603 31 (20) 武者修行
(円明流)
宍戸梅軒と決闘し勝利。
慶長9
慶長10
1604
1605
32
33
(21)
(22)
京都武者修行
(円明流)
吉岡憲法一門十数人と決闘し勝利。(吉岡清十郎・吉岡伝七郎・名目人、吉岡又七郎)
慶長10 1605 33 (22) 奈良武者修行
(円明流)
奈良、興福寺の塔頭・宝蔵院で胤栄の弟子・奥蔵院と試合し勝利。
夢想権之助と決闘し勝利。
慶長10 1605 33 (22) 播州地方
武者修行
(兵道鏡円明流)
多田半之助に円明流印可書、落合忠右衛門光経に兵法書「兵道鏡」を与える。
慶長15 1610 38 (27) 播州・山陰地方
武者修行
(兵道鏡円明流)
播州地方で、兵道鏡円明流普及する。活人剣として脱皮する。
門弟・宮本武蔵義貞(岡本小四郎政名/改名)武蔵流、
門弟・宮本武蔵政名(岡本馬之助祐実/改名、武蔵円明流流祖)鳥取美作地方で武蔵円明流普及する。
慶長17 1612 40 (29) 小 倉
(兵道鏡円明流)
巌流島(舟島)にて佐々木小次郎と決闘し勝利。
豊後杵築の養父、宮本無二之助のもとに送りとどけられる。(「沼田家記」)
慶長18 1613 41 (30) (兵道鏡円明流) 密かに九州を去り、山陽道・近畿道更に尾張地方へと武者修行し、兵道鏡円明流普及する。
慶長19 1614 42 (31) 大 坂 武蔵、大坂冬の陣に参戦する。
元和元 1615 43 (32) 大 坂





全 国
(兵道鏡円明流)
大坂夏の陣、徳川軍三河刈屋城主水野日向守勝成の陣中に、武蔵が侍大将として出陣。(「水野勝成覚書」「大坂夏の陣大坂御人数付」)
全国各地武者修行、兵道鏡円明流普及し、他流試合を重ねる。
元和5 1619 47 (36) 姫 路
(兵道鏡円明流)
水野家の侍大将・中川志摩之助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩本多中務忠刻へ小姓として出仕させ後見役となる。(「宮本家由緒書」)
寛永3 1626 54 (43) 明 石
(兵道鏡円明流)
藩主本多忠刻急逝。養子三木之助、忠刻の墓前で殉死。武蔵実兄・田原久光の二男・貞次を養子伊織とし、明石藩小笠原家に出仕させ後見役となる。小笠原客分として、城郭の縄張などに協力する。(「明石藩史・小笠原家記」「宮本系図・本多家記」「播磨鑑」)
寛永5 1628 56 (45) (兵道鏡円明流) 尾張・中部地方武者修行。兵道鏡円明流普及する。
寛永9 1632 60 (49) 小 倉
(二天流)
小笠原忠真、小倉移封。(小倉藩)武蔵は養子伊織と共に随行。伊織2500石昇進。(「小笠原家記・宮本系図」)
寛永11 1634 62 (51) 小 倉
(二天流)
藩士に二天流普及する。
藤本左近重利に二天流目録手継之書を与える。
寛永15 1638 66 (55) 小 倉
(二天流)
島原の乱、小倉藩小笠原家の戦奉行軍監として養子伊織と共に参戦。武蔵は両足負傷し戦線離脱する。哲人として剣禅一致を指向する動機となった。(「小笠原家記・宮本系図」「武蔵書簡・島原軍記」)
寛永16 1639 67 (56) (二天流) 江戸、尾張、上方回遊する。
寛永17 1640 68 (57) 熊 本
二天一流
熊本(肥後)藩宿老長岡佐渡興長の周旋、養子伊織の政治力で細川家客分7人扶持合力米18石の身分となり熊本千葉城内に住む。(「熊本藩奉書」)
藩士に二天流普及する。(二天一流の前身)
武蔵第3の養子として、養家の身内・宮本無二之助親族で平尾与右衛門頼角(竹村与右衛門とも)を尾張藩宿老の寺尾左馬(土佐守直政)に武芸師範に推挙する。
与右衛門は尾張に滞留して兵道鏡円明流をひろめた。
寛永18 1641 69 (58) 熊 本
二天一流
藩主細川忠利の命で兵法35箇条執筆し差出す。「五方之太刀道」寺尾求馬助信行へ伝授。
寛永19 1642 70 (59) 熊 本
二天一流
宮本武蔵300石。藩主細川忠利没。武蔵無情を感じ風流生活に入り、兵法師範は予備 となる。胃ガン悪化する。(「熊本藩奉書」)
寛永20 1643 71 (60) 熊 本
二天一流
岩戸山霊巌洞で座禅修行しつつ、藩主細川光向の命令により、武蔵は「五輪書」の執筆始める。(10月10日)
正保2 1645 73 (62) 熊 本
二天一流
手足不自由になり執筆困難にきわめる。「五輪書」下書提出。岩戸山霊巌洞より千葉城自宅に帰る。
最後の力をふりしぼって「独行道21箇条」「五輪書」をしたため、宮本武蔵自宅で生涯を閉じる。(5月19日)
五輪書 細川家本
五輪書 細川家本

