属性理論からの『つよきす』読解

はじめに

 オタクにも理論があったほうがいいのではないか、と考えている。
 例えば、エロゲーを批評する場合、これまでは各々のオタクがその場その場で知恵を絞って言葉を探しながら語ってきたわけだ。しかし、それではあまりにも非効率的である。最初に、エロゲーを語るための概念をある程度整理しておくほうがいいのではないか。もちろん、最後にモノを言うのは、理論には還元できない「その作品への愛」ではあるのだが。
 私のこれまでの暇つぶしは、従来型のいわゆる批評の枠内には収まらない「オタクならではの語り」についての理論を与える試みでもあった。そうであるならば、今度は一般的な理論を実際に特殊事例にたいして使ってみて、検証してみなければなるまい。
 そこで、きゃんでぃそふと『つよきす』を題材にして「萌え」を核にした読解の実践を試みたい。『つよきす』はわりと評判になった作品なので、試し斬りの標的としては丁度いいだろう。この作品を相手に、これまで私がいろいろと捏ねまわしてきた「オタク的な批評」をしてみるとどうなるか、実際にやってみるわけだ。
 以下は、完全にネタバレありの記述が続くので、注意していただきたい。
 ちなみに、エロゲーから萌えるかどうか、どのように萌えるか、という要素のみを取り出して評価してもよい、ということは、「エロゲーレヴューのための方法論的考察」において示しておいた。

1 「エピソード至上主義」について

 「萌えの主観説」で、私は「萌えはエピソード単位で喚起される」という説を提示した。キャラについての萌えが成立するためには、物語のストーリーのよさは不要であり、物語の諸エピソードがよければそれでいい、というものである。『つよきす』は、まさにこの実証例となっている。
 萌えキャラや萌えエピソードを出すのは非常に上手い。だから、萌える。これはいい。しかし、萌えを払ってシナリオのストーリー展開そのものを見ると、あまり優れているとは言えないのである。
 これは、「ツンデレ」展開を狙ったためと思われる。「ツン」が「デレ」る中盤にクライマックスがきてしまうので、後半、微妙にダレてしまうのだ。
 蟹沢きぬシナリオ、椰子なごみシナリオは、「デレ」期に入るとさして盛り上がりのないままエンディングへ行ってしまう。(大江山祈シナリオには、そもそも盛り上がりがない。)
 霧夜エリカシナリオ、鉄乙女シナリオは、「デレ」期の最後に一山ある。しかし、それでも盛り上がりが足りない。
 姫シナリオについては、そもそも「フリ」と「オチ」が対応していないのではないか。あれだけ「いつ対馬レオが姫に振られるか皆が賭けをしている」描写をしたのならば、クライマックスの事件は当然「全員の予想を裏切って、レオが姫を振ってしまう大どんでん返し」であると思い込んでいた。
 でも、普通にレオが振られちゃったので、私は拍子抜けしたよ。裏の裏をかいたのか、とも思ったが、そうでもないようで二度びっくり。
 乙女さんシナリオは、「乙女さん実家に帰ろうとする」がクライマックスである。しかし、このイベントも盛り上がりが足りない。知人友人全員をまきこんだ騒動が勃発して大事件に、くらいでないと、ストーリー全体を締めくくるオチとしては弱いのだ。
 このように、『つよきす』のシナリオには、ストーリーのクライマックスが盛り上がりを欠いてしまっているものが多い。
 注意していただきたいのだが、だから駄目だ、と言いたいのではない。それにもかかわらず、萌えるためにはそれほど支障がない、ということを指摘したいのである。
 ゲームをやっているときには、やはりシナリオのダレは気になる。しかし、「TLSにおけるエピソード至上主義」などで述べたように、「萌えるかどうか」は「ゲームをやっている最中」ではなく「ゲームをやり終わった後」に判定されるものである。そして、その判定において、ストーリーのよさは、重要な位置を占めない。
 そうであるがゆえに、我々はなんの支障もなく、上記『つよきす』キャラに萌えることができるのだ。
 さて、この観点からすると面白いのが、佐藤良美シナリオである。
 このシナリオだけは、キャラ設定よりもストーリー展開が先行して書かれたのではないか。もしかしたらラストシーンから逆算したのかもしれない。それゆえに、ストーリーとしても一定の纏まりをみせていると思われる。
 ここで着目したいのは、だからよっぴーシナリオは余計に萌える、とはならないことだ。そうではなく、よっぴーシナリオは、「泣ける」とか「ちょっと感動する」とかいった形容をされるのである。つまり、ストーリーのよさが生むのは、「萌え」ではなく「泣き」などなのである。このあたりは、「「泣き」要素はオタクの本質をなすか」を参照していただきたい。

