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平頂山事件の被害とは?平頂山事件現場の写真。現在でも生々しい姿で保管されている。

 平頂山(へいちょうざん)事件は、日本の中国侵略の初期である満州事変(1931年)の翌年、日本の傀儡政権「満州国」が成立した年(1932年)の9月、遼寧省撫順市にある撫順炭坑近くの平頂山村に住む老若男女3000人ともいわれる住民が、日本軍の部隊に騙されて無理やり一カ所に集められ、 「抗日ゲリラに協力した」という口実で、機関銃で皆殺しにされた事件です。

 9月16日、日本軍(関東軍独立守備隊第二大隊第二中隊外)は、早朝トラック数台で平頂山村を襲い、村民を暴力と虚言を弄して、一カ所に集めて包囲し、機関銃掃射で村民を殺していきました。機関銃掃射は間隔を置いて繰り返されました。その後、兵士たちはなぎ倒された死体の山に上り、生存者がいないかを調べ、生きている者を見つけると容赦なく銃剣で突き刺して息の根をとめました。

 日本軍はその日は一旦引き上げましたが、後日村に引き返し、遺体の山に石油をまいて焼却し、さらにダイナマイトで背後の崖を爆破して死体の山を埋めました。また証拠隠滅のために住民たちの住居も燃やしたのです。こうして、約400世帯、約3000人が住んでいたと言われている平頂山村は消えました。生存者はわずか数十名とも言われています。

 

■被害者の証言 莫徳勝さんの被害

 

 莫さんは1925年7月に平頂山村で生まれ、平頂山事件の時7歳で両親・妹・母方の祖父母と暮らしていました。莫さんのお父さんは撫順炭坑で、お母さんは日本人が経営する火薬工場で働いていました。祖父は薬局を経営する漢方医でした。

 1932年9月16日朝、莫さんが外で遊んでいると、トラック4台に分乗した日本兵が村の北側にあった牛舎の前で車から降りてくるのをみました。莫さんが家に戻り母に日本兵が来たことを知らせました。まもなく日本兵がやってきて「匪賊(抗日武装組織の日本側の呼び名)が来るので守ってやるから外に出ろ」と命じました。父は拒否しましたが、日本兵は銃底で父を殴り、家族全員を外に追い出しました。莫さんと家族は他の住民とともに村の南西にある崖の麓の窪地に追い立てられていきました。その場所には既におおぜいの住民が集められて、日本兵が包囲していました。

 まもなく、日本兵が住民に対して一斉掃討を開始し、住民は次々に銃弾に倒れました。莫さんのお父さんは莫さんを地面に伏せさせ、家族も地面に伏せましたが、莫さん以外の家族はこの銃撃に被弾して死亡しました。銃撃がやんだ後、一列に並んだ日本兵が倒れている住民の体を銃剣で刺しながら近づいてきました。莫さんは日本兵が泣き叫ぶ子どもを銃剣で突き刺して殺害するのを目撃しました。一人の日本兵が地面に横たわっていた莫さんを足蹴にして仰向けにし銃剣で肩を突き刺しましたが、莫さんは痛みに耐え身動きせず死んだふりをしていたので、日本兵はそれ以上何もせずに過ぎ去りました。

 まわりが静かになり、早く逃げるように、という声も聞こえたので、莫さんは起きあがり、そばにいた父に声をかけ、その手を噛んでみたりしましたが、父は血を流したまま動きませんでした。莫さんは母や妹、祖父母も皆死んでしまったことに気づき、しばらく呆然としていましたが、早く逃げるように促す声が再度きこえたので、その場を離れました。その後父方の祖父母にひきとられて育ちました。莫さんは1944年に結婚し、8人の子持ちとなりました。1948年撫順市の製鋼所に勤務し、1980年からは工場長となり、1986 年に退職しました。

 

■平頂山事件の時代背景

 日清戦争を経て大陸侵略の足がかりを築いた日本は、更に1904年、1905年の日露戦争によりロシアから東清鉄道とその付属施設と撫順炭鉱の権利を奪い、南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立して、以後この地域の軍事・経済・政治面での支配を確立していきます。

 更に、第一次世界大戦を経て資源獲得の必要性に迫られた日本は「満蒙は日本の生命線」という世論操作を行って満蒙全域の支配への野望を募らせていきました。

 とりわけ関東軍を始めとする日本陸軍首脳の間では、当時力をつけてきた中国民衆の抗日運動に対する危機感が強く、世界大恐慌の影響で満鉄が操業以来の経営危機に瀕していたという経済情勢も相俟って、武力行使による満州全域の支配への渇望はいよいよ押さえがたいものとなっていました。

 こうして日本は、1931年9月18日の関東軍の謀略による柳条湖事件を皮切りに、満州全域に軍事侵略を開始し、1932年3月1日には傀儡国家「満州国」を建国しますが国土を侵略され屈辱的な植民地支配の下におかれた中国人民の反満、抗日運動は一層激しさを増し、これを圧殺しようとする日本軍との衝突は毎日のように繰り返されていました。
 平頂山事件はこのような情勢下で起きた事件です。

 満州国を独立国として承認する日満議定書の調印の日(1932年9月15日)、抗日義勇軍は、満鉄支配下にあった撫順炭鉱を襲い、日本側に10数名の死傷者と炭鉱施設に対する損害を与えました。

 撫順炭鉱は世界屈指の炭田として、日本の軍事、経済体制を支える拠点の一つであり、日本の満州支配の象徴ともいえる枢要施設でした。

 関東軍独立守備隊第二大隊第二中隊首脳、憲兵隊首脳らは、抗日義勇軍を撃退した後、直ちに緊急会議を開き、「匪賊の通過を日本軍に報告しなかった平頂山村の住民は匪賊と通じているものとみなす。」として、見せしめのために全住民を虐殺し、村を焼き払うことを決定しました。

 こうして1932年9月16日冒頭に述べたとおり平頂山村の住民は虐殺され、平和な村は跡かたもなく消されたのです。

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