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 サチ アップ
「心中喜神在り」

   一筆(one key?) 啓上
   久しぶりです。あの世もこの世も含んだ地球社会、
  大きく見て宇宙全体にとって大事な時勢。真に憂うる人達は、働きかける方向を
  変えたようです。どうやら、氣づかない人達を氣づかせる活動は止め、
  氣づいている人達をもっと氣づかせることに集中する活動に変えないと
  もう間に合わない、そこまでせっぱ詰まった状況のようです。
  まあこのことは忘れましょう。

  暗闇に暗闇を以てしても何も変わりませんからね。
  ただほんの少しの光があればそこは暗闇じゃなくなるわけですから。
  まじめに神様の話をしたり、予言めいた話をする宗教家なんかより、
  どうでもいい話で人々を笑わす老人ホームなんかを回っている
  お笑い芸人のほうがよっぽど聖者に近いんじゃないかなんて思ってしまいます。

  とはいっても、怒ったり笑ったり悲しんだりするのもお天氣みたいなもので、
  晴れた日もありゃ曇ってみたり時には嵐になったりと変化極まりないものです。
  ところが良く考えてみると、どんなにお天氣が悪い日でも雲の上は
  いつも太陽の光が燦々と照っているんですね。

  雨が降る日に飛行機に乗ると良く解るのですが、
  雲の上に出たとたん晴れてるんですよね。

  この「雲の上発想」が大事ですね。

  今トイレの中用の本で中国古典である「荀子」を読んでるんですが、
  そのなかで、こんな一章があります。


  ーーーーーーーーー巻第20 宥坐篇第28-8ーーーーーーーーーーーーーーーー

   孔子
(古代中国の聖人)、南のかた楚(ソ〜国名)に適(ユ)かんとして、
  陳
(チン〜国名)・蔡(サイ〜国名)の間に厄(クルシ)めらる。
  七日火食
(火の通った食事)せず、藜(アカザ〜植物)の羮(アツモノ〜濃い汁)にして
  糂
(サン)せず(米を混ぜない)、弟子皆な飢色(飢えた顔色)あり。
  子路
(シロ〜孔子の弟子)進みてこれを問いて曰わく、
  「由
(ユウ〜子路のこと)これを聞けり。善を為(ナ)す者は天これに報ゆるに
  福を以てし、不善を為す者は、天これに報ゆるに禍
(ワザワイ)を以てすと。
  今、夫子
(フウシ〜孔子のこと)は徳を累(カサ)ね義を積み、
  美行に懐
(止)まるの日久(ヒサ)し。奚(ナ)んぞ、居(生活)の隠(クルシ)きや」と。
   孔子曰わく、「由よ、識
(シ)らざるか。吾れ汝に語(ツ)げん。
  汝は知者
(見識ある者)を以(モッ)て必ず用(モチ)いらると為(オモ)うか。
  王子
(オウジ)比干(ヒカン〜殷という国の見識ある王子)
  心
(心臓)を剖(サバ)かれざりしや。
  汝は忠
(チュウ〜忠実)なる者を以て必ず用いらると為(オモ)うか。
  関竜逢
(人名、忠義者)は刑(死刑)せられざりしや。
  汝は諌者
(正しくイサメル者)を以て必ず用いらると為(オモ)うか。
  呉
(ゴ〜国名)の子胥(シショ〜人名)は姑蘇(コソ〜都の名)の東門外に磔(ハリツケ)られざりしや。
  夫
(ソ)れ遇(グウ)と不遇(フグウ)とは時なり。賢と不肖とは材(質)なり。
  君子の博学深謀なるも時に遇
(ア)わざりし者は多し。
  是れに由
(ヨ)りてこれを観れば、世に遇わざる者は何ぞ独り
  丘
(キュウ〜孔子のこと)のみならんや。且(カ)つ夫(ソ)
  蕋蘭
(シとラン〜香料になる植物)は深林に生じ、
  人なきに以
(ヨ)りて芳(カンバ)しからざるに非ず。
  君子の学は通ずる
(出世する)が為(タ)めに非ず。
  窮
(キュウ)するとも困(クルシ)まず憂(ウレ)うるとも意(イ〜心)の衰(オトロ)えず、
  禍福終始
(カフクシュウシ)を知りて心の惑(マド)わざるが為(タ)めなり。
  夫
(ソ)れ賢と不肖とは材なり。為(ナ)すと為さざるとは人なり。
  遇と不遇とは時なり。死生は命
(メイ)なり。
  今、其の人あるも其の時に遇わざれは、
  賢なりと雖
(イエド)も、其れ能(ヨ)く行われんや。
  苟
(イヤシ)くも其の時に遭わば何の難(カタ)きことかこれ有(ア)らん。
  故に君子は博学深謀し、身を修め行を端
(タダ)して、
  以
(モッ)て其の時を俟(マ)つなり、」と。
   孔子
(引き続いて)曰わく、「由(ユウ)よ、居れ。吾れ汝に語(ツ)げん。
  昔、晉
(シン〜国名)の公子重耳(チョウジ〜人名)の覇心(覇者になる決心)
  曹
(ソウ〜国名)に生ぜり(曹の国で辱めをうけて発憤した)
  越王
(エツオウ〜越国の王)句践(コウセン〜人名)の覇心は
  会稽
(カイケイ〜地名)に生ぜり(会稽で恥辱を忍んで発憤した)
  斉
(セイ〜国名)の桓公(カンコウ)小白(ショウハク〜人名)の覇心は、
  筥
(キョ〜地名)に生ぜり(筥で苦しい亡命生活をして発憤した)
  故
(ユエ)に居(生活)の隠(クルシ)まざる者は思うこと遠からず、
  身の佚
(ス)てられざる者は志(ココロザシ)(ヒロ)からず。
  汝、庸安
(ナン)ぞ吾れのこれを桑落の下に得ざることを知らんや」と。