2 「キャラ立て読解」について

 しかし、エピソード至上主義は万能ではない。物語で与えられた個々のエピソードが萌えるだけでは足りないのだ。
 そもそも、萌えはキャラについて成立するものである。つまり、物語においてキャラが立っていなければ、萌えは成立しえないのである。物語が、そのキャラがどんな存在者であるのか、という整合的な情報を与えていなければ、キャラ萌えは不可能である。当たり前といえば当たり前だ。
 この辺の事情を「オタク道」においては、「キャラ立て読解」という概念で説明しておいた。
 では、『つよきす』において、「立っていないキャラ」はいるのか。
 対馬レオ、霧夜エリカが挙げられるだろう。
 対馬レオはともかく、霧夜エリカが立っていないとはどういうことだ、と思う方もいるかもしれない。
 しかし、「キャラが立っている」ということと「キャラに派手な属性が付与されている」ということを混同してはならない。(つまり、ここは、現実の人間について「彼はキャラが立っている」という用法とは意味が異なる。)
 主人公である対馬レオと、物語の世界観のなかでの中心人物である霧夜エリカは、さまざまなエピソードについてオチをつける役割を割り振られている。ところが、そのエピソードがあまりにも多岐にわたり、かつ、オチのつけ方があまりにもご都合主義なため、その都度のエピソードでキャラの規定がブレてしまっているのである。
 そのため、レオがどのような人間なのか、いまひとつはっきりしてこない。また、姫も、ただただ凄い凄いとされるだけで、今ひとつキャラに深みが出てきていない。エピソードがバラバラに与えられるだけで、それが一つのキャラ=人格にカチッとハマっていかないのである。個々のエピソードがいくら面白かろうが、これでは駄目だ。
 レオはヘタレだ、とか、姫はただ性格が悪いだけでは、とかいう批判が出てしまうのは、ここに原因がある。この二人はそもそもキャラがきちんと立っていないのだ。
 この意味で、エピソード至上主義には限界がある。キャラが立つくらいにはストーリーが練られていなければならないのだ。
 ただし、これでは話は済まない。「萌え語りの論理と倫理」で示した「寛容の原理」がここに効いてくると、問題はより複雑になる。少しくらいエピソードが統一を欠いていても、妄想を割り込ませて、強引に魅力的なキャラ立て読解をしてしまうことができる。これまでの議論にもかかわらず、多くのオタクが普通に姫に萌えられるのは、無意識のうちに「寛容の原理」を働かせているからである。

3 インターミッション

 「エピソード」「キャラ」「ストーリー」の区別にのっとっての分析の実例を示してみた。もう少し語りたいことはあるのだが、議論が混乱するので、別の機会にしたい。
 オタク的批評が作品の内在的な分析だけでは完結せず、オタクの側の受容の論理への配視を要求する、というあたりに注意していただきたい。
 今度は、キャラに着目した分析をしてみたい。
 私の基本的な立場は、あらかじめ「属性」について詰めて考えておくことにより、効率的にキャラを語ることができる、というものである。たんなるレッテル貼り以上のことを「属性」概念でできるのではないか、ということだ。

4 「眼鏡っ娘」属性

 椰子なごみの「眼鏡っ娘」属性から考えよう。
 ココナッツは屈折している。「屈折理論」に当てはまるように思える。しかし、かなりかけはずしをするうえに、他にも屈折しているキャラが多いので、「眼鏡ゆえの屈折っ娘」という印象は薄い。
 どちらかといえば、「眼鏡とコンタクトレンズの対立を再考する」で指摘した「かけはずしのダイナミズム」を守っている、という点で評価していくほうが生産的ではないか。同じ眼鏡っ娘属性キャラであっても、どういった論理で萌えを構成しているのかは、個別キャラに応じて異なる。それを精確に見定めるのがキャラ分析の最初の課題となるのである。
 ただ、カニのほっぺたつねっている一枚絵の眼鏡はおかしい。あの角度ならレンズの裏面が見えなければいけない。後ろを向いている立ち絵の眼鏡も然り。このあたりは気をつけてほしいものである。

