Web-Suopei  生きているうちに 謝罪と賠償を!

731部隊の被害とは?

 「731部隊(ななさんいちぶたい)」とは、旧日本軍(関東軍)「防疫給水部」の別名です。部隊長・石井四郎の名前をとって「石井部隊」とも呼ばれます。人体実験を含む細菌・化学戦研究を本格的に行うため、ハルピン市郊外の平房区に1936年に設置が決定され、第二次世界大戦中、毒ガス兵器や細菌兵器の開発を進めました。また、その目的のために、数千名 の中国人やロシア人たちに対して人体実験を繰り返し、虐殺しました。 人体実験にされた人たちは、部隊員たちの間では「マルタ」と呼ばれていました。戦後、米国は石井ら部隊幹部の戦犯免責と引き換えに、研究成果を獲得し、朝鮮戦争において使用したといわれています。

 

森村誠一さんの解説(1995年12月11日、霞ヶ関弁護士会館「クレオ」における講演)

 

■被害者の証言(裁判所の認定事実)  731部隊で夫が殺された  敬 蘭芝

 敬さんは1922年黒竜江省望奎県で生まれました。敬さんは17歳で朱之盈と結婚しました。朱之盈は1914年生まれで夫婦仲は良く、家計は朱の給料で支えていました。

 1941 年7月17日、朱之盈は朝仕事にでかけたまま午後5時すぎになっても帰ってきませんでした。午後7時ごろ5人の日本憲兵が敬さんの家にやってきました。憲兵はそこが朱之盈の家だと確認すると、敬さんを壁におしつけ、蹴った上、ジープで牡丹江憲兵隊本部まで連行しました。2人の憲兵と通訳が朱之盈の仕事を尋ね、敬さんが「昼間仕事に出て、帰ってからはどこにも行かない」と答えると、憲兵が敬さんを殴ったり蹴ったりしました。敬さんは服をはぎ取られました。憲兵は革のベルトで裸の敬さんを打ち付けながら尋問を続けました。血まみれになり、ほとんど気を失いかけた敬さんを憲兵はその部屋から引きずり出し、建物の隣の小さな小屋に放り込みました。

翌日午前8時ごろ、敬さんが尋問室に連れていかれると、そこに手錠と足かせをはめられ、服はボロボロで顔に血の跡がある朱之盈がいました。憲兵は朱之盈の前で敬さんを何回も殴り蹴り、鞭で打ちました。苦痛のあまり気を失った敬さんが気がつくと朱之盈は涙を浮かべながら「彼女を殴るな。彼女は主婦で何も知らない」等と言っていました。

 憲兵たちは、鞭を振り回して朱之盈を打ち始め、気を失うと冷たい酸いも甘いも噛み分けるあびせかけ、意識をさまさせ、さらに暴行を加えていました。敬さんは朱之盈に駆け寄ろうとすると、2人の憲兵が敬さんを小屋に連れ戻しました。この拷問は1時間ぐらい続きました。4日目の夜、また敬さんは引っ張り出され、いろいろ問いつめられ憲兵の一人がこん棒で敬さんの腹などを打とうとしました。敬さんは左手でそのこん棒をさけようとしたため、左手首を骨折してしまいました。その後2人の憲兵が敬さんを別の部屋に引きずっていきました。そこには十字の木にしばられ、首がだらりと垂れ下がり、皮膚が破れ、肉が裂け、血だらけになった朱之盈がいました。敬さんは朱之盈にすがり、名前を呼びました。朱が気がつくと、憲兵はまたはげしく朱を打ちつけました。敬さんはそこから引き離されました。これが敬さんが朱之盈をみた最後となりました。5日目、敬さんは手首がはれあがり、激痛に苦しみました。7日目、敬さんは釈放されました。

 朱之盈は、牡丹江の憲兵隊本部からハルピンの憲兵隊に移された後「特移扱ニ関スル件通牒」に従って憲兵により731部隊に送られました。敬さんは自らが釈放された後ずっと朱之盈の消息を探し、夫が帰るのを待っていました。1950年に朱之盈が日本軍に殺されたとの手紙をもらいましたが詳しいことはわかりませんでした。1986年敬さんは侵華日軍「731部隊」罪証陳列館元館長の韓暁から、朱之盈が731部隊で殺害されたことを知らされました。

 

 >>敬蘭芝さんの意見陳述(裁判所に提出した陳述書)

 

 

王 亦兵さんの写真■被害者の証言 731部隊で父は殺され、一家の生活は破壊された   王 亦兵

 大連で写真館を経営していた父は、天津で「地下活動をしていた」ということで、日本の憲兵に逮捕されました。叔父から父親は細菌工場に送られたと聞きましたが、それきり帰ってきませんでした。最近、私は出版物によって、父親が日本軍の731部隊に連行されたことを知りました。
 私は叔父の助けでようやく小学校を卒業しました。母と妹たちは農村にいましたが、父親がいなくなったため親戚の人から恵んでもらったり、農地を売って暮らしていました。最後には物乞いまでしました。このように、父親を奪われてしまったことにより、私たち一家はたいへんな貧困を強いられました。日本政府は、こうした行為を反省してもらいたいし、私たちの損害に対し補償をする責任があります。

「731罪証陳列館」がリニューアルオープン

 中国ハルピン郊外の平房にある「731罪証陳列館が2015年8月15日にリニューアルオープンしました。

 罪証陳列館は、かつて731部隊の本部が置かれていた場所にあります。731部隊の本部建物は、日本軍が敗走する際、その非人道的残虐行為の痕跡を残さないため徹底的に破壊されました。その場所を後世の教訓とするべく、中国政府によって「罪証陳列館」がつくられ、これまでに多数の参観者を迎えてきました。

 日本軍が存在していた当時そのままの姿を知ることが日本軍の残虐行為の事実をより正確に知ることができるため、長期間にわたって丁寧な発掘作業と復元作業が行われ、今回のリニューアルオープンとなったものです。憲兵隊が逮捕して送り込み、人体実験の材料とされた「マルタ」が収容されていた「ロ号棟(ろごうとう)」も発掘復元されました。

>>罪証陳列館のウェブサイト

 

Copyright © 中国人戦争被害者の要求を実現するネットワーク All Rights Reserved.