(永青文庫所蔵)
五輪書献上本 「五輪書」下書は、式部(松井興長)監物・宇右衛門の家老三人衆へ提出されたが浄書され巻子本に仕立てられ、藩主細川光尚へ献上された。
五輪書献上本焼失 円治峯均筆記(兵法大祖武州玄信公伝)に曰く
武州直筆ノ兵書何等ノ訣ニテ公儀ヘ被召上候也
御城ヘ上リ御天守ニ納マル
焼失ノ時此書ニ不限数多ノ珍宝器焦土トナレリトカヤ
可惜可悲
五輪書細川家本
(再献上)
「五輪書」献上本は熊本城天守閣へ納まったが雷が落下天守火炎で焼失した。したがって寺尾孫之条が山本源源介に与えた寺尾家本を細川家へ再献上され、これが細川家本となった。(永青文庫所蔵)
(最終更新:090708)

宮本武蔵 自画像 ― 伊織ゆかりの宮本家蔵
二幅とも無落款である。落款のないのは、武蔵自ら養子伊織に直伝したもので落款の必要がなかったためである。
宮本武蔵 自画像 宮本武蔵 自画像
壮年期 五輪書執筆直前作
武蔵は藩主より拝領の絹地で、家紋九曜巴の胴服を着用している。老残色の濃い老翁でとても60歳とは信じられない。
(最終更新:080526)

宮本武蔵 肖像 ― 70代を実証する肖像
武蔵は白髪の老人であったという古文書が数種あり、それを実証するものである。
この肖像画は決して50代のものではない。60代でも無く、頭髪・眉毛・口髭は真っ白で頬から下へ肉が落ち、面変わりし老いたが、炯眼は変わっていない。
宮本武蔵 肖像 宮本武蔵 肖像
(熊本市立博物館所蔵) (牧堂文庫所蔵)
(最終更新:070516)

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「武蔵円明流」「武蔵円明流の剣脈図」 武蔵円明流・宮本武蔵1頁
「武蔵円明流・二天一流と新陰流の起源」「円明流流祖・俊重房重源」 武蔵円明流・宮本武蔵2頁
宮本武蔵「五輪書(ごりんのしょ)」 武蔵円明流・宮本武蔵3頁
「考証五輪書」 武蔵円明流・宮本武蔵4頁
「『掛声』武道研究論考」 武蔵円明流・宮本武蔵5頁
宮本武蔵「一代記」 武蔵円明流・宮本武蔵6頁
宮本武蔵「決闘・試合一代記」 武蔵円明流・宮本武蔵7頁
武蔵円明流の歴史 武蔵円明流・宮本武蔵8頁
「鳥取藩武道の概要」 武蔵円明流・宮本武蔵9頁
「宮本玄信伝」 武蔵円明流・宮本武蔵10頁
「剣聖 宮本武蔵」 武蔵円明流・宮本武蔵11頁
「巌流島(舟島)の決闘」 武蔵円明流・宮本武蔵12頁
「武蔵円明流は秘して陰流と言う」
『武蔵円明流』と『武蔵円明流判官派』・『武蔵円明流兵法』との違いについて 武蔵円明流・宮本武蔵14頁

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