5 「魔女」属性

 『つよきす』には、「「魔女」属性萌え」で私が挙げた「魔女」が多い。
 「魔女の構成要素」をもう一度提示してみれば、以下のようになる。
(1)黒髪ロングでなければならない。
(2)目つきが悪い、もしくは鋭くなくてはならない。
(3)大人、もしくは大人っぽくなければならない。
(4)雰囲気が、陰気、腹黒、薄幸でなくてはならない。
(5)実力者でなければならない。
(6)振る舞いは自己中心的で冷酷でなくてはならない。
(7)にもかかわらず、根は情が深くなければならない。
 椰子なごみ、ダーク状態の佐藤良美、そして大江山祈、この三名がかなり高いレベルでこれをクリアしている。外見ではなごみん、内面ではよっぴーと祈先生というところか。ココナッツのある種の物足りなさは、ルックスは完璧なのに「デレ」ると「魔女」っぽさがほとんど消えてしまうところにある。「隠れ魔女」よっぴーは素晴らしい。私の属性嗜好を直撃している。
 また、シナリオはオマケ程度の手抜きなのだが、私は祈先生がかなり好きだったりする。祈シナリオを読む場合、私は無意識に「寛容の原理」を発揮してしまっている。こうなると客観的なシナリオの批評は難しい。「魔女」系「年上のダメ女」萌えなのだよ、私は。リアルでは勘弁だが。
 当たり前だが、霧夜エリカ、鉄乙女、蟹沢きぬといった、「陽性の強気っ娘」は「魔女」には遠い。逆に、上記「魔女」属性は「陰性の強気っ娘」属性に置き換え可能とも言える。
 これはちょっと問題かもしれない。なごみんのような「ヤンキー」まで含まれてしまうあたり、私の「魔女」の定義は緩すぎるきらいがある。一見するとまったく別のカテゴリーに思えるが、「魔女」も「ヤンキー」も否定的な社会的評価を含んだレッテル、という点で共通している。実は近縁性はかなり大きいのである。
 このあたりは今後の課題としたい。

6 「お姉さん」属性・「委員長」属性

 今度は鉄乙女をキャラ属性から考えよう。
 キャラは申し分ない。私的には最萌えだ。しかし、正直、あまりシナリオの出来はよくない。
 「『To Heart 2』についての覚書」で向坂環シナリオを批判した際の論点が、そっくりそのまま当てはまる。どうしてみんなここを間違えてしまうのだろう。
 乙女さんの基本的な属性は「委員長」となるだろう。しかし、これに「姉」属性を被せたのがいけない。たしかにキャラとしては立った。が、近似だが相反する属性を重ねたためにシナリオが消化不良になってしまっている。
 タマ姉と同じ落とし穴、「弟おいてきぼり」に嵌ってしまっているのだ。
  「姉萌え憲章」で述べたように、姉の強気は、ただ「姉だから」という理由に基づいていなければならない。能力がないのに姉だから威張るのが姉であり、弟がいなければ威張る相手に不自由するのが姉なのである。前作『姉、ちゃんとしようよっ!』の姉たちがどれだけ弟に依存したダメ人間揃いだったか、思い出してみてほしい。あれが正しいのだ。
 ところが、乙女さんは姉であり、かつ、能力的にも優越してしまっている。この場合、よほど上手くシナリオを書かないと、すべての事件が姉の能力の範囲内で解決されてしまう、という、「弟おいてきぼり」現象が起こってしまうのである。
 これを隠蔽するために、乙女さんシナリオは、あまりにもご都合主義な格闘技イベントを出さざるをえなくなった。しかし、主人公がちょっと練習したら試合で本職に勝ててしまいました、というのはやっぱり駄目でしょう。
 また、料理下手設定などは空回りしてしまっている。あの設定は、弟がそれなりに料理できる場合においてはじめて最大限の魅力を発揮する。ところが、駄主人公対馬レオ、こいつも料理ができないのだ。おにぎりすらつくらない。これでは設定の意味がない。伊達スバルの料理属性を切ってもいいから、レオにそこそこの料理スキルをつけておくべきなのだ。こういうところは練れてない感じがどうしても拭えない。
 以下は私の独り言だが、乙女さんはたんなる能力抜群の堅物先輩キャラでもよかったのでは。姉でなければ、能力の過剰な優越はまったく問題にならない。こちらのほうがラブコメとして面白くなったような。

