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遺棄毒ガスの被害とは?

毒ガス砲弾を製造・配備・使用した日本軍

 日本軍は、第一次世界大戦終結後の1925年に締結されたジュネーブ条約に「毒ガス兵器の禁止」が盛り込まれていることを知りながら(但し日本が批准したのは戦後の1970年)、各種の毒ガス兵器を秘密裏に開発・製造し、実戦でも使用して多くの中国人を殺害し ました。

 陸軍は広島県の大久野島で6616トン、海軍は神奈川県の相模海軍工廠で760トンに及ぶ毒ガスを製造し、マスタードガスやルイサイト(びらん剤)を用いた砲弾を「きい弾」などと称して、中国大陸に運び、通常部隊に配備しました。

 そして1931年の満州事変の後、毒ガス兵器は中国東北部に持ち込まれ、1939年のノモンハン事件で使用されました。またハルピンの731部隊でも毒ガスを用いた人体実験を繰り返し、その威力を確かめました。この実験結果をもとに、河北・河中・河南の中国戦線で実際に使用しました(その回数は1800回以上と言われています)。

被害の概要

 敗戦前後に日本軍は、国際法違反の毒ガスの製造・使用を隠ぺいするため、毒ガス兵器や毒ガス入りのドラム缶などを中国大陸の土中や川、井戸などに遺棄して逃走しました。しかし、どこにどのくらいの毒ガスが埋まっているか分かりません。中国では戦後(1950年ごろ以降)、工事現場などで、突然これらの遺棄毒ガス兵器が掘り起こされて、噴出した毒ガスのために病気になったり死亡する事件が相次いでいます(死者は2000人とも言われています)。

 毒ガス被害は対症療法以外に治療法がなく、完治は望めません。皮膚のびらん、免疫力低下、呼吸困難など様々な症状に被害者らは生涯苦しみます。労働は不可能になり、周囲からの偏見にもあい、精神的、経済的苦痛は甚大です。砲弾の爆発による被害者やその遺族らも同様に人生が一変し、精神的、経済的苦痛を抱えながらの日々を送っているのです。

被害者の証言

 ごく一部ですが、毒ガス被害者の被害証言を掲載します。

 

■被害者の証言  李臣さんの被害

 

 1974年10月20日午前2時ごろ、黒竜江省佳木斯市内を流れる松花江で黒竜江航道局の作業員が紅旗09号という吸引式浚渫船で泥をさらう作業をしていたところ、佳木斯市記念塔から上流200mの地点で吸泥ポンプからカンカンという大きな音がして紅旗09号のメインエンジンが異常停止しました。

 船の上で機械の管理をしていた李臣さんたちがポンプの修理にかけつけ、手動リフトでポンプのふたをあけると、ポンプの中から水があふれだしました。その水は黒色でマスタードのような臭いがしました。李臣さんはこの黒色の水に漬かったりリフトのチェーンを手で掴んで蓋を引き上げたため、体全体に黒色の液体をあびてしまいました。李臣さんが黒い水が充満したポンプ内に手をいれ、中から金属製のものをとりだしました。それは直径約10cm、長さ50cmの砲弾でした。砲弾はすでにさびていて頭部がつぶれて中から黒い液体が流れ出していました。

 この液体の正体は23日に防疫センターの検査でイペリット(マスタードガス)とルイサイトの混合物であることがわかりました。

 李臣さんはこの時29歳でした。砲弾を発見した後の午前3時ごろから、めまい・吐き気・頭痛・呼吸困難・口の渇き・流涙・鼻水などの症状がでてきました。黄色い液体を嘔吐し、手がかゆくなって、体の力がぬけてしまいました。佳木斯市の病院で手当てをうけましたが、病名はわかりませんでした。その間に両手は赤くはれあがり、水疱ができてきました。翌21日、ハルピン医科大学病院に入院しました。入院時には両手の水疱はぶどうの房のようになり、頭の上にも鳥の卵大の大きな水疱ができて。水疱からは黄色い液体が流れていました。24日には瀋陽の202病院に転院し、マスタードガス中毒症と診断されました。水疱は全身に広がっていました。治療はびらんした部分を切り取って消毒するという方法がとられました。しかし皮膚がただれると指と指の間には水かき状の膜ができて癒着するようになってしまいました。12月10日に一旦退院します。退院後2ケ月もしないうちに再び病状が悪化して、両手だけでなく、陰部・肛門・口腔にも水疱ができて、びらんし、呼吸も困難になりました。1975年12月17日、北京の307病院に入院し、指と指の間にできる異常膜を切り取る手術もうけました。1976年4月6日に退院しましたが、また再発し、1977年6月9日から7月21日まで入院しました。その後もずっと局部の水疱、びらん、筋肉の萎縮による両手の機能障害、石けんなどの化学物質に対するアレルギー、頭髪脱落、呼吸困難などの症状があり、通院を続けています。1997年4月にはハルピン市障害者連合会から肢体障害3級という認定をうけました。李臣さんは1968年から黒竜江省航道局に勤務し、事故当時毎月基本給50.7元、水上作業手当て37.2元、賞与30元など合計月118.48元の給与が支給されていましたが、病気休養のため基本給のみの支給になってしまいました。95年以降は手当てがつくようになり、1999年に定年前の退職をしました。退職後も退職前の95%の月1038.65元が支給されていますが、被害にあわなかったとすれば現在は2229.7元の支給が受けられていました。治療費は、病院費用の7割が航道局が負担していますが、病院以外で買う薬などを含め自己負担になっています。李臣さんは治療法のない病気の苦しみや家族も養えないという屈辱感から精神不安定になり、2回自殺を試みたこともあります。生活は困窮し、現在も2万8000元の借金が残っています。

原料を供給した企業の責任

 毒ガス砲弾被害の責任は、日本軍・政府のみならず、その原料を供給していた企業にも及びます。毒ガスを製造していたのは、三井染料、保土谷化学などの企業です。これらの企業は戦後も存続し(名称は変更されていますが)、化学薬品・化学肥料などの製造に手を出しています。またアメリカ軍がベトナムで散布した枯葉剤の原料供給も行いました。

 これらの企業が自己の利益のことしか考えず、人々に被害を与えることを考えていなかったという構造は、日本国内の他の公害事件とまったく同じです。

 

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