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 サチ アップ
「善縁」

    一筆(one key?) 啓上
   お元氣ですか。本日は日曜日。
  それぞれの人が好きなことをやっていると思います。
  良い音楽に、良い本、また心友と会う時、本当に楽しいものです。
  人生において、ひしひしと縁を感じるときがあります。必要なときに絶妙の
  タイミングで出会い、別れる。

  「太陽が照っていた。今から5億年前に。」
  という言葉がありますが、前世に於いても同じ太陽を見ていたんだ。
  と思うと、せわしい日常生活の中にいて、ふと天を仰ぐ自分に「頑張れ。」
  とエールを送ってしまいます。古人ゆかりの地なんかを訪れたときも、
  あの人もこの道を歩いていたんだと感慨深く思います。

  役者をやっている友人がいるのですが、この広い世の中で何故か
  あれっていうところでよく会います。
  その度見えない天の糸に感謝します。私が二十歳の時、ある古本屋に入って、
  谷口雅春先生著「生命の實相」という本が目に入り、くぎずけになりました。
  初めて見る本なのに何故か懐かしくて有り難くて涙が自然に出てきました。
  訳も分からず買って帰り、読んでみると、読めば読むほどどこかで読んだ
  氣がします。全ての内容がそのまま受け入れられるのです。そこで母親に
  「この本すごい懐かしくてどっかで見た氣がするんだけど、家に置いてなかった?」
  と聞いてみたところ、「お前がお腹の中にいるときにお母さんが人から借りて、
  読んでた。生まれる前には返したけれど。」と言うではありませんか。

  感謝とともに、胎教の影響力というものを肌で感じました。また、何故か
  頭の痛い日が2・3日続くという事があった時、夢の中で、「治してやる。」
  と日蓮上人(見たこともないのに何故か日蓮上人だと感じたのです。)が
  私の頭をお弟子さんに固定させて、「えーい。」と氣合いをかけるのです。
  少し激痛が走って、そこで夢が醒めました。それから頭の痛みが無くなったの
  ですが、妙にリアルな夢でした。それから何日かたって政木和三先生という
  大発明家の本を読んでいると「前世の一つに日蓮だった事がある。」と
  政木先生が書いているではありませんか。わが家では今、政木先生の
  発明した物が多々活用されています。ちなみに、そのころトイレの中で
  読んでいた本が「集義和書」熊沢蕃山(江戸時代の人物)著ですが、
  政木先生はこの熊沢蕃山も前世の一つであると書いていました。
  本当に縁というものをつくづく感じます。

  もちろん常にあらゆる縁に囲まれて生きているわけですから、顕在意識上
  氣がつかなくても、深いところでは大事な意味のある出会いもあるでしょう。
  小さいときに何処で拾ったかは忘れましたが、やたらに氣に入った石を
  家に持って帰って眺めていたことがあります。今は手元にありませんが、
  今だにありありと思い出せます。これも何か意味があったのでしょう。

  自分に当たる雨一粒をも、「全ての物を静かに浄化してくれている。」と
  思うだけで、有り難い縁を感じます。

   この広大なる大宇宙の中で地球さんという星に生を受けて、
  たくさんの存在物の中で限られた物との出会いという縁を大事にして
  生きていきたいと思います。


  ーーーーーーーー「運命を開く」安岡正篤先生著よりーーーーーーーーーーーーー

   青年にたいせつな心がけの一つは、人生の物事を浅薄軽率に
  割り切らないことです。人生というものは、非常に複雑な因縁果報の網で、
  変化極まりないものであります。人間がこれを軽々しく独断することは、
  とんでもない愚昧であり、危険であると言わねばなりません。
  論理学者に言わせると、
  「plurality of causes and mixture of effects,ー 原因の複雑と、結果の交錯」
  です。それが実在で、その中から著しいあるものを取り出して結びつけ、これが
  原因、これが結果と決めるのです。

   胃が痛む。何の原因かと思う。実際は、胃が痛いという内容は限りなく複雑で、
  原因も多々あるわけです。暑さで体がだれておったのも原因、
  前夜遅くまで勉強したとか、酒を飲んだとかいうのも作用しておる。
  面白くないことがあって、いらいらしておったということもある。そこへ、
  何か悪いものを食った、飲んだ。こういうように原因は無数にある。
  そして胃ばかりでなく、他にもいろいろな結果を生じておるのであるが、
  そのうち特に著しいのは胃が痛いということ、悪いものを食ったということである。

  そこで、一方を原因、一方を結果とする、こうせぬと割り切れぬ。
  しかし、そう単純に割り切るばかりでは危ないのです。

   単純に因果の論理を進めてゆく間には、多くの内容が棄てられてしまう。
  その棄てられるものの中に、意外に重大なものがあるかもしれない。
  人生社会の現実問題となると、因果関係が非常に複雑で、何がどういう縁で、
  どういう果を生み、どうはね返ってくるか(報)、測るべからざるものがあります。

   法華経に説く「十如是」ー如是相ー如是性ー如是体ー如是力ー如是作ー如是因ー
  如是緑ー如是果ー如是報ー如是本末究竟等。
  因果の循環関係を十種に説いたものです。

   我々が直接経験するそのままの世界、これは「相」です。
  これは定まったものではなく、変化極まりがない。これを無相という。
  仏教は、いずれの宗派を問わず、皆まずこの現相を打破し、無相を覚るのです。
  これらの相は単なる表面だけの世界ではなくて、その中に相を相たらしめる
  働きがある。それを「性」という。その性の本源が「体」であります。