7 「お嬢様」属性・「野心家」属性

 霧夜エリカ関連については、すでにいくつかの問題点を指摘した。ここでは、姫のキャラ設定について、属性論から簡単に分析しておく。
 姫は、「野心家」の「お嬢様」というキャラ設定なのであるが、ちょっと魅力的に描ききれなかったきらいがある。
 「野心家」属性と「お嬢様」属性が悪い角度で重なって、ちょっと言動がイタく思えてしまう箇所が少なからずあった。両方とも濃い属性なので、重ねればキャラは立つが、扱いは難しくなるのである。
 ただし、この評価には私の個人的な嗜好も大きく反映している。もちろん魅力的に描けている箇所もあるわけで、Mっ気のあるオタクなら、先に示した「寛容の原理」にも訴えつつ、問題なく萌えられるのかもしれない。ところが、「大人漢燃え小説版」などでわかるように、私はハードボイルド大好き人間である。それも、非情なハメット派ではなく、ロマンティックなチャンドラー派である。その観点からすると、「大企業経営=高み」なんていう素朴な価値観は失笑モノでしかない。卑しい街の路地裏の薄汚い酒場の酔いどれの生き様にこそ、真実はあるのだ。いくら唯我独尊を気どろうが、姫は人生を知らないで粋がっているたんなるオコチャマでしかない。こうなってしまうわけだ。
 私の「寛容さの許容範囲」が狭かったがゆえに、十分に萌えられなかった、ということになる。このように萌え批評にはオタクの主観性がどうしても混入してしまう、ということは「萌え語りの論理と倫理」などで述べておいた。

8 カニ賛歌

 蟹沢きぬのキャラクター造形は素晴らしい。
 この娘にかんしては、属性を云々しても面白くない。カニはカニ。それ以上でもそれ以下でもない。唯一無比の魅力溢れる馬鹿ヒロインとして、キャラが立ちまくっている。こういうキャラにたいしては、属性分析などは野暮というものだ。カニの一挙手一投足に笑い転げるだけでいい。
 ただし、シナリオはキャラに負けてしまった。なごみんシナリオのように「二人の世界」で話が進んでいく場合にはエピソード中心主義でもいいが、カニシナリオはストーリーできちんと三角関係を清算しなければならないわけで、タカヒロシナリオの「キャラやエピソードは上手いがストーリーが弱い」という特徴がちょっと出てしまったかな。

9 肯定的な評価をどう語るか

 私のオタク論の諸概念を用いて、『つよきす』について語ってみた。論調が否定的にすぎる、と思われるかもしれないが、それには理由がある。
 賛意は考察ではなく「萌え」の身振りと「妄想」で示すべきだと思うからだ。
 『つよきす』がよくできている、ということはどういうことなのか。
 乙女さんの乙女な可愛さに取り乱して萌え萌えとのたうちまわってしまう、ということだ。「デレ」期のちゅーがもうさ、可愛くてさ、このやさぐれたオタクが毎回悶絶する、ということだ。
 脳内でよっぴーやなごみんがくるくる回りだし草柳順子や海原エレナの声でゲームにはなかった台詞を喋り出してしまう、ということだ。とくに海原エレナにはヤられた。「センパイ」っていう呼びかけがこんなに耳に心地よいものだったのか、と感動してしまったよ。
 カニや姫のゲーム中には描かれなかった「デレ」エピソードを悶々と妄想しだすと止まらない、ということだ。「書かれなかったほんとうの祈シナリオ」を頼まれもしないのに妄想してしまう、ということだ。「眠れない女」である祈にこそ、デレデレな添い寝エピソードがあってしかるべきなんだよ、だよ、だよ、と叫んでしまったり、な。
 と、まあ、テンションに流されてとりとめがなくなるのが、萌えの語りというものの特徴なのである。
 こうなると、理論の限界も見えてくる。冒頭で述べたように、やはり最後は愛なのだ。一般的理論や属性論は、批評に一定の指針を与えてはくれる。しかし、「読ませるテキスト」は、かならずそれを超えるなにかをもっている。それは、やはり作品やキャラクターへの愛なのである。その意味では、本稿は失格かもしれない。

おわりに

 『つよきす』を選んだのは、私の理論が適用しやすいからだ。「属性」を意識して「萌え」を狙っているので、例題としてちょうどよかった。
 しかし、それをさておいても、『つよきす』、なかなか出来がよくて面白い。『姉しょ』から注目してきたが、きゃんでぃそふとは確実になにかを掴んで成長していっていると言えよう。気が早いかもしれないが、次回作も期待しています。

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