  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  この章において大事なところは、
  「君子の学は通ずるが為めに非ず。
  窮するとも困まず、憂うるとも意の衰えず、
  禍福終始を知りて心の惑わざるが為めなり。」のところです。

  本当の意味での学問とは、良い学校に入る・良い企業に就職する・
  出世する・お金持ちになる、そういういわゆる世間一般でいうところの
  成功するためにするものではなく、俗世間に於ける苦楽、貧富、成功失敗、
  死生、老若、病健、離合といった二元的現象に左右されない強い心を
  養うがためにするものであるということです。

  こういうことを一言でいうと「心中喜神在り」と表現します。
  「プラス発想」といっても構わないのですが
  どうも腹にズシンと響かない軽薄な感じがします。ナポレオン・ヒルの「成功哲学」や
  マーフィーの「ゴールデンルール」という本を私もむさぼるようにして読んだ時も
  ありますが、何か肝心なところが欠けているような氣がします。

  そういう意味ではオウム真理教の信者さん達はかなりなプラス発想でしょう。
  日常の中で違いを例えると、
  満員電車の中で人がもたれ掛かったきたときに
  一般発想的には「ちきしょう、こっちは疲れてるんだから、しゃんと立っていろよ。」
  プラス発想的には「ああ有り難い。この人がもたれてくれるおかげで
  私の足腰が鍛えられる」
  心中喜神在り的には「ああこの人も疲れてるんだなあ。支えていてあげよう。
  この人にご奉仕が出来て私は幸せだ。有り難いなあ。」

  何となく違いが見えてきたでしょう。もう一つ例えてみましょう。
  誰かに「窓を閉めて」と言われて。
  一般発想的には「自分でやればいいのに。何で俺がやらなきゃならないんだ。」
  プラス発想的には「この人のおかげで、もっと氣がきく人間に
  ならなきゃいけないということが解った。有り難い。」
  心中喜神在り的には「はいよ〜」の一言。

  もう一つ。妻が病気で食事が作れない時。
  一般発想的には「コンビニで何か買って来よう。」
  プラス発想的には「可哀想だから俺が何か料理を作ってあげよう。
  俺も料理の腕前が上がって有り難い。」
  心中喜神在り的には「本当は料理を作ってあげたいが、ここはひとつ
  心を鬼にして妻に作らせよう。俺のためにおいしい料理を作ってあげよう
  という愛ある行為で妻が立ち上がればそのぶん病気の治りも早いだろう。」

  とまあ同じ行為でも心が変われば全く違う行為になるわけです。
  我欲のない誠の行為であれば、直感も出てきて理にかなった行為になるでしょう。
  同じ修行をするにしても、悟りたいとか人間性を高めたいとか人に
  慕われたいとか何か「ため」にするものがあれば、修行とは言えません。

  西郷南洲(西郷隆盛)が「人を相手にせず、天を相手にせよ」と言ったことが大事です。

  では今回はこのぐらいで。


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