   この体は「力」である。科学的に言えは、エネルギーとも言える。
  単に抽象的なものでなくて、いろいろの作用を営む働きである。
  これを「作」という。これは、いろいろの現象の「因」となる。
  ところが、その因が不思議な「緑」(接触)によって、いろいろの「果」を生ずる。
  だから縁から起こるとして「縁起」という。果はまた一つの因で、
  あるチャレンジです。challenge があれば response がある。
  歴史哲学者のトインビーがこれを説いている。
  トインビーを待つまでもなく、あらゆる道の学者がこの関係を説明しております。
  これを「報」という。すべて異なって、しかも皆同一です。
  この如是相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本未究竟等は、
  その故に十如是、百如是、万如是、万有世界になります。

   世の中は、人間というものは、何がどういう関係を持つか計り知れません。
  私は銀行員である。だから金融事業が専門である。その他のものは専門外である。
  そこで銀行関係者とは付き合うが、金融に関する本なら読むが、
  その他の人間とは別に用はない、本も読む必要はない。こう断定することは、
  最もものを知らない、道のわからぬ人間です。
   たとえば、自分は事業界に入つた。製鉄会社である。だから鉄関係の

  人々には交際する、鉄関係の書物なら読む。事業には金融が必要である。
  金融業者との交際ならよかろう。その他の人間にはあまり用事がない。
  畑違いの本は読まない。ーこんな考えの人間が多いものです。
  こういうのを浅見というのです。人世の因果の微妙複雑なことが
  分からない浅はかな人間です。金融のために銀行に行って、
  いくら頼んでも金は貸さない。百計尽きておる際、ひょっこり昔の友人に逢つた。
  「おう!珍しい。どうしている?」「実はこんな始末だ」
  「そうか、君なら何でもやりとげられる人物だ。(こう見込まれる自分で
  あることが何よりたいせつだ)僕の親友にOOがおる。彼は話がわかる。
  一つ紹介しよう」 こういうことから意外な道が開けることが、
  しばしばあるのです。

   人生の出来事というものも、たとえば何が幸いであり、何が禍であるかは、
  容易に分らぬ。凡俗の浅薄な考えで、これは幸福だ、これは禍だとすぐ決めるが、
  人生・自然・天・神の世界の真実・理法は、そんな単純な、あるいは
  いい加減なものではない。「人間万事塞翁が馬」という諺もあります。

   平生から、およそ善い物・善い人・真理・善い教え・善い書物、
  何でも善いもの・勝れているもの・尊いものには、できるだけ緑を結んで
  おくことです。これを「勝因」といい、「善縁」といいます。とにかく、
  せっかく善い人に会い、善い書を見、善い話の席につらなりながら、
  キョトンとしたり、欠伸をしたり、そっぽを向いたりしている人間は
  だめであります。うつけ者です。大体、そういう人間なら、諸君は
  決して事をともにしてはいけない。そういう人間を友にしてはいけない。
  むしろ何でもないようなことでも、耳を傾けたり、眼を光らせる人であったら、
  何か見どころのある人間なのです。もちろん、形骸は眠つておるようでも
  魂が輝いておる人もおりまして、凡眼ではなかなか見分けがつきません。

   伊藤仁斎のところへ、山科に閑居しておった大石内蔵助が聴講に出かけるが、
  よく居眠りをする。同席の者が肝に障えて、仁斎先生に
  「どうもあの男、居眠っておっていけませんが・・・・・」と注意した。
  仁斎先生は「いや、気にかけなさるな。眠ってはおるが、あの人は出来ておる」
  と言ったという、うますぎるような話があります。

   似たような例は、佐藤一斎にもあります。これは事実です。
  一斎先生の塾で一同これから寝るという段となると、決まって二人の若者が
  猛烈に議論を始める。それで塾生が困って、一斎先生のところへ訴えて出た。
  「どうも夜になると、議論を始める二人がおりまして、うるさくて寝られません。
  なんとかお叱りください」「誰だ」「佐久間と山田です」。佐久間象山と
  山田方谷のことです。なるほど、これなら議論しそうだ。一斎先生は「そうか!」
  としばらく考えておられたが、「うん。あの二人ならやらせておけ!我慢せい!」。

   しかしこれらは例外です。たいてい常則がありますから、心がけ一つで
  見分けがつくものです。そして、常に虚心坦懐で、農婦や漁夫にも学ぶ
  心がけが必要です。

   学問の仕方も同じです。たとえば、漢学者だから漢籍しか読まぬというようでは、
  どうも目ざしの干物みたいな人間になりがちです。英文学をやっておるので、
  英文学書ばかり読んでおると、どうも鼻もちのならぬ気障な人間になりやすい。
  法律家だとて法律の本ばかり読んでおると、昔、一高の寮歌にあった
  「法科の頭を叩いてみれば、権利権利の音がする」というような
  法律条文の化け物みたいになりかねません。

   万物は多くの異質なものの微妙な統一調和からできております。
  そういう意味で漢学者もできるだけ西洋の哲学・文学に気をつけ、
  信仰・宗教にも心を潜める。西洋文学をやる者は、一面厳しい哲学や
  倫理の書物を読む、歴史に学ぶ。こういうように、多面性・万華性が欲しい
  ものです。ただし、雑学になってはいけません。こなさねばなりません。
  それは心の問題です。必要とか興味とかの問題でなく、
  純な内面的要求に従ってやれば、決して雑学になどなりません。


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